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当然のことながら、跡継ぎと目していた健一を失って、時島誠は激怒した。
「これは殺人だ。組織的な——いや、もっといえば政治的な——殺人だと私は確信している」
猛攻撃が以前にも増して再燃した。
事故のわずか七日後のこと、喪服に身を包んだ時島誠が、険しい表情でテレビカメラを睨んでいる。夜のニュース番組に、生出演しているのだ。
非番だった矢上了は自室のテレビでそれを見ていた。岩間から「時島議員がテレビで何かしゃべるらしい」と連絡を受けていた。見るつもりはなかったのだが、気がつけばスイッチを入れていた。
健一の初七日を済ませてその足でスタジオに来たという誠は、言葉通り喪服から着替えてもいなかった。
「過激な発言ですが、そうおっしゃる根拠はありますか」
時島の興奮に気圧されながらも、キャスターは訊くべきことは訊く。
「特救隊の副隊長が、なぜか私の息子を最後まで救出しなかった。いいですか、最後まで、だ。その理由ははっきりしている。私が海保批判をしてきたからだ」
キャスターが大げさに目を見開く。
「つまり、意図的に救助しなかったと?」
「隊員が、健一をほったらかしにして、持ち場を離れているという証言がある。結果として私の息子はその隙に命を落とした。これを『怠慢』などで片付けてはいけない。わざと見殺しにしたのです」
「ではここで、昼の国会中継の模様をご覧いただきます」
画面が、国会中継に切り替わった。録画を切りつないで編集してあるようだ。
海上保安庁長官、海保を所管する国土交通大臣、ひいては総理大臣までが質疑に立たされ、苦渋に満ちた顔で答弁を繰り返している。質問に立っているのは、もちろん時島誠だ。
矢上は見ていないが、このやりとりもすでにニュースで何度も流されているらしい。なぜなら、時島は密漁事件後要職を外された反主流派とはいえ、古参の民和党議員だ。与党議員が国会の場で国務大臣や首相を攻撃するというのは、きわめて異例だ。
いや、反主流派だからこそ、主導権を握る絶好の好機ととらえたのかもしれない。
「いいですか、総理。私の息子は、ただ遊びに出ていたに過ぎない。ところが、海上保安庁の特殊救難隊という武装組織が、救助活動を怠り、結果として水死させた。これは単なる業務上過失ではない。明確な殺意があったとしか考えられない。現在、告発するべく準備を進めております」
夕方のニュース番組で流したらしいテロップが、その映像に重なる。
《国会で“殺人”発言、波紋広がる》
《海上保安庁隊員「殺人容疑」で告発か》
矢上は、ソファに背中を預けたまま、静かに目を閉じた。
時島誠の生出演の二日後、矢上了は横浜の第三管区海上保安本部に出頭した。
急な呼び出しではなく、事前に通告されていたことだ。対応するのは、人事課監察係の、坂口係長だ。
「お久しぶり」
聴取室で顔を合わせるなり、坂口係長はそう声をかけてきた。目元には笑みすら浮かんでいる。
たしかに、坂口とは顔見知りだ。五年先輩の坂口が航海士として現場にいたころ、まだ潜水士になりたてだった矢上は、一緒の船に乗ったことがある。
そんな過去があったとしても、厳しい取り調べがあるだろうと覚悟して来た身としては、意外な応対だった。
「お元気そうで」矢上が挨拶を返す。
「おかげさまで、あのころより十キロ以上太ったよ。——それじゃあさっそくだけど、まずは確認させてもらいます。あの日、待機室で連絡を受けてから帰還するまでの流れは、この報告書にあるとおりで間違いないかな。その後何か思い出したことや補足することは?」
「そこにあるとおりです」
「なるほど。では、要救助者を揚収する順番を決めた事情についてもう少し詳しく」
「はい」
怪我の状態、体力の消耗具合、年齢、そういった観点からあの順番にしたことを説明した。
「時島健一、優佳夫妻は怪我のようすもなく、あの六名の中でも体力的に上位だと判断しました」
