「……もしもし、あら、糸内先生ですか? 森野谷先生はいらっしゃいません? ああ、授業中ですか。いえね、秀道が昨日の夜ね、城見高校の文化祭には行かないなんて言い出して、ほんと困っちゃってるんですよ。糸内先生でしたよね、緑塚の文化祭に行ってみればって仰ったの。どうするんですか。こんな風になったら困るから、行かせたくなかったんですよ私」

 お母さんから、電話越しに恨み言をぶつけられたのは、二日後のことだ。楠島くんはよほど緑塚が気に入ったのか、わたしたちと訪れた翌日にも文化祭に出向いたらしい。心から行きたいと思える高校が見つかって良かったです、なんて挑発的な切り返しができるわけもなく、わたしはお母さんのお言葉を重々賜ってから、面談のお約束をした。なるべく早くというご要望を受け、急遽、授業が終わったあとで時間を設けることになった。

「なんかこじれちゃったなあ」

 電話について報告すると、森野谷先生は面倒くさそうに頭を掻いた。「まあいいや、いつまでもあいつだけにかまってられないし、次で決めよう。俺が話すから、先生は帰っちゃって大丈夫よ」

「わたしもお話しします」

「俺だけのほうが都合がいいの。だって糸内さん、緑塚推しでしょ?」

 遠慮のなさにはいい加減慣れた。ひるまずに答えた。

「楠島くん本人の志望校を大事にしたいだけですよ」

 腕組みをして黙り込み、彼はしぶしぶという風に了承した。

 中学生の授業が終わると、受付のあたりは生徒で混み合う。そそくさと塾を出て行く生徒がいる一方で、受付の大学生とお喋りをしたがる中二の女子が群れをなしたり、中一の男子がお互いにゲームの情報を交換し合ったりして、何かと騒がしい。

 その奥に垣間見えたのは、解放感に緩んだ子どもたちと対照的な仏頂面だ。わたしはすぐさま顔の筋肉を引き締めた。楠島くんのお母さんはこちらをちらっと見ただけで目をそらし、出迎えた森野谷先生に会釈をした。教室にご案内します、と言おうとしたところで、彼のほうが先に口を開く。

「ちょっとよろしいですか」

 お母さんを外へと促し、わたしに言った。「教室で待ってて。すぐに行くから」

 二人で作戦会議でもするつもりなのか、と否応なく警戒心が芽生える。ならばこっちだってと、わたしは楠島くんのいる教室へと急いだ。

「思ってることは堂々と言っちゃいな。遠慮しないで」

 面談に備えて、生徒用の机を向かい合わせに並べておいた。正面に座った楠島くんはこくりと頷く。もっと気の利いたアドバイスを、と一瞬考え、駆け引きなんて必要ないと思い直す。

「先生は」

 楠島くんは目を伏せたまま尋ねた。「僕に、城見に行ってほしいですか」

 どうしてそんなことを訊くのだろう、と戸惑った直後に、ふと思い出す。以前のわたしはこの教室で、彼を城見に誘導したのだ。今こそ正直に話そう、と決めた。

「楠島くんが行きたいと思うところを、目指してほしいな」

「育都は、城見のほうに行かせたいんですよね」

 わたしは申し訳ない気持ちになった。子どもが大人の思惑や評価を気にしながら生きていく姿は見ていて辛いし、その片棒を担いだ自分を今は忌まわしくさえ思う。

「偏差値の高い学校のほうが、塾の自慢になるのは事実だよ。でも、行きたいところに行ってくれるほうが、わたしは何倍も嬉しい。育都もそういう評判の塾になったらいいなと思うんだ、ほんとは」

 お母さんと森野谷先生が姿を見せた。がんばって、と小声で楠島くんにささやいてから、わたしはお母さんを彼の隣に促した。森野谷先生はわたしの隣に腰を下ろし、よろしくお願いします、とあらためて正面に頭を垂れる。

「志望校の件は今日で決めたいと思ってます。そのつもりでお話しさせてもらいますが、まずは秀道くんの言い分に耳を傾けてあげてください」

「わかりました」

 お母さんは二つ返事で、森野谷先生のお願いを受け入れた。打ち合わせをしてきたのが透けて見えるやりとりに、不気味さすら感じる。何を考えているのだろう。この期に及んで駆け引きめいたことは、してほしくないのに。

