正直、座りこんで小便でも洩らすかと予想していた。
いきなりチンピラに喧嘩を売ったのは、春奈に恐怖を植えつけるためだ。女を支配する一番簡単な手段は、暴力による恐怖支配である。
殴られるかも、と思うだけでたいていの女は身がすくむ。暴力と無縁に生きてきた女ほど恐怖に屈する。タクシー代くらい進んで出す女に、一瞬で変貌するのだ。
――いや、度胸とはちゃうか。
おれを逃したら、二度と男にはありつけんと思うとるんか。
「タクシー」
「え?」
「タクシー」
「あ……はい。いま拾います」
春奈が慌ててうなずく。車道を覗き、空車を探しはじめた。
「来ぇへんな」
「ま、待っててください。いま配車アプリで……」
タクシーは一分ちょっとで到着した。
春奈はきちんと、彼を奥の上座へ座らせた。座席の間から身を乗りだし、運転手に行き先を告げる。
「すみません。伊勢崎市までお願いします。伊勢崎市の境町。××センターわかりますか。はい、その近く」
タクシーが走りだした。
後部座席の快適なシートに背を預け、ふと眞悟は思いだした。
「あれ? あんた、神奈川住みじゃなかったか?」
春奈が彼を見た。
「そうだ。手紙の宛先、川崎市やったやんな? 群馬じゃなかった。なんで――」
「先月、引っ越したんです」
恥ずかしそうに春奈は笑った。
「眞悟さん、あまり遠くに行きたくないって言ってましたよね。故郷にも帰りたくないって。わたしは資格持ちで、転職もけっこう有利ですし……」
要するに眞悟のため職場を変え、前橋刑務所のある群馬まで引っ越してきたらしい。
――おばはん、マジかい。
眞悟は驚いた。
と同時に、なぜか胸がじわりと湿るのを感じた。彼自身にも意味のわからぬ「じわり」であった。
だがその湿りの正体を突き詰めるのも面倒だった。
眞悟は腕組みし、目をつぶった。
「ちぃと寝る。――アパートに着いたら、起こしてや」
4
十一年ぶりに見る“日本社会”は、思ったほど変わっていなかった。コンビニよりドラッグストアの看板が目立つようになり、個人商店がさらに減ったくらいか。
若者のファッションにも大きな変化はなかった。
ただ女子高生はカーディガンでなくベスト、ハイソックスでなくアンクル丈ソックスが主流になったようだ。男も女もおとなしそうで小ぎれいで、覇気のない腑抜けた顔をしていた。
――まあマイナーチェンジ、って程度やな。
春奈はタクシー代を「PayPay」とやらで払った。ここが一番の変化かもしれなかった。眞悟が娑婆にいた頃も、キャッシュレスの波は押し寄せてはいた。だが、あれからさらに一段階も二段階も進んだらしい。
――ふん。強盗もでけへんやんけ。
眞悟は内心で嘆いた。
――人が現ナマを持ち歩かん世の中じゃあ、タタキも泥棒も上がったりや。せいぜいで、箪笥預金しとる爺婆くらいしか狙われへんで。
春奈のアパートは、狭くるしい1Kだった。
入ってすぐに一・五帖ほどのキッチンがあり、その奥に六帖ほどの洋室。掃き出し窓は南東向きのベランダに繋がっている。あとはユニットではないバストイレに、申しわけ程度のクロゼットがあるだけだ。
「これ、どこで寝んの?」
「あ、この洋室にお布団を敷いて……。テーブルをたたんでクッションをどければ、二人ぶんのお布団、ちゃんと敷けます」
「ふうん」
部屋に家具はほとんどなく、がらんとしていた。
家電も最低限のようだ。入口のすぐ脇に洗濯機。キッチンには冷蔵庫と炊飯器とレンジ。壁のエアコンは備え付けだろう。あとはテレビと電気ポット、卓上にノートパソコンがある程度だ。
換金できそうなのはノートパソコンくらいか、と眞悟は見当を付ける。
他の家電はどう見ても使い古されており、引っ越しにあたって新調したものではなかった。売り払ったところで二束三文である。ブランドもののバッグや、貴金属のたぐいも見当たらない。
「あ、ごめんなさい」
突然、春奈が掃き出し窓を開けた。
ベランダに下着を干していたことを思い出したらしい。あたふたとピンチハンガーごと片づける。色気のない焦茶かベージュの、しかも幅広の下着ばかりだった。眞悟はげんなりした。
