生まれてこの方いくつかの転居を経験し、ここ十年の間にも引っ越しは三回しているのだけれど、今回のそれはまったく勝手がちがった。荷物をとにかく減らさなくてはならない。
今のアパートに越してくるときに、家電品のほとんどはリサイクル品でまかなった。なので洗濯機も冷蔵庫も炊飯器もすでに古びている。処分は惜しくはないが、「備え付けがあるから」という理由が笙子にとっては斬新だ。入居の契約後、下見させてもらうと炊飯器や冷蔵庫だけでなく、オーブントースターもブレンダーも用意されていた。もっと言ってしまえば鍋やフライパン、包丁、食器、調味料に至るまで、台所にあるものはほぼすべて自由に使っていいそうだ。箸や湯飲み、マグカップなど、個人で使いたいものは各自が用意して、私物専用のコーナーにしまう。
収納については個室のクロゼットの他、屋根裏部屋があるけれど使えるスペースは広くない。持ち込む荷物はよくよく考え、二人分の最低限の衣類や鞄、靴、学用品、教科書、思い入れのある品を親子で少しずつ。幸い、犬と暮らしたい芽依は片付けにも積極的で、わがままも言わず掃除にも励んでくれた。どんなに狭い個室でもぜんぜん大丈夫だそうだ。
押し入れがないので布団は諦めベッドを買うことにした。大家さんに相談すると顔見知りの家具店を紹介され、「良いものだけど売れ残り」という二台を選んだ。
転居は十一月第一週の土曜日。引っ越し費用はアパートの管理会社が払ってくれるので、近い距離ながら業者に頼んだ。運ぶ荷物よりも処分品の方が多い。
搬入は昼前に終わった。ベッドはすでに設置されていたので、七畳の個室は足の踏み場もない有様だ。午後からせっせと荷物を開けた。
潰した段ボール箱やゴミ袋を一階に運んでいると住人のひとりが帰ってきた。遠山有美だ。大家さん情報によれば、エステサロン勤務で五十歳ちょっと。色白で丸顔でふくよか、下がった目尻が柔らかな印象を醸しだす人だ。引っ越し前の下見のさいに顔を合わせ、「仲良くできそうな人が入ってくれて嬉しいわ。娘さんもかわいらしい」と、コミュ力の高いことを言われた。仕事上の付き合いならばうまくやれそうだが、「自宅」という素の場所ではどうだろう。
片付けを終えた夕方にも「お手伝いできなくてごめんなさい」「わからないことがあったらなんでも聞いてね」と微笑む。「ありがとうございます」と緊張のあまり不自然なほど頭を下げてしまう自分が歯がゆい。
四部屋のうちひと部屋は笙子たち親子、ひと部屋に遠山有美、もうひと部屋は不在がちの女性で、日本各地の旅館や民宿、山小屋に住み込みで働き、独自の視点でブログや動画を発信していると聞かされた。ひろさきハウスにはたまに帰ってきてしばらく滞在し、また出て行く。今は不在の時期だそうで、人見知りの笙子としてはとても助かる。
残る住人はひとり。大家さんと遠山有美とその人と、たったの三人じゃないかと笙子は自分に言い聞かせる。おまけに大家さんたちは歓迎会と言って夕飯を用意してくれた。サラダとスープとパエリアだそうだ。食材の買い出しまで手が回らなかったのでありがたい。迎えてくれる気持ちはもちろん嬉しい。
できあがった料理や食器をテーブルに並べていると、犬がわんわん鳴き出し、玄関まですっ飛んで行った。引っ越し作業に追われていた笙子は犬のことを忘れていたので、突然の鳴き声にぎょっとする。
もうひとりの住人、早乙女孝江の帰宅だった。
「だってイラつくじゃないの。また顔色うかがってびくついてるの。いつまで白い巨塔やってんの。時代は令和よ、令和。事務局長のコバンザメ体質、あれって伝染病? 誰かワクチン開発して」
「孝江さん」
「若い子たちがごそっと辞めたらどうするつもりかね。脅しじゃなくて、ありえるんだってば。そういう頭がないのがおめでたい。やってられない」
吊り上がった目に飛び出した頬骨、たるんだ口元の皺、分厚い唇からのぞく立派な前歯。ひとつひとつのパーツにインパクトがありすぎる。
孝江は総合病院に勤める看護師だそうだ。六十代半ばで仕事熱心で優秀な患者第一の模範的ナースだけれども、思ったことは口に出すタイプで、敵を作ることも厭わずあちこちで揉めて病院を替わり、今も爆発一歩手前と自ら言う。
昔から自己主張の強い人が苦手な笙子は、勤め先でもお局様タイプのパート従業員にビクビクしている。仕事上の付き合いならば割り切って我慢もできるが、くつろぐはずの自宅で窮屈な思いを味わうとしたら身が持たない、かもしれない。
