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 次の日もまた、茜寧は同じ街にいた。

 三日連続、この臭気に満ちた場所を訪れたのにも理由があった。

 前日、昼休みの教室で、いつも決まっているメンバーと昼食を食べている最中に一人の子が「明日バイト前に買い物しようかな」と週末の予定を何げなく話した。その一言は会話の中でごく自然に発せられ、特に強調されたものではなかった。だから他の子が「バイト頑張れー、稼いだら奢ってー」と冗談交じりに絡んだだけで、話は何か割のいい稼ぎ方はないのかという方へ向いて、その話題さえ風が吹くようにどこかへ消えた。茜寧の頭の中にだけ、質量のある石のように友人の言葉が残っていた。

 食事を終えると、それぞれがトイレや他のクラスへと出かけていく。茜寧は、一階の食堂前にある売店へと向かった。赤いラベルのアイスティーを買って、だらだらとした足取りで六階へと戻り、教室に入る直前に廊下でスマホを取り出す。そしてふと何かに気づいたという顔を作ったら、椅子に座る友人のそばでしゃがみこみあごを机の上に乗せた。

「どした、バヤシー」

 あだ名で呼ばれるたびに、茜寧は脳内でわく何らかの物質を感じる。愛着のあかしであるからだ。ばれないように舌を一回噛んで、伊達だ て眼鏡越しに友人の顔を見た。

美優み ゆ、明日バイト何時からー?」

「一時半だけどなんで?」

「明日、親戚んち連れて行かれそうになってるの思い出して、逃げたいんだよね。午前中買い物行くならついて行っても、い?」

 あくまでこちらが望んでいるのだから、相手の都合をちゃんと考え控えめに、その上で一歩だけ無理矢理踏み込む声色を選んだ。美優はバイトや授業などの決められた活動以外は出来る限り誰かといたい寂しがり屋で、それを自分の恥ずかしい部分であるように考えている。だから偶然都合が被ったかのような友人に、あふれ出る喜びを見せてくれた。

「マジ? わー! 一緒行こ!」

「うっし」

 無防備を意識した笑顔を見せ、すぐ近くにいた同グループの子にも声をかけた。二人だけの秘密にならないよう。行動の周知が大切だったので、彼女に別の用事があったことは問題ではなかった。

 夜を跨ぎ、待ち合わせ時間に五分ほど遅れて現れた美優と、茜寧は女子高生らしく再会を喜んだ。

 美優の目的は、新しいスマホケースだった。現在使っているものを見せてもらうと、背面に大きなヒビが入っている。

 いくつかの店を一緒に回ってみた。しかし候補となるものはあっても、持ち主になる本人の中で決め手となるものがなかなか見つからない。二人は、休憩がてら昼食を食べるためファストフード店に立ち寄った。

「一回ネットでも探してみるかー、リアル派なんだけど。ごめんね、バヤシーつき合わせちゃって」

「全然いいって、迷ってんの見るの楽しかったから。目バキバキで飛んでんのかと思った」

「真剣な顔をいじるなー」

 じゃれあい、だらだらと食べ終わる頃には美優のバイト時間が迫っていた。二人は、最後にプリクラを撮ることにした。この街を象徴するような通りに移動して、専門店に入る。

 機種を選び、時間をかけて何パターンも撮影した。ふざけたものや、いざという時に使うためのものまで、表情や姿勢を変えて。

 茜寧はこういう時、状況に応じた目や口の開き方を心得ていた。一緒に写っている誰かが、自然に映えるような撮られ方がある。

 撮影後はブースを移動し、思い思いに自分達の顔まわりを編集していった。

「今日バヤシーと来れてすごいよかった、またすぐ遊びいこうよ」

「うん、絶対」

 きちんと茜寧の同意を待ってから、美優は続けた。

「ここだけの話なんだけどさ、バヤシーといる時が一番落ち着くもん。なんか曝け出してもよさそうっていうか」

「ええ、嬉し」

 友達が自分と過ごしてそんな気持ちを抱いてくれているということが、心の中のわずか数パーセントだったとしても彼女がそれを言葉にして伝えてくれたということが、茜寧はたまらなく誇らしかった。

 そして、その自分の感情に死にたくなった。

「私もそうかも」

 美優とはその店の前で手を振って別れた。「また明後日ね」。教室での再会を約束しあう。頃合いを見て、茜寧は友人の背中が見えない方へと歩いた。親戚の家に出かける予定などあろうはずもない両親のいる家へ帰るためだ。

 

 

 恋人の前でも、バイト仲間の前でも、友達の前でもそうだ。

 たった一つの感情に支配され行動している自分を、茜寧は切実に嫌悪していた。

 愛されたい。

 それは恋心とも、仲間意識とも、友情とも違う、単なる欲だ。

 恐らくは生まれた時から持っていたとてつもなく大きなそれに自分が捕まっていると、いつしか茜寧は気がついた。逃げようとしてもすでに手遅れで、堅牢なおりにも強固な首輪にも思えるその感情は、常に茜寧の思考や行動を見張り、制限した。

