「鳴海……大丈夫か……?」

 甲板の手すりから身を乗り出して嘔吐えずく晴太郎に、教育係を務める主任航海士・むかいはらが頬を引き攣らせていた。うえっ、うえっ、と喉を痙攣けいれんさせるが、晴太郎は何も吐き出せずにいた。

 向原は、晴太郎より五歳年上の二十四歳だった。航海士としてのキャリアは三年目だと言っていた。その目が、困惑気味に晴太郎を見ている。

「だ、大丈夫です……次、お願いします」

 口元を拭って、なんとか声を絞り出す。口の中がカラカラに乾いている。長袖の制服の袖口に、白っぽい染みができていた。十分ほど前、向原に館内を案内してもらっている最中、海に向かって嘔吐したときの汚れだ。

 正装である濃紺のジャケットではなく、襟付きの長袖シャツに「Japan Coast Guard」と刺繍が入った布製の帽子。つばくろに乗り込んですぐ、この全身紺色の略装に着替えたとき、改めて気が引き締まった。なのに、乗船から三時間とたたず汚してしまった。

「いや、大丈夫じゃなさそうに見えるんだが」

 向原の言葉に、同期のがわがうんうんと頷きながら、晴太郎の背中をさすった。

 勤務初日は、一緒に配属された同期と共に指導係に船内を案内してもらい、先輩達の業務を見学する予定になっていた。災害対応型の巡視船であるつばくろには、手術も可能な医務室や、医療スタッフ・救急隊員百二十名分の居住スペースもある。案内する向原の説明を一言も漏らすことなくメモ帳に書き留めていると、午前十時ちょうどにつばくろは出港した。およそ二週間にわたる、領海警備や海難救助、海上犯罪の取り締まりのための航海が始まった。

 ああ、いよいよ始まった。幼い頃、これを「海のパトロール」だと父に教えられたっけな。そんなことを思い出した直後、唐突に、体感したことのない目眩に襲われた。

 船内の廊下や階段は、人と人がすれ違うのもやっとなほど狭い。階段という階段は急で、空気がこもっていて、迷路のように入り組んでいる。歩いているうちに、目眩は吐き気に変わっていった。

 向原が「次は船首楼甲板を案内するから」と屋外へ続くドアを開けた直後、晴太郎は手すりから身を乗り出して吐いた。今朝食べた山盛りのごはんと野菜の味噌汁、ベーコンエッグが、見事に魚のエサとなった。

 その後、ヘリコプターが発着できる船尾のヘリパッドを案内してもらっている最中、こうしてまた気持ち悪くなってしまった。

「なあ鳴海、お前……どう見ても船酔いしてるよな?」

 恐る恐る言ってきた向原に、咄嗟に「違います!」と返した。

「保安学校の乗船実習でも、船酔いなんてしたことありません」

 海上保安学校では練習船を使用した実習がある。舞鶴海上保安部所属の巡視船に乗り込み、コースごとに実習を行うのだ。晴太郎だって航海コースの一員として一週間前後の実習を経験した。港の出入りの作業、見張りにレーダー監視、巡視船に搭載された小型ボートの揚降訓練と、一通りの船内業務はこなせた。もちろん、船酔いなんて生まれてこの方一度もない。酔って嘔吐する同期を介抱してやったほどだ。

「いや、船酔いだよ」

 向原の声のトーンが明らかに下がった。「こりゃあ使い物にならんな」という、冷たい響きだった。

 ――こいつ、本当に保安学校で成績トップだったのか?

 そんな本音が、漏れ聞こえた気がした。

「ぼちぼち昼飯だけど、その調子じゃ食えないだろ?」

「いえ、大丈夫です。行けます」

 いや……と言いかけた向原に、食い気味に「大丈夫です」と繰り返す。小さく溜め息をついて、彼は「じゃあ、調理室の案内がてら、飯に行くか」とこぼした。

 船内に戻ったところで、長谷川が「大丈夫か?」と晴太郎を振り返った。大丈夫だって、と返そうとして、胃が痙攣した。向原、長谷川に続いて階段を下りると、下を向いたせいか余計に気持ち悪くなる。

 大丈夫、大丈夫と言ったが、これは間違いなく船酔いだった。

 メインデッキにあたる上甲板に下りると、酔いは酷くなっていた。眉間の奥で何かがどろりとうごめき、首筋を冷や汗が伝う。

 しかも、調理室からは当然ながら食べ物の匂いがただよってくる。これは、揚げ物だ。油でカラッと揚がった衣の香りが、狭い通路に充満している。それに余計に気分が悪くなる。