「じゃあ、秀道くんの気持ちを、率直に聞かせてほしいな。城見か、緑塚か」

 森野谷先生に促され、彼は不安げに咳払いをした。

「僕は、緑塚に行ってみて、いいところだなと思って、お母さんが、一方的に駄目だっていうのが、納得いかないっていうか」

 お母さんは最初の約束どおりに、何も言わなかった。

「通うお金を出すのは、お母さんとお父さんだけど、通うのは、僕だから、僕が行きたいところに、行かせてほしいっていうか、えっと、部活も、部活もさかんみたいだから、中学にはない部活とかもあったから、ラクロス部とか、城見にはないし、やってみたいってのもあるし、緑塚がいいと思う」

 つっかえつっかえの言葉は、やがて詰まった。二人を説得するには充分じゃない、と歯がゆさを覚えるうちに、森野谷先生が区切りを入れる。

「秀道くんの気持ちはよくわかった」

 と、いかにも表面的な相づちを打ったあとで、彼は大学進学を含めた進路の話を始めた。いかに城見のほうが優れているかを述べた。よくわかった、という受け止めは何だったのか。彼の気持ちをぜんぜん汲んでないじゃんと苛立ちつつ、口を挟めば文化祭のときみたいにどろどろしてしまいそうで、わたしはきっかけを待つ。

「俺も行ってみたからわかるけどさ、校舎も古かったぜ、なんか薄暗かったし。ラクロス部もホームページだと良さげだけど、文化祭で聞いてみたら結構ガッツリ系みたいだぜ。おい一年! とか乱暴に怒鳴ってる先輩とかいたし、上下関係も厳しめっぽいぞ」

 まただ。今すぐには真偽を確かめようもない情報を出して、相手を引っ張りこもうとしている。たまらずわたしは彼を睨み、本当ですか、と反撃を試みた。

「先生の見方ですよねそれ。ラクロス部は見てないですけど、あの日はみんな楽しそうにしてたし、いい学校だなって思いましたけど」

「文化祭はどこも楽しく見えるんだよ。楽しそうじゃない学校があったらヤバイだろ。個人的にはチャラい感じが気になったな。雰囲気になじめないと苦しそうだ」

「一緒に見てきた立場としては」

 タイミングを計っている場合ではない。どうにでもなれと、わたしは彼の話を遮った。お母さんの目を見つめて、思いを伝えた。

「秀道くんの表情が明るくなったんです。美術部の催しがあったんですけど、そのときのことがすごく印象に残ってて。わたし、前に中学校で働いてまして、担当してた中に不登校の女の子がいたんですけど」

 美術室でのできごとを詳しく話した。お母さんの表情に変化があった、ように見えた。まともにこちらを見ようともせずにいたのが、いつしかわたしのほうを向いて、頷きを返してくれた。

「進学実績の話が出ましたけど、緑塚は今年、現役で東大合格も出てます。高い大学を目指すのに足りない学校じゃありません。ただ、塾の人間が言うべきじゃないかもしれませんけど、本当に大事なのは何よりも、自分で進む道を選ぶことだと思うんです」

 保護者の方を前に、率直な気持ちを伝えたのは初めてかもしれない。中学でも、塾に入ってからも、顔色を窺いながら話をするのが常だった。そのほうが適切で常識的なのだと、誰に教わったわけでもなく信じていた。

 けれど、わたしは今、自分のやり方を選んだ。

 話を終えたあと、部屋の中は静まりかえった。森野谷先生は腕を組んだまま、何かを考え込むように小さな頷きを繰り返した。お母さんは意見を求めるように彼を見たり、楠島くんのほうに目をやったりしながら、じっと口を結んでいた。四人の人間が膝をつき合わせたまま、黙って過ごす時間の窒息感はなかなかに重い。言うべきことはすべて吐き出したつもりだし、会話を切り出す次の役目はわたしではないはずだと、沈黙に耐えた。何か言ってよ、とじれったくなって隣を見やると、森野谷先生はあろうことか、面談の進行を放棄するように目を閉じていた。

「わかりました」

 お母さんが言った。体を前に乗り出して横を向き、楠島くんを見つめた。

「ごめんね。お母さん、あなたの気持ち、ちゃんと考えてなかったよね。お母さんもいろいろ調べて、学校にも足運んで、城見がいいって思ってきた。けど、言うとおり、実際に通うのはあなただもんね。緑塚を選びたいなら反対しないよ、納得したから」

 説得が通じた。よかった。嬉しい。よかったね。楠島くん。

 と、素直に思えずにいるのは何だろう。なぜ今になって、これほど簡単に。

 拍子抜けとともに訪れる、この違和感は何だろう。

 なぜ楠島くんの顔が、赤みを帯びているのだろう。

「考えてみれば、俺も強引だったなと思う」

 森野谷先生が切り出した。わたしは耳を疑い、目を疑った。隣の彼は、芝居がかって見えるほどに神妙な顔つきで、まっすぐな視線を彼に向けていた。「城見城見って言い過ぎて、楠島くんの希望を真面目に聞こうとしてこなかった。糸内先生が言ってたのが正しいよな。話を聞いて目が覚めた。ごめん。俺が悪かった」

