スーパーからの帰り道、紅葉のディスプレイに縁取られた不動産屋の前で、笙子の足が止まる。さすがに気になってるらしいと他人事のように思った。今住んでいるアパートの建て替えが決まり、年末までに出て行くよう言われている。
二年前の入居のさい、そういう話もあると聞かされていたけれど、調布駅界隈にはもっと古いアパートが建っている。まだまだ先と思っていたところ、にわかに話が進んだらしく期限を突きつけられた。次の住まいを見つけ、早急に引っ越しの準備を始めなくてはならない。頭ではわかっていても日々の雑事に追われ後回しになりがちだ。住人たちは一軒、二軒と出て行き、残っているのは八部屋のうち三軒のみ。ほとんど交流のない人たちだったが、いなくなってみると廃墟に住んでいるようなわびしさがある。
年内といえばもう三ヶ月足らず。
「お母さん」
呼びかけられてハッとした。スーパーへの買物は、ひとり娘の芽依と一緒だった。
「ごめん。ちょっとぼんやりしてた」
「次のアパート、探すんでしょ。もしかしてここで?」
「ううん。そうじゃなくて」
ではどこでと自分に突っ込む。十歳になった芽依は事情を知っているので子どもなりに心配している。次の住まいがはっきりせず、心細くなるのは当たり前だ。笙子にしても最後の一軒になる前に引っ越したい。
でも、一から十まで自分で決めると思うと億劫でたまらない。これまでさまざまな物事をひとりで決めてきた。二年半前の離婚も言い出したのは自分で、さかのぼれば郷里の前橋から東京に出てきたのも自分の意志。いい加減、慣れても良さそうなものなのに、ぐずぐずと優柔不断で動きが遅いところは変わらない。
とにかく今日は帰ろう。アパートなんてその気になればすぐ見つかる。
そう思って歩き出そうとしたとき、背後から名前を呼ばれた。
「門脇さん」
振り向くと、お腹が丸くせり出した中年男が立っていた。不動産屋のチーフ、菅原だ。二年前もお世話になったのでよく覚えている。それはお互いさまだったらしい。
「こちらから連絡をと思っていたんですよ。遅れてすみません。あそこ、年内までだそうで。次のところはもう決まりました?」
「いえ、まだで」
「ああよかった。検討中でしたら、うちの物件も見て行ってくださいよ」
返事をする前にドアを開けられ「さあさあ」と促され、空いているカウンター席に座らされる。二年前も菅原のペースに乗せられいくつも物件を紹介された。あのときはひとりだったが今はとなりに芽依がいる。
菅原はカウンターの向こうにまわり、希望の間取りや予算を確認してから、慣れた手付きでパソコンを操作した。条件は二年前とほとんど変わっていない。2Kで、できる限りの低予算。適当に見繕っての案内になるだろう。
ほんとうは希望くらいちゃんとある。壁が厚くエアコンの効きがいいところ、日当たりや風通しがそこそこ良いところ、洗濯機が室内に置けるところ、トイレと風呂が別であるところ、一階は物騒なのでできれば二階以上。けれど結局は家賃が優先される。今の収入では食べていくのでやっと。
新たに付けた条件は、芽依が転校せずにすむ場所という一点のみだ。
「お嬢さん、小学校何年生ですか?」
「四年生です」
「でしたら中学はすぐですね」
「もうひと部屋あればと思うんですけど。ふたりとも小柄ですし。一緒の部屋でまだなんとか」
ふた部屋のうちひと部屋で食事を取ったりテレビを見たり芽依は宿題をしたり。もうひと部屋に布団を敷いて寝ている。それぞれの個室など、いったいいつ持てるのやら。
「寝室がひとつでいいのなら、面白いのがありますよ。シェアハウスです。いかがです?」
「は?」
「大きめの一軒家で、一階のひと部屋に大家さんが住んでいます。入居者は女性限定で、お子さん連れでも大丈夫なようです。二階に貸部屋が四つ。このうちのひとつが現在空き室です」
とんでもないと、笙子は肩をすくめた。冗談でしょうと笑いたくなる。
「ここはね、ちょっと変わっていまして。番犬付きなんですよ」
「番犬……?」
「入居者みんなで飼っているそうです。なので、それがOKな人が条件です」
ますますとんでもない。変わった人はどこにでもいるが変わった家もあるということか。世間話のひとつとしてはちょっと面白い。でも、自分が住むとは考えられない。話を終わらせたくて首を横に振っていると、横から芽依が割り込んだ。
「犬って、どんな犬?」
「さあ。写真は添付されてないなあ。大型犬って聞いたよ」
「だったらゴールデンレトリーバー? バーニーズマウンテンドッグ? もしかしてグレートピレニーズ? だったらすごい!」