『――食事、食事』

 船内に短いアナウンスが入った。たった一言、他の余計な案内は何もない。それをきっかけにあちこちからぞろぞろと足音が聞こえてくる。数時間前、晴太郎が元気に挨拶した先輩乗組員が、「飯だ飯だ~」という顔で調理室からトレイを手に出てきて、隣の食堂に入っていく。

「えーと、ここが、俺達の飯を作ってくれてる調理室で、ここで百人近いつばくろの乗組員の食事を作ってるんだけど……」

「調理室」という札の出た大部屋を指さしながら、向原が説明する。ちらちらと晴太郎の顔色を確認しながら。

 タイル貼りの広い空間に、ステンレス製の作業台や流し台、大型の調理器具や冷蔵庫がぎっしり詰まっていた。紺色の制服を着た乗組員が五人、慌ただしく走り回っている。

 おおかたの調理は終わったらしく、ごはんと汁物とおかずで盛り盛りになったトレイが、作業台を埋めている。乗組員が次から次へとやってきては、「いただきます!」と調理担当の主計士達に挨拶し、トレイに手を伸ばす。

 主計士とは、巡視船内の庶務や物品の管理、食事の調理を担う職員だ。海上保安学校にも主計コースがあり、乗船実習では彼らが晴太郎達の食事を世話してくれた。

「おっ、今日の昼飯はアジフライか」

 向原が頬を緩める。目の前を通過した職員の手にしたトレイには、大振りなアジフライが二枚のっていた。

「ただのアジフライじゃないよ!」

 唐突に、調理室の奥で鍋を覗いていた人物が振り返る。ハスキーな声で「あははっ!」と笑ったのは、中年の女性職員だった。歳は多分、五十歳前後。恰幅がよくて、まるでプロレスラーみたいな体型をしている。

「え、嘘……」

 口元を掌で覆って嘔吐きながら、晴太郎は呟いた。口内が乾燥しているせいか、声は擦れてしまった。

 今朝、桜木町駅の前で息子の首根っこを掴んでいた、あの自転車のおばさんだった。しかも、さっきは気づかなかったが、背が高い。晴太郎と目線が変わらないから、百八十センチ近くある。自販機みたいなたたずまいで海保の濃紺の制服をまとい、銀色のお玉を棍棒みたいに肩に担いでいた。お玉の先に青菜の切れ端がこびりついている。今日の味噌汁の具は、ほうれん草らしい。

「アジフライってさ、薄いから衣がすぐにふにゃふにゃになっちゃうでしょ? だから、今日のアジフライは衣をコーンフレークで作ってるんだよ。アジにはコンソメをまぶしてね、薄力粉をつけて卵にくぐらせて、粗めに砕いたコーンフレークをまぶすの。時間がたってもサクサク、いや、ザクザク」

 聞いてもいないのにアジフライの説明を捲し立てながら、彼女の目が向原から晴太郎と長谷川に移る。長谷川がすぐさま「本日より任官しました、長谷川です!」と自己紹介する。出遅れたと思いながら晴太郎もゆっくり一礼した。

「同じく、鳴海晴太郎です……」

 下を向いたら、喉元が「ううっ」と唸り声を上げた。でも、それを「ええっ!」というハスキーな声が吹っ飛ばす。

「鳴海ってことは、鳴海君の息子ってことよね? 鳴海! 鳴海げんろう! うわっ、眉毛がそっくり! 遺伝子のパワーってすごいね!」

 ああ、はい、玄太郎は父です。そう絞り出そうとしたのに、自転車おばさんは勝手にどんどん話し続ける。

「やぁーねー、鳴海君の息子ってこんな大きくなっちゃったの? 生まれたの十年前くらいじゃなかった? ホント、子供って一瞬で大きくなるから困ったもんよね。そりゃあうちの子も一昨年ランドセル買ったと思ったらもう中学生になるわけだわ。ランドセルの色を青にするかグリーンにするかで大騒ぎになってねぇ」

 高速で回り続ける縄跳びに飛び込むように、向原が「こちらはともえふく主任主計士だ」と自転車おばさんを紹介する。

「福子さんの作るメシは、三管本部所属の巡視船の中でもナンバーワン……いや、海保が保有するどの巡視船にも負けない美味さだ。お前ら、配属がつばくろだったことがどれほどラッキーか、すぐに理解できるぞ」

