糸林 茜寧
——出会いは転がったオレンジが誰の靴にぶつかったのか、その程度のことであり、それほどのことでした(単行本版『少女のマーチ』九頁、二〜三行目より)
この瞬間もなお、茜寧の持つ鞄の中で文庫本として彼女を見守り続け、部屋の本棚では単行本が彼女の帰りを待っている。累計発行部数九十六万部を超える小説『少女のマーチ』は、このようなあらすじの物語である。
美しくふるまう外側の自分によって醜い内面を隠している少女はある日、一つの特別な出会いを経験する。出会った二人は互いの性質に脅かされ惹かれあい、やがて特別な友人となる。その相手は、少女が隠し続けてきた内面を見抜き、やがて本当の彼女を許してくれる。そうして少女は初めて、自分自身としてこの世界と向き合うことが出来る。
少女の名前は物語の最後まで出てくることがない。
出会った相手の名前も、詳細には出てこない。ただ少女はその人物をいつも「あい」と呼ぶ。
大きな交差点の真ん中、茜寧はもちろん我が目を疑った。
そんなわけがない。物語の中の人間が、この世界にいるわけない。
しかし、先ほど見た顔も背格好も服装も、間違いなく思い描いた姿そのままだった。雑音を突き破ってくるようなあの足音も確かに脳が記憶していた。
追いかけよう、そう決めたのも束の間、目の前に背の高い影が現れた。見上げると、スーツ姿の男性が迷惑そうな顔でこちらを見ていて、茜寧は自分の感情からナイフを突き付けられた。
「あっ、ごめんなさいっ」
ひゃっと飛び上がり、人の邪魔になるようなことをする気はなかったのだけれど不測の事態に体が反応してしまったのだ、という顔をする。男性に軽く会釈をしながら、返事を待たずに脇を抜けた。感情は、どうにか刃物を納めてくれた。
茜寧は信号が赤に変わってしまう前に来た道を戻り、交差点を抜けだした。見失うわけにはいかない。先ほど見た人物が何者なのか、確認しなければ。茜寧はすれ違う人々それぞれの軌道を確認し、ぶつかって不興を買わないように努める。急いでいても、茜寧の行動は決められている。
何度も「すみません」と口にしながらようやく人混みを抜け出し、先日恋人と待ち合わせをした黄色いCDショップの前に出た。件の人物は、入り口の取っ手に手をかけている。
改めて見た後ろ姿はまた、まぎれもなく。
「あい?」
思わず声に出していた。
とはいえ周囲の人間の耳を攻めない声量だったから、思わずというのは茜寧の願いだ。事実は、あくまで愛されたい感情を慮っての行動に過ぎない。
振り返ってくれるとは、期待したけれど予想しなかった。そもそも相手の背中に声が届いたのか分からない。認識されたとして、あい、というたった二文字を自分への呼びかけだとは思わないだろう。
なのに、その人物は扉の取っ手から指を外し、振り向いた。そしてはっきりとまるで引き寄せられるように、茜寧の方を向いた。
正面から見据えた顔に、茜寧は息をのんだ。
あい。
そんなはずはない、こんなところにいるはずがない。そうやって自分に言い聞かす茜寧を、きっと外見に合っていないと周囲から思われるであろう音程の声が、打ち砕いた。
「俺?」
茜寧が、立っていられたのは、縛る感情があったからだ。
表面で思いを爆発させる快感を茜寧は得られたことがない。
しかしながら、万が一、表現出来ていたとして、愛されたいの鎖を外し、自分のためだけに思いを表出し、その場で号泣して感謝を叫んだとして、誰にも理解されなかっただろう。人の多い街にはおかしな輩がいるものだとしか思われなかっただろう。
茜寧は、あいの一人称と声に、自分だけの幸福を抱いた。
一人じゃなかった。
私はこの世界に一人じゃなかった。
私が正しかった。
誰にもばれることのない、心の奥で叫んだ。
同時、感動に打ち震える内面を無視して、顔が若干の戸惑いを演出する。こんな自分を、状況を判断し適切な形でしか動けない機械のようだと、茜寧はいつも思っている。
「はい、その」
「ごめん、忘れてる。誰だっけ」
深みのある声と、粗野な物言いを聞いたのだろう、近くの女子高生二人組が驚きを口にしていた。遠慮のない彼女達の声は、あいにも聞こえているだろうが気にしている様子はなかった。茜寧もまるで気にしなかった。
その女子高生達と違って、茜寧は知っていた。
