供述記録
高瀬樹莉(17)
記録日 二〇二四年九月十九日
容疑 自殺幇助四件/殺人二件
はい。その音に支配されるようになったのは、去年の春からです。
あの日、始業式を終えた後、私は高校からほど近い新宿ルミネに向かっていました。
朝、SNSにJILLの春限定リップの情報が流れてきて、手に入れなければと思ったからです。
私は容姿が整っていたし、素顔でも十分可愛いという自覚がありました。必要以上に顔を盛る必要はなかったし、正直、CANMAKEみたいなプチプラコスメでも十分でした。
けれど、そんな安物を持っていても満たされません。
JILLじゃないと無意味でした。
もちろん、コスメはすべてJILLで揃えていました。
JILLのコスメで埋めつくされたポーチは眺めているだけで楽しいし、魔法少女に憧れていた頃の少女心を満たしてくれました。何より「JILL塗ってる樹莉ちゃん、映え過ぎ」とみんなが褒めてくれる。だからその値段以上の価値がありました。
JILLのリップは四千円くらいです。
私にとっては高級品だったけれど、高二になったその四月からお小遣いが五千円上がったので、いつもよりは気が楽でした。
母に交渉する際に調べたのですが、高校生のお小遣いの全国平均は五千円らしいです。つまり私は、その三倍をもらっていたことになります。
それでも――東京の都市部で暮らす女子高生にとっては、まったく足りませんでした。
一万五千円なんて、欲しい服一枚も買えない。JILLでリップとアイシャドウとチークを買ったら、それで終わり。
だから周囲の友だちの大半はアルバイトをしていたし、いわゆるパパ活をしている子もいました。
その中で私は、毎日塾に通って、学校でも真面目に勉強に励んでいました。
父の出身校でもある東京大学へ進学しようと決めていたし、母みたいな「顔が可愛いだけの馬鹿な女」にだけはなりたくなかったから。
私は、父に褒められたかった。そのために、優秀な娘でありたかったんです。
話がずれましたね。
ルミネに向かう途中、ゲームセンターの前を通りがかりました。
店舗に入ったのは、JILLのミニバッグがガチャガチャの景品になっていたことを思い出したからです。
入口の両替機で五百円分の両替を済ませ、クレーンゲームの筐体の間を縫うように、ガチャガチャコーナーへと向かいました。
店内は、蛍光イエローのライトに照らされていて、眩しかった。
でも、折角立ち寄ったのに、JILLのガチャガチャは売り切れていました。
残念に思う反面、JILLの人気を再確認できたことが、どこか嬉しくもあった。
私は潔く諦めて、ルミネに向かうことにしました。
でもその時、何気なく、店内に入るときは右の通路を通ったのに、帰りは左の通路を選んでしまった。
それが、結果としてすべての引き金になったのかもしれません。
だって、目に入ってしまったから。
『可哀想な少女』が。
草臥れた服を着て、明らかに誰かのお古の――昭和臭い赤いランドセルを背負ったその少女は、頬に涙を伝わせながら、ちいかわの人形が散らばる筐体の中をじっと見つめていました。
「ちいかわ、取れなかったの」
少女を見下ろして訊ねると、少女は静かに頷き、私を救世主のように見上げてきました。
「じゃあ、お姉ちゃんが取ってあげる」
そう言ったのは別に、親切心からではありませんでした。
使命のようなものでした。
小さい頃から、父にいつも言われていました。
「可哀想な人を見かけたら、救ってあげなさい」と。
だから昔から、いい人を演じるのが得意でした。
私はガチャガチャの為に両替していた百円玉を入れ、アームと呼ばれる人形を掴むための爪を動かしました。
でもちいかわは、持ち上がりもしなかった。
続けてもう一度プレイしましたが、結果は全く同じでした。
「なにこれ。詐欺じゃん。ね」
憤りを覚えながら毒づくと、少女は哀れさをアピールするように、自分の空っぽの財布を開いてみせました。
幾ら入っていたのかわからないけれど、お金が尽きるまでプレイしたのだと悟りました。
