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 引っ越しから三週間が経つ頃、芽依は孝江にくっついて犬の散歩に出かけるようになった。朝晩の散歩はマキタのスタッフがやってくれるので、孝江のは日中の気ままな散歩だ。犬はご褒美のおやつ以上に喜ぶらしい。芽依も大喜びだ。散歩から帰るとお母さんあのねと話したいことがたくさんあって生き生きとした顔を見ることができる。犬もすっかり芽依になつき、芽依はリビングで宿題もするしうたた寝もする。洗濯物たたみや風呂掃除にも励んでくれる。お母さんもナンシーの散歩ができればと小さい声で言うのが玉にきず
 聞こえないふりをしていると、犬もよくわかっているのか笙子には常によそよそしい。じろりと一瞥いちべつするときの素っ気なさたるや、優秀な知能をたしかに感じさせる。
 日常生活を送る上での気鬱はこれまで骨身に染みるほど経験してきた。別れた夫との結婚生活が最たるものだ。十歳年上の人で、知り合った当時は気前が良く鷹揚で話も楽しかったのに、結婚後は一変した。言葉の暴力や束縛は子どもが生まれてからさらにひどくなり、相手の離職がとどめの一撃になった。
 あれに比べれば今の犬との関係の方がずっといい。互いに仲良くなりたいとは思わず、顔色をうかがったりうかがわれたりもなく、無視されても傷つかない。ある意味、対等で良好な関係が築けているのかもしれない。大家さんも有美も孝江も、見て見ぬふりをしてくれるので助かる。
 その犬好きコンビ、芽依と孝江が都心のデパートに出かけることになった。催し物会場で犬猫フェアが開かれているそうだ。かわいいグッズがいっぱいと孝江に聞かされ、チラシも見せられ、芽依は大乗り気。貯めたお年玉で何か買いたいと言う。孝江も芽依に合わせて土曜日に休みを取ってくれた。趣味の合うふたりで行った方が楽しいかと、笙子が留守番を申し出ると、ふたりはすぐに納得して残念がるふりもしなかった。
 大家さんも友だち数人と昼食会。有美は朝から仕事で帰りは遅い。久しぶりに誰もいない半日がめぐってきた。ひろさきハウスでひとりは初めて。なんという解放感だろう。
 芽依たちを送り出して玄関ドアを閉めると、廊下ではほんとうに小躍りした。リビングに入ると鼻歌では収まらず、ミュージカルナンバーをそれなりの音量で歌ってしまった。誰もが知っているような有名な曲だ。カラオケで歌ったことはあるがアカペラは初めて。両手を広げて振り付けもなぞる。弾む心のままソファーに飛び乗り、一段高いところから思い切りサビ。
 気持ちいい。すべての束縛を断ち切っての快感だ。自分に拍手。
 と、目の前を横切る物体があった。誰もいないけど犬はいた。芽依や孝江にかまわれ過ぎて疲れたのか、ふたりが出かける頃はケージの中で寝ていた。そのケージに鍵はかかってなかったらしく、起きて出てきたのだ。
 突然の笙子の歌声に驚いただろうが、慌てず騒がず沈着冷静なのはさすが。いつも通りの一瞥をよこしただけで通り過ぎる。ぐるりと一階を巡回し、他の住人がいないことを把握して、ゆったりお気に入りの窓辺に戻る。
「ナンシー、今日は夕方まで私とあなたのふたりきり……ではなく、ひとりと一匹なの。私があるじ。わかる? ご主人様!」
 強めに言い切ると、身体の内側から不思議な力がみなぎり背筋が伸びた。自分がえらくなったような気がちょっとする。
「だから、私の命令が絶対よ。いい? よく聞いて、口答えせず、必ず従うように」
 途中から元夫の台詞だと気付く。遠回しや間接的にではあったけど、要するに言いたかったのはこれ。バカみたいとすぐ思った。嫌悪感が吐き気のようにせり上がり、顔が歪む。無性に何かを思いきりへし折りたくなる。鉛筆やら割り箸やら。犬に威張り散らすのは滑稽こつけいだし、妻や子どもに対しても同様だ。