 二つの掌を机にくっつけ、深々と頭を下げた。

 何を言っているの。何をやっているの。

 あんたがわたしの話に、聞き入るわけないでしょ。

 何を謝ってんだよ。意味わかんないことしてんじゃねえよ。

 何が起きてんだよ、と整理もつかないうちに、森野谷先生は続けた。

「楠島くん、君の本当の志望校を聞かせてくれ」

 彼はしばらく黙っていた。ひく、ひくと唇を震わせていた。喉が震えて見えた。目を潤ませた。こぼれそうな涙を、腕でぐいっと拭った。

「城見に、します」

 彼は、確かにそう言った。

 

 もともと城見高校を目指していたけれど、何かにつけて決めつけてくる両親の態度が日に日に嫌になり、志望校についての自分の意見を聞こうともしないのが嫌になった。塾の先生たちが会議で志望校の誘導について話し合うのを立ち聞きしてしまい、駒のように扱われているようでそれも嫌だった。もしも聞き入れてもらえなければ緑塚に行こうと考えていたが、母親も担当の二人もわかってくれたので気持ちが晴れた。これからは迷いを捨てて城見を目指そうと思う。

 気が昂ぶったのか、もしくは胸の内を打ち明けるのがとても大変なことだったのか、その両方なのか。楠島くんは顔を濡らしながら、時間をかけて話をした。

「緑塚がいいんじゃないの?」

 わたしは動揺を抑えられなかった。彼はぶるぶると首を振った。

「城見がいいです」

 とはっきり言った。

 楠島くんとお母さんを見送った頃には、夜の十時半を過ぎていた。校舎の戸締まりをするあいだはぼんやりとした気分で、面談のやりとりを頭の中でリピートしていた。

「どういうことなんですか」

 夜の冷えた空気を吸い込んでから、ようやく疑念が言葉になる。

「どうしてあんな風になったんですか」

「質問はもっと明確に」

 森野谷先生が鼻で笑う。なるほど、まだ理解しきれていない。

 尋ねるべきことは、まず。

「わたしが話したら、先生、ころっと態度を変えましたよね。あれは何ですか」

「ちょうどいい流れだなと思ったからさ」

「わかるようにお願いします」

「本人が言ってたろ。あいつは端から緑塚なんて目指してなかったんだよ」

 彼はさらりと答えた。

「ラクロス部に興味があるとか言ってたから、文化祭のときに、グラウンドのほうに行ってみたんだ。玄関にイベントの案内があっただろ。俺、あいつが来るかなって、運動部のエリアでずっと待ってた。なのに、いつまでも現れなかった」

「二日目も文化祭に行ったらしいですよ、見に行ったのかも」

「普通、一日目だろ。あと、正門に入るときにあいつ、事前登録してなかったよな。行きたい高校なら準備を整えておくはずだ。ただのミスとも言えるけど、そこで引っかかった。こいつは本気じゃないなって気づいて、あとは簡単だ。一回受け入れてやりましょう、そうすりゃ落ち着きますよって、お母さんに話した。結果的に、スムーズに運んだよ。糸内さんがいてよかった。きっかけをつくってくれた」

 緑塚の美術室で見た楠島くんの笑顔に、引きずられている。一方で、気づいてもいる。森野谷先生のほうが、フラットな目で彼を見ていたのだ。認めたくなくて、わたしはなおも悪あがきを試みる。

「本当の気持ちはどうなんですか。お母さんの顔色を窺ってるのかも」

「仮にそうだとして、何がいけない? それもあいつの生き方だ。親の満足があいつの幸せ。否定しなくちゃいけないものか?」

「でも」

 続く言葉も思いつかぬまま言い返そうとするわたしに、彼はとどめを刺した。

「親や会社の都合で子どもを左右するな、みたいなことを言ってたけど、糸内さんも似たようなもんじゃないのかな。大人の考えに縛られるな、自分の思いを貫けみたいな物語に、子どもを利用してないか?」

 そんなことはない、と言えなかった。親や塾から望まぬ志望校を押しつけられた子を、救い出してやろうという物語を、描いていなかったといえば嘘になる。

 わたしは何をしていたんだろう。

 自己満。

 あの頃の冷たい響きが、蘇った。

 

