その夜、また夢を見た。
船酔いに苦しみながら見た夢の続きが、海をたゆたう泡のように浮かんでは消えた。
父に高校卒業後に海上保安学校へ進みたいと相談したときの夢だった。
「大変だぞ」と父は言った。「船に乗ったら何週間も帰ってこれない」「お前の誕生日もクリスマスもいないことが多いし。運動会とか授業参観とか……入学式も卒業式も、お父さん、ほとんど行けてないだろ」と、ちょっと申し訳なさそうな顔で話した。
あのときは気づかなかったけれど、父なりに、晴太郎に対する罪悪感のようなものがあったのだと思う。
晴太郎が「知ってる」と答えると、父は「だよな」と返した。それで話は終わったと思い込んでいた。
でも、そのやり取りには続きがあった。船の揺れが、思い出させてくれた。
「知ってるから、海上保安官になりたい」
〈知ってるけど〉じゃなく、〈知ってるから〉だった。息子の誕生日やクリスマスを海の上で過ごしてなお、父さんが続けているその仕事を、俺も目指すよ。それが、敬意以外のなんだというのか。
「そうか。じゃあ、頑張れ」
父は微笑んでいた。
*
目を開けた瞬間、異変に気づいた。
昨日よりずっと視界が広くて、呼吸がしやすい。ベッドを飛び出すと、ぐらりと足元が揺れた。船はまだ海の上だ。波に揺られ、緩やかに左右にうねっている。
吐き気も、目眩も、冷や汗も、ない。
「……神か」
巴の顔を思い浮かべながら、思わず声に出していた。
「鳴海ぃ、大丈夫か? まだ吐き気する?」
三直当直として午前零時まで勤務していた同室の先輩が、二段ベッドの上段から顔を出す。晴太郎は「大丈夫です!」と大きく首を縦に振った。その勢いに、欠伸をしていた先輩が目を瞠る。
「昨日はご迷惑をおかけしました。もう大丈夫です、改めて本日よりよろしくお願いします!」
深々と一礼し、手早く制服に着替えて部屋を飛び出した。二十四時間態勢で哨戒を行う巡視船内は休みなく人が動いている。すれ違う乗組員一人ひとりに「復活しました、今日から頑張ります」と挨拶をしながら、晴太郎はメインデッキである上甲板へ階段を駆け上がった。
時刻は午前七時。船内に『食事、食事』と短くアナウンスが入った。素っ気ない案内なのに、船内の雰囲気が少しだけ沸き立つのが足の裏から伝わってきた。
廊下には味噌汁の匂いがただよっている。調理室から、巴の「さあ、朝ごはんだよー!」という選手宣誓のような大声が響いていた。
迷うことなく、晴太郎は調理室に飛び込んだ。今日の巴は大きな木べらを棍棒のように担いでいた。
「巴主任主計」と呼びかけようとして、彼女自身が「福子さんって呼んで」と言っていたのを思い出した。
「福子さん!」
思っていたより三倍の声量が出た。朝食を受け取りに来た乗組員達が、勢いよくこちらを振り返った。
「おおっ、元気そうじゃん!」
晴太郎に負けない大声で笑って、巴は──福子はこちらの顔をしげしげと覗き込む。顔色がいいのを確認したのか、うんうんと大きく頷いた。
「起きたら元気になりました。『船酔いぶっ飛ぶ青菜と梅の生姜粥』のおかげです!」
「言ったでしょう? 明日には治ってるって」
ほら、朝ごはん食べな! と福子が作業台に並ぶトレイの列を指さす。ピカピカに磨き上げられたステンレスの天板に並んでいるのは、バラちらし丼だった。
昨夜、福子特製の『船酔いぶっ飛ぶ青菜と梅の生姜粥』が入っていたのと同じ丼に、角切りのマグロとサーモン、帆立、玉子焼き、キュウリがぎっしりと敷き詰められている。
「お刺身を美味しく食べるなら、出港から日が浅いうちだからね。昨日の夕飯は刺身定食だったんだけど、生魚が連続で飽きちゃうといけないから、アサリの甘辛煮を酢飯に混ぜてあるの。柔らか~くて旨みがぎゅっと詰まったアサリと酢飯が合うんだなぁ、これが」
昨日と同じ調子で献立の説明をして、福子は「美味しく召し上がれ」と微笑んだ。自分が作った料理が美味いのは間違いないという、自信に満ちあふれた顔だった。
「あ、そうだ、昨日お粥しか食べてない晴太郎君は腹ぺこだろうから、特別にもう一品作っておいてあげたよ」
大型冷蔵庫に駆け寄った福子が、ラップのかかった皿を持ってくる。晴太郎が手にしたバラちらし丼のトレイに、「はい、どーぞ」とラップを外してのせてくれた。