「あーあ、腹減ったなあ」
わざと大きな声で言ってやる。
壁掛けの時計によれば、午前十時ちょっと過ぎだ。まだ昼どきには遠いが、ムショ飯以外のものが食べたかった。
――女がこんなんやもんな。せめて飯と酒くらい楽しまんと。
「あ、はい。いま用意します」
ピンチハンガーをしまい終え、春奈が愛想笑いをした。
春奈が用意した昼食は、ホットプレートでの焼肉だった。
肉は牛のモモ肉とバラ肉、カルビで、きれいな真っ白い脂が網目状に走っていた。おまけに気が利くことに、ビールまで冷えていた。
「ほんとは晩ごはん用だったけど……。お祝いなんだし、いいよね。長いおつとめ、ご苦労さまでした」
言いながら、春奈が彼のグラスにビールを注ぐ。
眞悟はひと息に飲み干した。
爽やかな苦みが喉を通って、食道から胃まで落ちていく。たまらなかった。
彼が児童自立支援施設を退所したのは、十五歳の春である。施設内の中学校を卒業後、社会復帰を許されたのだ。
酒の味を覚えたのは、退所後わずか二箇月後のことだ。繁華街をぶらつくうち、自然と知った味だった。
もともと酒好きの家系である。アルコールの強さで粋がりたい年頃でもあり、じきに浴びるほど飲むようになった。
――けどムショん中じゃ、いやでも禁酒やからな。
眞悟はたらふく肉を食い、ビールを飲んだ。
野菜は、春奈が焼いてくれた玉葱や椎茸、ピーマンをすこし食べた。
焼肉のたれは市販のものだった。以前に手紙で書いたことを覚えていたらしい。食べつけない味は好きではなかった。甘辛くて、味が濃くて美味かった。
「安物でごめんね」
と、春奈はビールのあとにワインの瓶を出してきた。
「べつに、こんな洒落た酒でなくてええのに」
眞悟は言った。本気だった。
「ペットボトルの焼酎で、全然かまへ……かまわなかったよ」
「でも、お祝いだもの」
春奈は微笑み、冷蔵庫を開けた。
「それに、これも。――夜までもったいぶらずに、もう食べちゃおうか」
取りだされた化粧箱の中身に、眞悟は目を見張った。
ケーキだった。しかもホールケーキだ。
二人ぶんだからか大きさはさほどでもない。だが生クリームたっぷりで、いちごやベリーなどのフルーツが飾られ、チョコレートで『Congratulations! 』と書かれたプレートまで載っていた。
じつは眞悟は甘いものが好きだ。
というか施設や刑務所暮らしが長いと、誰しも自然と好きになる。貴重で、滅多に口にできないからだ。
正月等の祝日に特食として出る饅頭、市販のビスケットやクッキー、一口羊羹などに、泣く子も黙る強面の男たちが夢中でむしゃぶりつく。チョコやクリーム系はとくに人気だが、ケーキなどクリスマスにしか出てこなかった。
眼前で、バニラエッセンスが甘く香った。
眞悟の喉がごくりと鳴った。
胃そのものは、肉とビールで満たされている。なのに口中につばが湧いた。「甘いものは別腹」という意味が、ようやく真にわかった気がした。
「大きく切ってや」
「はい」
言われたとおり、春奈はケーキを四等分してから、自分のぶんを一切れ取った。そして残りをそっくり眞悟によこした。プレートも飾りも、すべて眞悟のほうのケーキに載っていた。
「こんなケーキ、食うたことないわ」
なかば無意識に眞悟はつぶやいた。そして直後に後悔した。
――なに言うてんねんおれ。阿呆か。
こないなおばはんに、しょうむないこと言ってもうた。いくらなんでも気ぃ抜きすぎやで。
眞悟はケーキにフォークを入れた。噛みつくように口へ入れる。
スポンジが口の中で溶けた。
刑務所で食べたクリーム付きカステラとは、まるで別ものだった。
クリームは甘さ控えめで、むしろ爽やかだった。口中に糖分のべたつきがまったく残らない。フルーツは新鮮で、熟れた香りが鼻孔に抜けた。
がつがつと眞悟はケーキを貪った。そんな彼に、春奈が紙袋を差しだす。
「眞悟さん。これ、約束のもの」
某有名通信会社の紙袋だ。
眞悟は右手でフォークを使いながら、左手で受けとった。膝に置き、袋をひらく。
新品のスマートフォンの箱と、銀行の封筒がおさまっていた。
――出所のお祝いになにか欲しいものある?
