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 街はすっかりクリスマスの装いだった。

 窓から見える景色は、緑と赤と金にいろどられている。あちこちからベートーヴェンの『第九』が流れ、昼間は寒そうな街路樹も、夜ともなると華やかなイルミネーションに装いを変える。

 春奈はカフェの個室に座っていた。

 天井から吊りさがった真鍮製のモビールが、換気扇の風でゆっくりとまわる。月と星と天使のかたちをしたオブジェが、照明を弾いて鈍く光っていた。

 春奈はカップを両手で包み、掌を温めた。

 アッサムのミルクティである。かたわらには毛糸のカバーをかぶったティーポット。このカフェには個室が四つあり、どの部屋も壁が厚くて落ちつける。

 ノックの音がした。

 入ってきたのは男だった。

 挨拶もせず、春奈の向かいに座る。無造作に彼は言った。

「――あなたの仕業ですね?」

 乾いた声音だった。

「すべてはあなたの計画だった。そうでしょう?」

「ええ」

 春奈はうなずいた。

「全部、わたしの考えです。わたしがやりました」

 そう、すべては彼女の計画だった。

 釘沢眞悟と文通友達になったことも、転職も引っ越しも全部だ。

 春奈が眞悟に渡したスマートフォンには、GPS追跡アプリが仕込んであった。彼との性交後には、毎回ゴムから体液を採取した。

 プリズングルーピーを装って殺人犯と文通し、満期出所したところで身柄を引きとる――それは、彼女の常套手段であった。

 過去のケースでは、棚などの修繕を頼んで凶器を握らせ、指紋を付けるなどの細工をしたこともあった。

 指紋やDNA型という科学的物証があれば、警察や検察はほぼ疑わない。

 人を殺して逃げきるには、獲物を捧げるのが一番だ。犯人を逮捕させて“解決”してしまえば、警察がその事件を追うことはもうない。

 はかま事件や、足利あしかが事件やめん事件がいい例だ。冤罪をかけられた被疑者らは、数十年かけて己の無実を証明した。しかしどの件においても、真犯人はわかっていない。警察や検察が、新たに捜査をはじめることもなかった。

「あなたは薬剤師の資格を持っている」

 男はつづけた。

「不景気の折でも強い資格だ。選り好みしなければ、ドラッグストアだろうと卸会社だろうと就職できる。あなたは毎回県をまたいで引っ越し、職を変える。そして日本の警察は、他県との連携が下手くそだ。管区外の事件にはまるでわれ関せずだ」

「おまけにその事件が“解決済み”とくればね」

 春奈は微笑む。

「解決済みの他県の事件に、わざわざ目を向ける警察官はいない。ただでさえ彼らは過重労働で、目の前の未決処理で手いっぱいだもの」

「釘沢眞悟は、あなたの何人目の文通相手なんです?」

「十二人目か、十三人目かな」

 歌うように春奈は言う。

「でも身柄を確保して、うまくアパートへ連れこめた相手としては、三人目。つねに首尾よくいくわけじゃあないの」

「それでも、けっこうな打率だと思いますがね」

 男は口の端で苦笑した。だがすぐ真顔に戻り、

「二十二年前に、家族全員を毒殺したのもあなたですね?」

 と訊いた。

「モミジガサ、という山菜があります。猛毒を有するトリカブトとよく似ていて、しばしば間違えられる山菜だ。中学生のあなたは、近くの山で群生しているトリカブトを見つけた。そして『モミジガサだ』と言って食卓に出した。あやしまれないよう、あなた自身もいくらかは食べた。――そうでしょう?」

「なぜ?」

 春奈は首をかしげる。

「なぜわたしがそんなことをしたって言うんです? なんの必要が?」

「あなたが実親や実兄から受けた虐待は、むごいものだった」

 抑揚なく男は言った。

「釘沢が受けてきた虐待より、さらに惨たらしく、おぞましかった。あなたはあの環境から逃げる必要があったんです」

 しばし、個室に沈黙が落ちた。

 だが、ひどく穏やかな静寂だった。

 張りつめた気配はまるでなかった。

「あなたはわたしが、殺人鬼だと言いたいんですか?」

 春奈はふたたび口をひらいた。

「血に飢えて、定期的に人を殺さないと生きていけない連続殺人者だ。だから釘沢を騙したのだと?」

「いいえ」

 男がかぶりを振る。

「あなたの体格と腕力で、真っ向から若い女性を制圧するのは不可能だ。たとえ不意を突こうと、抵抗されればそこで終わりです。彼女たちは容易にあなたを振りきり、外へ逃げだすことができる」

「でも、わたしは薬剤師ですよ?」

 春奈は紅茶で舌を湿した。

「一服盛って、抵抗する力を奪うことは可能です」

「ほう。科捜研が検出できない薬物が、この世にまだ存在するとでも?」

 男が含み笑う。

「じゃあ、なぜ?」

 逆に春奈は問うた。

「なんのためにわたしは、なぜプリズングルーピーの演技までして、釘沢たちをアパートに引き入れたというんです? わたしの犯行を隠蔽するつもりでなかったのなら、どうして?」