「正社員の話、考えてもらえたかな?」

 後日、安田校長は休憩スペースにわたしを呼び、以前と同じようにどこか遠慮がちな調子で尋ねた。

「ありがたいお誘いで、申し訳ないんですけど」

 わたしはロビーチェアに座ったまま頭を下げた。楠島くんの志望校に関するあれやこれやを話したうえで、育都の方針を受け入れきれずにいるという本音も正直に伝えた。

「塾講師に向いていないかもしれません」

「仕事が楽しくない?」

「楽しいです」

 ためらわずに即答した。「でもわたしは結局、生徒のことを充分に考えてあげられない人間なんじゃないかなって」

 校長は笑いながら首を横に振った。

「充分に考えてない人は、わざわざ文化祭まで足を運んだりしないよ。そこまでする講師なんてめったにいない」

「育都に合っているのは、森野谷先生のようなタイプなのかなって」

「彼みたいな人ばっかりだったら疲れちゃうよ」

 校長は声を潜め、いたずらっぽく言った。「上位の学校に誘導しろって会議では話すけど、子どもの気持ちをないがしろにしていいなんて思ってない。楠島くんが緑塚を選んだとしても、私が糸内先生を悪く思うことは絶対にない。会社としては森野谷先生みたいな講師も頼もしいけど、現場に必要なのは、糸内先生のような人だよ」

 安田校長の話を聞きながら、中学の校長室の光景が頭をよぎった。あの頃の上司が目の前の彼であったら、わたしは辞めずにいたかもしれない。

 糸ちゃんいますかー、と受付で声がした。中三の女子生徒だ。

「まだ待てるから、もう一回考えてみてほしいな」

 立ち上がって、校長は言った。

「糸内先生はこの仕事に向いてるよ。間違いなく。証拠もある」

 

「…………おっ、いいじゃない。この方程式って複雑だけど、解と係数の関係をどれくらい使いこなせるかなんだよね。ばっちりだよ、教えることないくらい」

 楠島くんのシャーペンの動きは、見違えるように頼もしくなった。集団授業でも表情に真剣味が増していたし、個別フォローではこうして、発展問題の解をスムーズに導ける。学力が上がったというより、本来の学力を活かせるようになったというべきかもしれない。

「今の時期にこれを解けるなら、緑塚レベルは余裕だよ。城見を目指すほうが力を伸ばせるし、選択は正しかったと思う。もう迷ってないでしょ?」

 彼は頷いた。ためらいの感じられない、滑らかな首の動きだった。表情にも曇りはなく、次はどの問題ですかと、自分から尋ねさえする。迷いの沼に足を取られていた分だけ早く追いつかなくちゃと、意欲満々の様子だ。

 彼が問題に取り組むあいだ、わたしは津木さんとの会話を思い出していた。

 最後の面談が終わって間もない頃に、彼女から電話があったのだ。

 連絡先は文化祭のときに交換していた。楠島くんのことが気になって掛けてみたと、津木さんは言った。

「最終的な志望校については、外に話しちゃいけない決まりなんだけど」

 塾講師としての立場と原則を伝えたけれど、緑塚を勧めてくれた彼女に素っ気ない返事をしてすませるのも、不義理であるように思った。

「せっかく勧めてもらったのにごめんね、って感じの結論かな」

 そっかあ、と津木さんは少し残念そうに笑い、意外な話を始めた。

「あたしのせいかもしれないなあ」

「なんで? どうして津木さんのせいなの?」

「文化祭の二日目にあの子、もっかい美術室に来たんですよ。緑塚を目指すって言ってたんです。あたし嬉しかったから、がんばってねって励まして、喋ってたんですね。そしたらそこにあたしの彼氏が来たんです。楠島くんを紹介して、三人で話してたら、あの子がいきなり、お二人は付き合ってるんですか、なんて訊いてきたんですよ。ちょっとびっくりしたけど、そーだよーって気軽に答えたら、彼氏が調子乗ったみたいで、あたしに抱きついたりして、なんかその辺からあの子の口数が明らかに減っちゃって、しゅんとした感じで、帰りますっていなくなっちゃったんです」

 一連の出来事から導き出される「解」について、彼女ははっきりとは言わなかった。けれど、いろいろなことを察しているに違いない。

 楠島くんは文化祭の初日に津木さんと出会って、彼女のことが好きになった。その時点では緑塚を目指すつもりでいた。ところが二日目に、彼氏の存在が発覚して心が折れてしまい、緑塚への思いが散り散りに砕けた。

 この推理は当たってる?