 湧き起こった強い衝動をなだめ、笙子は「ふう」と息をついた。貴重な時間を不愉快なことに使っている場合ではない。犬も無視を決め込んでいる。お互いに干渉せずは望むところだ。犬の良さは何を見ても聞いても告げ口しないところ。今の熱唱も秘密にしていられる。ならばもう一曲。
 うろ覚えの名曲をハミングまじりに歌い終えると、笙子は温めていたプラン通りにテレビを点けてDVDをセットした。購入してから四、五年になるDVDだ。かつてファンクラブに入るほど夢中になっていたアイドルグループのライブ映像で、以前はアパートの小さなテレビで音量を気にしながら細切れに見ていた。今日は大きな画面いっぱいに映し出されたコンサートを、それなりの音量でゆっくり楽しめる。
 懐かしい歌を口ずさみ、会場と一緒に歓声を上げ、軽妙なトークに笑わせてもらう。身も心ものびのびくつろいで、気がつけばもうお昼。冷凍パスタで簡単にすませ、午後からは読書。図書館で借りた短編集を居間のソファーに寝そべって読む。うとうとしてくるのもプランのうちだ。ひとりで気兼ねなく寝入ってみたかった。小春日和だったのでカーディガンを羽織って、芽依のタオルケットを足下にかけるとちょうどいい。犬がいるので防犯面も心配ない。
 ソファーで気持ちよく眠っていると犬の鳴き声で起こされた。時計を見ればまだ二時半。スマホに着信はなく部屋も静まりかえっている。何かあったとは思えないのに犬がタオルケットをはぎ取る。
「やめてよ。せっかく寝ていたのに邪魔しないで」
 笙子の抗議を無視して犬はソファーに前足を乗せ、真っ黒な鼻先を近づけてくる。
「なんなの。降りて! あっちにいきなさい」
 振り払うように片手を動かしたが、犬はかまわずぐいぐい迫ってくる。身をよじって背もたれの端っこまで逃げると、カーディガンの裾をくわえて引っ張る。笙子は我慢できず跳ね起きた。犬はすばやく身を翻し、リビングから廊下に出てわんわん鳴く。笙子がポカンとしていると戻ってきて、またカーディガンを狙ったり、背後に回り込んで足を押そうとしたり。
 もちろんこんなことは初めてだ。仕方なく犬の動きに合わせて廊下に出た。さらに玄関先で「これだこれだ」と合図するので、近寄ってみるとそこにあるのは散歩用のリード。
「ちょっと待って。まさか散歩に行きたいの? ちがうよね。いつもの散歩の時間じゃないし。たまの相手は孝江さんだし。私にできないことくらい知っているでしょ」
 噛んで含めるように言うが、犬はまっすぐ笙子を見返すだけだ。
「無理だよ。私には連れて行けない。やったことないもの」
 けれど犬はおうんおうんとせがむような鳴き方をする。三週間ほど一つ屋根の下で暮らしているので、鳴き声の意味がおぼろげながらもわかる。
「どうして今かなあ。いつもは散歩を要求したりしないよね。もっと聞き分けいいのに」
 それとも突発的な出来事があったのだろうか。おうんおうんは強くなる。お座りしていたのに腰を上げてしつこく迫ってくる。笙子が思いつくのは芽依のことくらい。何かあったのだろうか。それともお迎えに行きたいのだろうか。ひょっとして駅についたのか。ひろさきハウスは最寄り駅から徒歩十数分。バスもあるけれど芽依と孝江は歩いて出かけた。帰りはバスかもしれない。
 逡巡している間にも犬の動きはせわしなくなり、本格的にわんわん吠え始めた。
「わかった。静かにして。ほんのそこまでならできるかも。ちょっとだけよ。無理やり走ったりしたらすぐ帰るよ」
 笙子は意を決し、待つように指示を出して二階に上がった。カーディガンを脱いで上着を羽織り、スマホをポケットに入れて玄関に戻る。見よう見まねでリードを装着させ、お散歩セットのバッグも一応手に持つ。

 ナンシーの走行は素人にもわかるくらいになめらかで優秀だった。ところどころ匂いを嗅いで路地から路地に、笙子の速度に合わせて進む。初めの数十メートルは緊張して身体に力が入ったが、暴走する気配はないので笙子の気持ちも落ち着く。
