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 さらに二週間後、洋子は櫻を再び招いた。

 時計を見る。十一時五十七分。櫻はいつも十二時きっかりにチャイムを鳴らす。洋子はそわそわと鏡の前で自らの姿を確認する。口紅は取れていないか、髪は乱れていないか。着ているワンピースは十年以上前に買ったもので、なかなか捨てられずにいたものを引っ張り出してきた。クリーニングには出したものの、防虫剤の臭いが残っていないだろうかと気にかかる。

 年甲斐もなく、と思われるだろうか。引き攣った愛想笑いを浮かべられでもしたらどうしよう。やはり普段通りのシャツにジーパンという格好をすべきだろうか。ぐるぐると思案しているうちに、時刻は十二時に近づいていく。

 そして、チャイムが鳴る。びくん、と洋子の心臓が跳ねた。大きく息を吸って、インターホンに出る。こんにちは、お約束で参りました、と櫻のいつもの挨拶が聞こえてきた。滲む手汗をスカートの裾で拭って、玄関のドアを開ける。

「お邪魔しまーっす。てかさあ、今日あっつくない? 昨日が寒かったからさぁ、あったかい格好してきたけど、半袖でもよかったかもって感じ!」

 靴を脱ぎながらまくしたてていた櫻だが、洋子の顔を見てはたと何かに気付く。洋子の肩が強張る。

「あれーっ、洋子さんどうしたのその服! めっちゃ可愛いじゃん!」

 求めていた言葉を口にされ、面映ゆくなる。「こんな服、年甲斐もなくって思うんだけど」とつい、言われたくない言葉を先回りして放ってしまう。

「そんなことないって! 洋子さん細くてスタイルいいから、そういう格好すごく似合うと思うよー」

 ありがとう、と小さく礼を言い、洋子は俯く。

 櫻の吐く美辞麗句が商売用のものだったとしても、洋子にとっては甘ったるい毒のようだった。口にすれば自らの身を蝕むことは分かっている。けれどまたその言葉が欲しくてたまらなくなる。老女専門の男娼くらいしか、与えてくれるわけがないと知っていつつも。

 家に通され廊下を歩く櫻が、奥に続く台所を覗き込む。いつもと違い、今日は電気が点いている。まな板や包丁が置かれていることに気付いたようだ。

「あれ、何か作ってたの?」

「ああ、ええ。ちょっと、お昼ご飯にカレーでも作ろうと思って。でもごめんなさいね、間に合わなくて。また店屋物でもいいかしら」

「えーっ、俺カレー食べたい! いいじゃん、今から一緒に作ろうよ!」

「い、一緒に?」

「うん! 俺こう見えても結構料理とかするんだよ?」

 櫻が無邪気に笑う。こんなことになるならシンクをもっと掃除しておけばよかった、と後悔しながら、櫻を台所へ通す。

 自称するだけあって櫻の手際は確かに良かった。洋子がにんじんやじゃがいもの皮を剥く間、食材を刻む音は軽快で、普段から料理し慣れている人間の手つきだった。

 牛肉や野菜を切り終え、洋子が具材を炒める隣で、櫻が洗い物をする。

「あー、洋子さん、袖落ちてきたー」

 櫻が泡にまみれた手で懇願してくる。洋子が袖を捲り直してやると、「ありがとー」とへらっと笑う。

 台所でこうやって並んだのはいつぶりだろう。幼い頃、母に料理を教えてもらって以来かもしれない。洋子にとって台所とは最も孤独を感じる場所だった。自分しか食べない料理を自分で作り、そして一人で食事する。作るうちからその光景が浮かんできて、虚しさに襲われる。だから自炊という行為がどんどんと億劫になる。誰かのために何かをすることがない日々は、洋子の心に影を落とし続けていた。今ようやく、陽の射したような心地になっていた。

「あ、そういえば俺、洋子さんに言っておかなきゃいけないことがあるんだよね」

「いけないこと?」

 妙に不穏な言い出しではあったが、櫻の口調の軽さに洋子は特に気に留めず鍋の中身を炒め続けていた。しかし、「今日、家に来るときに近所の人に呼び止められちゃって」と続いた言葉に思わず手が止まる。

