弟の葬儀は、身内だけで行われました。

「自殺」で処理されたことと、遺体の損傷が激しかったからです。

 母は号泣しながら、私へのあてつけのように「私がついていれば」と繰り返していました。父にばかり媚びて、生意気な私のことを、母は嫌っていました。でも、そんなことはどうでもよかった。同じ家にいながら、弟がされていることに気づきもしなかったくせに何を言っているんだろう。やっぱり馬鹿なのだと思いました。

 父も泣いていました。

「どうしてこんなことに」「代わってやりたい」「私が死ねばよかった」などとのたまいながら。

 私は父の涙を初めて見ました。

 ――もし、死んだのが私だったとしても、父はこんなふうに泣いてくれただろうか。

 葬儀の最中、そんなことを考えながら、私は弟の遺体に白い花を供え、冷たくなったその手を握りました。

 すると、もう動かないはずのその手が、一瞬、私の手を握り返しました。錯覚だったのかもしれません。でもあのとき私は、きっと、感謝してくれているのだと思いました。

 だって私は、弟を「救った」のだという自負があったから。

 それから、待ちに待った家族三人での暮らしが再開しました。

 弟がいなくなれば、また私にだけ愛が注がれる。

 父も「脳汁」から解放され、正気に戻る。

 私の好きだった頃の、父に。

 そう、確信していました。

 でも……私が想像していた――期待していた生活にはならなかった。

 それどころか、私の存在はますます薄くなり、両親の愛は、弟の遺影ばかりに注がれていました。

 弟は、死んでもなお、家族の中心だったんです。

 生きていた頃よりも、ずっと。

 母は魂が抜け落ちたかのように一切の家事をしなくなり、父の帰宅時間はどんどん遅くなりました。

 当然のように、弟がいなくなっても、私は褒めてもらえませんでした。

 模擬試験の結果、東京大学の合格判定が「A」であることを見せても、父は「そうか」とだけ言いました。

 私が、弟や母に対して、何の興味も持てなかったように、父にとって私は、ただ血が繋がっている人間でしかなかったんです。

 ただ愛されないだけの、虚しい日々が続きました。

「ねえ、お父さん、映画観に行かない? ミニオンの新作が観たいの。もうすぐ公開終わっちゃうんだって」

 そして、一昨日……で、合ってますかね?

 私はある決意のもと、父を誘いました。

「そんな子供じみた映画……高校生にもなって、恥ずかしくないのか」

 父は産経新聞を捲りながら、そう言った。

 予想以下の反応でした。

 私は何も言い返すことなく、その場を離れました。

 そして、一人で家を出て、歌舞伎町の映画館に向かいました。

 休日なのに制服を着たのは、服を選ぶのが面倒だったから。

 映画はとても面白かったです。笑って、泣きました。

 どれだけJILLのコスメで大人になったふりをしても、私の心はずっと、少女の頃のままでした。

 愛されたくてたまらない、少女のままでした。

 

 今、映画を観終わりました。

 とても素晴らしい、物語でした。

 ちっとも、子供じみてなんていませんでした。

 お父さんと一緒に観たかったです。

 そういえば、お父さんは、弟が「自殺」した理由を知っていますか?

 私は知っています。

 お父さんの犯した罪のせいです。

 二十一時までに、この場所に来てくれなければ、その証拠をネットに公開します。

 

 映画を観終えたあと、私はその高揚感のままに、位置情報のURLを添えて、父にメッセージを送りました。

 父は、二十一時丁度にやってきました。

 滑稽なくらい、息を切らしていました。メッセージを送ったのは、二十時前だったので、慌てて来たのでしょうね。

 指定した場所は、私が初めて飛び降りを目撃した、あの歌舞伎町のビルです。

 ここが、世界の汚さを掻き集めたようなこの街が、最期の場所に相応しいと思いました。

「どういうつもりだ」

 父は、怒りを含んだ声で言いました。

 この期に及んでも、自分の状況がわかっていないようでした。

「ねえ、お父さん。これがミニオンだよ」

 私は映画を観たあとに――あの少女と出会ったゲームセンターで落とした、ミニオンの人形を見せました。

 クレーンゲームをしたのは久々だったけれど、勘は鈍ってなかったので、千円で落とせました。

「昔さ、一緒にミニオンの映画観たこと、覚えてる? そのあと、クレーンゲームもしたよね。そのときね、お父さん、ミニオンのこと、こんなくだらない人形いらないだろうって言ったの。でもね……私、本当は欲しかったの。この人形。すごく、欲しかったんだよ」