 屋外のナンシーはすらりとして町角によく映えた。黒くて短い毛並みには艶があり、長い顔の下半分や足の付け根、足先が焦げ茶色で、ほどよいアクセントになっている。訓練のたまものなのか筋肉質で贅肉の類いがなく、均整の取れた体躯は精悍というより美しいとさえ思える。
 不動産屋に連れられてひろさきハウスを訪れたさい、居間で初めてナンシーを目にして笙子は恐れおののいた。獰猛な肉食獣そのものに見えたし、鋭い眼光に射すくめられ身体が強ばった。でもじっさいのナンシーはあのとき、身構えてもおらず威圧もしていなかった。
 慣れない大型犬を近くに見て笙子に恐怖心が先走ったのだろう。ほんとうは一度も恐い目に遭っていない。むしろナンシーは見かけによらず甘えん坊で人なつこい。この頃では芽依にも甘えて抱っこをせがむ。
「こんにちは、ナンシー」
 曲がり角で声をかけられ、顔を向ければ白い大型犬を連れたおじさんだ。ちがう方向に歩いて行くので会釈だけ交わした。犬同士も挨拶するような雰囲気がある。
 他にも庭先から鳴き声が聞こえ、柵越しに尻尾を振る犬がいたり、飼い主を引きずって吠えかかってくる犬がいたり。ナンシーは心得た様子で、鼻をこすりつける相手もいれば、無視する相手も吠え返す相手もいる。吠えるといってもただの一喝で、自分の歩行ペースは崩さない。この界隈かいわいを熟知しているのだ。
 笙子の方がよっぽど不慣れできょろきょろしてしまう。白壁がお城みたいに見える家、クリスマス装飾を施している家、朽ち果てて誰も住んでいないような家、小さな歯科医、真新しいアパート。
 芽依が帰ってきたらこの散歩の話をしてみようか。会話が弾むにちがいない。そういえばつい昨日、クラスの女の子と犬のことを話せたと嬉しそうにしていた。その子はミニチュアダックスフンドを飼っていて、ナンシーを連れた芽依を見かけたらしい。家以外でも楽しい時間が過ごせるようになってくれればいいけれど。
 そんなことを考えながら歩いていると、ナンシーの足が止まった。駅とは逆方向に進んでいたので芽依たちのお迎えではなさそうだ。
「ここってどこかな」
 ガードレールはあるもののバス道路ではなく車通りの少ない道だ。ナンシーの視線をたどっていくとログハウス風のおしゃれな店がある。看板にティーカップが描かれてあるのでカフェだろう。
 こんなところにカフェが、と驚いてしまう。ぜんぜん知らなかった。「たまにはお茶しましょう」とナンシーが言うはずもなく、素敵なお店を教えてくれたわけでもないようで、ひたすらじっと一点を見つめている。
 なんだろう。笙子は腰をかがめて目を凝らした。道路を挟んで斜め前に店の駐車場があり、そこに面してテラス席が設けられている。若い女性がひとり座っていた。髪の毛の長いほっそりした人だ。遠目なのではっきりは見えないが笙子の知らない人だ。
「あの人誰? あの人がいるからここに来たの?」
 反応はない。
「もうちょっとそばに行ってみれば? 知っている人なんでしょう?」
 話しかけてもリードを引っ張ってみても応じない。街路樹の木陰だったので、休憩のつもりでしばらく立っていたがなんの変化もなくて痺れを切らす。わざとらしく息をつき、「もう帰るよ」とリードを揺らすと、ナンシーはようやく二、三歩と歩いた。けれどハッと身を強ばらせまた固まる。駐車場に一台の車が入り、中から男性が降りてきたのだ。
 その人はテラス席に歩み寄り、気付いた女性が立ち上がった。ふたりは柵越しに言葉を交わし、女性は店の中に入って会計をすませたのだろう、正面の扉から出てきた。男性と合流し車に向かう。ふたりの柔和な表情からすると親しい間柄のようだ。テラス席よりも近くから眺めることができて、初めてどこかで見たようなと思った。長い髪の右側だけ耳にかけ、左はそのまま下ろしているので顔半分が見えにくい、でもかわいらしい顔立ちであることはよくわかる。つい最近、同じことを思ったのだ。