「近所の人?」

「そう。背が小さい眼鏡かけたおばさんで、めっちゃ早口の人」

「……熊谷さんだわ」

 洋子の胸中に嫌な想像が入り込んでくる。近所に住んでいて、以前から家族ぐるみで付き合いがあるが、洋子にとってはおしゃべりでお節介な人という印象しかない。

「その人がね、あなた、この前もこの家来てたわよねって。どういうご関係なのって」

 無理からぬことかもしれない、と洋子は唇を噛む。この家に客人が来ることはごく稀だ。にもかかわらず、髪を金に染めた若い青年が出入りしているのを見れば、不審に思うのは当然だ。

「そのおばさんが洋子さんとどういう関係か分からなかったからさ、洋子さんの知り合いって言ったらボロが出そうだなと思って。だから俺、咄嗟に言っちゃったんだよね。洋子さんの旦那さんの親戚なんですって」

 火にかけられた鍋の中身が音を立てる。肉や野菜が悲鳴を上げているようだ、と洋子はぼんやりと思う。再びゴムベラを動かすと、断末魔のようにじゅうじゅうと叫ぶ。

「そしたらさ、えっ? って顔されて。河津さん、旦那さんなんていないわよ、あの人はずっと独り身よ、って。俺、びっくりしちゃって。慌てて、洋子さんのお父さんのことですってとりあえず言い訳したんだけどさ」

 肉の焼ける匂いが台所に広がっていく。洋子は火を止めた。小さくなっていく悲鳴に掻き消されそうな声で、「ごめんなさい」と洋子は呟いた。

「嘘ついてたの。ごめんなさい」

「いやいや、謝ることないって!」洗い物を終えた櫻が、かかっているタオルで手を拭う。「俺たちに本当のこと全部話す必要なんてないんだからさ」

「でも、気分悪かったでしょう、嘘つかれて」

「そんなことないよー。むしろ俺こそごめんだよ。本当はさ、わざわざこんなこと言う必要ないんだけどさ。でも、洋子さんがご近所さんと話すときに行き違いあったらやだからさぁ。あ、炒め終わった? 水入れていい? こういうとき、普段水道水使ってる?」

 洋子はシンクの下の扉を開け、ペットボトルに入ったミネラルウォーターを取り出す。櫻はそれを受け取り、計量カップに注いでいく。

「だからまじで気にすることないよ! ほんとのこととか言わなくてもいいし、俺は洋子さんの旦那さんの代わりってことのままでいいし。あ、ちょっとごめんね、火かけるね」

 櫻が手を伸ばし、コンロのつまみを捻る。ちちちち、と点火する音がして、真っ赤な炎が鍋の底を叩いた。櫻が火力を調整し、中火に落ち着かせる。

 洋子はその火を眺める。手の平にはじっとりと汗をかいていた。自分のついた嘘がばれてしまったことへの焦燥と羞恥が、洋子の頭の中を支配して、何も考えられない。ここが自分の家でなければ、すぐにでも飛び出していただろう。

「結婚なんて、したことないの」

 洋子が震える声で話し始める。櫻はその横顔をじっと見つめている。

「結婚どころか、恋人だって、一度もできたことない。結局そのまま、ずるずるとこの歳に。だから、男の人と、セックスしたことないの。処女なのよ、私、この歳で。笑っちゃうでしょう」

 いっそ笑ってくれ、と洋子は願うが、櫻は頬をぴくりとも動かさず、洋子の話の続きを待っている。洋子はだらりと眼前に垂れてきた髪を、耳にかけ直す。

「セックスなんて、って、若い頃は思ってた。でもね、歳を重ねるごとに、想像するようになったのよ、男の人に抱かれる自分の姿を。一度想像すると歯止めが利かなくて。でも、もうこんな年齢で、相手してくれる人もいなくて。それに、悔しくて、寂しかったのよ。みんながしてることを、私だけがしないで死んでいくなんて、嫌で嫌で仕方なかったの。それに、なんだか惨めでしょう。まるで人間としてちゃんと生きていないみたいで。だから……あなたを呼んだの」

 洋子が銀楼館を見つけたのは半年ほど前だった。

 母という存在で堰き止められていた洋子の性欲は、二年前の彼女の死により溢れ出した。孤独の裏返しだったのかもしれない。ネットで違法アップロードされたアダルトビデオを漁り、自らを慰め、けれどいつしかそれだけでは事足りなくなっていた。その欲望を発散する術を持たない彼女が、女性用風俗というジャンルに行きついたのは、自然ともいえる流れだった。