「あなたの犯行じゃあないんですよ」

 男はテーブルの上で指を組んだ。

「あなたは家族に虐待されていた。その結果、十二歳で妊娠し、十三歳で出産した。生まれた子はすぐに、施設『七草こども園』へと送られた」

 彼は息継ぎし、

「その子は釘沢眞悟と同じく、人格形成期に激しい虐待を受けた。寝小便と小動物いじめ、放火癖の兆候を見せました。……釘沢を担当した家裁調査官は、彼を『連続殺人者のテキストブック・ケース』と評したそうですね。それ自体は正しい。だが教科書的少年は、釘沢だけじゃあなかったんです」

「ええ」

 春奈が素直にうなずく。

「そうかもしれません」

 紅茶が豊かに香った。

「でも違う。わたしが産んだ子は、釘沢眞悟とは違いました」

「ですね。大いに違った」

 男は首肯した。

「あなたの子は釘沢と同じく反社会性的な犯罪者だったが、やつよりも強く激しい殺人衝動にさいなまれていた。しかしもっとも大きな相違点は、優秀なブレーンが付いていたことだ。献身的かつ頭脳明晰なフィクサー……つまり、あなたですよ」

 男が春奈の顔を覗きこむ。

「息子さんが一連の事件の真犯人で、本物のシリアルキラーなんですね?」

 愉快そうな声音だった。

「あなたの名義で借りているアパートが、伊勢崎市にはもう一軒あった。息子さんはそこに住んでいたんですね? そして彼の電話番号は、『さかい調剤薬局』の名であなたのスマホに登録された。ほら、釘沢を妬かせたあの番号です」

 男は卓上の注文用タブレットを手に取った。

「『七草こども園』に渡すと言っていた封筒は、実際には息子さんの手に渡った。封筒の中身は、冷凍保存した釘沢の体液ですね? 息子さんはあなたから釘沢のGPS位置情報を入手し、彼の行動範囲に沿って、好みの女性を殺した。そして遺体に、釘沢の体液を残しておいた」

 タブレットを操作し、注文ボタンをタップする。

「ちなみに過去に凶悪な事件を起こした女性にも、テキストブック・ケースはあるそうです。幼少期もしくは少女期に、性的被害に遭っていることですよ。

 たとえば女性には珍しい連続殺人者であるアイリーン・ウォーノスは、祖父から性的虐待を受けた。有名な逃亡犯のふくかずは売春宿で育ち、十八歳のとき刑務所内で強姦された。複数の家族を食い物にした『尼崎あまがさき事件』主犯格のすみ美代子みよこは、実母に色街で働くよう斡旋された。『阿部あべさだ事件』の阿部定もまた、少女期に強姦されている」

 春奈はなにも応えなかった。

 ただ、ゆっくりと紅茶を飲んだ。

 そして低く言った。

「お隣のおじさんが刑務所で病死したのは、十九年前」

 視線を宙へ泳がせた。

「……あの人、犯人じゃなかったのにね。わたし、獄中の彼に何度も手紙を書きました。無実を信じています、って」

 

 

 あなたの無実を信じています。

 あなたはそんな人じゃない。わたしにはわかっています。あなたはほんとうは心のやさしい、いい人です。ただまわりに恵まれず、運が悪かっただけ。

 またお手紙します。

 どうぞお体に気をつけて、お元気で。

             春奈より

 

 

「人はみんな、それぞれ得意なことをやればいいんだよ――か」

 歌うように彼女は言った。

「わたしの得意なこと、は」

 みなまで言わず、春奈はぷっと吹きだした。

 向かいの男と顔を見合わせる。

 男も吹きだした。目を見交わしたまま、二人はくすくす笑いつづけた。

 男は、春奈のスマートフォンの電話帳アプリに『さかい調剤薬局』の名で登録した相手――彼女の実の息子であった。

 個室のドアを誰かがノックした。

「はい」

「お待たせしました。ご注文のセイロンストレートティと、季節のモンブランがおふたつです」

 入ってきたウエイトレスが、カップやポットをうやうやしく卓上へ並べだす。

 春奈は足を組み替えた。

 そのパンプスは新品でこそないものの、手入れのいいフェラガモのスクエアトゥだった。バッグは同じく、丁寧に使いこんだディオールだ。

 春奈はきれいにメイクしていた。手首から香水が香った。相変わらず人目を惹くような美人ではないが、眞悟が疎んじた野暮ったさはかけらもなかった。

「ご注文は、以上でよろしかったでしょうか?」

「ええ。ありがとう」

 鷹揚おうように春奈がうなずく。ウエイトレスが一礼して出ていく。

「美味しそう」

 冬季限定のモンブランはドーム形で、雪のような粉砂糖をかぶっていた。赤緑金とクリスマスカラーのピックがてっぺんに挿してあった。

 窓の外は、美しい冬晴れだ。

 春奈は華奢なフォークで、モンブランをさっくりと割った。

 

(了)