洋子は母の形見の手鏡で、さっきからじいっと自分の性器を覗き込んでいる。
自分にこんな器官がついていると思いたくないくらいグロテスクだ。自分だけがこんな形状や色をしているのだろうか、と悩んだこともある。同性のこんな場所など、見る機会がない。
周辺に生えた陰毛は、白くなったものがほとんどで、まばらに黒いものが交じっている。毛の奥に、ほくろがあるのを見つけた。洋子自身も知らなかったほくろだ。脚の付け根には線状になった瘡蓋ができていた。昨晩、その辺りまで生えた毛を剃ろうとして、剃刀で傷つけてしまった。
手鏡を持たない右手の中指は、そこに触れようとしては逃げ、をずっと繰り返している。洋子は自分で触れるのが怖かった。その先にあるのは痛みなのか、快感なのか、それとも無なのか。どの結果になろうとも後悔する自分の姿しか見えず、逡巡している。
やはりまた、周りはどうしているんだろうか、と疑問が膨らんでくる。みな自分でいじったりしているんだろうか。そのときは、表面だけなぞるのだろうか。それとももっと奥まで差し込むのだろうか。深さは、動きは、一体どうやって―――
チャイムが鳴った。洋子は慌てて立ち上がる。
「はい。今行きます」
ここから聞こえるはずがないのに、つい口にしてしまう。買ったばかりのパンツとジーパンを穿き、手鏡を机の中にしまうと、急いで一階へと駆け下りる。インターホンのボタンを押すと、粗い画質の中に帽子を被った男の姿が映った。
「こんにちは。お約束で参りました」
くぐもった声が流れてくる。聞き取りづらいのは、劣化した機械のせいか、それともその男が声を潜めて話しているせいか。からからに渇いた喉に唾液を流し込むと、洋子は「お待ちください」とだけ答える。
玄関の横に掛かっている鏡を見ながら、長い髪を一つにまとめ直す。洋子は鏡の中の女をじっと見つめる。くたびれた六十過ぎの女が洋子を睨み返してくる。化粧はほとんどしていない。下地と口紅のみ。服装もネルシャツにジーパンと、洒落っ気は一切ない。さすがにもう少し気を遣うべきだったかという思案は、洋子の中ですぐに打ち消される。化粧に気合を入れ着飾って、なんて、いかにも歓待しているかのようでみっともない。
洋子は息を大きく吸い、サンダルを履いてドアを開ける。そこには、一人の青年が立っていた。
ヤンキースのキャップを目深に被り、表情が読み取れない。白のシャツに黒のジャケット、黒のワイドパンツとシンプルな出で立ちだ。荷物は何も持っていない。
「はじめまして! 本日はよろしくお願いします!」
よく通る声で挨拶をし、帽子を外した。洋子は思わず息を呑む。
驚くほどの美形だ。西洋の血が入っているのか、肌は透き通るように白く、瞳も淡い茶色に塗られている。おそらく染髪しているのだろうが、金色の髪がよく似合っている。さらさらの前髪から覗く二重の目はぱっちりと大きく、睫毛が翼のように長い。鼻筋は通り、唇は薄く、頬には髭の剃り残しもにきびの痕も何もない。化粧をしているのだろうかと思ったが、不自然な白さはなく完全な素肌なのだという事実が洋子を驚かせた。
背丈もある。洋子は百六十センチとこの世代の女性にしては大きい方だが、それよりも頭一つか二つ分は大きい。手足や首は長く、喉元の中央には大きく喉仏が膨らんでいた。
「この度は、『銀楼館』をご利用いただきありがとうございます! 櫻っていいます、よろしくお願いしまーす!」
櫻と名乗った青年が破顔してはきはきと挨拶する。黙っていると端整な顔立ちもあって冷ややかに見えたが、笑うとまるで少年のようだ。口調もだいぶ砕けており、最初の印象が即座に覆されていく。
「ええっと、ご予約いただいていた、河津洋子様でお間違いないですかー?」
「あ、ええ、はい。そうです」
今日初めて発した声は、かさかさに乾いて掠れていた。
「洋子さん! 改めてよろしくお願いします!」
快闊に話す櫻を見て、失敗したかもしれない、と洋子は後悔する。プロフィールの情報が嘘でなければ、彼は二十三歳。息子どころか、孫に近い年齢だ。それでも写真は寡黙でおとなしい美青年、という印象だったのに。こんなに溌溂とされては気が引けてしまう。
洋子のじっとりとした視線を受けた櫻が、困ったように首筋をさすった。
「えー、もしかして俺ダメでした? 印象と違います? チェンジっすか?」