「でも、いざそういうことをしようってなると、怖くなってしまって」

「怖い? セックスするのが?」

「そうね。やっぱり、どうしても……怖くて」

 洋子が怖いのは性行為自体のことだけではなかった。つやも張りも失った、女としての魅力がなくなってしまった裸体を晒すこと。孫ほどの年齢の青年に身を委ね、こんな老婆がと冷笑されること。それらの恐怖が性欲を凌駕して、強い拒否反応へと変化した。

 それでも櫻を二度三度と呼んだのは、次はできるかもしれないと期待を抱いたからだ。結果、洋子は何もできなかったけれど。

「まあ、初めてだもんね。怖いのは仕方ないよ。でもさあ、普通に言ってくれればよかったのにー。旦那さんがいたなんて嘘ついたりしないでさ」

「そんなこと、言えるわけないわよ」

「どうして?」

「どうして、って……みっともないじゃない」

 鍋の中身が煮え立ち始め、じゃがいもやにんじんの隙間に小さな泡が浮き出てくる。先程から櫻は洋子をじっと見つめている。手はタオルの端をいじったりシンクの上で指を踊らせたりと絶え間なく動くが、視線だけは洋子を捉えたままだ。洋子はそんな櫻の顔を見ることができず、鍋の中身ばかりを眺めている。

「こんな歳で、処女で、性欲に負けて若い子を買ったなんて。男の人なら仕方ないってなるかもしれないわね。男の人は、いくつになっても精力旺盛な生き物だから。でも、女の人ってそうじゃないでしょ。六十を過ぎて、性欲を抑えられない自分が、情けないし恥ずかしいのよ」

「えーいやいや、ちょっと待って待って」

 櫻がずい、と洋子の方に体を寄せてくる。洋子は思わず仰け反り、櫻の顔を見た。いつものにやけた顔も薄い微笑みもそこにはなく、硬い表情のまま鳶色じみた瞳を洋子に向けていた。

「本当にそう思ってる? 歳を取った女の人が、性欲を持つのがみっともないとか恥ずかしいとか、本当に?」

 いつになく強い口調に洋子は後ずさる。さっきから鬱陶しく何度も眼前に垂れてくる髪を、またかき上げた。鍋が沸騰し、いくつもの気泡を吐き出している。

「性欲を持つことはさ、みっともなくなんてないって俺は思うよ。もちろんさ、それをコントロールできないのはよくないことだけど。性欲自体は悪じゃない。それは、男だって女だってそう。若者だって老人だって同じだよ。みんな勝手に思い込んでるだけ。あの人は女だから、老人だから、性欲がないだなんて。いいんだよ、むらむらしたって、セックスしたいって思ったって。それを恥ずかしく思う必要なんてないよ。もし我慢できなくなったら、俺たちを呼べばいい」

 櫻がコンロのつまみに手を伸ばした。かちりと捻って火を止める。ぐつぐつと煮え立つ音が、ゆっくりと小さくなっていく。

「俺たちは、そのためにいるんだから」

 洋子は、今更ながらに櫻の役割を思い出す。彼は老女に体を売り、稼いでいる。つまりはそれだけ男の体を欲している老女がいるということだ。

 妙な感覚に襲われる。自分と同世代もしくは年上の女性が、自分と同じように性欲を持て余している。若い男に貫かれたいと思っている。そんな人々がある一定数いる。洋子はその事実に、少し救われたような気分になった。

「ま、セックスしたい人ばっかりじゃないんだけどね、うちのお客さんは。一緒にどこか出かけたい、ただお話ししたい、そういうのもいっぱいあるよ」

「そういえば、初めて来た日にそんなこと言ってたわね」

「うん。俺が思うにね、みんな、恋したいんだと思う」

 恋。洋子が小さく呟き返す。ただ甘ったるいだけの存在感のない単語だと思っていたのに、櫻の口から出たその言葉はまるで瀟洒な菓子のような響きだと洋子は感じる。

「恋って、人によって様々だから。セックスするのも恋、一緒に出かけたり話したりするのも恋。他のスタッフは知らないけど、俺は仕事中は相手のことをガチで恋人だって思ってる。そりゃさ、お仕事だからどうしてもお金は発生しちゃうけど。でも、その瞬間だけは本気で恋してるんだよ」

 相手のことを恋人だと思っている。櫻のその言葉が、洋子をやわらかく刺激する。ご飯を食べながらテレビを見る。ゲームをして騒ぎ合う。台所に並んで一緒に料理を作る。確かに、恋だったかもしれない。私がしたかったことだったのかもしれない。でもそこにはどこかおままごとじみた偽物感がどうしても漂っている。

