「……もうおしまいかもしれない」

 二段ベッドの下段に寝転がったまま、晴太郎は呻き声を上げた。

 職員が寝起きする乗員室は、狭い。四畳半ほどの狭い部屋に、二段ベッド、デスク、椅子、テーブルが押し込まれている。この部屋で二人の乗組員が寝起きし、日々の業務に当たるのだ。

 二段ベッドといっても高さがないから、下段は特に閉塞感がある。同室の先輩航海士が上段を使っていたから、晴太郎は下段を使うことになった。

 保安学校の寮も、同じような二段ベッドを使う。海上保安官になったあと巡視船内での生活にすぐに順応するために。

 そうだ、慣れている。狭苦しい二段ベッドで眠るのも、船の揺れも。

 なのに、

「目が、目が回る……」

 海は荒れていた。巴の言葉通り、出港初日の夕方から徐々に時化しけ始め、船体の揺れは一時間ごとに大きくなっていった。晴太郎の船酔いも、どんどん酷くなった。

 時計を確認すると、すでに午後八時を回っている。見事に午後を寝て過ごしてしまった。同室の先輩は夜の勤務に出ているというのに、戻ってきたらどんな顔で「お疲れ様です」と言えばいいのか。

 巡視船は二十四時間態勢でしようかい──海域のパトロールを行う。乗組員は三交替制で勤務にあたり、午前零時~四時・午後零時~四時を一直当直、午前四時~八時・午後四時~八時を二直当直、午前八時~午後零時・午後八時~午前零時を三直当直と呼ぶ。

 同室の先輩は三直当直で、昼食後は夜まで自由時間だったはずなのに、ベッドで伏せっている晴太郎を介抱してくれた。

 水分補給はちゃんとしろと言われたから、水だけはマメに飲んでいた。しかし、ふとした拍子に胃液と一緒に戻してしまう。嘔吐物の入ったビニール袋は、勤務に出るついでだからと先輩が片づけてくれた。

 ──俺さぁ、晴太郎は潰れると思ってたんだよね。

 保安学校の卒業式の日、久寿米木にそう言われた。あいつの予感は、結局当たっていたのかもしれない。保安学校は、しょせんは学校だ。いくらあそこで成績優秀だからって、現場で使い物になるとは限らない。

 船がうねるように左右に揺れる。うっ、と胸が詰まって、晴太郎は口を両手で押さえた。吐けるものは全部吐いてしまったはずなのに、それでも嘔吐きが止まらない。

 現場でも、それなりにやっていける自信があった。学校は学校、現場は現場。それでも、やれると思っていた。

 それがまさか、船酔いだなんて。使える使えないの問題ではない。海上保安官としての素質が、俺にはなかったということだ。

 起き上がるのも億劫で、ベッドから目一杯手を伸ばして、デスクの引き出しを掴んだ。中からノートを引っ張り出して枕元で広げ、制服の胸ポケットに入れておいたボールペンを走らせる。

 また船が揺れる。書き物なんてしていたら余計気持ち悪くなるとわかっているのに、それでも手を止めなかった。途中、何度か胃液が迫り上がってきて「おえっ」と声を上げた。脂汗なのか、よだれなのか、はたまた別の何かなのか。何かがノートに一粒落ちて、染みを作った。

 おえっ、と嘔吐いて口元を押さえたとき、乗員室のドアがノックされた。応答できずにいると、恐る恐るという様子で開かれる。

「大丈夫かぁ……?」

 同期の長谷川が、ひょこりと顔を出した。晴太郎の顔を見て、「大丈夫じゃなさそうだな」と苦笑いをこぼした。

「向原さんに、様子を見てきてやれって言われてさ」

 指導係をすることになった新人がこの有様で、向原はどう思ったのだろう。長谷川に「様子を見てきてやれ」と言いつつ、内心では舌打ちをしていたかもしれない。船長の秋山もだ。今頃「使えない新人を掴まされたなあ……」と嘆いているかもしれない。

「時化が酷いよな。こんなに揺れ続けると、俺もちょっとしんどいや……」

 左右に大きく揺れる中、バランスを取りながら長谷川が二段ベッドの下段を覗き込んでくる。晴太郎の手元にノートとペンがあるのを見て──そこに書かれた「辞表」の二文字に、目を丸くした。

