「今日はナンシーとお散歩行ったんだって?」
ひろさきハウスの食堂で有美に話しかけられた。夜の十時を回り、芽依はもう寝てしまった。おそらく大家さんも、ひょっとしたら孝江も。リビングの電気は消えている。明るいのは有美が食器を洗っていた台所と、笙子が熱いほうじ茶を飲んでいた食堂だけ。
食器を片付けた有美が自分もお茶をいれて話しかけてきた。散歩から戻ったとき、ハウスの前で芽依たちと遭遇した。その話を聞いたのだろう。
「よかったらどう? カロリー控えめのクッキー」
パントリーから出してきたお菓子を有美が勧めてくれた。ありがたくいただく。
「誰もいないときにひとりで挑戦なんて、度胸があるのね」
散歩の件だ。笙子は「ちがうんです」と首を横に振った。
「ナンシーにどうしてもとせがまれたんです」
誰かに聞いてもらいたかったのでちょうどいい。有美相手に、午後のうたた寝から起こされたこと、無理やり散歩に連れ出されたこと、カフェのテラス席にいた女性と、迎えに来た男性のことなどを話した。有美はすぐさま「それ、彩香ちゃんだわ」と言う。
「笙子さんたちの部屋の、ひとつ前の入居者で。二十代後半だから私からすればまだまだ女の子なのよ。だからつい『ちゃん付け』にしてしまう。明るくて優しくて、よく気の付くいい子なんだけど」
有美はほんの少し間を空けてから続ける。
「十代の頃に事故に巻き込まれて、左側の顔や手足に火傷の跡があった。何度か皮膚の移植手術をしたそうで、跡と言ってもほとんどわからないくらい。顔の方もメイクでカバーできるのよ。でも本人は気にしていた。たぶんまわりが思うよりずっと。親に心配をかけたくないと実家を出て、シェアハウスで暮らし始めたんだけど、その彩香ちゃんがあるとき急に犬を飼いたいと言い出した。レンタル番犬について誰かに聞いたみたい。女性だけのハウスには絶対いい、朝から晩までずっと安心できるって」
有美はお茶をひと口飲み、クッキーの個別包装も開ける。
「大家さんも入居者も最初はなんの冗談かと思ったのよ。猫ならばまだしも犬を飼うなんて。それも番犬だからと大型犬よ。想像もつかなくて笑うしかない感じ。でも彩香ちゃんは本気で、私たちも話を聞いているうちにちょっとだけ好奇心が刺激されて、訓練センターまで見学に行ったの。ナンシーに出会ってからは犬にまつわるすべてが新鮮で、自分の人生が変わっていくようなわくわくもあった。私だけでなく、他の人たちも似たり寄ったりの気持ちだったと思う。ひとりで飼い始めるんじゃなく『みんなで』がよかったのね。不安や戸惑いが分かち合えるでしょ。喜びも、ちょっとした感動なんかも」
「皆さん、初めから大賛成だったわけではないんですね」
「そうよ。真っ黒なドーベルマンを紹介されたときはびびった。だから笙子さんの気持ちもわかるの」
笙子の肩の荷がすっと軽くなる。自分だけが異質の変わり者ではなかったのか。有美はクッキーを食べながら言う。
「少しずつでも馴染んでもらえたら嬉しい。犬って心が通い合うと、特別な潤いや勇気を与えてくれるから」
「勇気?」
「彩香ちゃんとナンシーを見ていて感じたの。犬ならば自分のことをフラットに見てくれる、傷跡なんて気にしない、彩香ちゃんはそう思っているのかなって。犬はほら、よけいな詮索をせず、目に映るものがすべてでしょ。ありのままの自分を受け入れてくれることにならない? そういう存在が身近にいると伸び伸びできるし、自分への好意を感じられたら自信も湧く。勇気って言ったのは、自信を取り戻して頑張る力が出てくるって意味」
有美の言葉をゆっくり噛みしめて笙子はうなずく。人間同士では案外、難しいのかもしれない。気を遣ったり気を回したりは相手への思いやりという良い面もあるけれど、程度や角度をまちがえると負担を強いてしまう。まっすぐな糸をいたずらに絡ませるだけの場合もある。その点、犬はたぶんシンプルだ。
