来訪してからきっかり三時間後に、櫻は帰って行った。それじゃあ良かったらまた、とにこにこと笑って去る彼の後ろ姿を眺めながら、洋子は首をぐるりと回した。ぱきり、と骨が小さく砕けるような音が耳元で響く。ドアの鍵を閉める。
洋子は居間へと戻り、壁に掛かった時計を見上げる。午後三時。冷蔵庫には中途半端に残った食材しかない。洋子は息を吐きながら座椅子に腰掛ける。そうしてしまったら、次に立ち上がるときは自らを相当奮い立たせるしかないと分かっていながらも。きちんと自炊をしなければと思いながら、だらだらと時間は過ぎ、日は暮れ夜になり、結局作る時間が取れずフードデリバリーを頼む。そんな少し先の未来が洋子には見えるようだった。それでも洋子の尻は座椅子から離れてくれず、体を倦怠感がじっとりと覆っている。
食事を共にし、テレビを見て、雑談する。たったそれだけの行為にもかかわらず疲労感に包まれている。洋子がこんなに長い間、他人と一緒の時間を過ごすことは相当に久しいことだった。しかも、相手は異性で若者だ。体は常に強張り続けていた。
それと同時に、虚無感のようなものも抱いていた。寂寥感とは違う、と洋子は思う。誰かが傍にいたせいで、この無駄に広い家に、自分一人しかいないという事実を思い知らされてしまった。
この家は、一階と二階それぞれに、風呂とキッチンとトイレが設備されている。冷蔵庫や洗濯機などの家財道具も二つずつある。脚の悪くなった洋子の祖母のために、一階の設備を整えたときのものだ。リノベーションしたり電化製品を買い替えたりはしたものの、家具などは当時のまま残っている。
幼い頃、一階はまるで地下牢のようだと洋子は思っていた。二階と比べて窓が少ないため薄暗く、老人特有の匂いが常に漂っていた。祖母は母や自分たち兄弟と食事を摂ることはめったになく、この一階で独りの時間をずっと過ごしていた。ほとんど外出することもなく、祖母は息を引き取った。
次に一階の住人になったのは母だった。祖母よりは活発に過ごしていたものの、賑やかな余生を過ごしたとはとても言えなかった。
そしていずれは自分も祖母や母と同じ道を辿るのだろう、と確信に似た想像を洋子は巡らせている。二階の部屋は以前自室として使っていた場所だったが、階段の上り下りが億劫になり、今は物を置くだけになっている。寝るときは、居間の隣にある、祖母や母が使っていた寝室を同じように使っている。いずれ二階に上がることもなくなるのだろう。そして、この一階で独りで死んでいく。
洋子は身震いする。怖かった。孤独な死そのものよりも、この老婆は孤独のまま死んだのだと思われることが恐怖だった。同時に、死ぬときすら周りの目を気にしている自分が、情けなく恥ずかしかった。
そして、自分の人生がこのまま何もなければ二十年以上は続くであろうことを考えて、洋子は絶望する。
二週間後、土曜日、正午。時計の両方の針が頂点を向いたと同時に、チャイムが鳴った。洋子がインターホンに出ると、そこに青年の姿が映る。
「こんにちは。お約束で参りました」
前回と同じ言葉が流れてくる。お待ちください、とインターホンを切り、玄関のドアを開ける。櫻が立っていた。胸元に小さく英字が書かれた白いTシャツと、ベージュのチノパン。前回と同じヤンキースのキャップを被っている。自分が呼んだにもかかわらず、あの美青年がまたここにいることに洋子は違和感を覚える。
家に入ると、櫻は相変わらずの子供のような笑みを満面に浮かべた。
「また呼んでいただきありがとうございます! やー、めっちゃ嬉しいなー」
櫻は自分がまた呼ばれるなどと思ってもみなかったのだろう、と洋子は邪推する。それは洋子とて同じだった。自分が再び彼を呼ぶとは思ってもみなかった。
以前は尻ポケットに長財布を突っ込んだだけの軽装だったが、今日は大きめのトートバッグを重そうに肩から下げている。居間へ通すと、櫻がそれをテーブルの上に置いた。ごっ、と重量のある低い音が鳴る。
「今日は大荷物なのね」
洋子が尋ねると、その言葉を待ってましたと言わんばかりに、にぃーっと口を大きく横に広げる。そして、「じゃじゃーん」と声に出しながらバッグの中身を取り出した。
ゲーム機だった。洋子はその類のものには疎く、ゲーム機だということしか分からなかったが、おそらく最新型なのだろう。それをテーブルに置いたかと思うと、次にコントローラーやケーブル、ソフトを次々と取り出していく。
「ちょ、ちょっと待ってよ。どういうつもりなの、これ」
状況が把握できず慌てる洋子をよそに、櫻はゲーム機をテレビに手際よく繋げていく。
「この前暇だったからさー、家からゲーム持ってきちった。一緒にやろうよ」
「一緒に、って……私、ゲームなんてしたことないんだけど」
「だーいじょうぶだって、俺がちゃんと教えてあげるから!」
