あなたの無実を信じています。

 あなたはそんな人じゃない。わたしにはわかっています。あなたはほんとうは心のやさしい、いい人です。ただまわりに恵まれず、運が悪かっただけ。

 またお手紙します。

 どうぞお体に気をつけて、お元気で。

 

                      春奈より

 

 

 

 被告人・釘沢眞くぎさわしんが担当保護司の頭部を斧で複数回切りつけ殺害した事件において、鑑定人は地方裁判所裁判官の命により、起訴前鑑定をおこなった。

 以下は当該鑑定書からの抜粋である。

 

 〈家族歴および本人歴・その一〉

 

 釘沢眞悟は平成×年十一月七日、兵庫県生まれ。両親は×男と△子で、同胞きょうだいなし。

 母△子の父方曾祖父は性格に問題があり、四十代で農薬をあおり自殺している。曾祖父の兄は借金を繰りかえし、二十代で失踪した。

 父方祖父は強盗、窃盗を含む前科四犯の累犯者である。祖母は三十代で“水たまりに顔を突っこんで”自殺した。精神疾患があったかは不明。

 母△子の父に犯罪歴はない。だが性格に問題があり、九回転職している。父の妹は、売春と賭博での前科三犯。三十代で“ガスボンベを抱いて”自殺した。

 一方、母△子の母方に犯罪歴および精神疾患などの情報はない。

 そして父×男は、一族すべてに犯罪歴および精神疾患などの情報はない。

 

 釘沢の父×男は高校卒業後、金型製作所で旋盤オペレータとして従事。

 母△子は食品工場やファミリーレストラン等でパート勤めをした。虚言癖があったようで、二度ほど詐欺で訴えられている。だが、いずれの場合も示談が成立。また釘沢を妊娠中に、アルコール依存症で二箇月ほど入院した。

 この母△子は釘沢を出産した一年三箇月後、突発的に出奔。

 現在にいたっても行方不明である。

 父×男は、妻の行方不明者届を出した。しかし警察は、事件性なしと見て捜査しなかった。

 なお母△子は行方をくらます直前、パート先の同僚に、

「子ども産んだこと、後悔してんねん」

「あの子、あかんのよ。どこがどうって言われへんけど、なんか気色悪いねやんかぁ。あの子と二人だけで家におったら、殺してしまうか、うちが死ぬか、二つにひとつやと思うねん」

 と不吉な言葉をこぼしている。

 この母△子の出奔は、父×男の性格を一変させた。

 それまでは無口で穏やかな働き者だったが、酒に逃げるようになり、無断欠勤も増えた。また酒量が増えるにつれ、子の釘沢に暴力をふるいはじめた。

 当時の釘沢はおとなしい男児であった。発達障害などはなかったが、話しかける者がすくなかったからか、言葉の発達にやや遅れがあった。

 父×男はそれを気に病んだ。やがてほんとうに自分の子なのか、と疑うようになった。

「うちの親戚に、この手の遅れがある子はいない」

「あの女、よその男の種をおれに押しつけて行ったのでは」

「いま頃は若い男と乳繰りあいながら、間抜けなおれを嘲笑っているんだ」

 そう妄想し、息子を殴った。

 釘沢が三歳四箇月のとき、父×男は泥酔し、水を張った浴槽に釘沢の顔を浸けた。髪を掴んで、何度も何度も浸けた。

 釘沢はもがき、暴れた。その足が父の腹を蹴ったため、父×男は怒って釘沢の顔を“おとなしくなるまで”浸けた。

 息子がぐったりとして動かなくなったため、父×男は居間に戻ってテレビのバラエティ番組を観た。

 番組が終わって風呂場を覗くと、釘沢は浴槽に浮いていた。水に顔を浸けたまま、ぴくりとも動かなかった。父×男はわれに返り、一一九番した。

 さいわい釘沢は病院で息を吹きかえした。

 しかし退院後、彼の性格は一変した。

 それまでは内気で、大人の言うことをよく聞く子だった。だが、以後はしょっちゅう癇癪を起こすようになり、自分より小さな子をいじめるようになった。

 そのいじめかたは執拗で、まわりの大人たちは「異様に感じた」という。

「叱っても怒鳴っても、けろっとしよってな。ちょっと目ぇ離すと、また同じ子をいじめに行きよんねん。服で隠れるとこを痣んなるほどつねったり、わざと目ぇ狙って殴ったりな。ほんま、タチの悪いガキやったわ」

