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「どうしたの、急にやって来て」

 と、あすかは〈いこいの園〉の休憩所で、息子の徹と向い合った。

「いや、ちょっとね……」

 野々山徹は、くたびれた様子で、「家に帰って、着替えを取って来たりしてるんで、参ってるんだ」

 あすかは苦笑して、

「自分のせいでしょ。加代さんが怒るのは当り前よ」

「うん、まあ……ね」

 四十九歳になる徹は、ちょっと照れたように額へ手をやる。

 子供のころから、親に何か隠しごとをしているときのくせである。

 午後の日射しが入って、休憩所は暖かかった。何人かの住人が、ソファのそこここで居眠りしている。

「庭へ出る?」

 と、あすかが訊いた。

「ああ。そうしようか」

 他人に聞かれたくない話なのだ、とあすかは気付いていた。

 居眠りしているといっても、半分うつらうつらしているだけ、という人もいる。

 こんな所では、他人の問題は、何よりの娯楽である。

 庭の芝生へ出ると、風はさすがに冷たいが、日なたでは気持のいいくらいだった。

 ベンチに腰をおろすと、

「それで? 何なの?」

 と、あすかは訊いた。

「彼女の……ことなんだ」

 と、徹は言った。

「まだ迷ってるの? 別れるって決めたんじゃなかったの」

「そのつもりだったんだ。――本当に。はっきり話をして」

「それで?」

 徹は口を開きかけて、ちょっとため息をついた。

「彼女が妊娠した」

 徹の言葉に、あすかは一瞬固まった。

「――確かなの?」

「うん。病院で診てもらった」

「そう……」

 徹は、あすかの方を向いて、

「母さん。――僕の子なんだ。彼女に、産むなとは言えない」

 あすかも、すぐには言葉が出なかった。

 徹と加代には子供ができなかった。加代ももう四十五で、今から子供は無理だろう。

「母さんにも孫になるわけだし……」

 分ってるわよ、そんなこと。――口には出さなかったが、あすかは息子から目をそらした。

 彼女と別れて、家へ戻るという形で解決するかと思っていたのだが……。

「どうしたらいい?」

 四十九歳の男が、そんなことを七十八歳の母親に訊くのか。――あすかは情なくなった。

 あすかはため息をついて、

「お前、それでよく大学の先生がつとまるもんだね」

 と言った。

 急に風の冷たさが身にしみた。

 野々山徹はS女子大の教授である。一流大学とはいえないかもしれないが、それなりに歴史のある女学校だ。

 英文学を教えている徹は、〈英語でミュージカル〉というサークルの顧問をつとめていた。

 当節の女の子たちは、歌ったり踊ったりすることが好きで、またカラオケなどで慣れているから、誰でも結構うまく歌える。

〈英語でミュージカル〉は、S女子大の中では人気の高いサークルだった。

 その顧問。――見た目はパッとしないが、そんなことは関係なく、野々山徹は女子学生たちに、もてた。

 そして、サークルの手伝いをしていた大学院生、若竹祥子との「遊び」が、深みにはまって行ったのだ。

 若竹祥子は二十四歳。東京で一人暮しをしていた。

 夫が、ちょくちょく女子学生を「つまみ食い」していることを、妻の加代も知らないではなかったが、「今度の子は違う」と、敏感に気付いていた。

 夫が家を出るのを、加代は止めなかった。

 どうせ、その内くたびれ切って、帰って来る。そう思っていたのだ。

 そんな加代の気持を、あすかは分っていた。徹が、後悔して、渋々ながらでも帰れば、加代は何も言わなかっただろう。

 だが、まさか……。

「あんたはどうしたいの」

 と、あすかは訊いた。「加代さんと別れて、その子と結婚したいのかい?」

「いや、それを迷ってるんだ。母さんがどう言うかと……」

「自分で決めなさい。あんたはもう大人なんだから」

「分ってるけど……。大人だから決められないこともあるよ」

「だからって、こんな年寄りの母親にどうしろって言うの? 私がその子と会ったって、どうしようもないじゃないの」

「そいつは分ってるよ」

「じゃ、何なの?」

 と、あすかが訊き返すと、徹が何か言いたげにした。

 そこへ、

「野々山さん、ここだったの」

 と、看護師があすかを捜してやって来た。

「何か?」

「娘さんがみえてるわ」

「え? 幹子が?」

「お孫さんも一緒にね」

「まあ、どうしたんだろ、突然。――すぐ行きます」

 徹はちょっと口を尖らして、

「母さん、まさか幹子の奴をわざわざ呼んだりしてないよな」

「何を言ってるの。大体、あんたが来ることだって知らなかったのに」

「そうか。――じゃ、僕は失礼するよ」

「妹に、たまには会って行きなさい」

「あいつは口うるさくて。――僕は庭の出口から出るよ」

 止める間もなく、徹は立って、建物の外側を足早に回って行く。

「全く……」

 と呟いて、あすかは建物の中へと戻って行った。

「――おばあちゃん、今日は」

 母親より早く、ソファから立ち上ったのは、あすかの孫、圭介である。

「いらっしゃい」

 あすかも、孫の顔を見ると、つい笑みが浮かぶ。

「お母さん、どう?」

 と、幹子が訊く。

 徹の妹、幹子は今、四十六歳。圭介は十六歳の高校生である。

「相変らずよ」

 と、あすかは言った。「どうしたの、急に?」

「こっちの方へ来る用があって」

 と、幹子は言った。「この子が、『おばあちゃんの顔が見たい』と言うし」

「まあ、こんな顔を見て面白い?」

 と、あすかは笑って言った。

「今、庭を横切ってったの、お兄さんじゃない?」

「ええ、そう。あなたに会ってけって言ったんだけど、逃げちゃったわ」

「何か相談? 例の……」

 幹子が、ちょっと息子のことを気にすると、

「僕、もう高校生だよ。伯父さんのこと、知ってるよ」

 と、圭介が言った。「伯父さん、大学院生の女の人と一緒なんでしょ」

「まあね。でも、どうなるか分らないわ」

 と、あすかは言って、「さあ、お向いのケーキ屋さんに行きましょ」

 と、二人を促した。

 

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