 にやりと笑った向原を、巴福子が叩く。「やーだー、褒めすぎ! 向原君にはとびきり大きいアジフライあげちゃおう!」という甲高い声と共に、向原の頭が衝撃で前後に揺れた。

「どうも、巴福子です。よければ福子さんって呼んで。私のいる巡視船に乗った以上、ひもじい思いは絶対にさせないからね。ほらほら、あんた達も早くあっちの食堂でアジフライ食べなさい。出港初日だから、野菜も新鮮でシャキシャキのピカピカだしね。タルタルソースもたっぷりあるから、好きなだけつけて食べて」

 巴福子は向原もろとも晴太郎達を食堂の方へと押しやった。ゴロゴロと転がされるように空いている席に座らされたと思ったら、巴が「はい、はい、はい! 新人の勤務初日だからサービス!」と三人前の昼食を運んでくる。

「おおー……」

 晴太郎の横で、長谷川が声を上げた。丸皿には粗い衣をまとったアジフライがある。コーンフレークのものなのか、甘く柔らかな香りがただよっていた。添えられた千切りキャベツも、巴の言う通り新鮮そうだ。瑞々しいという言葉を絵に起こしたら、きっとこんな見た目になる。

 一度港を出たら数週間は陸に帰れないのが巡視船だ。生野菜を美味しく食べようとしたら、出港から数日間がチャンスだと――昔、父が話していた。

「さあ、食べて食べて。午前中せっせと働いたら腹ぺこでしょう。若者なんて二十四時間ずっと腹減ってるんだから」

 自分は違いますから、という顔でいた向原の肩を、巴が「あんたもまだまだ若者だから」と叩く。苦笑いしつつも、向原は笑顔で「いただきます」と両手を合わせた。先ほどの巴の言葉通り、向原のアジフライは晴太郎達のものより一回り大きかった。

 トレイを手にした別の乗組員が「福子さん、新人がびっくりしちゃってるよ」と笑いながら通り過ぎていく。どうやら、この巴福子という主計士はいつもこんな調子らしい。

 ザクッ、と隣から軽快な音がした。長谷川がアジフライにかぶりついている。顎を二度上下させたと思ったら、「え、うまっ」と目を見開いた。

 巴はそれを聞き逃さない。

「でーしょー? 美味しいでしょー?」

 大声で笑ったと思ったら、バンと長谷川の背中を叩く。力強さが音に表れている。それでも長谷川は「美味いです!」と大きく頷いた。

「自分、今朝、緊張して朝飯食べられなくて、今日最初の飯なんです」

「あら、最初の飯が福子さんのアジフライだなんて、あんた、運がいいね」

「衣がほんのり甘くてザクザクで、でもアジはふわふわですね」

「やーねー、食レポ上手! タルタルソースおまけしてあげちゃおう」

 大きなタッパーを持って来たと思ったら、巴は千切りキャベツの上に大きなスプーンでタルタルソースを盛った。

「福ちゃん食堂のタルタルはな、ピクルスじゃなくてらっきょうで作ってるんだよ」

 アジフライに齧りつきながら、向原が説明する。先ほどまでは先輩らしい……後輩を指導する凛々しい表情をしていたのに、今は自分達と年が近いとよくわかる朗らかな顔をしていた。

「らっきょうで作るとね、酸味と甘みのバランスがちょうどよくなるのよ」

 ご機嫌な様子で胸を張った巴は、「晴太郎君にも特別に大盛りにしてあげようか!」とこちらを見た。どうやら、父と区別するために「晴太郎君」と呼ぶことにしたらしい。

 テーブルに着いたきり、アジフライはおろか、ほうれん草とカブの味噌汁にも手をつけず、背筋をぴんと伸ばしたまま遠い目をしている晴太郎に、巴が怪訝な顔をする。

「えー……どうしたの? 全然食べてないじゃない」

「福子さん、鳴海はその……船酔い中らしくて」

「ええっ、船酔いぃ?」

 巴が大声を出すものだから、周囲にいた他の職員が一斉にこちらを見た。全員が面白いほど綺麗にアジフライを口に咥えていた。

 ざくっ、ざくっ……コーンフレークで作った衣が砕ける音と共に、「え、船酔い?」と困惑の声が飛んでくる。

 うわっ、使えない新人が来ちゃったぞ――彼らのそんな心の声が聞こえた気がして、晴太郎は思わずその場に顔を伏せた。勘違いした向原と長谷川が「え、吐く? また吐く?」と自分のトレイを持って立ち上がる。