「女の子を叩いたらいかん、て大人が言うたら、これ見よがしに女の子をちに行くんよ。こっち見てにやにやしながら、何度も撲ちよる。女の子が泣いたら、蹴ってかしてまた殴って、おまけに顔につばまで吐きよんねん。みんな言うとったわ。あれはおかしい、普通やないでって」

 見かねた保育士が保健師に相談し、保健師が園医に話を上げた。

 園医いわく「脳に酸素がいかない時間が長すぎたため、脳器質に異変が生じ、性格に影響を及ぼしたのでは」とのことだった。

 ただし保護者である父×男が、治療に乗り気でなかった。「いらん世話だ」「ほっといてくれ」としか言わないため、園医や保健師はそれ以上介入できなかった。

 六歳六箇月で、釘沢はふたたび入院する。

 またも酔った父×男の仕業だった。父×男は釘沢を殴り、手足を粘着テープで縛り、口もテープでふさいでベランダへ一晩転がしておいた。

 呻き声を聞いた近隣の通報により、釘沢は保護された。助けだされたとき、彼は脱水症状により高熱を発していた。複数の骨折も見つかった。

 逮捕された父×男は、「酔っていた」「しつけのつもりだった」「あの子がおねしょを繰りかえすので、かっとなった」等と供述した。

 ここにいたって児童相談所がようやく動き、釘沢は養護施設へ行くことになる。

 しかし養護施設でも、釘沢は問題行動を起こしつづけた。

 小さい子をいたぶり、近隣住民が飼っている犬に石を投げた。子猫を盗んでは、川に沈めたり生き埋めにして遊んだ。

 同じ施設に住む女子が見かねて職員に言いつけると、釘沢はその子を逆恨みし、部屋に忍びこんで私物に火を点けた。

 その後、釘沢は父×男が住む自宅と、養護施設とを往復して暮らす。

 その頃の彼は小学生になっていた。夏休みや冬休みなどの長期休暇は、ほぼ施設で過ごした。父親が面倒を見きれなかったからだ。

 一、二年次の担任教師の評価は、

「友だちをいじめるのをやめましょう。もっとはきはき話すようにしましょう。すぐかっとするくせをなおすように。人の話をきけるようになりましょう」

 得意科目は算数。苦手なのは、国語と体育だった。

 彼の動きは妙にぎくしゃくしており、力の加減もできなかった。球技はとくに不得手だった。ドッジボールで当てられたことで怒り、相手へ飛びかかると、鼻骨が折れるまで殴りつづけたことすらあった。

 三、四年次の担任教師の評価は、

「いやがらせ、弱いものいじめがなおりません。女子の着がえをのぞくのはやめよう。算数の計算はよくできました。人のいやがることはしないように。ほかの人の立場で、ものを考えられるようになろう」

 そして小学六年生の夏休み中、釘沢は初の重大事件を起こす。

 強盗殺人であった。

 近所の家に侵入し、見とがめた主婦を包丁で刺して、現金二万八千円を奪ったのだ。通報者は郵便配達員である。

 被害者は、釘沢にも菓子や果物などをくれるやさしい女性であった。救急搬送されたものの、彼女は翌日死亡した。

 釘沢はすぐには捕まらなかった。だが事件後、目に見えて金遣いが荒くなった。あやしんだクラスメイトの通報により、彼は逮捕された。

 警察で釘沢はこう供述した。

「他人にほどこす余裕があんねんから、金持っとんのやろ、と思った」

 事態を重く見た家庭裁判所は、国立の児童自立支援施設への送致を決定した。また、最長二年間の行動制限を要する措置を認めた。

 このとき、担当の家裁調査官は記している。

「不幸な成育歴。休まらない家庭環境。保護者による虐待。夜尿症。放火。動物いじめ。そして人格形成期による虐待。あえてよくない言葉を使うが、まさに連続殺人者のテキストブック・ケース――教科書的条件を揃えた少年と言える」

「彼を自立支援施設で更生させることは、行政の急務である。彼のためだけでなく、同社会で共棲していくわれわれのためにも、急務なのだ」

 

 