「彩香さん、ナンシーが来て元気になったんですね」
「そりゃもう。ただ皮肉なことに、一生独身宣言をしていた彩香ちゃんの心を、揺さぶる男性が現れたのよね」
笙子の頭の中に車でやって来た男性が浮かぶ。
「それって……」
「カフェに迎えに来た人だと思う。皮肉と言ったのは、その相手がマキタの社員だったから」
「マキタって、あの? もしかして朝晩の散歩で顔を合わせているうちに親しくなったとか?」
「ううん。サービス全般を企画運営する人らしい。ナンシーが来る前から相談やら見学やらでやりとりがあったのね。向こうが彩香ちゃんを好きになったのよ。彩香ちゃんは尻込みしながらも、だんだん惹かれていったんだと思う。プロポーズを受けると決めたときもここを出て行くときも、涙涙だった。やっていけるかどうか不安で恐い、みんなと離れたくない、ナンシーと別れたくないって」
チャイムを鳴らさなかった理由がうっすら浮かぶ。久しぶりにひろさきハウスを前にして、彩香の中に楽しい思い出がよみがえったことだろう。みんなの顔を見ればさらに嬉しい。ナンシーをハグして胸がいっぱいになる。そこで元気な笑顔だけ見せられればいいけれど、気持ちが昂ぶって泣いてしまうかもしれない。泣いてはみんなを心配させてしまう。そんな危惧にかられたのでは。ためらいを拭い去れずに今日は立ち去るしかなかった。ナンシーはそれに気付き笙子を急かして追いかけた、とか?
けれどカフェのテラスで目当ての人を見つけたのに、ナンシーは駆け寄ろうとはしなかった。なぜだろう。笙子が疑問を口にすると有美は「さあねえ」とお茶をすすった。
「彩香ちゃんを確認することはできたんだから、それでひとまず満足したのかな」
「もしかしたらナンシーも、『今はまだ』って思ったのかも」
「案外、近くにいるであろう彼と顔を合わせたくなかったのかも。彩香ちゃんを奪った男というのはわかっていて、露骨に嫌っていたから」
大げさに顔をしかめる有美を見て、笙子は笑ってしまった。ナンシーにも喜怒哀楽があるのか。寂しい思いも嬉しい思いも知っていて、ためらいもするし、迷いもする。今まで考えもしなかった。黒い毛で覆われた中身に何が詰まっているのか、想像することもなく「興味ない」の一言で切り捨てていた。遠ざけていたのは自分だ。
でもナンシーはちがう。テラス席の一件を思い出す。毛足の長い犬が笙子に吠えかかってきたとき、猛然と立ちはだかって守ってくれた。おそらくあの犬が現れたときから警戒し、笙子に危害を加えそうになったから飛び出した。守るべきひろさきハウスの住人だと認識している。
笙子がテラスでの話をすると有美は満足げにうなずき、しみじみとした声で言う。
「それでこそナンシーよ。賢くて頼もしい。私のことも守ってくれるかしら」
「ええ、もちろんです」
「そういう人、じゃなくて犬だけど、いてくれるとすごく心強い。これまでもナンシーに慰められてきたし癒やされてもきたの。ここで暮らすようになった理由、叔母の部屋が空いたからって言ったけど、それだけじゃないんだ。ちょうどその頃、私、結婚詐欺の被害に遭ってどん底にいた」
思いがけない言葉に、笙子は目をむく。
「自暴自棄っていうの? 何もかもが嫌になって、それまでのすべてを捨てたくなった。そんなとき、何も知らない叔母から『私の後釜になりなさいよ』と言われ、自分でも意外なほどすんなりその気になったの。今はひとりでいない方がいい、どん底からもっと悪いところに流れてしまうって。防衛本能が働いたのかしら。減らした貯金のためにも家賃を節約したかったし。納入スペースに合わせて私なりにずいぶん思い切ったのよ。家具もバッグも靴も服も。処分した荷物が惜しくていまだに夢に見てしまう。やけになってすべてを捨てたいと思ったくせにね」