アジフライだった。
「晴太郎君、昨日は福子さん特製のアジフライを食べ損ねたでしょう? 揚げ物は海が穏やかなときじゃないと作れないんだから。もったいなかったから、南蛮漬けにしておいてあげたよ。船酔い対策でお酢を強めに効かせておいたから、たっぷりお食べ」
玉ねぎスライスと一緒に南蛮酢に漬け込まれたアジフライは、コーンフレークで作った粗めの衣がザラメのようにツヤツヤと光っていた。ぐう、と腹が鳴る。丸一日何も食べていないようなものだから、当然のことだった。
「昨夜は、いきなり変なこと聞いて悪かったね」
唐突に、福子がそんなことを言う。
「子供がまだ思春期真っ盛りだからさ、ちょっと気になるのよ。『自分の子供のごはんも作らず船の上で料理人だなんて~』って、義母にチクッと言われたりしてね」
「周りがどう思っていようと、大事なのは息子さん本人の気持ちなんじゃないでしょうか」
自転車に乗る福子と言い合いながら歩いていった、中学生の息子の横顔を思い出す。同じ海上保安官の子供だからって、自分に彼の気持ちが理解できるとは思わない。
でも、航海に出る母親に「大丈夫だってばぁ!」と言い返すあの子の表情は、満更でもなかったというか──母親が好きで自分を放って仕事へ行っているのではないと、理解しているような、そんなふうに見えた。
「息子さんも、わかっているような気がしますよ。俺の勝手な想像ですが」
アジフライの南蛮漬けを見つめながら、晴太郎はそう呟いた。船酔いは絶対に治ると太鼓判を押しつつも、船酔い対策で酸味の利いた南蛮漬けを作っておく。自分の母親がそんなプロ意識のある仕事人であることを、あの子はちゃんと知っている気がする。
「私ね、息子が生まれたときに、陸上勤務に移ろうかと考えたことがあるの」
「え?」
首を傾げた晴太郎に、福子は鼻を鳴らすようにして微笑んだ。
「でね、鳴海君に相談したの。息子君としょっちゅう離れ離れで、大丈夫なのかって」
「父は、なんと答えたんですか」
絞り出すように、晴太郎は問いかけた。保安学校へ進学したいと伝えた日の、申し訳なさそうに小さく唸る父の顔を思い出した。
「鳴海君ね、そのとき初めて、奥さんが亡くなったあとに自分も陸上業務に移ろうか考えたって教えてくれた」
父が。そう呟いたきり、言葉が続かなかった。バラちらしとアジフライの南蛮漬けがのったトレイを、無意識にぎゅっと握り締めていた。
「でも、息子が全然寂しがらないし、むしろ『しっかり仕事してこい』って顔でいつも送り出してくれるから、だから、海上勤務を続けることにしたんだって。私もそれを聞いて、主計の仕事を続けようと思ったの」
あははっ、とハスキーな声で笑って、福子は晴太郎の肩を叩いた。
「君のおかげだね」
食堂の空いている席に着くと、先に食事していた乗組員から「大丈夫か?」と何度も声をかけられた。そのたびに晴太郎は「昨日はご迷惑をおかけしました!」と大声で謝罪した。
「鳴海、大丈夫か?」
指導係の向原が、長谷川を連れてやってくる。二人に特に丁寧に謝罪すると、向原はほっと胸を撫で下ろしたようだった。
「鳴海だけ一品多いな」
「昨日のアジフライを、福子さんが南蛮漬けにしてくださったんです」
「おっ、さすが福ちゃん食堂!」
笑顔でアオサの味噌汁を啜る向原を前に、晴太郎は「福ちゃん食堂」と反芻した。そういえば、船長の秋山も昨日同じように言っていた。巴福子が主任主計士として作る食事は、どうやらそういう呼び名らしい。
両手を合わせ、晴太郎はバラちらしを箸でぐいっと掬い上げた。マグロ、サーモン、帆立、玉子焼き、キュウリ。大きめにカットされた具材の下からは、アサリの甘辛煮が混ぜ込まれた酢飯が出てくる。箸にぐぐっと圧がかかるほどの重量感だった。
ぐう、とまた腹が鳴った。お粥を消化しきって空っぽになった胃が、不満そうに声を上げている。晴太郎は大口を開けてバラちらしを頬張った。
「うわ、美味っ」
全く同じタイミングで、隣の長谷川が「美味い!」と破顔する。出港二日目だからまだまだ刺身は新鮮で、歯ごたえもいい。マグロの脂はさっぱりしていて、サーモンの脂は力強い。帆立は弾力があって、でもとろりとした食感だ。