 木枯らしの吹く肌寒い日だった。

 前橋刑務所の門から、風呂敷包みを抱えた男が出てきた。

 待ちかまえていたのか、一人の女が彼に駆け寄った。嬉しそうに胸の前で指を組んでから、はっと思いなおしたように一礼する。

「はじめまして。あのう、釘沢眞悟さんですね?」

 かなり前から待っていたのだろう。鼻の頭も指さきも、かじかんで真っ赤だった。

「わたしです。あらはるです」

「ああ」

 眞悟は不愛想に言い、女の頭のてっぺんから足の爪さきまでを眺めまわした。

 ――あかん。予想以上にブスや。

 思わず舌打ちが洩れる。

 とはいえ、はなから期待はしていなかった。刑務所の凶悪犯と文通したがる女が、モテる美人のはずがない。すくなくとも人並みの容貌なら、家でしこしこ手紙を書くよりも、彼氏と旅行やカフェめぐりのほうを選ぶはずだ。

 ――ま、それを差し引いても、冴えんおばはんやな。

 再度の舌打ちを我慢し、眞悟は気を鎮めようと深呼吸した。

 十一年ぶりの娑婆の風が、心地よく喉を通る。よどんだ空気ばかり吸っていた肺が一気にきれいになる気がした。

「行こか」

 風呂敷包みを小脇に挟み、眞悟は顎を上げた。

「はい」

 春奈がうなずく。従順にあとを付いてくる。

 だが「行こか」と偉そうに言ったものの、眞悟は行き先を知らない。

 なにしろ十年以上刑務所にいたのだ、浦島太郎状態である。街の景色は変わっただろうし、駅や電車も見知らぬシステムに一変したかもしれない。

 さりげなく歩を緩め、眞悟は彼女と肩を並べた。

「あんた、一人暮らしだよな?」

 なるべく標準語のイントネーションで尋ねる。

 眞悟は十二歳で、埼玉県の児童自立支援施設に送られた。それ以後、彼の言葉は標準語と関西弁のちゃんぽんになった。たまに訛りをからかわれることもあったが、そういうときは拳と罵声で解決してきた。

「はい。もうずっと一人です。いまはアパート住まいです」

「ふうん」

 気のない相槌を打ちながら、眞悟は店のガラスに映った自分を覗いた。やや伸びた前髪の乱れを、指でなおす。

 目鼻立ちは悪くない――。眞悟は己をそう評価している。

 育ちをあらわす歯並びと、目つきの悪さはどうしようもない。しかし顔立ちそのものは母親似で甘い。体は刑務所の粗食と運動で引き締まっているし、身長だって百八十センチを超える。

 ――それに引きかえ。

 隣に立つ女は、ガラスに映る姿もやはり冴えない。

 流行を知らぬ眞悟にも野暮ったいとわかる、タータンチェックの巻きスカート。いかにも安物のコート。毛玉だらけのニット。

 年齢は眞悟より三つ上の三十六歳らしいが、それにしては白髪が多い。体つきはスリムというより、痩せすぎて貧相だ。化粧っ気のない額では、大きな吹き出物がひとつ膿んでいる。

