重い雲が垂れ込め、荒く波立つ海面に激しく雨粒をたたきつけている。
七月の半ば、そろそろ梅雨の幕引きとなりそうな台風が近づいている。予報によると暴風雨は明日以降と思われていたが、わずか一時間ほどで天気が急変した。これは、とくに沿岸地域ではそれほど珍しいことではない。
今、その灰色の空と海の境を、スーパーピューマ225型がローター音を鳴り響かせて進んでいる。このヘリは、悪天候下でも安定した飛行性能を持つ、海上保安庁の主力中型機だ。急患輸送や今回のような海難救助に用いられる。
機長、通信士を兼ねた副操縦士、整備士兼ホイストマンの乗員三名に加え、特殊救難隊——通称「特救隊」——隊員が三名の、計六名が乗り込むのが基本で、今もその態勢で現場へ向かっている。
〈あと三分で到着予定〉
機長の声がインターコムを通して全員に届いた。
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東京都大田区羽田の海上保安庁特殊救難基地に緊急通報が入ったのは、午後四時三十八分だった。
神奈川県横須賀沖で、荒天により転覆しつつあるというクルーザーからの救難要請の無線だ。
その直後、三浦半島南西方向約二十キロ沖で、転覆したと思われるクルーザーの非常用位置指示無線標識からの信号を、海上保安庁が受信した。救難要請があった船だ。
登録された識別コードを確認したところ、船主は東京都港区本社の『船川重機工業』と判明した。
同社連絡先へ確認をとると同時に、指令センターから羽田の特殊救難基地にも通報が入る。今日の当番である特救隊第四隊隊長の松尾一也が、それを待機室で受けた。
会話の内容はスピーカーを通して隊員全員に聞こえている。
《海難情報。海難情報。現場は三浦半島南西方向約二十キロ、伊東市の北東、相模湾の中央部付近。要救助者からの通報によれば、乗員六名。怪我人の可能性あり。現在通信不能。詳細不明。急行し捜索と救助にあたられたし》
第三管区本部から出動命令が下され、待機室内の空気が、緊張に一変する。
松尾隊長がまだ交信中のうちから、隊員たちは即座に立ち上がり、それぞれ準備を始める。海図を広げるもの、巡視船艇の現在位置を確認するもの、階下の装備庫へ駆け下りてゆくもの——。
出動指示が下ると思われる、第四隊副隊長の矢上了ほか二名はその場にとどまって、指示を待った。
「——了解」
交信を終えた松尾が振り返り、指示を与える。
「概要は聞こえたな」
「はい」
隊員たちのきっぱりとした声が響く。
「矢上、岩間、寺田、ひとまずこの三人態勢で行く。頼むぞ」
「はい」三人の声が揃う。
三人はすぐさま部屋を出て、階段を駆け下りる。
矢上了は、三十一歳という異例の若き副隊長だ。その冷静で的確な判断力と行動力で、部下の、そして上層部の信頼も厚い。
岩間大斗は今年二十七歳で、隊員の中でも若く体つきにも恵まれている。潜水する際には、矢上のバディとして数年のつきあいであり、気心は知れている。もう一名、寺田俊彦は救急救命士の資格を持つ、三十一歳の隊員だ。
待機組の隊員も、サポートのために集まる。機材室にきびきびした声が響く。
「レスキューハーネス、確認よし。ホイストケーブル、よし」
「AED一式、酸素吸入器、応急処置キット——」
必要な機材を手分けして装備台車に積み、すでに待機している「スーパーピューマ」へ運び込む。
海難情報着信から約十分後には離陸した。
〈目標地点まで、あと三分〉副操縦士が機内のインターコムを通じて告げる。
〈——気象レーダーによれば、ここ一時間で低気圧が急激に発達しています。波高二から三メートル、最大瞬間風速二十メートルを超える模様〉
揺れる機内でそれを聞く隊員たちの眼には、さすがに緊張の色が宿っている。
「大丈夫だ。いつもどおりにやるだけだ」
矢上の冷静な声に、隊員たちがうなずき、指を丸めたOKマークで応じる。
船の所属は『船川重機工業』とまではわかったが、その後の情報では、週末の今日は休業で総務系担当者と連絡が取れず、詳細は依然として不明らしい。
台風の予報は出ていたが、朝の時点ではまだ遠くにあり、波も荒れていなかったのだろう。ところが、その後の天候の急変で状況が変わってしまった——。