「チェンジ……?」
「ホームページにもあったと思うんですけど、気に入らなかった場合チェンジが一回だけできるんですよー。えーでも俺、加工も全然してないですし、なんなら実物の方がかっこいいわねってよく言っていただけるんですけどねー」
軽薄な笑みをへらへらと貼り付けて、櫻が自らの頬をつるりと撫でる。溜息をぐっと堪え、「どうぞ、上がってください」とスリッパを並べる。櫻はそれを履き、おじゃましまーす、と家の中へ入り、脱いだスニーカーを揃える。
無遠慮に家を見渡す櫻を洋子は案内する。きっと良い印象は抱いていないのだろうな、と自虐的に洋子は思う。薄暗く空気は籠り、廊下に窓はない。住んでいると忘れてしまうが、この家はどことなく不気味な雰囲気が漂う。陰鬱で黴臭い。まるで自分と同じだ。
その様子は居間も同じだ。そこに通された櫻は、部屋の様子をじっと眺めている。
「適当に座ってください」
それだけ告げて、洋子は居間を出て台所へ向かう。冷蔵庫を開けると、飲み物は牛乳と二リットルのペットボトルに入ったミネラルウォーターだけ。もう少し気の利いた飲み物を用意しておけばよかった、と思いつつ、今の若い子が好むものが全く分からない。とりあえず牛乳よりはましだろうと、コップに水を注ぐ。この家には、茶葉どころか急須すらない。
水の入ったコップを二つ持ち居間へ向かう。櫻は、座布団の上に正座をし、まっすぐ視線を前に向けていた。
その先には仏間がある。畳の上に仏壇と、洋子の父と母の遺影が飾られている。壁の上部には洋子すら顔も名前も知らない、先祖であろう人々の白黒の写真がずらりと並んでいる。
「どうぞ」
コップをテーブルに置く。櫻はわざとらしいくらい目を丸くして、「あっ、ありがとうございます!」と居住まいを正す。
「これ、ちゃんとしたお水なので。水道水とかではないので」
言い訳じみた洋子の言葉も気に留めず、櫻はごくごくと水を飲む。唇の端から、たらりと液体が垂れた。舌を伸ばし、口角の雫を舐め取る。いやに艶めかしいその仕草に、洋子は慌てて視線を逸らす。
「寒かったら言ってください。ストーブつけるので」
とはいっても型の古い電気ストーブで、部屋の隅まではなかなか暖まらない。年中出しっぱなしにしているそれの隣には、同じようにしまわれることのない古びた扇風機が置いてある。この家の家具はどれも古いものばかりだ。木製の箪笥や食器棚は趣きすらある。そんな中、テレビだけがかなり大きな最新型で、レコーダーもついており、妙に浮いている。
「あざっす! でも俺、寒さには強いんで!」
櫻はコップの中の水を飲み干すと、湿った唇を開いた。
「んで、すみません、先払い制になってましてー。先に代金だけいただいてもいいっすか?」
「ああ、はい」
洋子は腰を浮かせ手を伸ばし、棚の引き出しを開けると中から封筒を取り出した。そしてそれを櫻に渡す。櫻が受け取り、封筒の中身を出す。一万円札の束が半分顔を見せた。その枚数を検めると、「どうもでーす」とバッグにしまう。
「えーと、それじゃあ」よいしょ、と呟いて櫻が立ち上がる。「シャワー浴びてきていいすか? あ、一緒に浴びてもいいですけど」
その言葉に洋子は体を強張らせる。膝の上に置かれた拳に力が籠ったのに気付かず、櫻はにこにこと続ける。
「あ、洋子さんはシャワー浴びない方がいい派ですか? それも全然ありっすよ、まあ本当ならまずいんですけど、俺、客のニーズには何でも応えたいタイプなんで」
言うや否や、櫻がシャツを脱ぎ捨てる。上半身が露わになる。しなやかだがしっかりと筋肉のついた均整の取れた体つきで、釘付けになりながらも洋子が叫ぶ。
「ちょ、ちょっと! あなた! いきなり何脱いでるんですか!」
「えっ、駄目でした? あーもしかして服着ながらしたい派ですか! いいですよね、そういうのも」
上半身裸のままじりじりと近付いてくる櫻に、思わず洋子が平手打ちを喰らわせる。「いってえ!」と櫻が頬を押さえる。
「ひどいなー。何するんですかー」
「な、何って、あなたがいきなり裸で襲い掛かってこようとするからでしょう!」
「えー。洋子さん、うちがどういうお店か知っててご予約したんですよねー?」
櫻に指摘され、洋子は思わず視線を逸らす。当然、知っている。知っていて洋子は彼をこの家へと招いたのだ。
櫻は、老女専門の男娼である。
(つづく)