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 六十代以上の女性のみを相手にした風俗店『銀楼館』。櫻はキャストの一人だ。

 在籍しているキャストの年齢は様々。実年齢かどうかは定かではないが、サイトの掲載によると下は二十代、上は五十代と幅広い。価格帯は通常の女性向け風俗店と比べるとだいぶ高価で、客層は富裕層が多い。それでも客足が途絶えないのは、今はシニア層もスマホを使う時代になったからだろう。銀楼館は、サイト経由での予約がほとんどだ。

「それじゃあ、洋子さんはえっちなしでオッケーってことですか?」

 洋子に命じられシャツを着ながら、櫻が訊く。洋子はその姿から目を逸らす。

「あなた、抵抗ないんですか」

「っていうと?」

「だって私、もう六十過ぎですよ。あなたみたいな若くて綺麗な子、女に困ることないでしょう。それなのに、どうして躊躇なくそんなことできるの」

 櫻はきょとんとした顔をし、そしてすぐに破顔する。

「やだなー、何言ってるんですか! 言っときますけど、洋子さんめっちゃ若い方ですよ? 八十代のおばあちゃんとかともしてますからね、俺! やー、やっぱ六十代は肌の張りが違うなぁ。若々しいですもん、やっぱり」

 その言葉に思わず面映ゆくなってしまったことを、洋子はすぐに恥じる。そういった称賛とは無縁の人生だったとはいえ、こんな戯言を一瞬でも真に受けてしまった自分が情けなかった。

「馬鹿言わないでください。男なんて若い子の方がいいに決まってるでしょ。こんな老人相手の、馬鹿げた仕事するのはやめて、全うな職に就いた方がいいですよ。若いんだからまだまだやり直せますよ」

 ちらりと視線を櫻に移す。彼は困ったような顔で微笑んでいた。洋子は余計なことを言ってしまったと後悔する。そんな馬鹿げた仕事をしている相手を頼ろうとしているのは、他ならぬ自分なのに。

「まあまあ、俺のことはいいじゃないですか。洋子さんのこと教えてくださいよ。どうして、うちを利用しようと? 俺を呼んだ理由はなんですか?」

 櫻が水に口をつける。同じようにして、洋子もコップを傾ける。ぬるくなった透明の液体が口の中に流れ込んでくる。

「旦那に、似てるんです」

「旦那?」

「そう。二年前、死んだ旦那に、あなたが。若い頃にそっくり」

「えー、そうなんだ! あれが旦那さん?」

 櫻は上半身を伸ばすと、無遠慮に和室を覗き込む。目を細めて仏壇の中の遺影を睨むと、不満気に唇を尖らせる。

「えー、俺、あんなんなの? 俺の方が全然イケメンじゃない?」

「あれは、旦那じゃなくて父。隣にも写真があるでしょう、あれが母」

「あっ、パパかー! あんなんとか言っちゃった、やっべ」

 わざとらしく両手で口を押さえる。旦那相手であればいいのだろうか、と思ったが洋子は言わないでおく。

「旦那さんの写真とかないんすか? 顔見てみたいなー」

「ないですね」

「そうなんですかー? 旦那さん、写真嫌いだったとか?」

「いいえ、私が全部捨てたんです。顔を見るのも腹が立つから、遺影も立ててない」

 櫻がきょとんとした顔で目を丸くする。その表情はどことなく幼さを感じさせる。そのまま顎に手を当てると、一人何か納得した様子でうんうんと何度か頷く。

「分かりますよ、分かります。夫婦って色々っすもんねー。何があったのかめっちゃ気にはなりますけど、そこはお客さんのプライバシーですからね、敢えて聞きません。あっ、洋子さんがお話ししたいのであれば喜んでお聞きしますけど!」

「悪いですが、話すようなことは何もないですね」

「えぇー、なんだぁー」

 露骨に落胆を浮かべ、芝居がかった仕草でがっくりと肩を落としている。

「でも、そんな顔も見たくない旦那さんにそっくりの俺を、どうして呼んだりしたんですか」

 当然の問いだった。洋子は襖の奥の仏壇に視線を向ける。そこに自分の夫など眠っていないと知りながら。口の中に溜まった唾液を飲み込む。

「若い頃は、楽しかったんです。夫は優しくて、私のことを大事に扱ってくれていた。でも歳を取る度に私への態度がどんどんぞんざいになって、平気で酷いことを言ったり、したりするようになっていった。夫は憎いけれど、あのときのことを思い出すと、なんだか寂しくて」