「結果的にああなったわけだが、ライフジャケットのチェックはしたかな」
「目視だけでした。バックルが嵌まっているのは見ましたが、チャックの確認は怠りました」
「矢上君ともあろうものが、失態だね」
「返す言葉もありません」
坂口は同情がまじるような顔でうなずき、質問を続ける。
「そのとき、彼が時島誠の息子、健一だと認識していたかな? あるいは、あの『密漁事件』の救助対象者であったと」
「事前にそのような情報はありませんでした。どこかで会った記憶はありましたが、現場で正確に思い出している余裕はありませんでした」
坂口が「そうだよね」と深くうなずく。
「世間では、個人的な恨みを晴らしたと言うものもいるが」
「ありません。今も申し上げましたが、そもそも認識しておりませんでしたので」
「だが、結果として犠牲者を出した。そういうことになる」
宣言する坂口も苦しそうだ。矢上は一拍おいてから答えた。
「はい。結果として、私の判断は最善ではなかったかもしれません。何より、ライフジャケットの確認を怠ったことがすべての原因です。その点は申し開きできません」
「そうか」
しばらく沈黙が流れた。坂口係長は何か踏ん切りをつけるように静かに言った。
「以上になります。追って通達があると思います」
* * *
二日後、矢上了に正式な通達が出た。「当分の期間、出動停止」という処分だ。
正式な懲戒ではないが、実質的には現場から外される措置だ。「ほとぼりが冷めるのを待つってことだ」と松尾四隊長が慰めてくれた。
矢上はこの数日間に決心したことがあった。
特救隊を辞める——。
海上保安庁の職員としては残るが、特救隊として海に出ることは二度としないと決めた。もちろん、クラブ活動ではないから「辞めます」「そうですか」というわけにはいかない。それなりの手順を踏まねばならない。
意思を伝えると、上層部は引き留めようとした。
「矢上、おまえの判断や対応が間違っていたとは思っていない。今は世間が騒いでいるだけだ。嵐が去るのを待て」
特救隊の重村基地長にはそう言われた。第三管区本部長にまで慰留されたが、決意は翻らなかった。
「自分の判断ミス、稼働ミスで人命が失われたら、特救隊は辞すると決めていました」
『鷹』がそう決めたなら、決意は翻らないだろう。そんな噂が立っていると、岩間が教えてくれた。
4
特救隊を除隊する形になった矢上に待っていたのは、内勤業務だった。
霞が関の海上保安庁——いわゆる「本庁」の総務部政務課広報室だ。現場の保安官から本庁への異動はかなり異例だときかされたが、良くも悪くも有名人になってしまった矢上の、扱いに困っていることを肌で感じていた。
制服ですらなく、スーツとネクタイに身を包むことになる。初日にスーツ姿で地下鉄出口から地上に出たとき、はじめて袖を通した日にあれほど感激したオレンジ色の特救隊の制服から、ずいぶん遠くへ来てしまったと感じた。
「元現場の人間が広報をやるのは“あり”だと思うよ。説得力があるよ」
政務課の上司は明るくそう言って歓迎してくれた。
新しい部署での主な業務は、海上保安庁の広報施策の企画、報道対応、議員やマスコミへの説明資料の作成などだ。当然ながら、時島誠のような“政敵”に向き合う機会も出てくる。
赴任して三か月ほど経ったある日、食堂で近くに座った若い職員が話しかけてきた。
「矢上さんですよね。『荒天の鷹』の動画、見ました。今から潜水士をめざそうかと思っちゃいます」
すでに何度か同じことを言われている。そのたびに「今からでも遅くはない」と答えることにしている。するとほとんどの場合、その先へは話が進まないからだ。
しかし、このときの職員は話題を変えてきた。
「この前の国会答弁で、時島議員がまた言ってましたよ。『海保の“特殊部隊”なんて不要だ。警察と消防で充分だ』とかって。言うに事欠いて“特殊部隊”ですって。名称すらいいかげんで、何言ってんだって感じですけど。