思い返してみれば、私が最後にクレーンゲームをしたのは、あの少女と同じくらいの年齢の頃でした。
父と映画を観た帰り、その映画のメインキャラクターだったミニオンの人形が目について、五回だけ挑戦させてもらったんです。
でもあの時、取れなかった。
悔しくて、私は父を涙目になりながら見上げました。
もう少し、ねだろうと思った。
でも声を発する前に、「そんな馬鹿みたいな人形、いらないだろう」父が言いました。
私ははっとして頷きました。そして思い込みました。
別にいらない、と。
本当は欲しかったけれど、それ以上に、父に馬鹿だと思われたくなかったから。
でもあの少女は違いました。恥を捨ててでも、ちいかわが欲しかったんでしょう。一向に立ち去る様子はなかった。
私はその強欲さに感動すら覚えました。
両替した百円玉はあと三枚残っていて、さっきの二回を合わせると、運命のようにちょうど五回分でした。
私は百円を入れ、過去の自分に取ってあげるつもりで、アームを動かしました。
今度はちいかわが、ほんの少しだけ斜めに動きました。
取れなかったらどうしよう。
不安を感じながらも、また百円を入れました。
さっきと同じように動かしても、きっと動かないだろうと予想して、今度は重たそうな頭部を狙って、アームの三本爪で掴みました。
すると、少しだけ持ち上がり、落ちた反動で獲得口にぐっと近づきました。
私は最後の百円を入れ、もう一度、さっきと同じ要領で頭部を狙いました。
前回のプレイでちいかわがうつ伏せになったおかげか、爪が食い込み、これまでになくしっかりとその体が掴めました。
取れる。
そう感じると、電気のようなものが、指先から脳の奥まで広がっていきました。
ふと少女を見下ろすと、その表情は、さっきまでの涙が嘘のような笑顔に変わっていました。
その笑顔の先にあるアームに掴まれたちいかわは、そのまま静かに運ばれていきました。
「ゴトン」
そして私の耳に初めてその音が鳴りました。
私は落下したちいかわを獲得口から掴み、抱きしめたい衝動に駆られながらも、少女に渡しました。
少女は遠慮なく受け取り、私の願望を果たすようにちいかわを抱きしめると、感謝の言葉もなく走り去っていきました。
育ちが悪いのかもしれないし、もしかしたら、少女の手口だったのかもしれない。
どちらにせよ私の心に、怒りはありませんでした。
それどころか、その背中を見送りながら、感謝さえ生まれていたかもしれません。
私は今まで生きてきて、心の底から何かを「手に入れた」と感じたことがありませんでした。
デパートでJILLの新作コスメを手に入れても、それはただの買い物に過ぎません。
でもあの時、私ははじめて「手に入れた」と感じたんです。
自分の手で、落としたから。
(休憩)
そうですね。それからはもう「依存症」という言葉が、相応しいと思います。
常にと言っていいほど、私の脳内では、アームの動きと、落ちる瞬間の軌道が再生されていました。
初恋のような熱が、毎日、途切れることなく続いていたんです。
はい。あの可哀想な少女が去ったあとは、私もゲームセンターを出ました。
それから予定通りルミネに寄り、狙っていたJILLの春限定リップを買って、家に帰りました。
あの日は家族で、進級祝いに焼肉へ行く約束があったから。
焼肉屋で、私は父に、あの可哀想な少女にちいかわを取ってあげた話をしたかったけれど、言い出せずにいました。
たとえ、いいことをしたという自負があっても、父が、クレーンゲームなんていう低俗な遊びに、良い印象を持っているとは思えませんでした。
その時、父に「進級祝いは何が欲しい」と訊かれたので、私は冗談で「ミニオンの人形」と答えてみました。
父があの日のことをどう思っているのか、確かめる意味もありました。
「なんだそれ、韓国のやつか?」
でも父は、ロースを口に運びながら、そう訊き返しました。
酒に酔っていたわけではありません。父は、アルコールの類が嫌いでしたから。
ただ、覚えていなかったんです。一緒にミニオンの映画を観たことすら。