約一箇月前、春奈は手紙でそう訊いてきた。
眞悟はすぐに返事を送った。
――スマホと、とう座の元手。いまはスマホがなかったら、シューカツもできないんでしょう? あなたのためにも、ぼくは早くはたらき口を見つけたい。
眞悟は箱を開けた。
iPhoneだった。色は希望どおりのメタリックブラックだ。
銀行の袋には、ピン札が十枚入っていた。一万円札らしいが、眞悟の知らない肖像が刷られていた。
「スマホはわたしの名義で買ったけど、そのうち眞悟さんの名義に変えようね」
「毎月の料金は?」
「それも、いまはわたしの口座から落ちるようにしてある。けど名義変更する頃には、眞悟さんの口座もできてるだろうし……」
「ふうん」
眞悟が服役した十一年前、これほどスマホは普及しきっていなかった。だが、刑務所でもテレビは観られる。世がスマホ一色になったことくらいは、さすがに知っていた。
眞悟はケーキをたいらげ、春奈に基本的なスマホの使いかたを訊いた。
意外と簡単だった。顔認証機能を設定し、LINEアプリのアカウントを作り、春奈を友達登録してから、ポケットに入れた。
「電話もできんねんな」
「うん。LINE電話なら料金もかからないよ」
「そらええな」
返事のなかばで欠伸が洩れた。ひさしぶりのアルコールが、とろりと心地いい眠気をもたらしていた。
「ちょお寝るわ」
言うが早いか、眞悟はフローリングの床へ横になった。
薄闇の中、はっと目を覚ました。
知らない天井だった。眞悟は跳ね起きた。見慣れぬ室内を見まわす。身を硬くし、警戒しながらあたりをうかがった。
新木春奈の部屋だ――と悟ったのは、数十秒後だ。
そうやった、おれは娑婆に出たんや。そんで、あのおばはんのアパートに連れてこられた。スマホをもろた。金ももろた。飯も、たらふく食うた。
自分の体にブランケットがかかっていると、そのときようやく気づいた。なんの素材なのか、やけにふんわりと暖かだった。
半びらきのカーテンの向こうは夜であった。とうに日は落ちたらしく、藍を帯びた黒が世界を染めている。時計が指す時刻は午後八時十二分。
――めっちゃ寝てもうたな。
おばはんはどこや、と春奈を目で捜す。
キッチンへつづくドアがわずかにひらき、声が洩れ聞こえてきた。
「うん。……うん、そうなの? ……わかった、うん。……じゃあ、はい。今日は寒いから、あったかくしてね……」
どうやら電話中らしい。親しい相手だと、声の調子でわかった。
眞悟はわざと、膝を立てて足をどんと踏み鳴らした。
春奈が電話を切る気配がする。すぐに彼女が、慌てたように顔を覗かせた。
「起こしちゃった? ごめんなさい」
「いや……」
口では「いや」と言いながら、眞悟は不機嫌を隠さずに顔を手で擦った。
なぜかわからないが、苛立ちを感じた。「孤独なおばはん」だと舐めていた春奈に、電話で談笑する相手がいることが腹立たしかった。
「ちょっと」
春奈を手まねいた。怪訝そうに、春奈がキッチンを出て近づいてくる。
「こっちこっち」
彼のそばに春奈が膝を突いた。眞悟はその手首を掴み、ぐいと引き寄せた。
春奈が小さく声を上げた。
そのまま床に押し倒す。
春奈は身をもがいた。弱々しい抵抗だった。しかし、諦めて力を抜く様子はなかった。眞悟を押しのけようと腕を突っ張り、腿を閉じて抗いつづける。
「なんだよ」
眞悟は鼻を鳴らした。
「布団、敷いてからでないと駄目か? 背中痛いか?」
「そ、そうじゃなくて」
春奈は唇を噛んだ。
「せ……いり」
「あ?」
「せ、生理の三日目で。あの、わたし、重いほうで、だから」
「……ああ」
興醒めして、眞悟は彼女の手首を放した。なんやねん、と思った。
――なんやねん。ブスおばはんでも、今夜くらいは我慢して抱いたろかな、と思うとったのに。
舌打ちし、あらためて彼女を見下ろす。貧相な体が、野暮ったい服の中で泳いでいた。白髪まじりの髪。薄い胸と尻。乾いた唇は皮が剥け、けばだっていた。