 父は黙り込んだまま、私を睨んでいました。

 私は気にせず、喋り続けました。

 もう父にどう思われようと、どうでもよかった。

「お父さんね、燈真が生まれるまでは、毎日私のことを膝に乗せて、私の頭を撫でてくれたんだよ。可愛いねって、言ってくれたんだよ。将来は、賢い子になるんだよって。俺は、母さんみたいに顔が可愛いだけの馬鹿な女がいちばん嫌いなんだって。そう教えてくれたよね。だから私、お父さんと同じ大学に行こうって思って、学校でも、みんなと馬鹿話せずに、勉強頑張ったの。毎日塾も行って、遊ぶ時間も削って、本当に頑張ったの。私の楽しみなんて、JILLのコスメを集めることくらいだった。私はね、お父さんに褒められたかったの。でもお父さんは、私のことなんて、見てもくれなかった。私が、クレーンゲームにハマってたことも知らないでしょ? 燈真のことしか、見てなかったもんね。……でも、仕方ないよね。だってお父さんは――幼い男の子が好きな、変態だから」

 私は制服のスカートのポケットからスマホを取り出して、今朝、弟の端末から移動した一枚の写真を、父に見せつけました。

 父はそれを目にした途端、顔面蒼白になり、震えながら、私を見ました。

 そう――私だけが、その目に映っていました。

 そして、ようやく私を人間として認識してくれたんでしょう。

 弁解を始めたんです。

「樹莉……誤解だ。この写真は、ただ燈真に性処理の仕方を教えていただけなんだ。ほら、燈真ももうすぐそういう年頃になるだろう。女のお前にはわからないだろうが、男同士なら、よくあることだ」

 もし保存されていたのがこの写真だけなら、私はそれを信じようとしたかもしれません。

 でも、無理でした。

 だけど父はまだ、私の心を操れると思って、話し続けた。

「ああ、そうだ。今日はせっかく誘ってくれたのに、一緒に映画を観に行かなくて、すまない。ただ、燈真があんなことになったばかりで……、映画に行く気分じゃなかったんだ。ほら、お詫びに何か美味いものでも食べに行こう。樹莉の好きなものを、何でも言ってごらん。パフェなんかどうだ? それとも、クレーンゲームにハマっているなら、ゲームセンターに行こうか?」

 そう父が提案してくれたあの時、私の目からは、自然と涙がこぼれていました。

 パチカスババアさんが、死ぬ直前になって、パチンコで大当たりして「脳汁」が止まらなくなったみたいに。

 父から優しい言葉をかけてもらえて――、心の底からうれしかったから。

 でも今更……、言い訳なんてしても遅いことを、私は教えてあげないといけなかった。

「食べたいものなんてないよ。それにもう、クレーンゲームもハマってない。飽きたの」

 私は、笑顔で答えました。

「なら……何か違う映画を観ようか? カラオケでもいいぞ」

 これまで見たこともないほど、父は必死でした。

 そんな父を見るのは愉快だったけれど、それ以上に、腹立たしかった。

「じゃあ、この動画、一緒に見たい」

 私は肩にかけていた鞄から、弟が使っていたタブレット端末を取り出して、その中に保存されていた一本の動画を再生しました。

 その動画も、証拠として自分のスマホに移しておいたけれど、タブレットの方が大きな画面で映せるので、そうしました。

 ――そうです。写真と動画を見つけたのは、その日の朝でした。

 映画の上映時間を確かめようとした時、スマホの充電が切れて、ふと弟のタブレット端末が目に入ったんです。

 その瞬間、背筋がぞくりとしました。

 タブレットに手を伸ばすと、少しだけ温もりが残っていて、まるで誰かが、さっきまで使っていたかのようでした。

 もちろん、気のせいだったのかもしれない。でも何か――とてつもなく嫌な予感がしたんです。

 私は自分のスマホを充電する前に、弟のタブレットを充電しました。

 すると、ホーム画面に一つだけ「ブラックホール」と名付けられたフォルダがありました。その名前に、どうしようもなく、胸がざわつきました。

 弟が、何かを訴えているのだと感じました。

 そして私は、その予感に導かれるようにして、真実に触れました。

 その端末は、主に弟が本を読むために使っていたもので、撮影機能があったことすら、忘れていました。

 だから父も、チェックできていなかったんでしょう。

 そこには、さっき父に見せた「性処理の仕方」らしい写真と――

 恐怖のなか、隠し撮りしたのだろう、その動画がありました。

 ……刑事さんも、見ましたよね?