 視線を櫻に戻す。年寄りの感傷だと一笑に付されるかもしれないと思っていたが、思いの外真剣な眼差しでじっと耳を傾けていた。一瞬言葉に詰まり、そして続ける。

「だから、あなたには夫の代わりになって欲しいんです。夫との思い出を追体験したい。夜の営みは、しなくていいんです。そういうのはいけませんか」

「いいえー、とんでもない」

 櫻が大袈裟なくらい首を振る。

「そういうお客さんもいっぱいいますよ! 一緒に寝てほしいって人もいるし、俺が一人でするところを見てみたいって人もいるし。色々っす!」

 そういえば、ホームページにもそんなようなことが記載されていたな、と洋子は思い出す。直接的な性行為ができないのは、年齢の問題もあるのかもしれない。

「俺、物真似も得意なんで任せてくださいよ!」高らかに宣言すると、しゃがれた声を作って言う。「洋子、お茶はまだかね?」

「旦那はそんなこと言いません。それに、若い頃の思い出だって言ってるじゃないですか」

「あ、そっか。じゃあどうすっかなー。ちょっと洋子さん、旦那さんの物真似してみてくださいよ」

「いいんです、そういうのは」

 洋子がゆっくりと頭を横に振る。櫻が小首を傾げた。

「無理して夫のふりしてもらう必要はありません。自然体でいてください。ただ私は、若い頃の夫の顔をしているあなたと、過ごせればそれで満足なんです」

 ふうん、と納得しているのかしていないのか、溜息に似た相槌を櫻は返す。何かを思案するように指で顎の辺りをさすりながら、口を開いた。

「分かりました、じゃあ、昔旦那さんと過ごしたように一緒に一日を過ごしましょ。あとこれは提案なんですけど、この堅苦しい喋り方、なしにしません?」

「堅苦しい?」

「そ。敬語とかなしで、タメ口で! 夫婦のふりするんだから、いつまでも他人行儀はおかしいでしょ」

「まあ、いいけど」

「決まり! んじゃ今日はよろしくね、洋子さん!」

 にこにこと笑みを浮かべながら櫻が右手を差し出してくる。おずおずと洋子はその手を握った。部屋はそれほど暖かくないとはいえ、血が通っていないかのような冷たさだった。そういえば、異性に名前で呼ばれたのはいつぶりだっただろうかと今更ながらに思う。

 そのとき、ぴんぽんとチャイムの音が鳴る。あ、と小さく声を出して洋子が腰を浮かせる。

「お寿司が来たみたい」

「お寿司!?」

「お昼ご飯、食べてないでしょう。それとも生魚食べられなかったりする?」

「全然! お寿司めちゃめちゃ大好き! やったー!」

 はしゃいだ声を出して両手を大きく挙げる。しかしすぐにその行動を省みるかのようにはっとした顔をすると、大きく腕を組み、またしゃがれた声を出す。

「洋子、ウニはちゃんと入っているのかね」

「入ってるわよ。だから、そんなんじゃないんだって」

 あ、そっか、と櫻が照れたように頭を掻いた。

 

「そういえば、旦那さんのお名前ってなんていうの?」

 櫻が中トロを頬張りながら尋ねる。洋子は口の中のイカをゆっくりと咀嚼すると、ごくりと飲み込み、ぬるくなった味噌汁を一口含んで言った。

「カズマ」

「カズマさんか。カズマさんとは普段どうやって過ごしてたの?」

 洋子がもう一度茶碗に口をつける。そしてこめかみに指を押し当てると、ふうと小さく息を吐いた。

「どうやって過ごしていたのかしらね。よく思い出せなくて。死ぬ直前まで飲み歩いてて、全然会話もしなかったから」

「昔は?」

「昔は……そうね。よく一緒に散歩とかしてた。お店だったり道端の花だったりを見ながら、どうでもいいことをぽつぽつ話したりしてた」

「散歩! いいねー。今から行こうよ!」

「えっ。い、一緒に?」

 思わず洋子は言い淀む。自分が若い男と歩いている姿を想像する。着飾らず化粧をほとんどしていない還暦過ぎの女と、若くて美しい青年。自分に子供などいないことは、近所には周知の事実だ。きっと奇異の目で見られるに違いない。

 黙り込んでしまった洋子に、櫻がへらっと笑みを浮かべる。

「まあでも、今日はやめとこっか! おうちデートにしよー」

 きっと櫻は、その沈黙の意味をすぐに悟ったのだろう。洋子は自らを恥じる。この年齢になっても、世間からの目というのは畏怖の対象なのだ。歳を重ねればきっと周りなど気にならなくなる強さを持てると思っていたのに、それどころかどんどんと脆くなっていっている気がしていた。