個別包装のクッキーをいじっていた有美が、最後のところで顔を上げて笑った。それを見て笙子も口にする。
「私も思い切ったことがあります。そういうのぜんぜん得意じゃないのに」
「ああ、ここへの引っ越しで?」
「それもありますが、二年半前の離婚の方がもっと」
有美は笑みのまま「なるほど」と首を縦に振る。
「聞いてもいい?」
「楽しい話ではないんですけれどよろしかったら。あのですね、結婚当初からダメかもしれないと思うことはいろいろありましたが、それが決定的になったのは元夫が会社を辞めて、実家に帰ると言い出したときで。辞めるのも実家に帰るのも、相談なしの事後報告なんです。その実家というのが家長制度っていうんですか、男尊女卑っていうんですか、そういうのにめちゃくちゃ染まってて帰省のたびにボロボロになっていました。同居なんてとても」
「あなたは実家に住むのは無理と、自分で言ったの?」
「はい。ついて行けないとはっきり。でも向こうはもう決めたの一点張り。自分ひとりで戻りました。最終的には、夫に従えない嫁なんかこちらからお断りと姑から電話がありまして。息子の就職も次の結婚もこちらで用意する、だそうです。離婚届に印が押された用紙が送られてきて、それを役所に出しました」
「お子さんは? 渡せと言われなかった?」
「男の子ならともかく、女の子で、まだ小学生ならなんの役にも立たないと。元夫も同意見のようです。東京での何もかもをリセットしたかったんだと思います」
有美は仰け反り、「うわーっ」と声を上げた。
「だったら養育費は? もらえている?」
「両親の世話と夫の世話を、ちゃんとしてから言わなきゃいけないそうです」
養育費の意味を完全にはき違えている。再三訂正しているが、夫と姑は勝手な解釈で笙子と芽依を切り捨てようとしている。
有美は肩で大きく息をつき、ひとしきり頭を振った後すっくと立ち上がる。冷蔵庫から缶酎ハイを取り出し、グラスふたつを手に戻ってきた。
「お茶もいいけど飲もうよ。こういうときはやっぱり飲むに限る」
歓迎会で飲んでいるので下戸でないことは知られている。笙子も立ち上がり、パントリーからお気に入りのポテトチップスを持ってくる。有美は高級そうなチーズやドライフルルーツもキッチンペーパーに並べた。
「あなたの勇気に乾杯ね。よく頑張った。えらい。自分のことも芽依ちゃんのことも、あなたは守った」
グラスに酎ハイを注ぎながら有美が言う。泣きそうになるがこらえて笙子も返す。
「有美さんの決断も素晴らしかったです。ここでお会いできて私、すごく助かりました」
「ほんと? 頑張っていろんなものを処分した甲斐があったわ」
誰かに言ってほしかった言葉を有美は言ってくれた。不安や迷いにかられることもあるけれど、懸命に考え選び取った道を、なんとか自分の足で進んでいる。たまには自分を褒めよう。えらい。よくやっている。
「じゃあ、笙子さんと私、ふたりに乾杯ね」
そのとき居間の暗がりから「おうん」と声がした。ナンシーがケージの中で寝返りを打ったのか寝言なのか。起き上がる気配はなく静かになる。グラスを手にしていたふたりはくすくす笑った。
「忘れちゃいけないわね。私たちのナンシーに乾杯」
「ですね乾杯」
ひろさきハウスの夜は更ける。ひとつ屋根の下で人も犬も夢の中。
グラスを傾けるふたりの女性の間では、狭い収納スペースに合わせて、どういう衣類をキープしていくかでしばらく話が続いた。