昂ぶりは一瞬にして萎えていた。苛立ちが起こした昂ぶりだった。
代わりに込み上げてきたのは、自分でも意味のわからぬ憤怒だった。
「さっきの男か?」
唸るように眞悟は問うた。
春奈が目をしばたたく。
「え?」
「とぼけんな。さっき電話しとった男や」
眞悟は怒鳴った。
つばが飛び散った。ブランケットを蹴り飛ばす。
「え、いえ。あれは職場――」
「デキとんのか。男がおんのに、おれを自分のヤサに引っぱりこんだんか。ブスのくせして、魔性の女気取りかい、ええ? 舐めとんちゃうぞ、この股ユルばばあが。ぶち殺したろか」
怒鳴りながらも、まずい、と頭の片隅で思った。
まだ早い。初日や。このおばはんを、まだ怒らしたらあかんのに。
――いつもこうや。
眞悟は内心でほぞを噛んだ。
いったん怒りだすと、自分でも止められない。感情の抑制が効かない。制御できない衝動と怒りに振りまわされ、いつも駄目な選択ばかりしてきた。
クラスメイトを殴ったときもそうだ。菓子をくれるおばちゃんを刺したときもそうだ。説教好きな保護司を、斧で撲ちのめしたときもそうだった。
――あかん。
眞悟は立ちあがった。そして春奈を突きのけ、部屋を飛びだした。
春奈がなにか叫ぶのが、背中越しに聞こえた。だが眞悟は振りかえらなかった。沓脱で靴を突っかけるのが精いっぱいだった。
逃げるように、彼はアパートを出た。
正解や、と走りながら己に言い聞かす。
それでええんや、正解や。あのままアパートにおったら、おれはあのおばはんをぶん殴っとった。まだ使い道のある金づるを、みすみす台無しにするとこやった。
二百メートルほど走って、足を止めた。
荒くなった息を整えようと、電柱に手を突く。
冷えた仲秋の夜気が、彼の頬を撫でた。
とうに日は暮れ、世界は夜だった。街灯の光だけが、夜闇をくり抜いたようにぽっかりと白い。
眞悟は歩きだした。
夜行性の虫が本能的に光を求めるように、明るいほうへ向かってただ歩いた。
行きついた先は、駅だった。
電柱にもたれ、改札を抜けて出てくる人々を無言で眺めた。一人目は男。二人目は女。口の中でカウントする。男。男。女。男。女。男。女。女。
やがて、二十二、三歳に見える女が現れた。
眞悟好みの、色白でむっちりした女だ。
ショート丈のコートに、首の後ろでひとつにまとめた髪。会社員だろうか。垢抜けた小生意気な雰囲気が、眞悟の気をそそった。
女が改札を抜ける。駅を出て歩きだす。
眞悟は女のあとを追った。
気取られぬよう、必ず一定の距離をおいて尾ける。足音が相手に聞こえるほどは近づかない。
それは、もっと人気がすくなくなってからだ。足音でプレッシャーをかけるのは、あたりにもっともっと人がいなくなって、街灯も途切れて、彼に有利なシチュエーションが出来あがってからだ。
だが、空振りだった。
女はしばらく歩いたところで立ちどまり、待っていた4WDに乗ってしまった。どうやら家族か彼氏が迎えに来ていたらしい。がっかりだった。
だが眞悟はすぐに気を取りなおした。
新たな獲物が見つかったからだ。
今度のは、もっとよかった。小柄で非力そうだった。そしてやはり、色白でむちっとしていた。膝丈のスカートから突き出た足が、太くはないがけっして細すぎず、いい具合に肉感的だった。
眞悟は女を尾けた。
今度は車での迎えはなかった。女は迷いなく歩いていった。向かった先は住宅街だった。静かで、街灯がすくなく、防犯カメラもなさそうだ。
たどり着いた先はアパートだった。
外階段を上っていく背を、眞悟はすこし離れた位置から見守った。二階の奥の部屋に電灯が点く。カーテン越しに、女のシルエットが映った。
眞悟はぐるりと一帯を歩きまわった。
そして隣家の塀から、アパートの雨樋に飛び移れることを視認した。
眞悟は運動神経はからきしだ。しかし腕力はあった。五階の高さまで、腕の力だけで雨樋を登りきったことがある。二階など楽勝だった。
隣家の敷地に潜りこむべく、眞悟は生垣を手でかき分けた。
(つづく)