仕方がないと思いました。映画の最中、父は眠っていたから。
それから食べた肉は、どれも味がしませんでした。
翌日、私は教室で、新作のJILLのリップを必要以上に塗りなおしていました。
誰かに、この商品を持っていることを褒められたかった。
そうすれば、このどうしようもない気持ちが鎮まるはずだと思いました。
でも、格下のクラスメイトが「え、色可愛い。てかそのリップって、バズってたやつだよね?」といつものように媚びを売ってきても、何も感じなかった。
心はもう満たされなかった。
あるいは、初めから満たされてなんて、いなかったのかもしれない。
JILLの限定品を手に入れた時、多少の満足感はありました。
でも、それはやっぱり「買った」だけだったから。
だから、授業の最中から、いても立ってもいられなかったのだと思います。
学校が終わったあと、気がつけば私の足はゲームセンターへ向かっていました。
前日と同じ店舗には行きませんでした。もしまたあの少女がいたら、自分のためにプレイできなくなってしまうと思ったから。
生憎、新宿にはゲームセンターが幾つもありました。
あの街を何度も歩いていたはずなのに、それまで気づきませんでした。
というより、意識していなかっただけでしょうね。人間というのは、見たいものしか見ないのだと知り、面白い生き物だと思いました。
そして、吸い込まれるようにして赤い看板のゲームセンターに入ったのは、ミニオンの人形が見えたからです。
私は入り口近くの両替機で千円札を十枚の百円玉に替えて、筐体の前に立ちました。
「この子を落とす」
そう、心の中で狙いを定めてから百円を入れ、まずは適当にアームを操作して掴みました。前日とは違い、ミニオンは容易く持ち上がりました。
取れはしませんでしたが、これなら、すぐに落とせそうだと思いました。
でも、それから三回続けてプレイしましたが、ミニオンはただ持ち上がるだけで、取れる気配がなかった。すべて途中で落下してしまいました。
でもきっと次で取れるだろうという、根拠のない自信がありました。
だって昨日は、五回目で取れたから。
だけど――、またダメだった。
その瞬間、ちいかわを五回で取ったという成功体験からくる自信が、いとも簡単に失われました。
高まる緊張と、異様な焦りを覚えながら、私は再び百円を入れました。
考えても、どうすれば取れるのか、わからなかった。ミニオンは寸胴で、全体的に丸くて、ちいかわみたいに重心というものがなかったから。
頭部を狙ってもみたけど、胴体を掴んだときと同じような持ち上がり方で、アームの爪はすぐにその体を離しました。
苛立ちが募りました。
気が付けば、百円はあと二枚になっていて、私はそのうちの一枚で、一か八か、足元を狙いました。だけど三本の爪は、空を掴んだ。
私は大仰にため息を吐きました。
やっぱり、私には手に入れられないのかもしれないという絶望感に襲われました。
昨日の成功が、幸運だっただけなのかもしれないと。
刻一刻と、塾の時間が近づいていました。けれど、引き下がるつもりはありませんでした。
だって私は聞きたかったから。あの音が。
もはや神に祈るように百円を入れ、アームを操作しました。
すると、三本のうち二本の爪が、ミニオンの腕と胴体の隙間に滑り込みました。
そして爪は、黄色い体をがっちりと掴んだ。
確定演出とでもいうのでしょうか。
――取れた。
そう確信すると、またあの電気のようなものが脳に走りました。
私は呼吸をするのも忘れて、ミニオンが運ばれる様子を見守りました。
「ゴトン」
そして、待ちに待ったその音が響きました。
あの瞬間――私の脳は「快感」に支配されていました。
落とすのに、回数がかかったからでしょうか。
それは、ちいかわを落とした時よりも、さらに大きな「快感」でした。
私は獲得口からミニオンを取り出すと、力強く抱きしめてから、景品袋に入れました。
それから塾をサボタージュして、お小遣いが尽きるまでクレーンゲームをし続けました。
ミニオンの人形は、その日のうちに全種類手に入れることができました。
(つづく)