 などと、懸命に問題を解く楠島くんに訊けるはずもなく、わたしが知るべきでもない。ただ、森野谷先生の見立てが、完全に正しいわけではないのかもしれない。津木さんの件がなければ、楠島くんは緑塚を目指していたんじゃないだろうか。わからない。いまさら蒸し返す必要もきっとない。

「まあ、それも彼の運命だと思うんですよ」

 津木さんは言った。突然の大げさな物言いは達観の響きを帯びていて、わたしはつい吹き出した。彼女の人生観によると、どんな出来事にも必ず意味があり、人は導かれるべき場所へと導かれるのだという。不登校にならなければ緑塚に来ることはなかった、そう思えばあの日々を否定しなくてすむのだと彼女は語った。予想外に真摯な背景が語られたものだから、わたしは笑ってしまったことを少し反省した。

「わたしが中学辞めたのも、運命だったのかな」

「え?」

「塾で働き出したのはいいけど、向いてるかどうか悩んでてさ」

 昔の生徒に打ち明けるのも情けないなと感じつつ、口に出していた。

「わかんないですよ。あたし、先生じゃないし」

「そりゃそうだね」

「けど、中学のときより、ぜんぜんいい感じでしたよ。前はなんていうか、肩肘張ってた? ぶっちゃけ怖かった」

「ごめんねほんと」

「けど、今は違うんですよ。楠島くんも言ってました。先生だけが味方してくれるって。感謝してるって」

 それが津木さんのおだて文句ではないという「証拠」も、わたしにはあった。

 安田校長が、直近のアンケートを見せてくれたのだ。生徒と保護者による評価アンケート。結果の印刷された用紙には「教え方」や「接しやすさ」、「面倒見」などの項目があって、どのクラスのものも軒並み「良い」「とても良い」で埋め尽くされていた。

「ご意見」の欄に書かれていた名前を見て、はっとした。

「息子から聞きました。塾を辞めずにいられたのは糸内先生のおかげだと話していました。上位のクラスよりも今のクラスでやるほうが頑張れるそうです。息子と先生を信じてみようと思います。合格までよろしくお願いいたします。 楠島母」

 わたしの隣に座っている息子さんは、そんな胸の内を語ろうとはしない。でも、そういう思いを持ってくれているとわかっただけで、やってきたことは無駄じゃないと思える。

「解けました」

 彼が言った。わたしは彼のノートを手元に寄せて、数式の連なりを見つめた。綺麗な形で並んだ式は、解に向かってまっすぐに進んでいた。離れた席の女子小学生が、「せえかーい!」とはしゃぐ声を上げる。わたしは赤ペンで丸を付け、「正解」と楠島くんに微笑んだ。彼はほっとしたように笑みを返した。次の問題を指定したところで、糸内先生、と離れたところからわたしを呼ぶ生徒がいた。

 中一の岡本くんだ。個別指導スペースの外から手招きしていた。

「数学でわかんないのがあって」

 疑問点を解決したいとやってくるのは、感心な姿勢である。

「ヤバいんすよ、今回はマジで」

 ゲームのしすぎで両親が怒っており、期末試験で結果を出さなければスマホもSwitchも取り上げられるのだと口早に訴える彼のテキストを広げ、わたしは速さにまつわる方程式の文章題と向き合った。文字で表すものを定め、図を描きながら仕組みを説明すると、彼は「わかったあ!」と清々しい反応を見せた。津木さんの描いたひまわりのような、屈託のない笑みだった。

 自分が中一だった頃を思い出す。同級生の男子の笑顔。特に仲良しでも好きでもなかった彼の表情が、なぜかすごく眩しかった。教えたことが通じたときの、そんな笑顔が見たくて、わたしは教師を志したのだ。その思いは絶対に、自己満足じゃない。

「ありがとうございました!」

 岡本くんは彼らしい軽快な足取りで自習用の教室へと戻っていった。

 生徒の進路について、正解はわからない。彼らの本当の気持ちを大人がすべて把握できるわけはなく、制御しきれるわけでもない。すべきでもない。確かなのは、彼らに振り回される日々を、わたしは楽しんでいるということ。彼らの笑顔に支えられて、頑張れるんだということ。

 ならば、この仕事に向いていると言ってくれた安田校長の言葉を、信じてもいいのだと思う。向いてるよと、わたしはわたし自身に言ってあげようと思う。自分に足りないものを見つめる謙虚さを、持ち続けながら。

 正社員の件、前向きに考えてみます。

 楠島くんのフォローが終わったら、校長に伝えに行こう。

 彼のところに戻って、問題を解き終えたノートを眺めた。

「せえかーい!」と、元気な声が聞こえた。

 

(つづく)