「洋子さんは、日中とか普段何してるの?」

「大体夕方か夜まで仕事ね。近くのお弁当屋さんで働いてる」

「へー、そうなんだ。ずっとその仕事?」

「いえ、去年までは会社員だったの。経理の仕事してた」

 乾き気味の寿司をつまみながら、二人はぽつぽつと話す。けれどその雨垂れのような会話に挟まる静寂はだんだんと長くなり、話題をどうにか探そうとする櫻の表情が、洋子には心苦しかった。

 何度目かの静寂が訪れて、洋子は立ち上がった。櫻が長い睫毛越しに見上げてくる。

「ちょっと、お手洗いに。テレビでも見て待ってて」

 テレビの電源を点け、そのまま部屋を出て後ろ手で襖を閉める。思わず長い溜息が出た。

 そのままトイレへは行かず、階段の電気を点け、二階へ上がる。ふと、櫻を一人部屋に残して大丈夫だろうかという疑心がよぎったが、貴重品類は全て鍵のかかった部屋に入っているし問題ないだろう、と止めた足をまた動かす。

 薄暗い廊下を抜け、洋子はドアを開ける。電気を点けると、慣れ親しんだ部屋が橙の光で照らされた。

 ベージュのカーテン、グレーのラグマット、押し入れの中には布団と洋服と、あとは何が入っているのか自分でも分からない。本棚の中には雑誌や写真集、DVDがずらりと並んでいる。ここは、洋子が生まれてからずっと住んでいる家だ。

 幼い頃からほとんど変わらないその景色を、洋子は壁にもたれながらぼんやりと眺める。櫻に払った代金は、当然安い額ではない。退職金がまだ残っているとはいえ、細々とパートをしているだけの洋子にとっては手痛い金額だ。ただでさえ、毎月の出費は多いというのに。

 にもかかわらず、今自分はその金で買った男を放置して、自室に籠っている。洋子は自らの情けなさに両手で顔を覆う。

 洋子は幼い頃から他人と話すことが苦手だった。特に、異性相手だと緊張が生まれ顕著になった。相手を楽しませることができない。気の利いたことが言えない。年齢を重ねるごとにぶよぶよとした脂肪のような自尊心がまとわりついて、物言いは傲岸になり、更に周りの人を遠ざける。六十年以上も生きているのに、ちっとも生きることがうまくならない。

 どれくらいぼんやりとしていただろう。さすがに、これ以上櫻を放っておくわけにもいかない。自分を奮い立たせ、洋子は立ち上がる。電気を消して階段を降り、居間の襖を開けた。

 櫻はテレビを見ていた。頬杖をつき、画面をじっと眺めている。洋子はついその横顔に見惚れる。

 本当に綺麗な顔立ちだ。どうしてこんな仕事をしているのだろうと、やはり思ってしまう。見目麗しく健康体で人懐っこい性格。老人相手に体を売ったりなどしなくても、充分に食っていけそうだ。

 白い頬に落ちた睫毛の影を見つめていると、気配を感じたのか櫻がこちらを向いた。慌てて視線を落とす。「おかえりー」と櫻の能天気な声が聞こえてきた。曖昧に頷き返して、座布団の上に腰を下ろす。テレビからはバラエティ番組が流れていた。

「あ、ねえねえ、この人知ってる!?」

 急に櫻が腰を浮かせ、画面を指差した。その先には五人組のアイドルグループがおり、そのうちの一人が芸人からコメントを振られ、笑いを取っていた。

「なんだっけ、やっとんだっけ? 俺、この人に似てるって結構言われる!」

 洋子は画面の中の彼をちらりと一瞥すると、すぐにテーブルに視線を落とす。

「この歳になると、若い子はみんな同じ顔に見えるのよね」

「えー。まじかあ」

 そしてすぐに興味を失くしたかのように、「そういえばこの芸人さんさー」と会話の矛先を変える。

 間違いなく成人はしているのだろうが、言動が随分と幼稚だ、と洋子は櫻を心中で評する。もう少し年相応の落ち着きと振る舞いを、というフレーズが頭を過ぎって、自分が嫌になる。いかにも老人然とした考え方だ。そして、その稚拙さに助けられているのも確かだった。まるで子供を相手にしているようで、櫻から男性性を感じない。

 もしかして、とはたと気付く。櫻はわざと幼く振る舞っているのではないだろうか。自分に男性らしさを感じさせないために。

 その考えは、芸能人のゴシップを楽しそうに話す櫻を見ているうちにあっという間に消えてなくなる。そんな器用なことをできるようには、とてもではないが見えなかった。

 

(つづく)