「卒業生、答辞」

 司会者の声に続いて、「卒業生、起立!」と鋭い号令が飛ぶ。濃紺の制服に身を包み、真っ白な手袋をして制帽を抱えた三百人以上の卒業生が立ち上がる音は、気持ちいいほどピタリと重なった。潮が引くように、体育館は静まりかえる。

 卒業生総代として名を呼ばれ、なるせいろうは大きく返事をして一歩前に出た。張り詰めた空気の体育館には、自分の足音しかしない。こんなに大勢の人間がいるのに、誰もが息を殺して壇上を見つめている。

 来賓と教職員に一礼すると、入学以来しごきにしごかれた教官と目が合った。「行ってこい」と小さく頷いたように見えた。

 いつだって背筋を伸ばし、胸を張り、凛と前を見つめて歩け。そんなふうに教わったことを思い出しながら赤絨毯を進み、卒業生達の前に立つ。ステージ上に掲げられた二つの旗を見上げた。

 一つは日の丸。もう一つは、海の色を表す青と、羅針盤をあしらった旗。

「敬礼!」

 晴太郎の一声に、三百人以上の卒業生が一礼する。一つ一つの動作の音が、鳥の羽ばたきみたいに体育館に響く。「直れ!」の声と共に再び日の丸と羅針盤を見上げた晴太郎は、そこで初めて「ああ、卒業するんだ」と思った。

 実感がなかったわけじゃない。寝食も苦楽も共にした仲間とも今日で別れ、新しい場所へ旅立つのだなと、今更のように感慨深くなったのだ。

 直立不動で壇上にたたずむ学校長を見上げ、晴太郎は小脇に抱えていた革製のホルダーを開いて答辞を読み上げた。

「本日、私達卒業生のために、このように晴れやかな卒業式を挙行していただき、心より感謝申し上げます」

 学校長や来賓に感謝を述べ、この一年のうちに国内で発生した大きな災害の名前を挙げ、被災地に哀悼の意を表し、早期復興を祈る。学校生活を振り返り、仲間や恩師との思い出を語り、家族の存在と、厳しくも愛情を持って指導してくれた教職員に感謝する。

「いつ何時も、自分を律し、誠心誠意取り組むことで、努力はいつかなんらかの形で報われる。努力する者は必ず出会いに恵まれ、共に歩む仲間を得ることができる。そのことを私は、ここ、海上保安学校で学びました」

 まだ答辞は終わっていないが、晴太郎は原稿を挟んだホルダーを音もなく閉じた。周囲が少しだけざわめいた。壇上の学校長の目がぎろりと光ったが、晴太郎は構わず青色の旗――海上保安庁旗のコンパスマークを睨みつけた。

 特異なパフォーマンスをしたかったわけじゃない。ただ、最後の言葉は、原稿ではなく旗を見つめて言いたかっただけだ。

「本日より、海上保安官としての人生が始まります。その名に恥じぬよう、正義仁愛のもと、とうくつの精神で職務を全うすることを誓います」

 ステージへ続く階段を上り、学校長に答辞を手渡す。入学式のときと同様にいかめしい顔をした学校長は、小さく「ふむ」と鼻を鳴らして答辞を受け取った。

「敬礼!」

 ステージを下り、卒業生全員で日の丸と海保旗に一礼する。晴太郎の保安学校での最後の大仕事が終わった。それでも、校歌斉唱中も、校旗が退場している最中も、閉会後に卒業生総代としてマスコミの取材に応えているときも、ずっと鳩尾みぞおちのあたりが強ばったままだった。指先が震えてしまいそうで、晴太郎はぎゅっと拳を握り込んだ。

 緊張でも、気負いでもない。きっと武者震いだ。

「――最後に何やるかと思ったよ」

 卒業式を終えて体育館を出たところで、寮で同室の久寿米木くずめきりくに肩を叩かれた。入学当初からどことなくふにゃっとした締まりのない表情の男だと思っていたが、卒業式を迎えてもそれは変わっていなかった。