それと、巡視船を視察するっていう話が出てるらしいです。国会じゃ物足りなくて、現場まで出てくるんですかね。『あきつしま』をご指名らしいんですけど、まさかヘリに乗せろとか言い出さないでしょうね。そしたら、ロープ一本で吊り下げてやればいいのに——」
悪口が止まらない。適当にあしらって、自席に戻った。
まさにその日の退庁間際に、係長に声をかけられた。
「矢上君。明後日、お願いしたい案件が一つあるんだけど」
「どんなことでしょう」
「取材対応だ」
「取材ですか? 自分に?」
「ご指名なんだよ」
指名ということは、特救隊時代の話を聞きに来るに違いない。重い気分になりかけたところへ、係長は追い打ちをかけるように告げた。
「時島誠の事務所の人だ。巡視船視察にあたって事前に話が聞きたいそうだ」
「お久しぶりです、矢上さん」
二日後の午後二時、政務課の応接室を兼ねた会議室へ訪ねてきたのは、死亡した時島健一の妻、時島優佳だった。
「お元気そうですね」
丁寧に頭を下げる優佳に、とまどいながらも矢上は挨拶を返す。
今回の面談にあたって——あまり得意なことではないのだが——矢上も、時島家の現状について少しだけ調べてみた。ネットで検索したものもあるし、ゴシップ好きな職員から聞き出したこともある。
時島優佳は、夫の健一を亡くしたあとも、旧姓に戻ることもなく「時島一族」の一員として残っているらしい。子供の将来を考えればそれが妥当かもしれない。もちろん、再婚はしてないようだ。
単に家族としてだけではなく、事務所のスタッフとして企画立案などをしているようだ。ということは、今回の「巡視船視察」は彼女のアイデアだろうか。実際に乗ってみて、さらなる「あら探し」をするつもりなのか。
たしかに、時島誠の攻撃があまりに激しかったので念頭になかったが、優佳にとってみれば夫を亡くしたことになる。恨んでいても不思議はない。
選挙区の“跡継ぎ”に関しては、弟の黎二が継ぐらしい。
名刺交換をし、椅子に座って相対した。
ダークグレーのパンツスーツに、襟元がやや華やかな薄いブルーのブラウスを着ている。髪はきちんと結い上げ、化粧は濃くなく薄すぎずという印象だ。
「お時間を割いていただき、ありがとうございます」
「いえ。わざわざお越しいただき恐縮です」
表情や口調から、あまり恨んでいるようには見えない。もしこれが感情を排した結果ならば、手強いかもしれない。
「岬太君はお元気ですか」
「父親を亡くしたショックはあると思いますが、時間が解決してくれると思っています」
続けて何かお飲み物を、いえどうぞおかまいなく、というやりとりのあと、本題に入った。矢上から水を向ける。
「本日は、巡視船視察にあたってのお打ち合わせとうかがっていますが」
「はい」とうなずいたあとで、優佳の口もとにはにかむような笑みが浮いたのを見た。
「でもそれは口実で、本当は矢上さんにどうしてもお話ししたいことがあったからです」
「わたしにお話?」ますます警戒心が湧く。
「はい。矢上さんはプライベートでは会ってくださらないと思いましたので」
「ご用件にもよりますが——」
優佳は軽く居住まいを正して、頭を下げた。
「まずは、あのとき助けていただいて、本当にありがとうございました」
「それが仕事ですから」
ふと、岩間がここにいたら「亡くなったご主人の言葉を借りれば、それが『レゾンデートル』ですから」とでも言ったかもしれないと思った。懐かしい熱き血の仲間たち——。
「矢上さん。矢上さんはあのとき、気がついてましたよね?」
「なにを、でしょうか」
「私が、夫の——健一の、ライフジャケットのバックルを外したことをです」
強烈な海風が吹き抜けたように感じた。優佳のこめかみのあたりにかかったわずかなほつれ毛が、閉め切った部屋の中でかすかに揺れた。
矢上は、腕や首筋の肌が粟立つのを感じた。まさに、現場に戻ってあのバックルが外れたライフジャケットを見つけたときのように。
「どういう意味でしょうか」と問い返す声が、かすれていることに気づいた。