「えっ、辞表っ? 鳴海、海保辞めるの?」

 え、ええっ? と繰り返す長谷川に、晴太郎は呻きながら手を動かし続けた。

「こんな状態で、続けられるわけないだろっ……」

「いや、でも」

「泳げねえ奴が水泳選手になれるか、血が怖い奴が医者になれるか? それと一緒だ」

「それはそうなんだけど、いきなり辞表なんて書かなくても」

「ここは保安学校じゃなくて現場なんだ。船酔いしてる足手まといなんて、いちゃいけないんだ」

 長谷川は粘った。「嫌だよぉ、同期がいなかったら俺、絶対どこかで心折れちゃう」と晴太郎の肩を揺すって辞表を書いたノートを奪おうとしたが、おえっ、おえっ、と喉を痙攣させながら晴太郎は抵抗した。

「大体、もう出港しちゃったんだろ。二週間は陸に帰れないんだぞっ? 辞表なんか書いたってすぐに辞められるわけ──」

「じゃあ、今すぐ海に身投げしてやるよ……!」

 自棄になってそう叫んだとき、乗員室のドアがガチャンと音を立て、勢いよく開け放たれた。

「晴太郎くーん、くたばってるぅー?」

 息子が宿題をやってるかどうかチェックするかのようなテンションで現れたのは、巴福子だった。

 手に、小振りの丼を持って。

「……新人二人で何やってるの? プロレス? なんか楽しそうね」

 晴太郎の頭を押さえ込んでいた長谷川が「違いますよぉ!」と肩を竦める。

「鳴海が、辞表なんて書いてるから!」

「え、辞表?」

 長谷川にノートを取り上げられる。ノートを見せられた巴は、「うわ、本当に辞表だ!」と目を瞠った。

「それで、長谷川君は体を張って貴重な同期の辞表を阻止しようとしてたわけね」

 言いながら、巴はぶふっと吹き出した。小刻みに肩を揺らしたと思ったら、ついには声を上げて笑い出す。

「よーし、長谷川君、ここは福子さんに任せて、風呂にでも入ってきなさい」

 巴に背中をドンと叩かれ、長谷川は「うちの同期をよろしくお願いします」と大人しく一礼して、乗員室を出ていった。

 それを見届けた巴は、大柄な体を折り曲げるようにして、二段ベッドの下段を覗き込んでくる。

「まだ全然回復してないみたいね」

「なんですか、いきなり……」

「君は保安学校で何を勉強してきた。主計課の仕事は、巡視船内での調理のほか、庶務、経理、物品管理、衛生管理と」

「看護……です」

 そうだ、主計課の役目は調理だけではない。乗組員に体調不良者が出れば、看病するのも主計の仕事だ。

「よくできました。船酔いでくたばってる新人の看病も、私達の仕事ってわけさ」

 だからって、主任主計士が出てこなくても。唸りながら、晴太郎は体を起こした。長谷川と暴れ回ったせいか、たったそれだけの動作で重たい目眩が襲ってくる。

 そんな晴太郎に、巴は手にした丼を差し出す。というか、押しつける。

「はい、一口でいいから、これ食べな」

 丼の中身はお粥だった。具材は梅と青菜らしい。ほくほくと湯気をあげる白いお粥の中で、赤色と緑色が鮮やかだった。

「福子さん特製『船酔いぶっ飛ぶ青菜と梅のしよう粥』だよ」

 デスク用の椅子を引き寄せて腰かけて、巴は丼を指さす。立ち上る白い湯気から、ほのかに生姜のツンとした香りがする。

「今日の昼ごはんで使ったほうれん草とカブも入ってるの。カブは細かーく刻んで、柔らかくなるまで茹でてあるから、消化にいいよ。船酔いは三半規管がバランスを崩してるってことだから、正常に戻すためには唾液の分泌を促してあげるといいの。梅干しは効くよぉ? 見るだけで唾液の分泌を促進させるし、酸味が胸の不快感を和らげてくれる。それに、生姜には吐き気を抑える効果もある」

 鼻高々に説明した巴は、「さあ、食べなさい」と椅子に腰掛けたまま足を組んだ。どうやら、晴太郎が一口でも食べるまで出ていく気はないらしい。

「食べても吐く自信があります」

「いいから、とりあえず食べなさい」

 昼間は「人様が作ったメシを戻す前提で食べるな!」と言っていたのに。

「……いただきます」

 胃のあたりをさすりながら、晴太郎はトレイのスプーンを手に取った。巴の言った通り、ほうれん草と梅と一緒に、細かく刻んだカブが入っていた。白いお粥の中でも透き通っているのがよくわかる。