「最後の言葉は、旗を見て言いたかっただけだ」

「だろうなと思ったよ。入学式の日からずーっと生真面目な晴太郎君のことですからねぇ」

 白い制帽を被り直した久寿米木は、「行こうぜ」と同じ班だった同期の集まる一帯を顎でしゃくった。

 海上保安学校は全寮制で、同じ部屋で寝起きする班が五つほど集まって分隊を作り、共同生活を送る。久寿米木は晴太郎と同じ船舶運航システム課程の航海コースだったから、朝六時半の起床に始まり、寮の前の広場での体操から授業、実習にいたるまで、ありとあらゆる時間を一緒に過ごした。

 でも、それも今日で終わりだ。晴太郎達は海上保安学校を卒業し、海上保安官として全国各地の保安部に任官する。海上保安庁の職員数はおよそ一万四千人。規模的には愛知県警と同じくらいだ。日本の国土よりずっと広い領海を、それだけの人員で守っている。

 北は北海道、南は沖縄、ほとんどの学生が巡視船に配属され、新人保安官として海上犯罪の取り締まりや人命救助、領海警備などにあたることになる。共同生活を送った同じ班のメンバーと顔を合わせることは、もう二度とないかもしれない。

「俺さぁ、晴太郎は潰れると思ってたんだよね」

 同じ班のメンバーと記念写真を撮っている最中、久寿米木がそんなことを囁いてきた。職員が構えるカメラのレンズから視線を外すことなく、晴太郎は「失敬な」と返した。

「使命感でバチバチっていうの? 海上保安官になるためにはどんな努力も惜しみません、ってずーっと隊列行進しながら生活してるような真面目君だったから、どこかで限界が来るだろうなって思ってたんだよ。入学式のあと、一緒の班に振り分けられたときから」

 確かに、寮から授業を受ける教舎へ移動するときですら、隊列を組んで行進するのが保安学校だ。背筋を伸ばし、胸を張り、凛と前を見つめて歩くのだ。ここでの生活は常にそういう自分であろうと心がけてきたのも事実だった。

「まさか、バチバチのお前のまま、成績ナンバーワンとして卒業生総代にまでなると思わなかったよ」

「それは、つまり褒めてるのか?」

「褒めてる、褒めてる」

 ふふっと笑った久寿米木の制帽が、海風に揺れた。京都府舞鶴市の端、舞鶴湾に突き出すように三方を海に囲まれた場所に建つ海上保安学校は、いつだって海風が吹き、潮の香りに満ち満ちている。

 制帽のツバを押さえながら、晴太郎は岸壁に停泊する練習船を見つめた。今日の海は穏やかだ。四月を目前に、温かな春の日差しの中、海面がかすかに揺らいでいる。

「とりあえず、これからもよろしくな。同じ第三管区の配属だし、卒業後も顔を合わせることがあるだろうよ」

 記念撮影が終わると、久寿米木に握手を求められた。「おう」とそれに応えて、晴太郎は大きく頷く。自分達が今日付で任官するのは、第三管区海上保安本部――主に関東地方・東京都島嶼とうしよ部・東海地方の太平洋、そして茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、東京、神奈川、山梨、静岡を管轄範囲とする管区だ。

「久寿米木の名前は珍しいから、何かあったらすぐ目につくな」

「違いない。海保には俺以外に久寿米木なんて名前の奴はいないって、教官が言ってたし」

 ヘラヘラと笑った久寿米木だったが、思い出したように少しだけ頬を引き締めた。

「とりあえず、潜水士を目指して、お互い頑張りましょうということで」

 晴太郎と久寿米木が親しくなったのは、同室であること以上に、海上保安官になってからの目標が同じであったからだった。海上保安庁を題材にした映画やドラマで必ずスポットライトが当たる潜水士は、海保職員全体の一パーセントしかなれない狭き門だった。