「そのままの意味です。教えてください。イエスかノーか」
レギュレーターをくわえ、濃い酸素が吸いたくなった。深く、深呼吸する。
「ええ、気づいていました」正直に答えた。
優佳が大きく目を見開く。
「やはり。——あの場ですぐに?」
「いいえ、すぐにというわけではありません。現場では救助に必死でしたから。けれど、ヘリに戻って探索をしながら、次第におかしいなという思いが湧いてきました。あのライフジャケットのバックルは、多少波にもまれた程度では自然には外れない構造です。——正直に言いますとジッパーが閉じているのは目視しませんでした。しかし、健一さんのバックルが嵌まっているのはたしかに見ました」
言葉を切り、一拍おいて続ける。
「あのとき、あの海にはお二人しかいませんでした。可能性としては二つ。健一さんが自分で外したか、あなたが外したか」
優佳は目を伏せ、うなずいた。
「おっしゃるとおり、わたしが外しました。健一に近づき、締め直すふりをして外しました。かなり焦っていたから気がつかなかったんでしょうね。あの人、見栄を張っていたけど、実はあまり泳ぎが得意ではないんです。ほかにお気づきのことは?」
「乗員からの救難通報です。突然の横波による転覆事案ですから、非常用自動通報装置からの信号はわかります。しかし、その直前に乗船者から無線連絡が入っている。まもなく転覆することがわかっていたとしか思えない」
再びの沈黙。ひどく長く感じたが、一分もなかっただろう。
「さすがですね。そのとおりです。でも、どうしてそれを主張されなかったんですか」
「言いふらして欲しかったですか?」
優佳は顔を伏せ、少し声のトーンを落として再び「いいえ」と口にした。
「——父と時島誠は、大学時代からの親友でした。ご存じのように、あの一族は誠の父親の代から国会議員です。わたしの伯父が社長を継いだ『船川重機工業』にとっても重要な後ろ盾でした。
ご存じだと思いますが、船川重機は国内大手の一社ですが、造船において業界トップにはなっていません。その理由は、国からの発注に競り負けているからです。ライバル社の後塵を拝しています。主力たる造船業においてトップシェアになることは、あの会社の悲願でもあります。
しかし、時島誠がようやく党内の立場を固めてきたころには、党内で反主流派になっていました。自衛隊などの発注に口を挟める派閥にはないのです。
『今は雌伏のとき』と、父や時島議員が話しているのを何度も耳にしました。しかしやがて時島が総裁になり、首相になれば、そしてその一派が利権を牛耳れば、自衛隊の補給艦の受注を約束するという密約があったようです。海保と海自を統一するというのは、発注の道を一本化するためです」
この事実には、殺人の告白以上に驚いた。そんな理由のために、あれほど海保を攻撃していたのか。
「——時島の地位を保全するために、ずいぶん資金を回しました。わたしは、秘書にすら言えない裏金の橋渡し役もやりました。
そうです。わたしと健一の結婚は、我が身に降りかかるまで死語だと思っていた、事実上の『政略結婚』でした」
ここで、優佳は一度言葉を切った。矢上は、やはり何か飲み物をもらえばよかったと後悔したが、今さら話を中断できない。
「そんなようなお話は、なんというか、噂のレベルで聞きました」
本当を言えば、時島が激しく攻撃していたころ、海保内ではそんな話題で持ちきりだった。優佳が続ける。
「わたしも、最初は健一に好意を持っていました。彼には決断力と実行力がありました。『男らしさ』というのは、女にとって本能的に魅力なんです。それに見た目も悪くなかったので——。
でも、結婚したとたんに変わりました。『男らしさ』と『野卑』『粗暴』は紙一重です。古いタイプの典型的な亭主関白というのでしょうか。何をするにも命令口調で、少しでも反論すると『誰のおかげでここに住めてると思ってるんだ』とか『あんな会社いつでも潰してやる』などと暴言を吐きます。手を上げられたことも一度や二度ではありません」
