10
街はすっかりクリスマスの装いだった。
窓から見える景色は、緑と赤と金にいろどられている。あちこちからベートーヴェンの『第九』が流れ、昼間は寒そうな街路樹も、夜ともなると華やかなイルミネーションに装いを変える。
春奈はカフェの個室に座っていた。
天井から吊りさがった真鍮製のモビールが、換気扇の風でゆっくりとまわる。月と星と天使のかたちをしたオブジェが、照明を弾いて鈍く光っていた。
春奈はカップを両手で包み、掌を温めた。
アッサムのミルクティである。かたわらには毛糸のカバーをかぶったティーポット。このカフェには個室が四つあり、どの部屋も壁が厚くて落ちつける。
ノックの音がした。
入ってきたのは男だった。
挨拶もせず、春奈の向かいに座る。無造作に彼は言った。
「――あなたの仕業ですね?」
乾いた声音だった。
「すべてはあなたの計画だった。そうでしょう?」
「ええ」
春奈はうなずいた。
「全部、わたしの考えです。わたしがやりました」
そう、すべては彼女の計画だった。
釘沢眞悟と文通友達になったことも、転職も引っ越しも全部だ。
春奈が眞悟に渡したスマートフォンには、GPS追跡アプリが仕込んであった。彼との性交後には、毎回ゴムから体液を採取した。
プリズングルーピーを装って殺人犯と文通し、満期出所したところで身柄を引きとる――それは、彼女の常套手段であった。
過去のケースでは、棚などの修繕を頼んで凶器を握らせ、指紋を付けるなどの細工をしたこともあった。
指紋やDNA型という科学的物証があれば、警察や検察はほぼ疑わない。
人を殺して逃げきるには、獲物を捧げるのが一番だ。犯人を逮捕させて“解決”してしまえば、警察がその事件を追うことはもうない。
袴田事件や、足利事件や免田事件がいい例だ。冤罪をかけられた被疑者らは、数十年かけて己の無実を証明した。しかしどの件においても、真犯人はわかっていない。警察や検察が、新たに捜査をはじめることもなかった。
「あなたは薬剤師の資格を持っている」
男はつづけた。
「不景気の折でも強い資格だ。選り好みしなければ、ドラッグストアだろうと卸会社だろうと就職できる。あなたは毎回県をまたいで引っ越し、職を変える。そして日本の警察は、他県との連携が下手くそだ。管区外の事件にはまるでわれ関せずだ」
「おまけにその事件が“解決済み”とくればね」
春奈は微笑む。
「解決済みの他県の事件に、わざわざ目を向ける警察官はいない。ただでさえ彼らは過重労働で、目の前の未決処理で手いっぱいだもの」
「釘沢眞悟は、あなたの何人目の文通相手なんです?」
「十二人目か、十三人目かな」
歌うように春奈は言う。
「でも身柄を確保して、うまくアパートへ連れこめた相手としては、三人目。つねに首尾よくいくわけじゃあないの」
「それでも、けっこうな打率だと思いますがね」
男は口の端で苦笑した。だがすぐ真顔に戻り、
「二十二年前に、家族全員を毒殺したのもあなたですね?」
と訊いた。
「モミジガサ、という山菜があります。猛毒を有するトリカブトとよく似ていて、しばしば間違えられる山菜だ。中学生のあなたは、近くの山で群生しているトリカブトを見つけた。そして『モミジガサだ』と言って食卓に出した。あやしまれないよう、あなた自身もいくらかは食べた。――そうでしょう?」
「なぜ?」
春奈は首をかしげる。
「なぜわたしがそんなことをしたって言うんです? なんの必要が?」
「あなたが実親や実兄から受けた虐待は、惨いものだった」
抑揚なく男は言った。
「釘沢が受けてきた虐待より、さらに惨たらしく、おぞましかった。あなたはあの環境から逃げる必要があったんです」
しばし、個室に沈黙が落ちた。
だが、ひどく穏やかな静寂だった。
張りつめた気配はまるでなかった。
「あなたはわたしが、殺人鬼だと言いたいんですか?」
春奈はふたたび口をひらいた。
「血に飢えて、定期的に人を殺さないと生きていけない連続殺人者だ。だから釘沢を騙したのだと?」
「いいえ」
男がかぶりを振る。
「あなたの体格と腕力で、真っ向から若い女性を制圧するのは不可能だ。たとえ不意を突こうと、抵抗されればそこで終わりです。彼女たちは容易にあなたを振りきり、外へ逃げだすことができる」
「でも、わたしは薬剤師ですよ?」
春奈は紅茶で舌を湿した。
「一服盛って、抵抗する力を奪うことは可能です」
「ほう。科捜研が検出できない薬物が、この世にまだ存在するとでも?」
男が含み笑う。
「じゃあ、なぜ?」
逆に春奈は問うた。