「孝江さん、今日も絶好調ね。激務激務と毎日言ってるけど元気そうで何より。門脇さん、心配しなくていいのよ。これがいつもの孝江さんだから」
有美に言われて孝江はアハハと笑う。
「仕事を振りきって帰宅したんだから、歓迎の意は表しているでしょ。これからよろしくね、門脇さん。そう呼んだ方がいい? 下の名前がいい? 私は孝江でいいわ。孝ちゃんと呼ぶ度胸があるならそれでも」
強い視線を向けられ顔を伏せてしまったが、芽依に「お母さん」と小突かれ気を取り直す。
「下の名前は笙子です。門脇でも笙子でもどちらでも」
「なら、笙子さんって呼ぶわ。娘さんは芽依ちゃんね。さっき挨拶したもんね」
芽依は自分の荷物だけ片付けると一階に降り、犬と過ごしていたらしい。夕方には犬の散歩スタッフが来たそうで、「ねえねえお母さん」と報告だけしてまたいなくなった。孝江の帰宅時も犬を追いかけ玄関に向かったので、一足先にしゃべったようだ。
「ナンシーの仲良しは私の友だちよ。若いのにいい趣味している。これから一緒にいっぱいかわいがろうね」
「はい」
「おっ、返事がいいね!」
孝江は陽気に破顔し、なみなみとコップにつがれたビールを豪快に傾けた。よくわからないが新入り親子を受け入れてくれるらしい。芽依が可愛がってもらえるならやっていけるかもしれない。
食事の途中で入居のきっかけを有美に聞かれた。不動産屋からの紹介と応え、「有美さんは?」と聞き返す。
「私は叔母の住んでいた部屋を引き継いだの。叔母は二年前に足腰が弱って施設に入ったんだけど、その前にときどき顔を見にここに来ていたから。まさか自分が住むなんて考えもしなかったわ」
「では気が変わって?」
「まあ、そんな感じ」
言葉を濁したので、笙子は「孝江さんは?」と水を向ける。
「私はこう見えてひとり暮らしが得意じゃなかったみたい。子どもの頃、大家族で暮らしていたからかな。あるときふと、寮みたいなところに住んだらどうかと思い立ち、いろいろ探したんだけどしっくりくるのがなくて。ようやくここを見つけたの。もう六、七年前になるか。今では一番の古株よ」
大家さんもシェアハウスの成り立ちを話してくれた。「よく誤解されるのだけど」と前置きがつく。建物が建っている土地は借地だそうだ。建物だけが大家さんのもので、旦那さんの両親を地方から呼び寄せ、自分たちの子どもと合わせて三世代で暮らしていた。その後、相次いで両親が他界。子どもたちも独立。ふたりきりになり、頼まれて親戚の子どもに下宿させたり、知り合いの知り合いに部屋を貸したりしているうちに、ちゃんとリフォームして仕事にしようと旦那さんが言い出した。十年前のことだそうだ。
「がらんとした家よりも、人の気配がする方が良かったのね。私も何かしたいと思っていたから無理のない範囲でと承知した。リフォームはけっこう楽しくてわくわくしたわ。かけたお金の分だけ頑張ろうと話していたのに、うちの人、たった五年でいなくなるんだもん」
脳梗塞による急死だそうだ。大家さんは途方に暮れ、シェアハウスは存続の危機に見舞われた。けれど当時の入居者に各種事務手続きの強い人がいて、手を貸してもらいつつ難局を乗り切った。
「五年前なら孝江さんはいらしたんですか」
笙子の問いかけに孝江はうなずく。
「旦那さんの異変に気付いて病院に搬送したんだけど間に合わなかった。いろいろ忸怩たる思いがあるわ」
「孝江さんのおかげで半日の猶予はもらえた。あのときもさんざん言ったけど感謝してるのよ。その後も孝江さんなりの励ましやユニークな言動に元気づけられてきたし」
「ん? 私なりの? ユニーク?」
有美がすかさず「孝江さんどうぞ」とビールを注ぎ、歓迎会は大人たちの飲み会へと姿を変えた。途中から芽依は退散してナンシーをかまい、笙子も娘の風呂を口実にテーブルから離れた。
初めて入る共有の風呂はアパートのものより広く明るく、シャンプーもトリートメントも上質だった。終わったらすぐ湯を抜いて洗い流す、濡れたタオルや下着の始末は忘れずに。それらが笙子たち親子に新しく加わった生活様式だった。
笙子の勤め先はチェーン展開している回転寿司店の厨房で、引っ越し先が近かったので自転車で通える。勤務時間は平日の朝の九時から、一時間の休憩を挟んで夕方の五時まで。ときどき土日も入らなくてはならない。
