1(承前)

 

 矢上は船体を離れて、二人の下へ向かう。落下の心配はないだろうが、万が一ということがある。その場合はサポートせねばならない。しかし、態勢をたてなおしたヘリに、二人は無事吸い込まれた。

 泳いで船のところへ戻る。

「よかった」と母親が声をかけてきた。

「次はお母さんが行きます」

「はい」

 またあの男が文句を言うだろうかと、見回した。

 しかし、姿が見えない。ようやく諦めてくれたのか。それともふてくされて、船体の陰にでもいるのか。ならば幸いだ。順番になるまで放っておくことにした。

 やがて、岩間にかかえられて、母親も吊り上げられていった。ようやくあの男だ。時島健一とき しま けん いち——。

「時島さん」

 声をかけ、男の姿を捜すが見当たらない。

 どこだ?

 クルーザーの周囲を見回す。日没まではまだ間があるが、雨雲に覆われて薄暗く雨と波のしぶきで、あまり視界がきかない。波も相変わらずうねっている。

 その波間に、ようやくライフジャケットのオレンジ色を見つけた。五、六メートルほど離れている。

 あれだ。大波を浴びて流されたのかもしれない。急いで泳ぎ寄る。しかし、その途中で位置を確認しようとして、矢上はウエットスーツの下で肌が粟立つのを感じた。

 ジャケットだけだ——。

 波のゆれにまかせて浮いているのは、オレンジ色のライフジャケットだけだった。それを着ていた人間の姿がない。

「おおい」大声で呼ぶ。「時島さんっ」

 返事はない。姿も見えない。立ち泳ぎで三百六十度を見回しながら、何度も呼んだが反応はない。

 すぐ近くに着水した岩間が寄ってくる。

「もう一名は?」

 怒鳴る岩間に、首を左右に振ってみせた。

「いない」

「流されたんですか」

「わからない。ほんの一瞬目を離した隙に消えた」

 手にしたライフジャケットを持ち上げてみる。あの男——時島健一が着けていたものとしか考えられない。

 バックルが外れている。チャックも開いている。記憶をたぐり寄せる。そういえば、チャックが閉まっているかどうかの確認はしなかった。つっかかってくるあの態度に気を取られて、注意がおろそかになってしまった。

 しかし、バックルは嵌まっていた。それは確信をもって言える。ということは、波にもまれてあれが外れたのだろうか——。

 常識では考えにくいが、何が起きるかわからないのが海だ。

 矢上の脳裏に、最悪の可能性がよぎる。この荒天の中、浮き輪もライフジャケットもなしで海中に落ちれば、矢上たち、激しい訓練を重ねた潜水士たちですら、そう長くはもたない。

「周囲を捜す」

 岩間もうなずいたが、相変わらず風速は十メートル以上あり、波高も二メートルはあるだろう。現実的に人力で捜すのは無理だ。

 そこへ、機長から無線が入った。

〈矢上副隊長、燃料に制限があります。あと十五分で撤収判断を〉

「了解。一度上がります」

 岩間と二人、一度ヘリに上がり、ぎりぎりまで上空から捜索することにした。

 機内も戦場のようだった。

 救急救命士の寺田から報告を受ける。

 高齢男性は意識を取り戻したが、頭部の外傷と低体温症の兆候があり、早急な医療処置が必要である。同じく裂傷を負った男性も意識はあるがやはり低体温症、病院で手当が必要である。