「なんや鳴海、船酔いしとんのか」

 そんな声が、食堂の入り口から飛んできた。なんとか顔を上げると、アジフライののったトレイを手に、船長の秋山が目を丸くしてたたずんでいた。あんなに細かった目が、真ん丸だ。

「いえ……」

 また胃が痙攣した。空っぽの胃から、何かが迫り上がってくる。急いで両手で口を塞いだ。

「これは、船酔いやな……。そんなんで保安学校の乗船実習をよう乗り切れたこと」

 違うんです。実習では船酔いなんて一度もしたことないんです。変なんです。初めてなんです。そう言いたいのに、言葉にならない。

 ――こいつ、本当に保安学校で成績トップだったのか?

 また、そんな声も聞こえる。食堂に集まった大勢の職員の視線が、チクチクと刺さる。「あいつの父親も海上保安官なんだろ?」「あおさぎの船長だよ」「え、なのに息子は船酔い?」「保安学校の卒業生総代だったらしいのに」……誰もそんなこと言ってないのに、聞こえる。

「鳴海、午後は自分の部屋で休んどれ」

 秋山はそう言って、空いている席に向かった。穏やかな横顔が一瞬だけ険しい顔をしたのに、すぐさま「さあ、今日の福ちゃん食堂はアジフライですか」なんて呟く。

「よーく噛んで味わってちょうだいね、秋山船長」

 船長にまでフランクにそう笑いかけた巴を横目に、なんとか箸でアジフライを摘まみ上げた。食べられなくても食べないと、午後から使い物にならない。

「ちょっと、気持ち悪いのに食べたってどうせ戻すでしょ!」

 丸皿ごと、巴にアジフライを取り上げられてしまった。

「いえ、大丈夫です、食べます。自分、風邪とか食って治すタイプなんで」

「いーや、絶対に戻すよ。晴太郎君、今の自分の顔色わかってる? 真っ白だよ、真っ白」

「戻してでも食べます」

 まさか、秋山に言われた通り午後から乗員室で寝ていろと? 勤務初日に? そんなことできるわけがないと食ってかかろうとしたら、巴に脳天を優しく叩かれた。優しい手つきではあったが、分厚い掌から飛んでくる衝撃はそれなりにあった。

「人様が作ったメシを戻す前提で食べるな!」

 

 

 晴太郎が物心つく頃には、母親というものはいなかった。

 実家にある仏壇に飾られた母の写真は幼い頃から毎日見てきたが、生前の母の記憶は微塵もない。声すら覚えていない。叔母が保存していた昔の動画に辛うじて残っていた「動く母」は、何度見ても現実味がなかった。

 ただ、晴太郎と名づけたのは母であると、父は誕生日のたびに話した。晴太郎がどれだけ聞き飽きていようと、懲りずに何度も話した。

 その父は、晴太郎の誕生日に陸にいないことも多かった。というか、不在の方が大部分を占めていた。

 晴太郎は幼少期から高校卒業までのほとんどを叔母の家で過ごしていた。父がひとたび海に出れば、数週間、下手すれば一ヶ月以上帰ってこない。出航前、父は晴太郎を電車で二駅のところにある叔母の家へ連れていくのだ。

 叔母には息子が二人いて、年齢的には晴太郎は末っ子のポジションだった。特別可愛がられたわけでもないが、冷遇されたりいじめられたりしたこともない。従兄は晴太郎を「ほとんど弟みたいなもんだな」と言ってくれたし、叔母夫婦も「子供が三人いるようなもんね」とよく言っていた。

 でも、晴太郎は叔母の家を自分の家とは思わなかったし、自分が「人様の家に預けられている」という意識を常に持っていた。叔母夫婦が小遣いをくれたら「ありがとうございます」としっかり頭を下げたし、学校の授業や行事で必要なものがあれば「お願いします」と敬語で頼んだ。

 それは、出航前の父が必ず「迷惑にならないように、感謝の心を忘れずに」と晴太郎の肩を叩いてから、叔母の家の玄関をノックしたからだ。

「じゃあ、お父さんは海のパトロールにいってくるからな」

 晴太郎の頭を一度だけポンと撫でて、父は海の彼方へ旅立っていくのだ。

 残された晴太郎の肩を叩いて、叔母は決まって「寂しいね」と言った。叔父もよく「寂しいけど頑張ろうな」なんて言った。小学校の担任は、一年生から六年生まで見事に全員が「晴太郎君はお父さんがいなくて寂しくないの?」と案じていた。