三年前に離婚のごたごたとコロナが重なり、芽依の学校も休校になったことから就職活動は何もできなかった。コロナが下火になる頃、ようやく離婚問題に区切りが付いて名前を旧姓に戻した。親子三人で住んでいた賃貸マンションからアパートに引っ越し、芽依も学校が替わった。腰を据えて回転寿司店で働くようになった。
元夫から養育費はもらっていない。フルタイムで働いても税金で引かれ手取りは多くない。貯金をする余裕はなく、先々を思うと不安は増す一方だ。二年後には芽依が中学に入るので、制服だの鞄だの出費がかさむ。部活をやりたがったら用具などの費用はどれくらいかかるだろう。十歳の芽依が高校を卒業するまであと八年。なんとしてでも健康で稼ぎ続けなくてはならない。
笙子の実家は母に持病があり助けを期待できない。むしろお互い、「こちらは大丈夫。心配しないで」と言い合っている。ひろさきハイツへの転居を知らせるとずいぶん驚かれ、それこそ心配されたが、家賃が安くなったとメリットだけを伝え、あとは犬とたわむれる芽依の写真を何枚も送った。孫の笑顔に癒やされたそうなので、これから先も泣き言は要注意だ。
新生活にはささいなところで細かなルールが張り巡らされ、泣き言までは行かないがこちらも注意は必要だった。洗面所には使い捨てのペーパータオルやソープは常備されているが、顔を拭くタオルはそれぞれ持参する。ヘアセットやメイクも各自の部屋で。冷蔵庫やパントリーに各自のエリアがあるものの、買いすぎると自室に置かなくてはならない。鍋やフライパン、食器などは使用後に洗って元の場所に戻す。忙しいときの後回しができないので時間配分はよく考えて。リビングに私物の本や手芸用品、膝掛けなどは持ち込めるが、就寝時にすべて自室に引き揚げる。でないと朝、階段に置かれている。
これらの取り決めはシェアハウスごとのローカルルールと後から知った。ひろさきハウスは大家さんが綺麗好きで、掃除や片付けを担っているので共有部分はきちんと整っている。清潔ですっきりとした居住空間だが住人もルーズでいられない。
本人曰く、その代わりと言ってはなんだが料理はダメでやる気が起きないそうだ。じっさい大家さんの食事を垣間見ると、出来合いの惣菜や冷凍食品の比率が高い。昔は頑張って作ったけれど今は卒業とのこと。笙子たち親子とは食事時間が一緒になるので、味噌汁や煮物をお裾分けすると、それがどんなに低予算の内容でも喜んでくれる。笙子にしてみれば、共有の台所や食堂は気重の一因だった。超節約レシピがバレてしまい恥ずかしい。けれど大家さんの食事が豊かとも言いがたく、コンプレックスは早々にやわらいだ。
大家さんも気を遣い、芽依のおやつを用意してくれる。四年生になってから、芽依は放課後に預かってくれる施設に行くのを渋るようになった。高学年はほとんどいないらしい。留守番ができるようになったり、塾通いが始まったりするからだろう。
今までは帰宅してもアパートにひとりきりなので躊躇していたが、新しい住まいには大家さんがいる。大家さんが不在でも犬がいる。おやつの有無はさておき、この犬というのが予想外に役に立つ。五分の一は飼い主なので、「芽依をよろしくね」と遠慮なく言えるし、ちゃんと訓練されたプロの番犬だと思うと安心して任せられる。
でも、相変わらずかわいいとは少しも思えない。犬が近づいてくると身体が強ばる。いきなり足下に現れたりすると悲鳴をあげてしまう。有美や孝江とは休日も食事時間もずれているので、コミュニケーションを取るとしたらリビングなのに、ふたりは必ず犬をかまう。疲れが顔に出ているようなときでも犬に話しかけ、せがまれれば遊びに応じ、じゃれつかれても嫌がらず、大きな身体をハグして撫でさする。眠ったまま起きないときはただじっと見つめている。
笙子には二人の気持ちがわからない。
犬を避けたり恐がったりする自分が異分子で、空気を悪くしてしまいそうでいたたまれない。自然と一階に降りづらくなった。リビングには歴代の入居者たちの写真が飾ってあり、最近のでは犬を囲んだ楽しそうな一枚が目を引くけれど、あれに入れなくてもかまわないと自分に言い聞かせる。
新しく買ったベッドは快適で、静かに本を読むのが今の楽しみだ。芽依にすすめられて芽依の好きな、犬の出てくる児童書も読んだ。主人公のように犬を介してさまざまな人々との交流が芽依にも生まれるとしたら、お安い物だ。ちょっとした不便さも不自由さも疎外感も。
(つづく)