「私は、恋人がいたことないから、よく分からないけど。でも、きっと恋人みたいに接してくれていたのね。ありがとう」

 洋子に力なく礼を言われ、櫻は困ったように微笑む。

「洋子さんは、恋とかもしたことない?」

「それは、あるわ。好きな人がいたことはある。告白とかはできなかったけどね。でも、昔の話すぎて、忘れちゃったわ」

「今は? 今は、好きな人とかいないの?」

「今は……」洋子は言い淀む。「好きな人、って言っていいか分からないけど」

「えー、いるんだ! 誰誰、どんな人?」

 櫻が無邪気に訊いてくる。洋子は一瞬躊躇して、けれどもういいか、と思い直す。誰にも話したことがないことだった。それを櫻に打ち明けてもいいと思えたのは、多分彼が金で買われた男だからだけではない。櫻の言葉と笑顔に、絆されてしまったのだなと洋子は自嘲する。

「ちょっと、こっちに来てくれる?」

 洋子は台所を出て、居間へ向かう。櫻はその後をついていく。

 居間の、仏壇のある部屋の向かい。洋子の寝室だ。洋子はその前に立つ。一つ深呼吸をすると、がらりと襖を開けた。

「えっ、うわっ、何これすごい!」

 一拍置いて、洋子の後ろから驚嘆の声が聞こえてきた。洋子がこの部屋を他人に見せるのは、初めてだった。

 壁にはカレンダー、額入りの写真、ポスターがびっしりと貼られている。窓際に置かれた棚の上にはうちわやペンライト、ラバーバンドが巻かれた筒。ベッドの上には小さなぬいぐるみやクッション。その全てに、ある人の顔がプリントされている。

「これ、あれじゃん! あの人じゃん!」

「そう。シュガービターズの、烏丸ヤマトくん」

「そーだ! やっとんだ! えっ何、洋子さんってやっとんのファンだったの?」

 訊いてくる櫻の顔が見られない。そこに侮蔑や嘲笑が浮かんでいたらと思うと、洋子は振り向くことができなかった。

「引いちゃうでしょう。こんな歳して、アイドルに現抜かして」

「えー、べつにいくつになったってアイドル好きになってもいいと思うけどな」

「そんなことないのよ。ライブに行ったとき、周りが若い子ばっかりだったの。なんでこんなおばあさんいるんだろうって目で、みんな見てくるのよ。だから……もう、行くのやめようって」

 洋子が烏丸ヤマトを知ったのは一年ほど前だった。これといった趣味のない洋子は、家で過ごすときはテレビをつけ日がな一日見るともなしに見るのが日課だった。そのときたまたまつけていたバラエティ番組に、シュガービターズが出演していた。そのときは、名前だけは聞いたことあるけど、程度の認識だった。

 その中の一番人気が烏丸ヤマトだった。確かに彼の整った顔立ちは目を引いたし、間の抜けたいわゆる天然発言には思わず笑ってしまった。けれど洋子の心を掴んだのは、彼の踊る姿だった。先程まで屈託のない子供のような顔で笑っていたのに、音楽が始まった途端、まるで別人のようになる。鋭い目線で前を見据え、汗を流しながら、四肢を投げ出して踊る。その姿に、洋子は一瞬で虜になってしまった。

 そこから洋子は烏丸ヤマトについての情報を集め始めた。まずは彼の出演しているテレビを毎週録画するようになった。シュガービターズがメインの冠番組、歌番組、バラエティ。何故か彼はドラマには出たがらなかったが、それでも出演してる番組の量は膨大で、古いテレビレコーダーでは補いきれず、新しいのを購入した。ついでにテレビも最新型の大きいものに買い直した。

 彼の姿を見るたび洋子はどんどんと惹かれていく。やがて彼がSNSをしていることを知った。電子機器やネットに疎い洋子は、未だにガラパゴスケータイを利用していたが、一念発起してスマホに買い替えた。四苦八苦しながらどうにかSNSに新規登録し、彼の投稿を見ることができるようになった。

 洋子が画面越しに見つめているだけでは満足できなくなるまで、それほど時間はかからなかった。アイドルということは、当然ライブやツアーがある。けれど洋子にとってそれらに参加することは勇気の要ることだった。自分のような人間が行っていい場所なんだろうか。その自問が何度振り払っても浮かんでくる。

