四人目から依頼が来たのは、東京に戻った翌日でした。

【ちぃ。。。】さん。

 受け取ったDMには、ただ一言、「死にたい」とだけ書かれていました。

 パチカスババアさんの、あの汚い音を掻き消したい一心で、私はちぃ。。。さんとの約束を取り付けました。

 指定された場所は、古い団地の駐輪場。

 傾いた鉄の屋根の下に、錆びた自転車が並んでいました。

 そして、現れたのは――あの『可哀想な少女』でした。

 少女は、あの日私が取ってあげた、ちいかわの人形をぎゅっと抱きかかえていました。

 まるで、宝物のように。

 あれから半年も経っていないはずなのに、ちいかわはすっかり薄汚れていました。

 少女自身も、あの春に会った日よりも一層みすぼらしくなっていて、その姿を見た瞬間、劣悪な環境で生活しているのだということが理解できました。

 少女は私に駆け寄ると、無言で、ボロボロの千円札を差し出しました。

 全然足りなかったけれど、そんなことはどうでもよかった。

 きっとこの千円は、少女が一生懸命貯めたお金だとわかったし、私はお金が欲しいわけではなかった。

「見届け料はこれで十分だから安心して」

 私は言いました。

 少女は無表情に頷くと、ちいかわを抱えたまま、骨が浮き出ている細い脚で、団地の階段を上っていきました。

 少女が階を上がるたび、自分の心が痛むのがわかりました。

 私は駐輪場から、屋上を見上げて、これまで通り、少女が落ちてくるのを待ちました。

 でも少女は、なかなか落ちてこなかった。

 怖かったのだと思います。

 私も、少女が落ちて来るのを見るのが、怖かった。

 このバイトを始めてから、こういう感情になったのは、初めてでした。

 やがて少女は屋上から姿を消し、階段を下りてきました。

「背中を押してもらえませんか」

 そして、私の顔を見上げ、救いを求めるように、少女は言いました。

 そのとき、少女の声を初めて聞きました。想像していたよりも、幼い声だった。

「私が……?」

 少女は、こくりと頷きました。

 私は躊躇しました。

 だってそれは、自殺幇助どころではない――高い確率で、殺人罪になってしまう。

 万が一、誰かに目撃されて捕まるのなんて絶対に嫌だったし、内心、私はやはり少女を殺したくもなかった。

 あの汚いババアと違って、あの少女には未来があると感じていたから。

 だけど、このバイトを始めてから、ずっと思ってもいた。

 ――落としてみたい……、と。

 自分の手で人間を落としたら、どんな「快感」が襲ってくるのだろうと、想像せずにはいられなかった。

 でも、誰でもいいわけじゃないことは、もう理解していました。

 私がその人間の死を、心の底から望めなければ、「脳汁」は出ないと知っていたから。

 思い返せば、クレーンゲームの景品も同じでした。

 本当に欲しいと思ったものほど、落としたときの「快感」は大きかった。うまい棒みたいに、コツを掴めば百円で何本も取れる景品は、私にとって意味がなかった。

 欲求というのは、一度、上を知ってしまうと、もうそれ以下では満足できなくなるんです。

「どうして死にたいの」

 私は屈み、少女と目線と合わせ、問いかけました。

 少しの沈黙のあとで、少女はこう答えました。

「もう生きたくないから」

 それは、とても納得できる答えだった。

 もしかしたら私は、話を聞いてあげるべきだったのかもしれません。

 けれどそんなのは、エゴでしかないとも感じました。

 だって話を聞いたところで、私には少女を救う手立ても、気力もない。

 自分が生きるだけで、精一杯だった。

 これ以上、生きたくないと願うのなら――そうしてあげるのが、少女にとっての救いになるのだと思いました。

 私と少女は、自然と手を繋ぎ、屋上までの階段を上りました。

 屋上から見えた夕陽はあまりにもきれいで、これが少女の見る最後の景色でよかったと思いました。

「お願いします」

 そして少女は、背を向けたまま、言いました。

「任せて」

 私は答え、そして、少女の背中を押しました。

 少女は、ちいかわをぎゅっと抱きしめたまま、まるで空を飛ぶように落ちていきました。

「ゴトン」という音が鳴りました。

 私は思わず、その場で膝から崩れ落ちました。

 それは、ただの「快感」じゃなかった。

 少女と自分の人生が重なったような感覚すらした。

 この手で少女の人生を終わらせたと同時に、少女のすべてを「手に入れた」気がしました。

 え……罪悪感?

 ここまで私の話を聞いていてなぜ、そんなもの、抱く必要があると思ったんですか?