それにしても、と矢上は受け止めている。
横波を受けて転覆したのだとしたら、一瞬のできごとだったはずだ。普通ならうろたえて、我が身を守るのに精一杯だ。その短時間に緊急通報するとは、よほど判断力と行動力がある冷静な人物が乗船しているに違いない。
近くにいた中型巡視船『たかとり』も現場に向かっているという情報が入っている。しかし、一刻も早い救助が求められる。
〈いつでもいけます〉
機材チェックをしていた岩間が、意気込みの伝わる声で報告した。機内には整備済みの救助機材が整然と積まれている。
それを受けて矢上は立ち上がり、片手でバーを掴み全員の顔を見回した。
「現地の状況は聞いたとおりだ。通報によれば、漂流者はライフジャケットを着けていない可能性がある。ダウンウォッシュの影響を考慮して、『リぺリング』で降下する」
〈了解!〉
隊員たちが一斉に応じる。緊張は混じるが、怯えはない。
右舷の大型スライドドアが開いた瞬間、海から吹き上げる潮風が機内に流れ込んだ。整備士が慎重にリぺリングロープを固定し機外に垂らす。
〈目標発見。遭難者視認。二時方向〉
機長の声が響いた。矢上も、隊員達もやや右前方の海上に視線を向ける。
うねる灰色の海面に、完全に裏返ったクルーザーの白い船艇が見えた。五、いや六名が、船体付近にいる。あるものは、かろうじて中央の竜骨につかまり上半身を船底に預け、あるものは船体から流れたロープ状のものにつかまり、またあるものは回転の止まった船尾のスクリューに足をかけているようだ。
一刻を争う危険な状態だ。
〈六名確認。一名は子供と思われる。怪我人の有無は不明。二名救命胴衣なし〉
もっとも視界のきく機長が、視認内容を伝える。それを受けて矢上が指示を出す。
「先行しておれが降下する。続いて岩間」
〈はい〉岩間の声に怯えは感じられない。
「救助者はハーネスを使ってホイストで揚収する」
〈負傷者はどうしますか〉救命士の寺田が問う。
「バスケットスリングで吊り上げたいが、この風速では危険が大きすぎる。ハーネスを使って、隊員が付き添う」
〈了解〉
矢上はヘルメットのバイザーを下ろし、ハーネスを再確認した。
〈降下準備よし〉
整備士の声に、矢上は手で応じ、バディとなる岩間に目で合図した。機体は高度二十メートルを維持し、ダウンウォッシュが影響しないぎりぎりまで近づいていく。
「GO」
合図とともに矢上はロープをつかみ、勢いよく滑り降りた。真下ではない。目的地付近まで斜めに降下する。二十メートルを約五秒、自然落下とほとんど変わらない速度だ。一瞬で波の表面が足元に迫る。ブレーキのタイミングを見極める。
ヘリからロープを伝っての降下は、いついかなるケースでも危険を伴う。したがって、緊急性のない場合は「ホイスト」と呼ばれる、ウインチを使って確実に吊り下ろす手法をとることが多い。一般の潜水士に許されるのはこの方法のみだ。
しかし特殊なケース、たとえば炎上する船のごく狭い範囲——二メートル四方もないこともある——に着地しなければならないような場合や、「ダウンウォッシュ」と呼ばれるヘリコプターから吹き下ろす風が危険を招く場合、「リペリング」と呼ばれる手法を取る。
簡単にいえば、ロープをつかんで——時に斜め方向に——落下し、着地寸前に自力でブレーキをかける。しかも、着地目標地点は、まさに“ピンポイント”であることが多い。
相当な技量が求められ、危険を伴うので、海上保安官の中でも「特救隊員」と「機動救難士」にしか認められていない。
以前、テレビ局の取材を受けたとき、局側に強くリクエストされた上層部からの指示もあって、矢上がその“ピンポイント着地”をしてみせた。
ビル七階相当の高所から、わずか数秒で直径一メートルの円の中に正確に着地するようすが放送された。
まるで獲物を狙う猛禽類のように正確に急降下する矢上の姿に、『荒天から舞い降りる鷹』というテロップが重なった。
これは海保内で評判になり、いまだに一部では——それもなぜか特に内勤職員のあいだで——矢上は「特救の鷹」あるいは単に「鷹」というニックネームで呼ばれている。