 本当に……吐き気が込み上げるような動画だった。

 私がそれを見て、どんな気持ちになったと思いますか。

 弟がされていたことをただ想像するのと、実際に目にするのでは、雲泥の差がありました。

 私は……、死刑になるべきだと思いました。

 だって私は、すべてを間違えていたんです。

 弟を「救う」方法は、ああじゃなかった……。

 落とすべき相手は、弟ではなかったんです。

 はい。だから私は今、後悔の念に駆られて、こうして全てをお話ししているんです。

「ねえお父さん、この動画、ネットにアップされるか、今ここから飛び降りるか、どっちがいい?」

 私は言い、首を傾げました。

 それは娘としての、最後の優しさでした。

 社会的に死ぬのか、肉体的に死ぬのか、どっちがいいのか、選ばせてあげようと思ったんです。

 ええ、私は、正気でした。

 今だって、正気ですよ。

 正気じゃないのは――どう考えても父の方でしょ?

「私ね、お父さんのこと大好きだったよ。世界一好きだった。でももう、許せないの。何もかも。お父さんの顔を見てるだけで、気持ち悪くて、吐き気がする。ねえお父さん、燈真はね、お父さんのこと、殺したかったんだって。このタブレットの中のノートにそう書いてあった。私も今、そう思ってる。心から。この動画を見たら、みんながそう思うんじゃないかな。ねえ、お父さんは、どう思う? これから死ぬまで、変態として生きていく覚悟ある?」

 私が問うと、父はすべてを諦めたように、大きくため息を吐きました。

 それから、煙草の吸い殻が散らばり、精子のような白い痕がこびりついた、汚いビルの屋上を、無言で歩き出しました。

 ――――確定演出だ。

 そう感じながら、私はその様子を見守りました。

「すまない」

 そして父は深く息をすると、そう言い残し、自ら飛び降りました。

 かつて父が嫌いだと言っていた、顔が可愛いだけの馬鹿な女が何人も飛び降りた場所から。歌舞伎町の地面に叩きつけられたその音は、本当に、いい音だった。

 過去最高に「脳汁」が溢れました。

 だって――、私が、落としたんです。

「うわ。おっさん落ちてきた、キモ」

 地上から、そんな声が聞こえました。

「パパ活女に騙されて、金むしり取られたんじゃね」

 遠めから見ても整形顔のホストがそう笑うと、その周りにいる整形顔の女も、みんな笑いました。

 私は深呼吸をしてから空を仰ぎ、新宿の街を見渡しました。

 世界はこんなにも美しかったんだと思いました。

 弟は真の意味で救われ、私はようやく自由を手に入れた。

 すべての汚いものから、解放された気がしました。

 私は鞄からコスメのポーチを取り出すと、今まで集めてきたJILLのコスメを、一つ一つ、投げ落としました。

 リップ、アイシャドウ、チーク。……どれもキラキラして、きれいだった。

 歌舞伎町に魔法がかかっていくみたいだった。

 ポーチが空になり、ふと振り返ると、あの可哀想な少女がいました。

 少女は、薄汚れたちいかわを抱いていました。ちいかわの一部が赤く染まっていて、それはあの日、少女から溢れ出たもので間違いなかった。

 その光景が、幻想だということはわかっていました。

 きっと私も、誰かに見て欲しかったんだと思います。

「ねえ……、よかったら、私の背中、押してくれる?」

 私は笑顔を作り、ミニオンを抱えたまま、そう頼みました。

「任せて」

 少女は笑顔で頷いてそう言い、私に駆け寄りました。少女らしい無邪気な笑顔でした。

 少女は迷うことなく、発育途中の小さな手で、私の背中を押しました。

 それに合わせて、私は落下しました。

 これまでにない直接的な「ゴトン」という音が、脳に直接響きました。

 少しも痛くなんてなかった。

 だって、屋上から飛び降りたその瞬間から、脳汁がドバドバ溢れ出ていたから。

 それとももう、私の脳は溶けてしまっていたのかもしれない。

 でも少女を落としたあの日から、私もいつか少女と同じ運命を辿るとわかっていたのかもしれません。

 そうです。あの少女が答えたように、私もきっと、生きることをやめたかったんです。

 大好きだった父に、存在をなくされた日から。大好きな父が、忌まわしい人間だと知った日からずっと。

 でも……私の身体は、父の上に落ちたから、助かったんですよね。

 そして父はその衝撃によって、とどめを刺された……。

 本当に、うけますね。

 それにしても、あんなに頭を強く打ったのに、記憶ってちゃんと残るものなんですね。

 今朝、この病室で目が覚めたときは、驚きました。

 こうして回想しながらお話ししている今も、あまりにも鮮明で、こわいくらいです。

 全部忘れられたら、どんなによかったでしょうね。

 そういえば、質問なんですけど――私って「死刑」になる可能性もあるんですよね?

 死刑って、やっぱり、……首吊りですか?

 もしよければ、明日にでも執行してくれていいので、飛び降りにしてもらえませんか。

 自分で飛び降りてもいいですし、誰かが突き落としてくれても構いません。

 私、死ぬ前に、もう一度あの音が聞きたいんです。

 

(了)