 よく息を吹きかけて、恐る恐る口に持っていった。食べた瞬間に吐き気に襲われたらどうしようかと思ったが、口の中に爽やかな梅の香りと酸味が広がった。喉を通って、胃袋まで届いたような気がした。

 カブの実は熱かったが、噛まなくてもあっという間に溶けて消えた。でもほうれん草は噛むたびにシャクシャクと音を立て、生姜の風味が鼻を満たす。

「どう? 福子さんのお手製お粥、お気に召した?」

「お粥というものを食べたことがほとんどないので比べられないですが、美味しいです」

「え、ないの? ほら、小さい頃、お母さんに……」

 言いかけた巴が、「あっ」という顔で口を噤む。どうやら、晴太郎が母を亡くしていると──いや正確には、鳴海玄太郎が妻を亡くしていると、同期として知っているらしい。

「叔母の家に預けられていることが多かったんですが、もともと体が頑丈な方なので、風邪で寝込むってこともほとんどなくて。たまに引いても、白飯とおかずをガツガツ食べて治してたというか」

「あらぁ、胃が強いのね。うちの息子にわけてやってほしいわ。うちの子、具合悪くなると全然食べなくて、プリンとゼリーしか食べないの。旦那が無理矢理お粥を食べさせてなんとかしてる」

 へえ、あの子が。お粥を口に運びながら、今朝見かけたブカブカのブレザーの背中を思い出した。

「……あれ」

 巴が一方的にベラベラと喋るのを聞きながら、お粥を食べ進めていたことに気づいた。さっきまで、水すら吐きそうだったのに。するすると胃に吸い込まれたお粥が、晴太郎の胸をほかほかと温めている。

「おお、その調子。食べなされ、食べなされ。勤務初日で緊張して酔っただけだよ。明日には復活してるって」

 自信満々で、巴はそんなことを言う。

「いや、そんな都合のいいこと」

「だって、鳴海君……あなたのお父さんも、勤務初日に緊張で船酔い起こして倒れたんだから」

 え? と顔を上げると、スプーンが丼の縁にあたってカンと甲高い音を立てた。

「私と、鳴海君と、あと船長の秋山君ね。みんな保安学校の同期だったの。あの二人が航海コースで、私が主計コースね。卒業後に配属された巡視船が、たまたま鳴海君と一緒だった。同期として一緒に頑張ったもんよ」

「父も、船酔いしてたんですか」

「そうそう、初日にぶっ倒れてた!」

 両手を叩いてゲラゲラ笑いながら、巴は懐かしそうに天井を仰ぎ見る。狭い乗員室に、ハスキーな笑い声が響いた。

「私は調理のアシスタントとして初日から調理室に入ったんだけど、私が緊張しながらも丹精込めて作った夕食の中華スープをさ、鳴海君、一口食べて吐いたんだよ? 『酔ってません! 船酔いなんてしたことありません!』って言いながら。昼間の晴太郎君、あのときの鳴海君と瓜二つだったから、昼間はもうおかしくっておかしくって」

 そんな話、聞いたことがない。何十年と海の上で仕事をして、今は巡視船の船長までしてるというのに。

「鳴海君、保安学校のときから生真面目な人でねぇ。毎朝、寮の前に整列して、隊列行進しながら教舎へ移動するでしょ? それ以外の日常生活も常にきちきちと行進しながら生活してるようなタイプの子だったの。あの太い眉毛をキリッと真一文字にして、常に前を見すえてるの。規則にも厳しくてさぁ、弱音も許してくれないしさぁ、学生の中に教官がもう一人いるって言われてた」

 笑い交じりで話す巴に、晴太郎は息を呑む。久寿米木に似たようなことを散々言われてきたのを思い出した。

「こんな真面目な熱血漢で、海上保安官になったあとは大丈夫なのかなって、陰ながら思ってたのよね。ほら、柔らかい素材のものは強い衝撃を受けてもぐにゃぐにゃ曲がって折れないけど、カチコチに硬い素材はあっさり折れちゃったりするでしょ? 配属初日で気張って気張って、緊張しまくって、船酔いしちゃったんでしょうね。私が今みたいにお粥作って持っていってあげたら、ベッドで『俺はもうダメだ……』ってしくしく泣いてた」