 先に揚収した女性は一時ショック状態だったが、命に別状はなさそうである。

 男児は疲労以外に目立つ所見なし。その男児を抱きかかえる母親はほぼ問題がない。

 ここまではよし——。

 残るは不明男性の行方だ。

「先ほどのかたはご主人ですか」

 ローターの爆音に負けないように、大声で問う。女性がうなずく。

「姿が見当たりません」

 女性が目を見開き、口に手を当てた。

「お父さん、いないの?」と少年が母親に訊く。

「大丈夫。きっと見つけるから」母親の代わりに矢上が少年に答えた。

〈あと十分〉機長の声が割り込んだ。

 ヘリはローターの爆音を響かせながら、いまだ収まりそうもない荒れた海面の上を慎重に旋回して不明男性を捜す。しかし、見つからない。

 矢上が海に入っているあいだ、うねりはあるが強い潮流は感じなかった。そう遠くへ流されたとは思えない。

 副操縦士の声が入る。

〈『たかとり』より連絡。あと十五分で現場到着の見込み〉

「了解」

 決断の時だ。あまりぎりぎりまでねばって、帰還途中にトラブルが起きれば全員の身に危険が及ぶ。それに医療処置を必要とする者もいる。

 インターコムで全員に告げた。

「無事帰還を最優先とする。『たかとり』及び応援のヘリを待たず、一度基地に帰還する。残りの捜索は巡視船に引き継ぎ、状況次第で引き返す」

 誰も異を唱えなかった。直接基地へ戻るのは、巡視船『たかとり』に引き渡すよりも、その後の救急治療の面で有効と判断したためだ。

 基地に戻るとすぐさま負傷者たちを救急医療チームへ引き渡した。点滴を受けながら運ばれていく少年が、矢上の姿を見つけ訊いた。

「お父さん。——お父さんは?」

 言葉に詰まる。しかし目をそらさずに、短く答えた。

「大丈夫。今、みなで全力で捜している。絶対に見つける」

 付き添う母親と目が合った。何か言いたげにこちらを見ている。うなずき返すと「気をつけてください」とねぎらわれた。

 さきほどのメンバーと共に、給油を終えたヘリに再び乗り込んだ。

 

 現場では、巡視船『たかとり』が、依然、捜索を続行していたが、発見に至ったという連絡は入っていない。

 矢上たちは彼らと連携し、上空からの捜索を再開する。この荒天のために、管区内でさらに二件の遭難案件が起き、応援のヘリは頼めない。

 いつの間にか、あれほどぶ厚かった雲がその色を薄くし、ところどころの切れ間から赤く染まりつつある空が見えた。

 時刻は午後の六時半を回っている。そろそろ日没だ。陽光をきらきらと跳ね返しつつ波打つ海面の上を、低空飛行で旋回し、双眼鏡と目視で探索する。

 矢上はモニターに映る海面の一部に、何かが浮かんでいるのを発見した。

「漂泊物。三時の方向、距離約二百」

〈視認しました。三時の方向進みます〉機長が応じ、機首が旋回した。すぐに続けて声が入る。〈目標発見。要救助者と思われます〉

 はっきりと認識できた。うつ伏せに浮かぶ男性らしき背中が。

 誰も何も言わない。ローターブレードが風を切る音だけが、イヤーマフを通り越して聞こえる。最初にその沈黙を破ったのは機長だった。

〈矢上副隊長。指示願います〉

「座標を記録。揚収しこれより基地に帰還する」

 矢上が自ら降下し揚収した要救助者は、すでに心肺停止CPA状態だった。手当する寺田救命士の目に絶望の色が浮いていた。

 

* * *

 

「みんな、ご苦労さん」

 基地に帰還した隊員たちを、第四隊隊長の松尾が出迎えた。

「ただいま戻りました」

 隊員たちが口々に応じる。

 時島健一とおぼしき遺体は、すでに救急チームに引き渡してある。医師が死亡の診断を下すまではCPA状態だが、蘇生の見込みはないだろう。

 犠牲者を出した——。

 その事実が矢上の心に重くのしかかっている。

「お疲れさん」

 松尾は、矢上に歩み寄ってねぎらいのことばをかけた。

「残念な結果になりました。申し訳ありません」

 頭を下げた。隊長に詫びるというより、犠牲者を悼む気持ちだ。

「あの状況下ではしかたないだろう」

「いえ。順番の決定はしかたないにしても、もっと万全を期することができたはずです」

「まあ、そう自分を責めるな。五人は救えたんだ。とにかく、着替えてひと息つけろ。ただ——そのあと、少し話がある」

「死亡した時島健一氏のことですね」

 松尾が目を見開いた。

「知ってたのか!」

「現場で会って話すうちに思い出しました」

 松尾が苦い顔をする。

「四年前の密漁事件ですね」

「そうだ。あのときのあいつだ」

 

 シャワーを浴び、着替えを済ませた矢上と岩間は、別室に呼び出された。特殊救難隊を統括する重村正しげ むら ただし基地長の部屋だ。

「お疲れのところ申し訳ない」

 重村が椅子から立ち上がって、先に詫びた。

「いえ」

 矢上、岩間ともに直立不動で立つ。

「まあ、座ってくれ」

 応接セットのソファを手で示す。

「自分たちはこのままで結構です」

「そう言わず座れ」

 同席するらしい松尾に促されて、ようやく腰を下ろした。

「疲れているところ悪いんだが、まずは報告して欲しい」

 矢上が、救助の指令が入ってから現地へ向かい、矢上の指示のもと五人まで揚収したが、六人目を見失ったこと。全体の安全を勘案し、当該不明者を残したまま一度帰還したこと。帰還後再出動、現場に戻ったところ遺体を発見したこと。すぐさま揚収したがすでにCPAだったこと——。

