EX大衆で大好評を博した〈小説×アイドル〉企画。人気アイドルグループ「僕が見たかった青空」の早﨑すずきが、藤つかさによる甘酸っぱい男女の関係を描いた青春小説をもとにグラビア撮影に挑む。誌面では掲載しきれなかった物語のすべてを一挙公開!(全3回の第1回)

 

【あらすじ】
陸上部に所属する高2女子の古崎は、同じハードル競技に取り組む後輩男子の岸に、日々アドバイスを求められる。ハードル初心者で、小生意気で、無邪気な岸との距離感を掴みかねる古崎だが、ある事件をきっかけに二人の関係性が変わってしまう。

 

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「だからさ、ハードルなんてないんだよ」

 私の言葉は初夏の薄い青色に溶けて消えた。

 ペンキで塗ったような奥行きのない空と、一つだけ浮かんだ丸い雲。まるで中学生が夏休みの宿題で描いたみたいな、わざとらしい構図だった。あの雲はいいな。一人で好きな所へ、どこまでもゆける。私みたいに毎日高校に通う必要もないし、塾や習い事に行く必要もない。何より、こうして部活で初心者の後輩の面倒を見なくてもいい。

 私の目の前でしゃがみこんで膝を抑えているのは、一年生のきしじゆんぺいだった。膝には血がにじんでいる。目に涙も……はさすがにないけど、情けなく眉尻を下げていた。古崎こ ざきセンパイ、と呼びかけてくる声もやや力ない。

 

 

「もうちょっと、いいアドバイスないですか? おれ、ハードル初心者なんですよ。もっとこう、具体的なやつお願いしますって」

 だから、と私が返す言葉にも力がこもっていない。このアドバイスをするのは、もう何度目だろう。

「まだ岸君はその段階にないよ。ハードルって、まずはイメージなんだって。ハードルがあると思うから、スピードを落としちゃう。で、上に飛ぼうと意識するからフォームがばらける。だからまずは、ハードルはないって信じないと」

「でも、確かにハードルはありますもん。ほらそこに」

「いや、うん」飲み込んだのは、夏を待つ蒸し暑い空気ばかりじゃない。「イメージなんだってば」

 岸は納得いかない風に髪を掻きまわしている。くせ毛が絡む指は、細く長い。体全体も線が細く小柄だった。どうして陸上、しかも四百メートルハードルなんかをしようと思ったのだろう。

「センパイ、全国大会でも四百メートルハードルで上位なんですよね。イメージとかじゃなくて、分かりやすく教えてくださいよ」

 頭を抱えたいのは私の方だ、と思う。うちの高校は公立で、陸上部が強豪というわけでもないから部員も多くない。顧問は陸上経験はないし、コーチはハードラーじゃない。ハードラーは三年生に二人いたけど、引退してしまった。ハードラーの二年生は私しかいないから、一年生の岸を教えるのは必然私になる。

 けど、ガラじゃない、こういうのは。誰かに教えるとか、伝えるとか、そういうのは苦手だ。そういうのがないから、陸上が好きなのであって。

 汗が額から顎に滴って落ちた。茶色のグラウンドに雫は吸い込まれていく。

「あのね、いいから黙って練習しな。とにかく、ハードルはない。あるのは走るべき走路と、自分だけ。人生だってそうでしょ?」

「さみしい価値観ですね、センパイ」

 うるさいなほんとに。

 無造作にハードルの木製の板を撫でた。剥げた塗装のざらつきが指の腹に残る。まるで今の心の表面みたいだ。ざらざらとして、触り心地が悪い。

「ハードルなんて、女子のヨンパーなら大体七十五センチ程度なわけ。男子もそれよりちょっと高いだけだよ。七十五センチ。大した高さじゃない。無いようなもんでしょ」

「七十五センチって、そんなに低いですか? 結構な高さだと思いますけど」

「七十五センチって、例えば……」

 首を捻って考える。例えば、何があるだろう? 教室の机も大体これくらいだろうか? あるいはロッカーの二段目くらいも、これくらいの高さかも。

 岸はとぼけた表情で、真面目に考えているのかどうか判断できない。

 ばかばかしくなって、自分の練習に戻ることにした。リズムよく踏み切りと着地を繰り返す。地面の硬さを頭のてっぺんに感じる。全身が一本の棒になったようだ。身体は自然と走路を進む。

 結局のところ、目の前にあるのは走るべき走路と自分だけ。それが小学生の頃から黙々とハードルを越え続けた私の持論だった。

「……やっぱり綺麗ですね」

 走り終えて戻ってくると、岸は神妙にぽつりと呟いた。「本当に、ハードルがないみたいに見えます」

「分かったらさっさと走りなよ」

 丸い雲は形が崩れて青空にじんわりと溶け出していた。クリームソーダが飲みたい、とぽつりと思った。

 

 

 校庭の楠から降り注ぐ油蝉の鳴き声は、知らぬ間に熊蝉に代わっていた。夏休みはもう終わろうとしている。けど、しぶとい夏はまだ終わらない。これでもかと太陽は鋭く輝き続ける。