「なんのためにわたしは、なぜプリズングルーピーの演技までして、釘沢たちをアパートに引き入れたというんです? わたしの犯行を隠蔽するつもりでなかったのなら、どうして?」
「あなたの犯行じゃあないんですよ」
男はテーブルの上で指を組んだ。
「あなたは家族に虐待されていた。その結果、十二歳で妊娠し、十三歳で出産した。生まれた子はすぐに、施設『七草こども園』へと送られた」
彼は息継ぎし、
「その子は釘沢眞悟と同じく、人格形成期に激しい虐待を受けた。寝小便と小動物いじめ、放火癖の兆候を見せました。……釘沢を担当した家裁調査官は、彼を『連続殺人者のテキストブック・ケース』と評したそうですね。それ自体は正しい。だが教科書的少年は、釘沢だけじゃあなかったんです」
「ええ」
春奈が素直にうなずく。
「そうかもしれません」
紅茶が豊かに香った。
「でも違う。わたしが産んだ子は、釘沢眞悟とは違いました」
「ですね。大いに違った」
男は首肯した。
「あなたの子は釘沢と同じく反社会性的な犯罪者だったが、やつよりも強く激しい殺人衝動にさいなまれていた。しかしもっとも大きな相違点は、優秀なブレーンが付いていたことだ。献身的かつ頭脳明晰なフィクサー……つまり、あなたですよ」
男が春奈の顔を覗きこむ。
「息子さんが一連の事件の真犯人で、本物のシリアルキラーなんですね?」
愉快そうな声音だった。
「あなたの名義で借りているアパートが、伊勢崎市にはもう一軒あった。息子さんはそこに住んでいたんですね? そして彼の電話番号は、『さかい調剤薬局』の名であなたのスマホに登録された。ほら、釘沢を妬かせたあの番号です」
男は卓上の注文用タブレットを手に取った。
「『七草こども園』に渡すと言っていた封筒は、実際には息子さんの手に渡った。封筒の中身は、冷凍保存した釘沢の体液ですね? 息子さんはあなたから釘沢のGPS位置情報を入手し、彼の行動範囲に沿って、好みの女性を殺した。そして遺体に、釘沢の体液を残しておいた」
タブレットを操作し、注文ボタンをタップする。
「ちなみに過去に凶悪な事件を起こした女性にも、テキストブック・ケースはあるそうです。幼少期もしくは少女期に、性的被害に遭っていることですよ。
たとえば女性には珍しい連続殺人者であるアイリーン・ウォーノスは、祖父から性的虐待を受けた。有名な逃亡犯の福田和子は売春宿で育ち、十八歳のとき刑務所内で強姦された。複数の家族を食い物にした『尼崎事件』主犯格の角田美代子は、実母に色街で働くよう斡旋された。『阿部定事件』の阿部定もまた、少女期に強姦されている」
春奈はなにも応えなかった。
ただ、ゆっくりと紅茶を飲んだ。
そして低く言った。
「お隣のおじさんが刑務所で病死したのは、十九年前」
視線を宙へ泳がせた。
「……あの人、犯人じゃなかったのにね。わたし、獄中の彼に何度も手紙を書きました。無実を信じています、って」
あなたの無実を信じています。
あなたはそんな人じゃない。わたしにはわかっています。あなたはほんとうは心のやさしい、いい人です。ただまわりに恵まれず、運が悪かっただけ。
またお手紙します。
どうぞお体に気をつけて、お元気で。
春奈より
「人はみんな、それぞれ得意なことをやればいいんだよ――か」
歌うように彼女は言った。
「わたしの得意なこと、は」
みなまで言わず、春奈はぷっと吹きだした。
向かいの男と顔を見合わせる。
男も吹きだした。目を見交わしたまま、二人はくすくす笑いつづけた。
男は、春奈のスマートフォンの電話帳アプリに『さかい調剤薬局』の名で登録した相手――彼女の実の息子であった。
個室のドアを誰かがノックした。
「はい」
「お待たせしました。ご注文のセイロンストレートティと、季節のモンブランがおふたつです」
入ってきたウエイトレスが、カップやポットをうやうやしく卓上へ並べだす。
春奈は足を組み替えた。
そのパンプスは新品でこそないものの、手入れのいいフェラガモのスクエアトゥだった。バッグは同じく、丁寧に使いこんだディオールだ。
春奈はきれいにメイクしていた。手首から香水が香った。相変わらず人目を惹くような美人ではないが、眞悟が疎んじた野暮ったさはかけらもなかった。
「ご注文は、以上でよろしかったでしょうか?」
「ええ。ありがとう」
鷹揚に春奈がうなずく。ウエイトレスが一礼して出ていく。
「美味しそう」
冬季限定のモンブランはドーム形で、雪のような粉砂糖をかぶっていた。赤緑金とクリスマスカラーのピックがてっぺんに挿してあった。
窓の外は、美しい冬晴れだ。
春奈は華奢なフォークで、モンブランをさっくりと割った。
(了)