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 自転車に乗ってスーパーへ向かう途中、佳恵はこの近くでは見かけない中年男性とすれ違った。年齢は四十代くらいだろうか。マスクをして、くたびれた上着を羽織り、何かを大量に詰め込んだ紙袋を両手にさげている。

 背中を丸めながら、ハアハアと荒い息づかいで、ゆっくりと道路脇を歩いている。

 男が家の方角へ向かうのを見て、佳恵は少しだけ不安な気持ちになった。

 

 なにやら胸騒ぎがしてきた佳恵は、スーパーに着くと、お菓子やジュースを手早く選んで買い物カゴに放り入れ、レジの行列に並んだ。

 早く帰宅したいのだが、運悪くレジはいつもより混んでいる。

 すると佳恵の耳に、後ろに並ぶ奥様二人の会話が届いてきた。

 

「そうだ、聞いた? 昨日ここらに不審者が出たらしいわよ」

「あー、学校の連絡メール回ってきた。怖いよねえ…」

 

 不審者という言葉に、先ほど見た中年男性の怪しげな様子が重なった。

 ますます落ち着かない気持ちになった佳恵は、スーパーを出ると急いで自転車に飛び乗ったが、こんな時に限って、帰り道の踏切で遮断機が下りてしまった。

 

 カン、カン、カン、カン…… カン、カン、カン、カン……

 

 近所にあるこの踏切は、特急、急行、準急、普通列車が入り交じるせいで、朝夕の時間帯は、開かずの踏切になってしまうのだ。

 どうして、子どもだけを家に残して買い物に出てしまったんだろう。

 佳恵の不安と苛立ちは、鳴り止まない警報音と共に大きくなるばかりであった。

 

 ようやく帰宅した佳恵は、ホッとひと息つく間もなく、すぐに違和感を覚えた。

 騒がしかった子どもたちの声が、家のどこからも聞こえてこないのだ。

 

「めいーっ みんなーっ どこー?」

 

 家中を探し回ったが、子どもたちの姿はどこにもない。

 もしかすると、別の子の家で遊んでいるのだろうか。

 子どもたちは気まぐれだ。そういうこともたまにある。

 もう用事は終わっただろうか。一番近くの優香ちゃんママの所から確かめてみよう。

 佳恵は抑えきれない不安が胸の内に膨れあがるのを感じながら玄関から走り出ると、正面にある笹原家のインターホンを押した。

 

「ああ、鈴木さん」

「すいません、優香ちゃんは…」

「うちでゴロゴロしてる」

「あの…芽衣はおじゃましていないですか?」

「えっ…?」

 

 佳恵から連絡を受けて驚いたママ友たちは、子どもを連れて佳恵の家の前に集合すると、子どもたちから話を聞いて状況を確認し合った。

 家の中でかくれんぼをしていたのだが、その途中で芽衣の姿が見当たらなくなってしまった。きっとママを探しに外へ出て行ったのだろうということになり、子どもたちはそれぞれの家へ帰ることにしたのだという。

 ママ友の一人が、ご近所仲間のグループLINEに連絡を流してくれたが、すぐに返信があって、このあたりでは誰も芽衣の姿を見ていないという。

 思ったより深刻な状況にママ友たちの顔色も変わり、「私この辺を探してきます」「私も…」などと、みんなで手分けして芽衣を探すことになった。

「大丈夫、すぐ見つかるから」と励まされても、佳恵の不安は募るばかりであった。

 

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 鈴木忠彦は、東練馬総合病院で働く看護師だ。

 男性で看護師をしていると驚かれることも多いが、実は同世代の男性の平均給与よりも稼げるうえに、女性が多い職場なので体力面で役に立てることも多く、さらにはキャリアアップもしやすいので、忠彦からすればお勧めの職業である。

 そうした事情が少しずつ知られてきたのだろう、最近では男性の看護師もかなり増えてきた。

 何よりも、人の役に立つ仕事がしたい、人に寄り添う仕事がしたい、そんな想いが人一倍強い忠彦にとって、看護師はまさに天職といえる職業であった。

 

 恵まれた職場環境と、やりがいのある仕事。

 美しい妻と、可愛い娘。

 二十代の若さで手に入れたマイホーム。

 いつまでも、幸せな日々が続くと思っていた。

 その日、ナースステーションで、妻からの電話を受けるまでは。

 

 佳恵から「芽衣が行方不明になった」という緊急の電話を受けた忠彦は、仕事を早退すると自転車に飛び乗って家路を急いだ。

 自転車通勤できるほどの近さなのに、今日に限ってはもどかしいほど遠く感じる。

家の前に着くと、パトカーが停まっており、近所の人たちが心配そうに様子をうかがっている。

 息を整える間もなく家へ駆け込むと、警察の事情聴取を終えた佳恵が、まさに調書へサインをするところであった。

 忠彦が「芽衣は…?」と問いかけると、佳恵は暗い表情で首を横に振った。

 

「何かわかりましたら、すぐにご連絡します」

「よろしく…お願いします」

 玄関で警察官を見送った忠彦は、芽衣の靴が転がっていることに気がついた。

 靴もはかずに外へ出たなら、自分の意志とは考えにくい。

 込み上げてくる不安を抑えながら、忠彦は娘の靴を綺麗にそろえ直した。

 

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