今まさに、そのリペリング降下で着水した瞬間、ウエットスーツを着た矢上の全身を海水が包んだ。
口の中に塩味が広がる。何度体験しても緊張する瞬間だ。しかし、すぐさま体勢を立て直し、頭上を確認する。手を大きく回して「GO」の合図を送ると、岩間も数秒後に着水した。岩間がすぐに体勢をたてなおし、指で「問題なし」を意味するOKサインを送ってきた。
「矢上、岩間、これより救助に入る」
ホバリングを維持するヘリに連絡すると、機長から〈二名、船より離脱。船首から二時の方向。約十メートル〉と返信があった。目視で確認する。一瞬だが、ライフジャケットのオレンジ色が見えた。船体につかまっていることができずに、流されたようだ。
「目標確認」
矢上は、岩間に対し手の合図で「自分がその二名に向かうから、おまえは船体へ行け」と指示した。うなずく岩間と別れ、荒波の中を泳ぎ漂流者のもとへと向かう。
十メートル——。
凪いだ水面ならどうということはない。しかし、この荒れた海では果てしなく遠く感じる。まして、潜水の重装備をしている。こんなとき矢上はいつも、実際の出動よりきついと言われている普段の訓練を思い出すことにしている。
あれに比べたら楽なものだ——。
そう言い聞かせながら、どうにか離脱した二名に接触できた。
両名ともライフジャケットをまとっている。そのおかげで浮いてはいるが、男のほうは意識朦朧としている。女のほうは意識がはっきりしていて、呼吸を確保するため男の頭を支えている。
「海上保安庁です。大丈夫ですか」
矢上が大声で問うと、女がうなずいた。
「この人、頭に怪我をしています」
そう聞こえた。波に揺られて上下したとき、男の額に切創とそこから流れる血液の赤い色が見えた。転覆の際に船体のどこかに接触したのだろう。意識が混濁しているようなのは、頭を打ったせいかもしれない。流されてしまったので、付き添っていたのだろう。夫婦か恋人だろうか。
「あなたは怪我をしていますか」
女は首を左右に振った。こちらは大丈夫そうだ。
「船には全部で何人?」
女が手を上げて「六」を示した。ならば目視で確認したので全員だ。
「もう大丈夫ですから。すぐに吊り上げます。もう少しがんばって」
そう告げたとき、岩間から無線が入った。
〈クルーザー付近に四名確認。小学生らしき男児一名、高齢男性一名が頭部負傷、出血やや多し。成年女性一名やや衰弱、成年男性一名。以上〉
矢上は即座に判断、指示する。
「まず、負傷高齢男性を揚収する。ハーネスを巻いてホイスト」
〈了解〉
荒れる波間から、船の腹の上で岩間が処理している姿が見える。この先どうするかの決断をしなければならない。
へたに動くのは危険だ。したがって、この位置のまま揚収の順番を待つ選択肢もある。その一方で、さらに流される危険性もある——。
決心し、じっとこちらを見ている女に大声と身振りで伝える。
「ここでは流される恐れがあります。すぐに沈没するようすがないので、船まで移動します。いいですね」
矢上の問いかけに、女が無言でうなずいた。
「わたしが引いていきます。ライフジャケットをつけているので沈みません。大丈夫ですから、わたしにしがみつかないでください」
忠告し、二人を左右に抱きかかえるようにして、フィンを頼りに船に近づいていく。無線が耳に入る。
〈負傷者ホイスト吊り上げ準備よし〉
〈揚収開始〉
次の瞬間、救助対象者とそれに付き添う岩間、両名の体が、白い船艇からゆっくりと持ち上がった。風に揺られ、ゆるゆると回転しながら二人が吊り上げられていく。
機内で待機していた隊員に引き渡し、すぐさま岩間が再降下してくる。そのころには、矢上も船にたどり着き、二名を船体につかまらせた。
衰弱している男を支援しながら、素早く状況を把握する。
船底に腹ばいになり、キールにしがみつくようにしている小学生ほどの男児が一名。怪我のようすなし、ライフジャケットあり。
同じく船艇に腹ばいになり、男児を支えるようにしている三十代ほどの男性一名、怪我のようすなし、同じくジャケット着用。