笙子たち親子の部屋の前の住人、彩香については孝江が連絡を取ったそうだ。「もしかして来たんじゃない?」という単刀直入の問いかけに、「実は」という答えが返ってきた。彩香は第一子を妊娠し、現在三ヶ月とのこと。ひろさきハウスのみんなにそれを報告しようと出かけたのに、家が近づくにつれ懐かしさや別離の寂しさがこみ上げ感傷的に。笑顔でいられる自信がなくなりチャイムが押せなかった。
孝江は無理しなくていいと、電話口で諭したそうだ。みんなの顔が見たかったらいつでも遊びに来ればいい、そのまま離れがたかったら居候になればいい、妊娠中は誰でも気持ちの浮き沈みが激しくなる、私にも経験があると話したらしい。
笙子は首を縦に振りつつ耳を傾けていたが、最後の一言に内心とても驚いた。孝江には妊娠や出産の経験がある、つまり子どもがいるということか。孝江のプライベートはほとんど聞いていない。どういう半生を送ってきたのだろう。いつかそれを聞く日はやってくるのだろうか。
ミニチュアダックスフンドを飼っている芽依の友だちが、十二月になってからひろさきハウスにやって来た。笙子はパートに出ていたので不在だったが大家さんが対応してくれた。利発そうなしっかりした子で、ナンシーを間近で見て大喜びしたものの、慣れるまでは手を出さないという約束をちゃんと守ったそうだ。途中から子どもふたりは食卓のテーブルに移り、お絵描きを始めた。犬が主人公の紙芝居を作ると芽依は張り切っている。
年末年始、笙子たち親子はひろさきハウスで過ごし、笙子の実家にはビデオ通話で元気な様子を伝えた。母も体調がいいのか、皆さんへのご挨拶がてら、春になったらそちらに行かなきゃと笑顔を見せてくれた。実現してほしい。
そして冬休みが終わり、学校が始まった一月の中旬、ひろさきハウスの年長者三人がにわかに奇声を上げてはしゃぎ始めた。何かと思ったら、二階のもうひとりの住人が帰って来るそうだ。フクちゃんこと福沢福子。本名か通称なのかはわからないが、四十六歳、女性、独身。写真は見ている。ショートカットで痩身、飾り気のない健康そうな人だ。
「笙子さん、初めてだもんね。フクちゃんすごいのよ。帰ってきてくれて嬉しい。そろそろかなって楽しみにしてたの」
有美が興奮気味に言う。まさに手放しの喜びようだ。
「フクちゃんはね、節約レシピが素晴らしく得意、なおかつ、ここで腕を振るうのがちょうどいいストレス解消なんだって。私には考えられないことだけどね。じっさい割り勘の材料費だけで毎日、美味しいものを作ってくれる。私、お弁当も頼んでるんだ。三百円くらいで絶品弁当。最高でしょ」
横から孝江も言う。
「私もお願いしてる。仕事中も美味しいランチを思うと怒りが減るからね。食の力ってほんと大きい。笙子さん、あなたはまかない食だっけ?」
「おにぎりを持っていってます。私も頼めますか。三百円ならお願いしたい」
「ぜんぜんOK。大家さんなんか三食頼むもん、ねー」
言われた大家さんはもちろんと笑うだけでなく、居間の真ん中で「やったやった」と踊り出す。
「ナンシーもよかったわね、大好きなラムや豚耳の燻製が食べられる。芽依ちゃんも美味しいおやつに期待して。ああ、オレンジケーキが食べたい。五平餅も」
笑顔の芽依が笙子にくっついてくる。「楽しみだね、お母さん」と顔に書いてある。うなずいて小さな身体を抱き寄せた。芽依はくすぐったそうに身をよじりその場にしゃがみ込む。
「ナンシー」
呼びかけると差し伸べる細い腕に向かって黒い犬がやってきた。細い尻尾が元気よく揺れている。
娘の腕の中に潜り込む犬に、笙子も手を伸ばした。ゆっくりと艶やかな毛並みをなでる。体温が手のひらに伝わってくる。
「ナンシー、そろそろあのカフェに行こうか。今度は芽依も一緒に」
それを聞いて可愛らしいふたつの瞳が生き生きと輝いた。
(第5回「ランパト」につづく)