語る声は静かだったが、その奥に押し殺された怒りがあった。
「浮気も一度や二度ではありません。政治家の家の息子という立場と金を使って、ホステスや売れないモデルなどと堂々と関係を持って、とうとう弟の奥さんにまで手を出してたんです——」
「あのとき、救助した?」
優佳がうなずく。
「春菜さんです。最初は信じられなかった。でも、春菜さんが泣いて話してくれて。半ば強引に関係を持ったと。そしてその後も、言うとおりにしないと夫の黎二さんにばらすぞと。そのとき、私の中である気持ちが固まりました。
わたしは父に相談しました。健一のDVや横暴を。そして、いずれ健一が地盤をついで議員になるだろうけど、健一は船川重機工業に優先的に利便を図るつもりはないことも。金次第でライバル会社に簡単に寝返ることも。現に、健一はライバル会社の常務の娘と関係も持っていて、そっちに発注を回すつもりでいたのです」
「では、あの遭難は?」
「さすがに、計画的に遭難することまでは無理です。チャンスが来るのを待っていました。健一は海の近くで育ったせいか、変な性癖があって、荒れた海に出るスリルが好きなんです。例のアワビ密漁事件もそうでした。ただ、あのとき一緒だった黎二さんや友人は、無理矢理に誘われたんです。
例の遭難事件があった日は、みんなでクルーズに出ようという計画が進んでいました。台風が近づいているという情報があって中止の声も出ましたが、わたしは千載一遇のチャンスではないかと思ったんです。父を説得し、黎二さんに同意してもらって春菜さんを誘ってもらえば健一も乗ってくると」
「ということは、弟さんも目的を知っていた?」
「はい。あの船にいた人間でそれを知らなかったのは、健一と息子の岬太だけです」
「そして荒れた海に出た」
「さすがに出港するときは荒れていませんでした。それだったら、健一も尻込みしたと思います。でも天はわたしに味方してくれて、急にあの荒れた海になりました」
「転覆は? 偶然ではないですよね」
しばらくの沈黙のあと、優佳が重い声で言った。
「父を脅しました。『わざと横波を受けて転覆させてくれ。そうしなければ、会社の屋上から飛び降りて死ぬ』と」
「やはり、予測していたから転覆直前に救難の連絡を入れることができたんですね」
「ほかの人は死なせたくなかった」
ハンカチで涙をぬぐい、はなをすすって、優佳が続ける。
「矢上さんが、世間の攻撃に耐えられなくて、『特救隊』をお辞めになったことを知りました。わたしは、あの日あの荒れた海に浮かんでいたとき、黒い雲に覆われた空から、まるで鷹が舞い降りるように突如現れた、矢上さんの姿が忘れられません」
今日、もっとも長い沈黙が流れた。
「告発していただいても結構です」と優佳が小声で言う。
矢上も静かに答えた。
「わたしはあのとき、みなさんを救うために全力を尽くしました。あなたも、そして健一さんも。けれど、結果として健一さんを救えなかった。それが、現実です」
優佳は顔を覆って、しばらくそのまま静かに泣いていた。
やがて、涙を拭い、ゆっくりと顔を上げた。
「こうして話せて、少しだけ楽になりました。これから、救っていただいた命と、矢上さんの職務を踏みにじった贖罪のために生きていきます」
「しかし、時島誠の秘書になられた——」
優佳が涙目のまま微笑んだ。
「今年で義父は引退します。そのあとを黎二さんが継ぎます。義父がどう反対しようと、黎二さんは、海保と海自は別個の役割があり、この国難の時代にそれぞれに充実すべきであるという考えです。
こんどの視察も、誠の秘書として黎二さんが同行します。できれば、矢上さんが案内してやってください。黎二さんと矢上さんは、お話が合いそうな気がします」
* * *
第三管区海上保安本部に「警備救難部救難課」という部署がある。簡単にいえば、海上で起きた刑事事件相当の案件を扱う部署だ。
矢上を訪ねたその足で、時島優佳がこの警備救難部救難課に出頭したと矢上が聞いたのはその日の夕刻だった。
(了)