もうひとり、岩間が〈やや衰弱〉と説明した二十代から三十代と思われる女性一名。彼女もライフジャケットを着用しているが、よく見れば海保所有のジャケットだった。つまり、岩間が着せてやるまで身につけていなかったことになる。腕に絡んだロープにしがみついているが、ぐったりして、ほとんど溺れかけているといってもいい。「よく持ちこたえましたね」と声をかけたくなる。元気そうな成人男性は手を差し伸べる気配がない。
なにはともあれ、少なくとも全員生存している——。
再び降下した岩間と合流し、次に揚収する順を決めようとした。そのとき、船艇に身を預けて男児と一緒にいる男が叫んだ。風と波の音にかき消されそうになりながらも、聞き取れた。
「おれと、この子を先にしてくれ。二人一緒だ!」
その元気があるなら、どうして女性に救いの手を伸ばさなかったのかと、少しだけ腹立ちを覚えたが、こうした救急の際には、我が身が可愛くなるものだ。責めるつもりはない。
「怪我人を優先します。すぐに吊り上げますから大丈夫です」
岩間が男を説得する。男はそれが不満らしく、何かを大声で叫び返している。
矢上は、この光景を以前にどこかで見た気がした。もちろん、これはもう何度も経験している状況だ。だが、既視感があるのは、情景のせいではない——。
いや、今はそんなことはどうでもいいと頭から振り払う。
「次、この男性」
矢上が最初に遭遇し、船まで連れてきた三十代ほどの男性だ。頭を打ったのに加えて、水を飲んだせいか、依然として朦朧としている。
岩間が了解し、さきほどと同じように、ハーネスを巻き付け抱きかかえるようにして吊り上げられていく。
「きみ、大丈夫だね。もう少しだから、がんばって」
矢上は男児に声をかけた。少年は無言で、しかししっかりと矢上の目を見てうなずいた。疲れているようだが、生死の問題はなさそうだ。
「さっさとしてくれ」
一番元気のいい男が怒鳴る。この少年の父親かもしれない。そう思っていると、矢上がここまで連れてきたもう一人の女が、少年に近寄った。
「お母さん」少年が声をかける。
「大丈夫だから。しっかりつかまって」女が答える。
矢上の頭の中に再び疑問符が浮かぶ。この二人は親子のようだ。とすると、怒鳴っている男とは夫婦ということだろうか。ならば子供を放って夫以外の男性を介助していたのか。
「おいっ」
その父親らしき男が、矢上に近寄り、ウエットスーツの肩のあたりを押した。
「次は絶対にこの子とおれだ」
どんなときでも、感情的になってはならない。礼儀やマナーの問題ではない。感情が支配すれば、判断を過つ。この危急の状況下で判断を誤れば、それは死を意味する——。
「この子はお子さんですか」
「そうだ!」
「お名前は?」
「『こうた』だ。『ときしまこうた』。おれは父親の『ときしまけんいち』だ。『ときしままこと』の関係者だ」
それで理解した。先ほどから、振り払っても消えない既視感の原因を。こんな状況下なのですぐに思い出せなかったが、この男とは初対面ではなかった。以前に一度会っていた。
そして、船川重工の関係者という点も納得がいった。
しかし、そのことも今は関係ない。
「次はあの女性を吊り上げます」
ぐったりしている女性を顔で示す。岩間が着せたライフジャケットのおかげでなんとか浮いているが、早く手当しなければならない。
「一度に二人だって三人だって同時にいけるだろ」
「一度に救助対象一名、付き添いの隊員、計二名です」
「だけどな……」
「あなた」
少年の母親らしき女が割り込んだ。
「——大人げないでしょ。助けに来ていただいたのに。それにコウタだって見てるのに」
「うるさいっ。だまってろ」
やはり夫婦のようだ。
「興奮しないでください。体力を消耗します」
落ち着かせようと、説得を試みる。その口に雨粒と海水が入り込む。
四度目の降下をした岩間に、女性を預ける。吊り上げられてゆくのを見守る。少年は黙って順番を待つ。
「偉いな。もうすぐだから」
ようやく少年の順になり、体にハーネスを巻き付け、岩間と一緒に上がっていった。
なんとかいけそうだ。そう思った矢先、突風が吹いてヘリの機体が揺れた。そのまま横向きに流される。当然、吊り下げられた二名の体が、ロープの先で大きく揺れる。
「きゃあ」
見上げていた少年の母親が叫んだ。
(つづく)