昭和50年代、鉄道少年の心をつかんではなさなかった「鉄道百科」シリーズ。それらを手がけた鉄道写真家の南正時が、再び「昭和」を巡る旅に出た。この度、その旅路で撮影した写真とともに綴った紀行エッセイが1冊にまとまった。著者から届いた、コメントと記事の一部を紹介する。

 

 私は、ひょんなことから「鉄道写真家」としてデビューすることができた。当時、昭和40年代半ばのこと、日本を走る最後の蒸気機関車を求めて日本中を旅して回った。全国的にまだまだ昭和の高度経済成長期の雰囲気が色濃く残っていた時代である。この取材旅行でもたっぷりと昭和を味わい、体験してきた。

 

 写真を撮り、その写真とともに載せるエッセイ、紀行文を書くことを生業にしてきたが、若いころには未来にまで残すといった使命感のようなものはなかった。しかし、老いを感じ始めた60歳を過ぎたあたりだっただろうか、20世紀から世紀をまたいで生きたものとして、何かしら自分を語っておきたい気持ちが次第に強くなってきた。

 

 すでに薄れかけた記憶の中から、昭和という「玉手箱」をそっと開けてみることにした。さぁ、「じいさんの玉手箱」のふたを開けるとしよう。

 

 

D51のいた風景 力強いその勇姿に酔いしれた

日本を代表するSL のスーパースター。関西本線加太─柘植間にて

D51(デコイチ)が誕生したのは昭和11年(1936)のこと。主に貨物輸送用の大形機関車として、製造数は1115両という日本の蒸気機関車(SL)最大の両数を数えた。本来は貨物用ながら峠越えなどの勾配区間では、旅客列車の先頭を飾ったこともあり、その高性能ぶりを発揮した。全国を走り続け、その数の多さゆえにSLファンならずとも親しまれたSLであった。

 

「YS-11」の記憶 体が記憶するプロペラの振動

全日空機と東亜国内航空機とが行き交う「YS-11」全盛のころ

日本航空機製造が造ったYS-11は、英国ロール・スロイス社製のターボプロップエンジンを搭載する双発旅客機で、昭和37年(1962)に初飛行した。輸送機の頭文字「Y」と設計の「S」に、機体とエンジンがそれぞれ最初のものであるということで11と名付けられ、同48年(73)に生産終了するまで182機が製造された。国内の民間航空では日本エアコミューターが平成18年(2006)9月まで運航、その後は完全に退役した。

 

団地の生活 憧れの的だった集合住宅

赤羽台団地のモダンなスターハウスは今も3棟が健在

「団地」は、昭和30年代から各地で建てられた。ダイニングキッチン、水洗トイレ、風呂などを備えた団地の生活は国民の憧れの的で、当時のステータスだった。若いサラリーマン家庭の生活は、団地から始まったという人たちも多く「団地族」という言葉が生まれた。マンモス団地と話題になった東京都北区の赤羽台団地は同38年(63)に完成、公募は前年から始まっており、100倍にせまる入居希望の物件もあったという。

 

東京オリンピック聖火リレー 秋晴れ、戦後復興の象徴を撮る

筆者が夢中で撮った聖火ランナー到着の様子

昭和39年(1964)10月に開催された東京オリンピックは、戦後復興、経済発展の礎となる国民総動員の大イベントとなった。さらに同年、東海道新幹線が開業し、世界一速い超特急も誕生するなど、世界に対して日本の国力をアピールするきっかけとなった。当時の子供たちは、戦後復興の夢が次々と実現した驚きと喜びをかみしめていた。東京オリンピックでは、広く国民が参加できる聖火リレーに国内が沸きあがった。

 

 私が昭和を生きたのは昭和21年(1946)から同64年(1989)までの42年あまりだ。生まれて2年後には福井地震に襲われ、昭和末期には「国鉄分割民営JR化」という私の仕事を大きく左右する出来事があった。しかし、その間の昭和の世は一応平穏無事に過ごしてきたと思っている。

 本書執筆のために、断片的な記憶を検証することからから始めなければならなかった。かつて旅した記憶をたどるとともに、再び「昭和」を巡る旅に出た。本書を通じて、読者のみなさまと、それぞれの昭和を旅することができますように。

 

※本書は2005年6月1日から2009年1月28日にかけて、「日本経済新聞」夕刊に掲載された「懐かしの風景」から選んだものに加筆、修正を加え改題したものです。