 それらの流れを簡潔に説明した。意図的に事実を隠したり脚色したりはしていない。

「わかった」重村がうなずく。「松尾君に聞いていた内容とほぼ一致する」

「彼のライフジャケットのチャックまでは確認しなかったのだな」

「はい」弁解はせず、ただ肯定した。

 重村もその点については追及せず、話を先に進めた。

「ところで、聞いたかもしれんが、遭難していたメンバーは少々訳ありの顔ぶれだった。聞いてくれ。——まず、ひとり年配者がいたな。一番怪我がひどかった男だ。あれは『船川重機工業』の専務取締役、竹辺晋二郎たけ べ しん じ ろうだ。会長の純一郎じゆん いち ろう氏の弟だ」

 岩間が「えっ」という驚きの声を漏らした。

 岩間が驚くのも無理はない。船川重機工業といえば、戦前から続く造船業を柱に、機械・鉄鋼・金属業界において全国屈指の売上高を誇る大企業だ。

 遭難した船の所有は、同社の役員が福利厚生で使うためであろうことは予測しても、まさかそんな大物が乗っていたとは思わなかったのだろう。矢上は、時島健一がいた時点で、それは想定していた。

「そしてほかの五名だが、まず成人男性二名は、民和党の時島まことの長男と次男だ」

 再び岩間が「えっ」と声を漏らす。矢上はそのことを岩間には告げていなかった。言えば雑念が交じる。岩間も以前一度会っているはずだが、今回はほとんど接する時間もなく、気がつかなかったのだろう。

「死亡したのは、長男の健一氏。怪我で入院はしたが、一命はとりとめたのが次男の黎二れい じ氏だ。時島議員にはこの二人しか子供はいない。

 そして軽傷の男児は、健一氏のひとり息子、時島岬太こう た十歳。その母親の優佳ゆう かの旧姓は『竹辺』だ」

 これには、矢上も小さく驚きの声を漏らした。重村はあまり楽しそうでない笑みを浮かべた。

「想像のとおり、竹辺晋二郎の末娘だ。つまり、遭難した船には親子で乗っていたということだ。不惑を過ぎてできた子だから溺愛していたらしいが、朋友の時島の長男とくっつけた。この時代に政略結婚なのかもしれんが、この場で推測はやめておく」

 矢上は、海上で言葉を交わした優佳の言動を思い出していた。たしかに、気丈に振る舞っていた。大人の男でも泣き言をいいそうなあの状況下において、冷静な応対をしていた。

「——その優佳はほとんど無傷だった。低体温症になりかけていた女性が、次男黎二の妻、春菜はる なだそうだ。ちなみに、春菜は普通の銀行員の娘で政治色はなさそうだ。黎二とは八歳ぐらい年が離れているらしい。

 まあそんなことはともかく、あの時島誠の長男が水死したんだ。今夜のうちから相当な騒ぎになるだろう。きみたちを表に出すつもりはないが、心づもりをしておいてもらおうと思って、こうして来てもらった」

「しかし、よりによって、あの時島健一だったとはなあ」

 松尾が嘆息して天井を仰いだ。

「すでに、霞が関には矢のように連絡が入っているらしい」

「霞が関」とは、海上保安庁本庁のことだ。

「よりによって、あの時島誠の息子だったとはなあ」

 松尾が同じ意味のことを口にした。よほどショックだったのだろう。この先のことを考えると、矢上も気が重くなる。ほかの議員ではなく、よりによって〝あの〟時島誠の息子だったことに——。

 しかし、矢上にとっては、時島議員の息子を死なせたということより、「一人救えなかった」という現実のほうが重くのしかかっている。

 誰の息子であろうと、いや、たとえ密入国者であろうと、犯罪者であろうと、海で救いを求める人間の命を救うことが、海上保安官の最大にして最優先の使命なのだ。

「ぼやいてもしかたがない」

 重村が誰にともなく漏らした。そして矢上と岩間を交互に見た。

「政治的な問題はこちらで対処する。きみたちは、報告書をまとめてくれ。きれい事を書く必要はない。ありのままを頼む。ただし、チャックについては触れずに。いいか、嘘を書く必要はない。しかし《気づかなかった》と書く必要もない。単に《ライフジャケット装着を確認した》とだけ記載するように」

 敬礼して、岩間と共に部屋を出た。待機室へ戻りながら、矢島の頭の中には、明日のニュースの見出しが浮かんでいた。

《時島誠議員の長男、海難事故で水死。海上保安庁がかけつけるも見失う》

 同時に、四年前のあの岩礁における救出劇が、まるで昨日のことのように脳裏に蘇った。

 

(つづく)