 ――まあ、ええわ。

 彼は自分に言い聞かす。

 ――しばらくこのおばはん家で、タダで寝泊まりするだけや。当座のヤサになるならそれでええ。

 眞悟は満期出所である。

 したがって保護観察の要はなく、身元引受人もいらない。

 気楽なことは気楽だが、なにしろ十一年ぶりの娑婆だった。寝泊りできる当てがないのは、やはり困った。

 財布の中身は、刑務作業で得た報奨の残金八千四十七円のみ。収入は一月約四千円だったが、ティッシュや下着など日用品の購入にほぼ使ってしまった。

 実父はとうに肝臓癌で死んだ。親しい親戚もいない。かといって、行政は頼りたくなかった。保護司や人権屋のNPOもまっぴらだ。

 ――その点、このおばはんは持ってこいや。

 春奈がはじめて眞悟のもとへ手紙を送ってきたのは、三年ほど前のことだ。眞悟の事件および生い立ちを、週刊誌の記事を読んで知ったという。

「わたしはあなたの無実を信じます」

 桜の模様を透かした便箋に、几帳面な筆跡が並んでいた。

「あなたはけっして悪人じゃない。わたしにはわかります。あなたはほんとうは心のやさしい、いい人なんです。そうですよね?」

 刑務所で暇をもてあましていた眞悟は、返事を書いた。

「もちろんぼくは、む実です」

「あなたがぼくを理かいしてくれてうれしい。ほかに、わかってくれる人はだれもいません」

「ありがとう。どうかぼくを、見すてないでください」

 三年の間、眞悟が返事を書き忘れることは間々あった。それでも文通は、月に二、三回の頻度でつづいた。

 もうすぐ出所だと書き送ると、春奈は大喜びで「必ず迎えに行きます」と返事をよこした。「必ず、必ず行きます。門の前で待っています」と。

 ――よっぽど男にモテへんねやろな。

 春奈から見えぬよう、眞悟はひそかに唇を曲げた。

 以前の手紙によれば、彼女は薬剤師らしい。資格持ちなら稼ぎはそこそこだろうに、この歳で男日照りとはみじめだ。きっと処女だろう。ボランティアでセクハラしてくれる同僚さえいなそうだ。

 眞悟は顎をしゃくった。

「歩くのん、だるいな。あんたのアパートまでタクシー拾おか」

「あ、いえ、電車で……」

 そのとき眞悟は、前方から来る男に気づいた。

 いかにもなチンピラである。だぼっとしたジャージのセットアップに、せつ履き。肩にひっかけた革ジャンだけが不釣り合いに高そうだ。

 目が合ったことに気づくと、男は三白眼さんぱくがんで眞悟を睨めつけた。

 肩を揺すりながら近づいてくる。眞悟より背は低いが、体重は十キロ以上重そうだった。喧嘩慣れした空気が、全身から立ちのぼっていた。

 眞悟はわざと目をそらさなかった。歩みも止めなかった。

 気配を察したか、春奈が数歩後ずさるのが、視界の端で見えた。

 チンピラと眞悟は睨み合いつづけた。お互いの距離が、徐々に詰まっていく。あと三メートル。二メートル。一メートル。

 したたかに肩がぶつかった。

 だが両者ともよろめきはしなかった。見えないゴングが鳴った気がした。顔を近づけ、鼻と鼻が触れそうな距離で睨み合う。

「んだぁ、ゴラぁ」

 チンピラが唸った。臭い息が眞悟の鼻孔を襲った。煙草とコーヒーと、歯槽膿漏が入り混じった悪臭だ。

 眞悟はにやりとし、棒読みで言った。

「スミマセンデシタ」

「あ?」

「スミマセン。ぼく、目が悪いもんで、知り合いかと……」

「てめえ」

 ふざけてんのか――とつづけながらも、チンピラがふっと気を抜くのがわかった。肩がわずかに落ちる。

 その脛をめがけて、眞悟は思いきり蹴りをはなった。

 チンピラが小さな悲鳴を上げた。体勢が崩れる。前かがみになる。

 眞悟はチンピラの肩を掴み、顔の真ん中に膝を叩きつけた。鼻骨の折れる爽快な感触がした。鮮血が飛び散った。

 チンピラが呻いて膝を突く。眞悟はその胸を蹴り、仰向けに倒した。ためらいなく、チンピラの顔面を踏みつけた。さらに前歯を狙って、思いきり踵を落とす。

 二本ほど折れたのがわかった。気持ちよかった。

 眞悟は何度も何度も、チンピラの顔面に靴底を叩きつけた。五、六回目あたりでチンピラは意識を失った。わかってはいたが、つづけた。

 チンピラの顔面はいまや朱に染まり、どこが目か鼻かもわからなかった。ケチャップまみれの生肉を思わせた。鼻血で窒息しかけているのか、上下する胸の動きが不規則だった。わずかに痙攣もしていた。

 通行人が彼らを大きく迂回し、見て見ぬふりで足早に通り過ぎる。

 眞悟は歩道の敷石に靴底を擦りつけ、血を拭った。チンピラの横にしゃがむ。ポケットを探ると財布があった。札入れから現金だけ抜いて、財布はほうった。

 振りかえると、春奈は電柱の陰にいた。

 顔が真っ白だ。震えながら、彼をうかがっている。

「行こか」

 眞悟は立ちあがると、ふたたび顎をしゃくった。

 春奈がおずおずと電柱の陰から出てきた。へえ、と眞悟は思った。

 ――おばはん、意外と度胸あるやんけ。

 

 

(つづく)