 保安学校で潜水士の役割を詳しく知れば知るほど、晴太郎も久寿米木も、潜水士を志望するようになった。

「そうだな、お互い、頑張ろう」

 自分自身の胸を叩くように、晴太郎は言った。海から強めの風が吹いた。制帽を被り直し、大きく深呼吸をした。

 

 

 桜木町駅を出ると、ほのかに潮の香りがした。舞鶴の海の匂いとは違う。まったりと甘い海風ではなく、高層ビルの間を吹き抜けて鋭さを増した風が吹いていた。

 第三管区海上保安本部、通称・三管本部は桜木町駅から徒歩十分ほどのところにある。ランドマークタワー、インターコンチネンタル、コスモワールド、赤レンガ倉庫を望む、横浜のど真ん中に本部を構えているのだ。

 時間を確認し、晴太郎は歩き出した。直後、後ろから自転車のベルの音が飛んできた。

「シュン、止まりなさーい!」

 ラッパの音みたいな、よく響く強い女性の声だった。

 歩道にいた通行人が、一斉に振り返る。会社員風の男性、大学生らしき若い女性や高齢男性に交ざって、ぶかぶかのブレザーを着た中学生くらいの少年が足を止める。

 晴太郎の真横を自転車が通過した。登山にでも行くような大きなリュックを背負った恰幅のいい……プロレスラーみたいな体躯の中年女性が、少年の前でキキーッとブレーキをかけて止まる。タイヤから白い煙が舞った気がした。

「弁当忘れてるよっ!」

 短く切り揃えた黒髪を逆立てるようにして、女性が叫ぶ。ハスキーな声だった。少年の首根っこを引っ掴み、自転車の前カゴに入っていた巾着包みを彼が背負っていたリュックに突っ込む。

「まったく、『終業式のあとは午後から部活だから~』って自分で言ってたくせに、なんで弁当忘れてくかねぇ。お母さんびっくりしちゃった」

 無駄に大きな声で話す女性に、少年は「うるさいなあ」としかめっ面を作る。足早に歩き去ろうとする彼を、自転車をゆるゆると漕ぎながら女性は並走した。

「あんたねえ、もう二年生になるんだから、自分のことはちゃんと自分でやんなさい。家を出る前にまず持ち物チェック、大きいものほどうっかり忘れるんだから気をつけないと」

「わかってるってば!」

「わかってないから、お母さんが怒ってんでしょーが!」

 少年が歩く速度を上げると、母親もペダルを漕ぐスピードを上げる。お説教も続く。最後には少年は駆け足になり、母親も自転車を左右に揺らしながら追いかけていった。「あんたねぇ!」「大丈夫だってばぁ!」なんて、二人で言い合いながら。

「朝から、賑やかなもんだ」

 離れていく親子の背中に、晴太郎は思わず声が漏れた。晴太郎には母親がいない……正確には、物心つく前に病気で他界しているから、母親にああいうふうにお説教されたり世話を焼かれたりしたことがない。

「大きいものほどうっかり忘れる」という女性のよく響く声が妙に耳に残って、無意識に手にしていたボストンバッグを見た。ファスナーを開けて、略装の制服がちゃんと入っているか、念のため確認してしまった。

 海に向かってしばらく歩き、何本か橋を渡ると、徐々に視界が開け、低い建物と青空ばかりになる。広々とした歩道で街路樹が揺れ、海の匂いが強くなる。海辺に立つ素っ気ない白い建物に、「第三管区海上保安本部 横浜海上防災基地」という表示が出ている。

 海に突き出るようにしてたたずむ基地の先には埠頭がある。晴太郎が配属された三管所属の巡視船「つばくろ」が、春の穏やかな海に停泊していた。

 保安学校を卒業した海上保安官は、まずは配属先の巡視船で一~三ヶ月ほど船内居住する。荷物は寮から直接つばくろに送ってあるから、今日から最低でも一ヶ月、あそこが晴太郎の家になる。