何より、アサリの入った酢飯が、こってりと甘くて美味い。お酢の酸味と合わさって、口の中でアサリの甘辛煮の甘みが広がる。噛み締めれば、アサリの身からぎゅっと旨みが滲み出てくる。やわらかい玉子焼きと合わさったと思ったら、シャキシャキのキュウリの瑞々しさが舌先で跳ねる。
昨日の船酔いで精根尽き果てていた体に、じわじわとエネルギーが満ちていく。今日もせっせと働けと──ひよっこなりに、日本の海の平和を守る一員として、精々頑張れと、そう言われた気がした。
父も、こんなふうに福子の作った食事を食べていたのだろうか。陸においてきた息子の顔や、迷惑をかけている叔母夫婦のことを思い出しながら、「さあ、働くか」なんて思ったのだろうか。
父とそういう話をしないまま、大人になった。お互いに口数は多い方じゃない。今更父に仕事のことを尋ねるなんて、照れくさくて上手くできる気がしない。父も、上手く話せない気がする。
でも、次、父と顔を合わせたら……同じ三管本部の所属とはいえ、別々の巡視船に所属している以上、しばらく顔を合わせる機会はないだろう。
それでも、話をしたいと思った。
「鳴海、今日は平気なんか」
バラちらしのトレイを手に、船長の秋山がやってきた。晴太郎の顔色を確認し、「元気そうやな」と細い目をさらに細めて笑う。口を酢飯でいっぱいにしたまま、晴太郎は慌てて立ち上がった。高速で顎を上下させ、急いで飲み込む。
「はい、もう大丈夫です!」
「そりゃあよかった。今日からまた頑張ろな」
はいっ、と返事をした晴太郎に、秋山が思い出したように「そうや」と微笑む。
「鳴海、潜水士志望やって、保安学校の教官から聞いたで」
「……はい、そのつもりです」
海保職員の一パーセントしかいない、潜水士。転覆船や沈没船からの要救助者の救出、海上の行方不明者の潜水捜索を行うのが、彼らの役目だ。年に一度の厳しい選考をクリアしないとなることを許されず、しかも三十歳未満の海上保安官にしか門戸が開かれていない。
保安学校の卒業式の日、同期の久寿米木と誓い合った目標でもある。父の背中を追いかけて辿り着いた海上保安官の、その先。晴太郎が自分の手で絵図を描いた、これからの自分の姿だ。
「じゃあ、頑張らんとな」
「肩の力を抜いて、頑張ります」
無意識にそう口走っていて、息を呑んだ。「精進します!」と晴太郎が声を張ると思っていたのか、秋山の細い目がすーっと見開かれた。
──その日の夕飯を楽しみに仕事をこなすくらいでちょうどいいの。
昨夜の福子の言葉が、ふと蘇った。あの人が作ったごはんを食べたからだろうか。彼女の何かが、自分に移ったのかもしれない。
「そうか。確かに、大事やな。せっかく晴太郎なんて名前なんやから、元気に楽しくやったらええ」
そう言って、秋山は食堂の奥へと向かっていった。通信長と航海長がいるテーブルに着き、和やかに食事を始めた。
「ハレ太郎か、いいあだ名だな」
丼に残った米粒を箸でひょいっと摘まみ上げながら、向原が笑う。
「いいあだ名でしょうか?」
「船乗りにとって、天気は晴れに越したことないだろ。晴れていれば事故も少なくて、俺達が出動することも減る」
しみじみとそう言う向原の背後──食堂の丸い小さな窓からわずかに見える空は、快晴だった。波はまだ大きいが、春の日差しが降り注ぐ海は鮮やかな青色をしている。
「確かに、縁起がいいかもですね」
大きく頷いて、晴太郎はアジフライの南蛮漬けにかぶりついた。
甘酸っぱい南蛮酢に漬けられていたのに、アジフライはガリッと軽快な音を立てた。衣の食感を保つためにコーンフレークを使っているのだと、福子が言っていたっけ。
ザラメのように輝く衣は甘く、アジは一晩たってもふっくらとしている。一緒に漬けられた玉ねぎのスライスも、しゃきしゃきと小気味よい音を立てた。
無言のまま大口を開け、アジフライを頬張る。尻尾まで一気に、三口で食べきった。昨日あれほど淀んでいた胸のあたりを、南蛮酢の酸味と甘味が駆け抜けていく。
らっきょうのタルタルも、食べてみたかったな。なんて思いながら、晴太郎は「ごちそうさまでした」と両手を合わせた。