だから撃ち抜かれはしても、意外には思わなかった。
女性的な外見をしている彼が、男であることくらい、ずっと知っていたのだ。
「いや、いきなりすみませんっ。後ろ姿がそっくりで知り合いかと、思ったんですけど」
「ああ、そう」
聞いた事実を事実として受け止めるだけの態度を見せたあいは、顔を元居た場所、扉の方にちらりと向けてから、もう一度こちらを見た。
「そいつもあいっていうの?」
「うん、はい、そうです」
「へえ。俺もあいなんだ、だから振り向いたんだけど」
知ってる。知ってるよ。
首を縦にふる心中の茜寧とは対照的に、表の茜寧は「へー!」と驚きを表現する。
「そんなことあるんだ!」
「ね。それじゃ、そのあいによろしく言っといて」
気楽に、しかし本当に誰かによろしくと伝えなければならないと思わせるほど真っすぐ、茜寧だけに伝えられたその言葉を残しあいは扉の方へと向いた。
その飾らなさも、真剣さも、本で読んだ彼の姿そのものだ。
今見ている全ては夢ではないかと茜寧に思わせるに十分だった。
だからこのままあいを見失えば、二度と会えない気がした。
茜寧は行きかう人々の邪魔になってしまわぬよう、まずあいに倣って一歩前進する。そして周囲から見ておかしくない行動と、自身の目的が合致したことに気がつき、そのまま扉に向かう。あたかも、最初からここに用があったという顔をしておいた。
もちろんあいに怪しまれないため、執拗に背中を追いかけるような速度は出さない。彼に疎ましがられる行動を、茜寧は選択出来ない。タイミングを見て偶然を装い、少しだけでも会話が出来れば、その程度を望んだ。それくらいなら、愛されたい自分も許してくれると判断した。
本当に、それだけだった。
ところが、前を行くあいは扉を開ける際、いつもしているのかもしれない、片目で背後を確認し、茜寧が来ていることを知ったのだろう、中に入って扉を押さえ待っていてくれた。
「あ、ありがとうございます」
気にするなという調子で「んーん」と首を振るあいに対し、茜寧は浮かべた微笑みの下、驚きをきちんと隠しきった。
本当の自分は大変な衝撃を受けていた。彼の親切に対してではない。
こんな場面を、読んだ覚えがあったから。
それというのも、本来あいが生きているはずの世界、『少女のマーチ』の冒頭にこのようなシーンがある。
主人公の少女が自らの意思では来る予定がなかったはずの場所、そこに人影を見つけ、この先には何があるのかと尋ねようとする。しかし主人公の言葉よりも早く、その人影は扉を開けて、こちらを振り返る。そうして、主人公が踏み出してくるのを待っている。
まるで主人公が受けたような扱いをふいに差し出され、茜寧の鼓動は悲鳴を上げるように高鳴った。夢だった。
「そんじゃ、俺は下に行くから」
丁寧に別れのタイミングを告げてくれるあいに、つい、や、思わずではなく、意図をもって茜寧は発した。
「あ、私もなんですっ」
己の感情を一つも隠す様子なく、あいは瞼を持ち上げて「そうなんだ」と偶然に驚く顔をした。
そんな顔を自分も演技ではなくしてみたかったと、茜寧は切に思った。
「インパチェンスのファンなんだ? 高校生? 大学生?」
「や、ファンっていうほどかは分かんないけど、高校生です」
「へえ。いや、珍しいなと思って、女子高生とかあんまり現場で見ないからさ。んや私服なだけで結構いるのかな」
インパチェンスという言葉が、アーティスト名であることは茜寧も知っている。ここの地下が有料無料さまざまな形でイベントを行うスペースであることも。あいの言葉から頭を回転させ、状況を理解し、適切な答えを見つける。愛されたいと付き合ってきた人生の中で茜寧が身に着けた能力だった。
「今日初めてなんです。高校の友達と一緒に行ってみようって約束してたんですけど、私一人になっちゃって」
「ふーん」
行き先が一緒なら、と、二人は共に地下へ向かうことにした。途中、壁に貼ってあるポスターを確認し、イベント内容がミニライブとサイン会であることを知る。
小説の登場人物と連れ立つという信じられない状況に混乱しつつ、この時すでに茜寧はいくつかのパターンを予測し、そのそれぞれへの対処法を作っていた。
階段を下りたところに係員がいた。入場券の提示を求められた時の対応も、既に考えてある。
この続きは、書籍にてお楽しみください