 いつだろう。どこでだろう。
 女性は二、三度となく足を止め、駅の方角に目をやった。立ち去りがたいためらいを見せつつも、男性に促されて助手席に座る。車は駐車場を出て右折し、笙子たちがいるのとは反対側へと走り去った。
 記憶が呼び覚まされ、ひょっとしてと思う。ひろさきハウスのリビングに飾られている写真、その中にいた人では。大家さんを始めとした住人たちとの集合写真で笑顔をのぞかせていた。もちろん黒い犬、ナンシーと一緒に。笙子たちの入った部屋の前の住人で、レンタル番犬の利用をみんなに推した人だと聞かされた。
「もしかしたら家に来たのかな。私が寝てたからピンポンが聞こえなかったとか。でもひろさきハウスのピンポンの音大きいし」
 ナンシーは女性に気付いて外に出たがったのだ。ソファーに寝そべっている笙子を起こし、半ば強引にリードを持たせた。匂いをたよりに彼女のいるカフェにたどり着く。
 せっかく間に合ったのに、じっと見ているだけだったのはなぜだろう。女性もだ。駐車場から視線を向けていたのは駅ではなく、おそらくひろさきハウス。
 犬も女性も会いたがっているのに会わない。どうして?
 笙子が歩き出すと今度はナンシーも従う。なんとなくカフェに向かう。女性のいたテラスを覗いてみると、ダスターを手にした店員さんと目が合った。
「いらっしゃいませ。ご利用になりますか」
「いえ、犬がいるので」
「テラス席でしたらわんちゃんも大丈夫ですよ。出入り口もそこにありますし」
 なるほど、直接入れる木戸がある。ナンシーがくんくん鼻をならし、まるで「寄っていこうよ」と誘ってるみたいだ。
 カフェでお茶なんて贅沢な気がしたが、たまにはいいやと階段を上がってテラスに入る。おそらくナンシーはさっきの女性とここに来たことがあるのだろう。
 奥の席に座り、さらにその奥にナンシーが収まる。注文したカフェオレと犬用のお水が運ばれてきて、それぞれが喉を潤す。
 ホッとしたのもつかの間、道路の方が騒がしくなった。毛の長い大型犬を連れた若いカップルが木戸のところで、「無理」とか「大丈夫」とか揉めている。男性が押し切った雰囲気で木戸を開け、テラスにあがってきた。カフェに寄るか寄らないか、意見が割れたのは落ち着きのない犬のせいだ。興奮気味でわんわん吠えて動き回る。叱りつける女性の声は甲高く、男性はしゃがんで犬を抱え込もうとしているのだけれどうまくいかない。
 笙子がはらはらしていると、男性がリードを放してしまい、自由になった犬が猛然と笙子に吠えかかってきた。
 腰を浮かすより早く、ナンシーが奥から飛び出した。笙子と犬の間に立ちはだかり、牙を剥いてかくする。地を這うような唸り声は迫力満点だ。リードでつながれているので、実際の喧嘩になったらナンシーの方が不利だ。どちらも大型犬。けれど相手の犬は驚きあわて、きゃんきゃん鳴いて飼い主のもとに逃げ帰った。
 お店の人が駆けつけ、大丈夫ですかと恐縮する。ナンシーはまだ興奮しているので、笙子は立ち上がって近づかないよう腕を伸ばした。私はなんともありませんとジェスチャーで示す。相手の飼い主も謝りに来たので、それも途中で止めて席に戻るようお願いした。
 ナンシーにお座りを命じ、「ありがとうね」「私は大丈夫だよ」と話しかける。ほんとうは撫でてハグしたいけど、それをしていいのかどうかもわからない。落ち着かせるのが先決な気がした。感謝の気持ちはきっと伝わる。
 ナンシーに何度となくお礼の言葉をかけていると、荒々しい背中の上下は静まっていった。例の犬を監視できる位置はけっして譲らず睨みは利かせたまま。笙子を守るためだ。
 優秀な番犬とはこんなにも頼もしく、飼い主を重んじてくれるものなのか。

 

(つづく)