 私は少女を、この汚い世界から救った。

 もうこれで少女が、哀しい思いをすることはないんです。

 その日を境に、私はジルのアカウントを消しました。

 もう、充分に満たされていました。

 少女の背中を押したときの感触。鳴り響いた音。思い出すだけで「脳汁」が溢れました。

 そして少女のことを思い出すだけで、私は深い孤独から解放されたんです。

 

(休憩)

 

 そうです。弟を落としたのは、その三日後です。

 最初に断言しておきますが、憎くて落とした訳ではありません。

 私は姉として、弟のことをちゃんと愛していたし、大切にも思っていました。

 でもそれは――血が繋がっているから、という浅はかな理由でした。

 私は弟のことを、きちんと人間的に理解していなかったし、理解しようともしていなかったんです。だから私は今、こんなところにいるんでしょうね。

 ただ、一つだけ確かだったのは、弟をこの汚い世界から救いだせるのは私だけだったということです。

 私たち家族が住んでいたのは、六階建てのマンションで、屋上には自由に出ることができました。

 弟は星を見るのが好きで、宇宙図鑑を眺めたり、天体望遠鏡を抱えて、よく一人で屋上に行ったりしていました。

 その日、父は出張中、母は同窓会に出かけていて、ニュースでは、ペルセウス座流星群が見ごろを迎えると報じられていました。

 屋上に向かうと、弟は、相変わらず星を眺めていました。

「ねえ、たまには私も一緒に星を見てもいい? 今日って、流星群がピークの日なんだよね」

 そう声を掛けると、弟は静かに頷きました。

 弟は素直で、無口な子でした。

 ……一年前から突然、無口になった――というほうが正しいかもしれませんが。

「もう流れ星、見れた?」

 私が訊くと、

「別に……流れ星が見たいわけじゃない」

 弟はぶっきらぼうに答えました。

 流星群の夜といえども、東京の穢れた空では、流れ星なんてそう簡単には見えるはずもない。そのくらいのことは、私もわかっていました。

「じゃあ、どの星を見てるの」

 適当にそう訊ねると、弟は空の一角を指さしました。

 どの星を指さしているかわからなかったけれど、「きれいだね」と言いました。

 星も、流星群にも、興味はなかった。

 ただ私は、その話題を振る前に、何か当たり障りのない会話をしなければと思ったんです。

「ねえ……燈真は、お父さんのことどう思ってるの」

 でも会話が続く気配はなくて、私は早々に、核心に踏み込むしかありませんでした。

 弟は、黙り込みました。

 予想通りの反応でした。

「……何か、されてるんでしょ?」

 私は耳元で囁くように訊きました。

 弟は俯いたまま、動かなくなりました。

 父が娘の私じゃなく、弟を溺愛する理由。それは、単純なことだった。

 弟が――男の子だから。

 馬鹿な母が気づいていたかは、わからない。でも私は、いつからか、勘づいていました。

 父がまだ幼い弟に対して、「脳汁」を出していることを。

 そして一年ほど前から……夜な夜な、弟の部屋へ忍び込んでいることも。

 何が行われていたかは知らない。けれど、想像は容易たやすかった。

 弟が急に無口になった理由は、たぶん……あらゆる恐怖と、絶望のせいでした。

「あ、見て。流れ星だよ!」

 その時でした。

 強い光が、夜の空を横切りました。

 私はその光を指差して、強引に弟の手を取ると、手すりの近くまで連れていきました。

 空に星が落ちるのを見たのは初めてで、ほんの少しだけ「脳汁」が出ました。

「ねえ、何か願えた?」

 私が訊くと、弟は静かに頷きました。

「何を……願ったの?」

 私は、その願いを――叶えてあげたいと思いました。

「……宇宙に、行きたい」

 弟は、消え入りそうな声で答えました。

 ……そうですね。

 確かにそれは、宇宙飛行士になりたいという意味だったのかもしれませんね。

 でもあの時、私は、言葉のままに受け取りました。

「じゃあ、お姉ちゃんが連れていってあげるよ」

 だから、そう微笑んで、弟の手を握りしめました。

 その時、弟が――あの少女のように、救いを求めるような目で私を見ました。

 まっすぐに。私を信じている目でした。

 一瞬、私の心には迷いが生じました。

 このまま引き寄せて、抱きしめるべきなのかもしれないと。

 でもそれは、本当の優しさじゃない。そう、思いました。

 あるいは……思いたかっただけかもしれません。

 でも私は、信じたかった。

 あの少女にとってそうだったように、これが弟にとっても「救い」になると。

 私は、短く深呼吸をしました。

 そして衝動のままに、弟の脇の下に腕を差し入れ、その身体を抱き上げると、空に向かって、投げ落としました。

 弟の身体は、想像以上に軽かった。一年前から、食欲がないと言って、あまり食べなくなったせいで、激痩せしていたから。

 抵抗がなかったのは、私を信じていたからかもしれませんね。

 数秒後、「ゴトン」という鈍い音が、鳴り響きました。

 弟が宇宙に着いた音でした。

 私は急いで、屋上から階段を駆け降りました。

 そして地上で、弟を発見しました。

 悲鳴を上げると、マンションの大人たちがぞろぞろと出てきて、誰かが病院に連絡してくれました。

「大丈夫だよ、樹莉ちゃん、すぐに救急車が来るからね。きっと、大丈夫だよ」

 弟はもう宇宙に行ってしまったのに、大人たちは、そう励ましながら、泣き崩れる私の背中をいつまでも摩ってくれました。

 涙と「脳汁」が止まりませんでした。

 これでやっと、父の目に映れると思いました。

 

(つづく)