 趣味も好みも言葉もしぐさも表情も、誰かの視線があれば、愛されたいの監視下で選んでしまう。茜寧が自由に出来るのは、内側の理解力や想像力程度のものだった。

 本当の自分をおびやかし続けるその感情を、茜寧は憎んでいる。

 切り刻み捨ててしまいたいが、もし逆らえばどうなるのか。想像すると、心をおそってくる根っこからの恐怖を感じて、あらがう術が茜寧にはなかった。

 代わりと言ってはあまりだが、彼女には愛されるための言動を表現出来る能力と、容姿が備わっていた。故に、今まで誰にも、本心を指摘されることなくここまで生きてきてしまった。

 今日もいつも通り、愛されたいを選んでしまう。

 友人と別れたあと茜寧は丸い模様のついた地面を歩き、大通りへと出た。様々な事情を抱えた人々の波に茜寧も混ざる。列を乱さぬよう、迷惑をかけぬよう気を配り、あくまで景色の一部となれるように、歩く。

 歩を進めた先にある、この街で一番大きな交差点の信号は、茜寧が到着する直前に赤へと変わった。

 周りの急いでいない人間達と共に、茜寧も立ち止まる。横断歩道の向こうで誰かを待たせてでもいない限り、無理やり走って渡るようなことはしない。

 愛されたいは、見知らぬ人々に対しても生き続けている。

 知人を相手にした時と比べ濃淡や優先順位はあれど、自ら悪い印象を持たれるような行動を茜寧はしない。

 この交差点での選択肢は二つあった。このまま信号が変わるのを待つか、地下道に続く階段へと移動するかだ。どちらでもいい。

 考えているうちに十秒ほど経過してしまったので、そのまま待つことにした。

 そしてすぐに、二択を間違えたと気がついた。

 たくさんの雑音の中から、その音声だけがまるで狙いすましたかのように茜寧の耳に刺さった。

 突然不快な音を聞かされた時、人は思わずそちらを見てしまう。

 交差点の人間達を見下ろす位置に配置された屋外広告用の巨大なスクリーン、そこから、知っているセリフが、本物とはかけはなれた甲高い声によって再生された。

 映像は、集中していなければ何が起こっているのかも分からない速さと乱雑さで進んでいき、やがてタイトルロゴが表示される。

『映画、少女のマーチ、真実のあいがここにある』

 うるさい、黙れ。

 その思いが顔にも声にも出なかったのは、二度と会わない他人にすら愛されたいという感情がやはり過剰に作用したからだ。

 茜寧の中にいる少女の気持ちを、誰も知ることはない。

 この映画を作った人間は、宣伝に関わった人間は、場違いな俳優達は、果たして本当に小説を読んだのだろうか。

 真実のあい、などと、女子高生にでも簡単に思いついてしまえそうなキャッチフレーズを、堂々と商品につけられる感性の死んだ人間に、果たしてあの物語を理解することは出来ているのだろうか。

 もう何度でも抱いてきた疑問。どうにかしてやりたいが、どうにも出来るわけがない。少なくとも、愛されたい、の管理下では。

 いつもと同じように軽く舌を噛んで自分を慰める。焼石に水でも、やらないよりはましで、くせになっている。

 まもなく信号が青に変わる。急いだ車が徐行などでは決してない速さで通り過ぎていく。

 前の人間の歩調に合わせ、茜寧も白と灰色の安全地帯へ踏み入る。視線は下げない。他人にぶつかることのないようにでもあるし、うつむく自分よりも正面を向く自分の顔が愛らしく見えると知っているからだ。

 そうした茜寧の性質を含めた、様々な事情が噛み合った結果としての積み重なりであると捉えるか、単なる偶然だと捉えるかは、立ち会った者次第だ。

「え?」

 数えるのは不可能なほど多くの人間達が自らの背後に過ぎ去っていく途中、茜寧は視界の端で、こちらに歩いてくる一人を見つけた。耳が、雑踏の中で一つの足音を聞いた。

 肩にかかる位置までの髪の毛、黒いコート、白いスカート。

 弱音を踏み潰すように大きな足音を響かせるブーツ。

 そしてその、全ての難事から決して逃げない意志を、宣言するような横顔。

 瞬間、茜寧はほんの一瞬ではあるが、愛されたい自分を忘れた。

「あい……?」

 茜寧は振り返り、名前を呼んだ。しかし、その声は歩み去っていく相手の背中まで届かず、地面に落ちて誰とも知らぬ誰かに踏まれた。

 

「腹を割ったら血が出るだけさ」は全4回で公開予定