そういえば、ゲームというものに縁のない人生だった。そういう世代ではない、というのは単なる言い訳で、パート先の同世代の女性たちはよくゲームの話をしている。あのシリーズ、新作が出るらしいわよ。新キャラクターがほしくて課金しちゃった。いい歳をしてみっともない、と思いつつ、羨望のようなものを感じたのも確かだ。
櫻がゲーム機のスイッチを押す。画面が一瞬暗転し、そして賑やかな音と共にキャラクターが現れた。流れるオープニングムービーを洋子は目を細めて眺める。洋子のイメージしているゲームとはずいぶん違っていた。
「マリカーやろ、マリカー」櫻がコントローラーを手渡してくる。
「マリカー……」
「マリオカート。基本的にボタン押してスティックぐりぐりしてればどうにかなるから!」
櫻は半ば強引にコントローラーを洋子に押し付けてくる。手に馴染みのない大きさと硬さで、それだけで困惑してしまう。
「いい? ここ押せば走り出すから。んで、これを右に倒せば右に、左に倒せば左に行く。基本そんだけ! キャラとコースは俺が勝手に選んじゃうね」
櫻の手が上に重なってきて、洋子はどきりとする。白くて長い指がかちゃかちゃとボタンをいじっている。短く切り揃えられた爪も部屋の電灯に反射し輝いていて、綺麗な形をしている。顔立ちが美しいと、体の造形まで美しくなるんだろうかと洋子はその手を見ながら思う。
「ほら! もう始まるよ!」
櫻の言葉に、洋子は慌ててテレビ画面を見る。賑やかな音と共に色彩豊かな映像が流れている。そして、二分割した画面に、二体のキャラクターがそれぞれ乗り物に乗って背を向けているのが映る。
「えっ、ちょっと待って、どうしたらいいの」
「大丈夫、俺が合図するから。今! って言ったら、このボタン押して」
「わ、分かった」
カウントダウンが始まる。洋子は画面を凝視する。「今!」と櫻が叫んだ。洋子がボタンを押す。エンジン音が鳴り、キャラクターたちが走り始めた。
「あっ、あっ、なんか勝手に動き出したわよ!」
「勝手じゃないよ、洋子さんが動かしてるのー。ほら、道に沿ってスティック動かしてー」
「えっ、今四角いのにぶつかっちゃったけど!」
「あーそれね、アイテム! このボタン押せば使えるようになるから、余裕があるとき使ってみて」
二人はわいわいと騒ぎながらゲームを続ける。三レースを走り終えた頃には、洋子はぐったりと脱力していた。画面を凝視していたせいで目の奥はじんわりと熱く、肩も張っている。親指が鈍く痛むので見てみると、ボタンの跡がくっきりと丸く残っていた。
「洋子さん、すごいじゃん、九位だってよ! 初めてやってこの順位は結構才能あるんじゃない!?」
櫻が画面を見ながらはしゃぐ。しかし自分の肩を揉みながら首を回す洋子の姿を見て、覗き込むようにして尋ねてきた。
「どしたの? 疲れちゃった?」
「この歳になると、ゲームもなかなかつらいわね」
「そっか、そだよね。じゃあ違うことしよっか」
「そうね……ちょっと休憩したら、もう一戦しましょう」
洋子が言うと、櫻がまた口を横に広げてにぃーっと笑った。
「よっしゃ! 次はベスト5目指してこ!」
ゲームという娯楽をどこか嘲っていた洋子にとって、こんなに心躍るものだと感じることができたのは軽い衝撃だった。確かに目は霞み肩や腰は軋むが、高揚感や競争心が上回った。その後も櫻は色々なゲームを教えてくれ、その合間に宅配されてきたピザをつまんだ。洋子は今までにない体験に間違いなく高揚していた。
午後三時まで間もなくとなった頃。そろそろ片付けなきゃねと櫻が言い、腰を上げる。
「もう三時間経つのね。あっという間」
「ねー、ゲームしてると一瞬だよねー。洋子さん楽しかった?」
「そうね、とっても楽しかった。恥ずかしいけど」
「恥ずかしい? 何が恥ずかしいの?」
櫻が首を傾げる。若い子には分かるまい、と洋子は小さく笑う。
「こんな歳にもなって、片手にピザ持ちながらゲームだなんて、みっともないじゃない」
「そうかなー、俺、結構他のお客さんと一緒にすることあるよ? 最近のおばあちゃんはゲームくらいするって」
励ますような櫻の言葉に、洋子は曖昧に頷く。そういうことではないのだと思いながら。
他に心血を注げるものがあるならいい。充足した日々を送っているのならいい。何も持たない六十を過ぎた女が、若い子が夢中になるようなものに現を抜かす。その醜態をさらすことの苦しさは、櫻のような若く美しい青年にはきっと分からないし、今後理解されることもないだろう。
それでも臆することなくゲームに熱中できたのは、洋子にとって彼が金で買われた存在だからだ。仮に隣に座っていたのが友人や知り合いだったら、無駄な自尊心が邪魔をしてくる。ゲーム如きに夢中になる自分を見られたくない、と臆してしまう。
「よかったらまたゲームしようね」
櫻が微笑む。さっきまでの無邪気な笑みとは全く違う、柔らかく目を細めた笑顔の美しさに、洋子は思わず慌てて顔を逸らす。この人になら、自分の恥ずかしいところも見せることができるかもしれない、と思いながら。
(つづく)