 でも、やっぱり烏丸ヤマトに会いたい。その思いが、洋子にライブを申し込ませた。

 結果、洋子は後悔することになる。それなりに人気のあるアイドルグループだから年齢層も広いだろうと思っていたのに、周りはほとんど十代か二十代、上の方でもせいぜいが四十代。自分と同じ年代のファンはいなかった。

 それでもいい、楽しもうと思った矢先、どこからか声が聞こえてきた。

 えー、あんなおばあちゃんもライブ来たりするんだね。

 悪意のある発言ではなかったことは洋子にも分かった。ただ単に、洋子を見て思ったことを述べただけ。それでも洋子の自尊心を砕くには充分な言葉だった。

 ライブ自体は楽しむことができた。生で見る烏丸ヤマトはこの世のものとは思えぬほど格好良く、生で聴く曲にも文字通り痺れるほど感動した。

 けれど何度もあの言葉が脳裏に蘇る。お前は場違いだ、こんなところに来るべき人間じゃないと周りから、烏丸ヤマトからも思われているんじゃないかと想像してしまう。

 それ以来、洋子はライブには行っていない。

 櫻が手を伸ばして、ベッドサイドに置かれたぬいぐるみを手に取った。烏丸ヤマトをアニメキャラクター風に模したものだ。

「洋子ちゃん、またライブに来てよ!」

 櫻がぬいぐるみを左右に振りながら、甲高い声を発する。洋子は苦笑しながら答える。

「行きたいけど……若い子の中に私みたいなのがいたら、みっともないもの」

「洋子ちゃんは、すぐみっともないとか言うんだから!」

 櫻がまた甲高い声で言う。洋子は曖昧に頷く。みっともない。確かに洋子の中で、口癖のようになってしまっていた。

 歳を取るたびにその思いは強くなっている。耳触りの良い言葉はいくらでもある。年齢なんて関係ない。今が一番若いんだから。でもそのあらゆる言葉のどれも洋子の慰めにはならなかった。アイドルもセックスも、洋子にとってはただ惨めで滑稽で、みっともなさを喚起させるだけのものだ。

 櫻が持っていたぬいぐるみを、そっと元の場所に戻す。そして優しくその頭を撫でた。

「でも、みっともないのって、なんかめっちゃいいよね」

 独り言のような呟きに、洋子は首を傾げる。

「めっちゃいい?」

「うん。だって、みっともなくてもいいくらい好きってことでしょ。それってなんかめっちゃよくない?」

 櫻が戻したぬいぐるみを見つめる。烏丸ヤマトの特徴を捉えた猫のような目が、じっと洋子を見つめ返していた。

 なんかめっちゃいい。洋子が六十年以上生きてきた中で、投げかけられたことのない言葉だ。無責任で適当な台詞。でもどうしてか、今まで見聞きしてきたどんな美しいフレーズよりも、すんなりと洋子の心の中に分け入ってくる。

 洋子はベッドのそばにしゃがみ込む。手を伸ばし、ぬいぐるみの頭を撫でる。少し硬いごわついた感触が洋子の指を滑った。

「私、こんなまま生きててもいいのかしら」

「いいよ!」

 甲高い声がまた聞こえてくる。振り向くと、櫻がにぃーっと口を横に広げて笑う。洋子も、つられて笑ってしまう。

 ただ誰かに認められたかっただけだったのかもしれない、と洋子は思った。自分の性欲も、若い子を好きになることも。なんかめっちゃいいよね、と言ってほしかったのだ、きっと。

 きっとこれからずっと付き合い続けることになるのだろう。惨めさ。劣等感。こんな歳にもなって、と囁く自らの声。でもそれらを飼い慣らしながら、みっともなく生きていくのも、悪くないのかもしれない。洋子はそう思った。

「ねーねー、そういえばさ」

 櫻が洋子の隣に、同じようにしてしゃがみ込んだ。

「前は旦那さんに似てるから俺を選んでくれたって言ってたけどさ、でもそれ違ったわけじゃん? だったらなんで俺にしてくれたのー?」

「えっ。そ、それは」

 洋子はもじもじと襟をいじり出す。櫻の顔が見られなくて、洋子は俯いた。

「に、似てたから」

「似てた? 誰に?」

「ヤマトくんに……私の推しに、そっくりだったんだもの」

 そう言って頬を赤らめる洋子は、まるで恋をしているようだった。