1 決断
ガソリンの匂いが鼻をつく。
コンクリートの床にも、油の浮いた水たまりがあちこちにできている。
その水たまりをよけて歩いて行くと、
「――誰だ?」
と、ドスのきいた声が、空になった倉庫の中に響いた。
「心配するな」
と、久米は声をかけた。「俺だ」
倉庫の奥に、仕切りを立てただけの「事務所」がポカッと明るい。
顔を出した男が、
「あんたか」
と言って、「おい、親父さんだ」
「あかね、いるのか」
久米は仕切りの中を覗いた。
「お父さん。――どうしたの?」
折りたたみの古ぼけた椅子に腰かけてタバコをふかしている女が訊く。
「おい、あかね。こんな所で喫ったら危いじゃないか。引火したら――」
「大丈夫よ」
と笑って、「心配性ね、相変らず」
コートをはおっているが、下は薄手のドレス。この底冷えする場所で。
「風邪ひくぞ」
「どうせすぐ出るんだもの」
久米あかねはそう言って、「お母さん、どう?」
「まあまあだ」
と、久米は言った。「お前のことを気にしてた。たまには見舞に行ってやれ」
「行ったら、却って心配するわよ。この格好じゃ」
「普通の服で行けばいい」
「でも、何となく分るもんよ、女はね」
そのとき、男のケータイが鳴った。
「――もしもし。――ああ、了解した。十五分で行く」
あかねがタバコを足下に落として、ハイヒールで踏んだ。
「あかね、指名だ。Sホテル」
男が言って、あかねは無言で立ち上ると、コートをきちんと着て、ボタンをとめた。
「指名って、いつもの?」
と、あかねが訊く。
「さあな。Sホテルだっていうし、たぶんそうだろ」
そう聞いて、あかねが顔をしかめる。久米は、
「なじみの客なのか」
と言った。
「ろくでもない奴。――でも、しつこくてね。週に一回は必ず」
「気を付けろよ。そういうストーカーみたいなのは、とんでもないことをやらかす」
「用心してるわよ。お金払ってくれりゃ、客は客」
あかねは男へ、「じゃ、連絡するわ」
と、声をかけて、仕切りから出て行く。
「じゃ、失礼する」
と、久米は言って、あかねのすぐ後から出て行った。
――あかねは、倉庫を出た所で、久米を待っていた。
「お父さん。私に用だったの?」
「ちょっとな。――しかし、もういいんだ」
「でも――」
あかねはバッグを開けると、財布を取り出して、「お金でしょ?」
「いや、いいんだ、本当に」
と、久米が少し強い口調で言った。
「そう?」
あかねは財布をしまって、「でも、お母さんの入院費……」
「仕事が見付かりそうだ」
あかねがちょっと意外そうに、
「本当?」
「ああ。お前にも、いつまでもこんなことをさせておきたくない」
「私は……適当にやってるわ。心配しないで」
あかねは歩き出して、広い通りへ出ると、やって来たタクシーを停めた。
「おい、気を付けろよ」
と、久米は声をかけたが、あかねはもうタクシーの中だった。
夜の中へ、タクシーが消えて行くのを見送って、久米は、
「情ないと思わないのか」
と、自分に向って呟いた。「娘にあんな商売をさせて」
分っている。誰よりも自分が許せない。当り前だ。
しかし、五十歳で、前科がある男に、まともな職はない。
そうだ。――あの〈いこいの園〉のタンス預金。
もともと、暮しに困ることなどない金持の年寄り連中なのだ。
「遠慮なんているもんか」
そうとも。必ず、うまくやって見せる。
五十歳の体は、なまっていて、塀を乗り越えることさえできそうになかったが、
「何とかして……。そうさ、何とでもして……」
と、くり返し呟くと、久米は夜道を歩き出した。
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