「……泣いてたんですか?」

「辞表は書いてなかったけどね」

 うふふっ、と笑って、巴は肩を竦めてみせる。

「主計係の先輩に船酔いに効く食材を聞いて、これと同じお粥を作って持っていってあげたのよ。そしたら、次の日にはケロッと直って、元気に仕事し始めてね。もうね、鳴海君ったらおかしいの。朝イチで調理室に飛び込んできたと思ったら、私の両手をガシッて掴んで、『巴のおかげで治った! ありがとう!』なんて言うんだもの。一緒にいた主任主計士が『プロポーズでも始まるのかと思った』って大笑いしてたわ」

 一人笑い続ける巴をよそに、晴太郎は呆然とお粥を見下ろしていた。赤と緑の色鮮やかなお粥。少しずつ冷めてきてしまったが、生姜の柔らかな香りは消えない。胃袋から徐々に全身へ熱が広がっていく。

「あなた、鳴海君とそっくりだから、福子さんの特製お粥で治るよ。絶対、治る。熱意や志があるのはいいことだけど、あまり気張りすぎないことね。仕事は毎日あるし、何十年と続いていくんだから。その日の夕飯を楽しみに仕事をこなすくらいでちょうどいいの」

 自信満々にサムズアップした巴は、「じゃあ、しっかり食べてよく寝ること」と言って立ち上がった。

 乗員室のドアに手をやったと思ったら、ふと思い出したように晴太郎を振り返る。

「全然関係ない話をするんだけどさ、晴太郎君、子供の頃、お父さんが家にいなくて寂しいって思ってた?」

 唐突に、そんなことを問うてくる。

「どうして、そんなことを聞くんですか」

「いやぁ~、うちの息子がね、四月で中学二年生になったんだけど、私が家にいない間は専業主夫してる旦那が面倒見てるの。家で一緒にいられる間はいろいろとお喋りしたり優しくしてやりたいって思うんだけど、どうにも上手くいかないのよ。片付けしないとか宿題しないとか、そういうところが目についちゃってさ。毎度毎度、出勤前にお説教して、『うっさいな』みたいなリアクションされるっていう繰り返し」

 今朝、息子の首根っこを掴んでリュックにお弁当を突っ込んでいた巴が蘇って、晴太郎は吹き出しそうになったのを懸命に耐えた。

「俺には息子さんの気持ちはわかりませんけど、両親が揃って側にいないと子供は寂しいものだっていうのは、ちょっと違うんじゃないですか?」

「そういうもん?」

「俺は、叔母の家に預けられていることが多かったですが、寂しくはなかったですよ。親なんて、きっとそういうもんですよ」

 でも、そこに愛がないわけじゃない。

「俺と父の場合は、親子としての距離は普通の人に比べたら遠いのかもしれないですけど、思い出の代わりに敬意があると思っています」

「思い出の代わりに、敬意?」

 首を傾げた巴に、晴太郎は大きく頷く。

「親に放っておかれてるって寂しく思う子供もいるんでしょうけど、そうじゃない子供もいますよ。親が何週間も海の上にいるのも……そこまでして、やらなきゃいけない仕事があるんだって、知ってますから。それに、長期間会えないぶん、帰ってきたときは嬉しいし」

 父が帰ってきたからといって、ベタベタと甘えることはなかったけれど、それでも嬉しいことに代わりはなかった。晴太郎は学校の話を、父は海上勤務中の話をして、離れていた時間を手探りで埋めた。

「俺は、寂しくなんてなかったです」

 ふつふつと小さな怒りのようなものが胸に湧いた。子供の頃の、晴太郎を「お母さんが死んじゃって、お父さんも側にいてくれないなんて可哀想」という目で見ていた、いろんな大人への小さな怒りだ。お粥の熱が、全身にじわじわと広がったせいかもしれない。

「子供が寂しそうとか可哀想とか、野暮なこと言ってんじゃねえよって話です。自分の子供や、そんなことを言うあんた達を含めたもっとでかいものを守ろうとして船に乗ってんだろって。俺達はその背中を一番近くで見てんだよって、そう思ってました」

 無駄に熱くなっていることに気づいて、晴太郎は慌ててお粥をかき込んだ。耳たぶが熱を持っているのは、生姜のせいだけじゃない。

「なるほどね」

 ドアに手をやったまま、巴は笑っていた。自分の子供でも見るような、ひどく優しげな目をしている。

「すいません、個人的な話をしすぎました」

 ずるずるっと丼の底に残ったお粥を流し込む。空になった丼を、巴がひょいっと取り上げた。

「おおっ、完食だね!」

 大口を開けて「感心、感心!」と頷き、巴は今度こそ乗員室を出ていった。

 

(つづく)