 だだっ広い埠頭を進み、徐々に大きくなる巡視船に晴太郎は奥歯を噛み締めた。全長百十メートル、阪神・淡路大震災をきっかけに作られた災害対応型の巡視船。海面に優雅に浮かびつつも、その姿は重量感と威圧感を放っている。足を踏み入れる覚悟はあるのか、と問いかけられている気がした。出勤用に着てきたスーツの襟元を、思わず正したくなる。

「つばくろ」という船名を、海風を頬に受けながら晴太郎はじっと見上げた。海上保安官を志した日から、保安学校入学、一年間の寮生活、今日にいたるまでの日々を一つ一つ思い出して、大事に胸にしまった。

 どれくらいそうしていただろうか。近づいてくる足音に、晴太郎は顔を上げた。相手の顔を確認して、すぐさま「おはようございます!」と深々とお辞儀をする。

「おう、早いな」

 白髪交じりの髪と細く穏やかな目が印象的な男性――つばくろの船長・秋山あきやまが、略装の制服を着込んでそこにいた。自分が配属される巡視船の船長の顔と名前はしっかり覚えてから来た。間違いない。

「本日よりつばくろに配属されました。海上保安学校船舶運航システム課程航海コース六十期生、鳴海晴太郎です」

 卒業式の答辞と同じ角度で一礼し、晴太郎は「よろしくお願いします!」と声を張った。

「そうか、君が鳴海のせがれか」

 頬をふっと緩め、秋山は細い目をさらに細める。

「はい、船長は父と同期だと伺っております」

「そうだな。保安学校で同じ分隊やった。よーく見たら、目と眉毛が鳴海そっくりや」

 自分の目元を指さして、秋山は軟らかな関西弁で笑った。

 晴太郎の父は、同じく三管本部所属の巡視船「あおさぎ」の船長をしている。太く立派な眉毛をしていて、その眉毛を晴太郎はそっくりそのまま受け継いだ。

「船内居住前に、実家でゆっくりしてきたんか」

「父は乗船任務中でしたので、川崎の叔母の家に顔を出しました。叔母もとても喜んでおり、三管本部の皆様のお気遣いに感謝しています」

 保安学校を卒業したら、実家に帰る間もなく配属先の巡視船に乗り込むのが常だ。ところが秋山は、新人に二日ほど実家に顔を出す時間を与えてくれた。

 今朝、晴太郎を山盛りの朝食を作って送り出してくれた叔母が「体に気をつけて頑張ってね」と叩いた右肩が、じんわりと熱を持つ。

「噂では、保安学校での成績はトップだったと聞いとる。頼もしいなあ」

「いえ、自分なぞただのひよっこです。いえ、ひよこにもなり切れているとは思いません。ご指導ご鞭撻のほど、何卒よろしくお願いいたします」

 謙遜ではなく、本心だった。保安学校で一年間みっちり学び、実習もこなしたとはいえ……秋山の言う通り成績がトップだったとはいえ、巡視船に乗り込めば下っ端だ。きっと、早々に打ちのめされることだろう。

「父のような海上保安官になれるよう、一日も早く一人前になるべく、精進いたします」

「おおう、随分と威勢がいいこと」

 微笑んだままの秋山に、出勤してきた職員達が挨拶をしながら巡視船に乗り込んでいく。晴太郎は一人残らず挨拶をし、「本日よりお世話になります、鳴海晴太郎です」と早口で自己紹介した。気圧けおされたり、苦笑いしたりしながら職員達はタラップを登っていった。

「セイタロウのセイの字は、漢字でどう書くんや」

「快晴の晴と書きます」

「おお、そりゃあ、縁起がいい。船乗りにピッタリの名前や。鳴海もいい名前をつけた」

 晴太郎と名づけたのは母なのだが、あえて言わないでおいた。

「しっかり頑張るように。乗船したら、君の指導係になる者を紹介しよう」

 晴太郎の肩をトンと叩いて、秋山はタラップを踏む。秋山の日に焼けて角張った手の甲を目に焼き付けながら、晴太郎もあとに続いた。

 きっと、早々に打ちのめされることだろう。晴太郎の謙遜混じりの予感は、割とすぐに的中した。

 

(つづく)