 寂しいとは思わなかった。叔母夫婦には「別に寂しくないよ」と言ったし、担任の先生には「僕のお父さんは海のパトロールをしてるんです」と胸を張って説明した。

 あれは、小学三年生の夏休みだ。叔母夫婦と従兄達と一緒に、父が乗る巡視船の体験航海へ参加した。

 三管本部の防災基地を出発した巡視船あおさぎは、快晴の中を横浜ベイブリッジへ向かった。叔父に手を引かれて船の総司令室である操舵室に足を踏み入れると、略装姿の父がいた。晴太郎には目もくれず、隣にいる乗組員と共に沖を凝視していた。

 案内係の職員が「東京湾は世界屈指の船の過密地帯で……」と説明をする中、見学者達は操舵室内のレーダー計器やモニターに夢中だった。窓際にずらりと並ぶ双眼鏡を、晴太郎と同い年くらいの男の子が指さしていた。

 晴太郎は、父の背中を凝視していた。叔母が「お父さんと、こっそり写真撮らせてもらおうか」と耳打ちした。こちらに気づいた別の職員が「いいですよ、声かけてきましょうか」と笑った。

 よく覚えている。

 晴太郎は「いい」と首を横に振った。叔母は晴太郎が恥ずかしがっていると思ったようだが、そうじゃない。あそこは父の仕事場だから、邪魔をするのは、違う。父の隣で笑顔でピースをするのも、違う。

 結局、その日撮った記念写真は、仕事中の父を背景に仏頂面で棒立ちする晴太郎という、不思議な仕上がりになった。

 それでも、息子に手を振ることもなく海上保安官としての仕事に徹していた父の姿を、晴太郎はよく覚えている。

 その日のことを、夏休みの思い出として作文に書き、父のいない授業参観で朗読した。「海の安全を守るのが僕のお父さんの仕事です」と、胸を張って読み上げた。警察と、海上自衛隊と、海上保安庁。三つの区別がついていなそうなクラスメイトや、その保護者や、担任の先生に向かって、陸地よりずっと広い日本の海を守ることがどれほど大変か、説明してやった。

 寂しいという感情が自分には欠如しているんじゃないか。そう思ったこともあった。

 でも、やっぱり、寂しくはなかったのだ。叔母の家の玄関先で晴太郎の頭をポンと叩き、「じゃ、行ってくるな」と踵を返す父の背中は、どことなく輝いて見えたのだ。

 太陽のように燦々さんさんと光っているのではない。内に秘めた何かが滲み出るみたいに、静かに、淡々と、白波が砕けるみたいに、じんわり光っているのだ。

「大変だぞ」

 高校一年の終わり、進路調査票に「海上保安学校」と書いた晴太郎に、父はそう言った。晴太郎そっくりの太い眉毛で、こちらを見すえた。

 晴太郎は「知ってる」と短く返した。自宅のリビングで向かい合っていた。側の仏壇には母の写真があった。隣の棚には晴太郎の写真が飾ってあった。体験航海の日、働く父を背景に撮った、仏頂面の晴太郎の写真が。

「お父さんを見てたら、よくわかるだろ。船に乗ったら何週間も帰ってこれない」

「知ってる」

「お前の誕生日もクリスマスもいないことが多いし。運動会とか授業参観とか……入学式も卒業式も、お父さん、ほとんど行けてないだろ」

「知ってる」

「だよな」

 ふふっと笑った父は、それ以上何も言わなかった。晴太郎の将来の夢が子供の頃からずっと海上保安官だと知っていたから、「今更何か言うのも野暮だな」と思ったのかもしれない。

 晴太郎も父も、あまりべらべらと自分の話をしない性格だった。眉毛だけでなく、そういうところもそっくりだった。母親が生きていたら、似た者同士の父子の橋渡しをしたりしたんだろうか。

 親子仲は悪くなかった。男同士、ほどほどの距離感があった。反抗期とされる年頃に父に反発することもなかった。だからこそ、晴太郎は海上保安官を目指したのかもしれない。

 そうやって、晴太郎は海上保安学校へ進み、一年間の教育課程を終えて、海上保安官になった。

 でも、任官早々に……もうおしまいかもしれない。

 

(つづく)