「どうです? どうですかさっきのハードリング!」

 多くの部員が木陰でぐったりする中、響いているのは蝉の鳴き声と、岸のやけにテンションの高い声だけだ。

 まあまあかな、と私が答えると、岸は大げさにガッツポーズを作ってみせる。

「まあまあとしか言ってないでしょ」

「古崎さんの『まあまあ』は最大の褒め言葉だって、もう知ってますよ」

 私が無言で木陰に向かっても、まだ岸は大げさにガッツポーズを掲げていた。近くにいる部員を呼び止めては、自分のハードル技術の向上を見せつけている。陸上初心者だったにもかかわらず、岸は数か月で部の中心になっていた。

「まるで小学生だねえ」

 奈美なみが呆れたように呟いた。彼女は木陰の一番隅に敷いたマットの上で、足を投げ出して座り込んでいた。「素直というか無邪気というかさ。まったく、かわいい弟子がいて羨ましいよ」

「中距離に引き抜けばいいじゃん」

「ヤダ。ただでさえ暑苦しいのに、岸君が来たらもっと暑くなる」

 佳奈美は屈託無く笑う。佳奈美は小学生の頃からの友人で、この部を束ねる副部長でもあった。ベリーショートの髪の下はいつも柔らかい表情で、誰からも信頼が厚い。副部長にふさわしい人物だった。

「でも、ホントにうまくなったねえ、岸君」

「そう? 全然だよ」

「厳しいというか、もはや冷たい」

 突き出した唇を引っ込めて今度は苦笑を浮かべた。丸い目が横に引き伸ばされる。「彼、毎朝ハードルの練習してるの知ってる? 一学期もずっとそうだったし、夏休みに入ってもそうだよ」

 知っていた。岸から聞いたわけではない。偶然、朝早く登校したときに見かけたのだ。早朝のだだっ広いグラウンドに一人佇む岸の横顔は、いつもの騒がしいものではなかった。朝日の照らす目元は凛と引き締まっていて、口元は張り詰めた静けさを纏っていた。

 タイマーが鳴り、佳奈美は腰をいかにも重そうに持ち上げる。短いもみあげに汗が浮いていた。

「今日の中距離のメニューなんなの?」

「インターバル走だよー。練習前、ミーティングで言ったでしょ」

「そうだっけ。まあ、がんばって」

 相変わらず他人事だね、と佳奈美は遠い目をして笑った。ひらひらと手を振ってトラックの方へ戻って行く。

「古崎さーん。跳ばないんですかあ」

 岸が相変わらず馬鹿みたいに突き抜けた声で呼んだ。今行くよ、と私は答えて立ち上がる。

 

 日が傾いても暑さは和らがない。それでも帰路がまだ涼しいのは、川沿いの土手を選んで歩いているからだ。川の上で冷やされた風が、白いブラウスの隙間を通り過ぎる。その心地よさといったら、どんな湿布よりも効果がある、といつも思う。

「今日はわりといい感覚で練習できたんですけど、どう見えました?」

「さあ、どうだろ」

「抜き足の角度、あんな感じでいいですかね?」

「いいんじゃない? それより、スプリントの練習もしないと」

 ですよねえ、と隣で自転車を押す岸が夕空を仰いだ。歪んだスポークが泥よけにぶつかってからからと固い音を立てる。風鈴代わりになるでしょ、と岸はにっと笑ったけど、どう考えても風鈴には思えない。だけど、もう慣れて気にならなくなってしまっていた。

 岸と帰路をともにするようになったのは、ちょうど夏休みに入る前だった。

 岸は校門の前に、腕を組んで仁王立ちで立っていた。アドバイスをお願いします、と勝手についてきて、道中は勝手にしゃべって、勝手にさようならと手を振った。何度かそれが続いて、いつの間にか校門で待ち合わせて一緒に帰るのが日課になった。

 

 

「でもおれ、走るよりハードルの練習する方が好きなんですよね」

 川面には暮れかかった太陽の光が鱗のように光っていた。アーチ形の橋梁の上でがたんごとんと電車が通る。川の上にもまた電車が流れる。水紋で輪郭が揺らいだ電車だ。

 問わなくても岸は一人で話し続ける。これも慣れてしまったし、今やその方が楽だ。

「ハードルなんてないって、古崎さん言ったじゃないですか。七十五センチ程度なんだから無視しちゃえって。あの後、七十五センチってどれくらいかなって色々調べたんですけど……」

 岸は中途半端なところで言葉を切った。くせ毛を人差し指に巻いて、もごもごと口の中で何か言葉を転がしている。

「どうしたの?」

「パーソナルスペース、って知ってます?」

「まあ、なんとなくは」

「あれ、七十五センチらしいんですよ。七十五センチより近かったら、親しい間柄なんですって」

「ふうん」

 話の行先がよく見えない。

「なんかそう思うと、ハードルを越えたいなって思うようになったんです。まるで七十五センチのハードルがないみたいに走りたい。そうしたら、誰とでも仲良くなれるような気がしませんか?」

 だからハードルの練習するの好きなんですよ、と岸は照れたみたいにはにかんだ。

 七十五センチのパーソナルスペースなんてないみたいに、誰とでも仲良くなりたい。そう言う岸の顔は、飾り気のない、ひたむきな微笑みをたたえていた。それに向かって言うことは思いついていた。男子のハードルは七十五センチじゃないとか、ハードルを越えたところでパーソナルスペース云々は関係ないとか、パーソナルスペースなんて人それぞれだとか。だけど、言えなかった。

 夜を迎える風がポニーテールを揺らした。毛先がうなじをくすぐる。

 胸の奥がくすぐられたような気がしたのも、きっとそのせいだろう。

 

(つづく)