「詳しいね、お嬢ちゃん。犬が好きなの?」
「大好き。犬が出てくる本がすごく面白くて。図書館で何度も借りて読んじゃった」
笙子は驚いて芽依の横顔を見つめた。満面の笑みを浮かべ、目が生き生きと輝いている。
こんな芽依を見るのはいつぶりだろう。もうずっと、物静かでおとなしい芽依しか見ていない。覇気がなく陰鬱とも言う。学校は今ひとつうまくいってないらしい。担任の先生からも言われた。いじめられているわけではないようだが、親しい友だちはおらず、休み時間も下校時もひとり。転校してきた二年生のときより成績は低下し、授業中も反応が鈍く表情は乏しい。
母子家庭のせいなのか。母子家庭でも明るい親子はいるだろうから、つまりは母である自分のせいなのか。思い当たることはいろいろある。服のほとんどは中古品で、靴はくたびれきっている。美容院には行かずにおうちカット。気の利いたファンシーグッズは持っておらず、おしゃれに敏感な女の子たちと話は合わないだろう。習い事はもとより、外食やレジャーも皆無に等しい。
なんの楽しみもなく無味乾燥な日々を送っている自分の、ひな形を見るようだ。自分にもおしゃべりしたりご飯を食べたりするような友だちはいない。昔はいたけれど連絡を取らなくなって久しい。娘も同じでいいとは思っていない。せめても家の中が明るくなるようにと、会話の弾むような話題を探したり、賑やかなバラエティ番組を一緒に見たりと心がけてはいるものの、笑い声はテレビから聞こえてくるだけで会話は続かない。娘も母に気を遣っているにちがいない。互いにきっと無理をしている。
だからといって他に、どうすればいいのだろう。
悶々としていたところ、娘は今、無邪気に白い歯をのぞかせている。
「お嬢ちゃん、よかったらこれから見に行ってみる? どんな犬なのかわかるよ」
「ほんと? 私も見ることができる?」
「案内するのがおじさんの仕事だからね。近くだからすぐだよ。門脇さん、よろしかったら見学してみませんか。候補のアパートのひとつくらいの感じで」
とんでもないと、またしても思ったけれど、断りの言葉は喉の奥に押し込んだ。母親の顔色をうかがう娘の目から、キラキラが消えてしまう方が惜しい。
「いきなりうかがって大丈夫ですか?」
「聞いてみますね。お待ちください」
菅原はスマホを手に慣れた様子で指先を動かした。先方はすぐに出てきたらしい。あっという間に話が決まるのを笙子は硬い顔で見守り、そのすぐ隣で芽依はとろけるような笑みを浮かべていた。
不動産屋から車で乗り付け、後部座席に買物の袋を置いたまま外に出た。生ものは買ってないのでしばらくは大丈夫だろう。
初めて訪れたシェアハウスは住宅街の中に建つ大きめの一軒家だった。入り口の看板に「ひろさきハウス」とある。大家さんの名前が広崎だそうだ。車の到着に気がついたのか、チャイムを鳴らす前に玄関ドアが開いて女性が出てきた。七十代とおぼしき年配の人だ。短い白髪に銀縁の眼鏡、上半身をすっぽりくるんだエプロン姿。下はスリムなズボンを穿いている。
「まあどうぞ、大家の広崎です。いらっしゃいませ」
にこやかに迎えてもらい、玄関で靴からスリッパに履き替え廊下を歩く。これまでのアパートの見学とはぜんぜんちがう。親戚の家に遊びに来たような感覚だ。
大家さんがドアを開けて室内に入ったので、あとに続いて居間らしき部屋に足を踏み入れる。そのとたん、黒い塊が目に飛び込んできた。犬だ。
「すごい、ドーベルマン!」
芽依の声が遠くに聞こえるほど、笙子は硬直した。二十畳近くありそうな広い居間だったので、犬がいるのは数メートル先だ。離れているし動かずじっとしているのだけれど威圧感が半端ない。引き締まった体躯は攻撃力の高さをうかがわせ、鋭い眼光は肉食獣の猛々しさに満ちている。
立ちすくむ笙子におかまいなしに、大家さんは犬に歩み寄り「お客さんよ」と話しかけた。つられたように芽依が前に出たのでとっさに腕を掴んで押しとどめる。
「危ない。じっとしてなさい」
「でも」
「いいから、動かないで」
母娘のやりとりを聞いて、大家さんは鷹揚に微笑んだ。
「そうよ。お母さんの言う通り。いきなりではなく少しずつね。でないと驚かせてしまうから。あなた、もしかして犬に詳しいのかしら。ドーベルマンってすぐ言ったでしょう? 耳が垂れて尻尾もあるのに、よくわかったわね」
「最近はそういうドーベルマンが増えてるって本で読みました」
「まあ、素晴らしい。ナンシーも嬉しいみたい。尻尾を揺らしている」
「ナンシーっていうんですか」
「三歳の女の子よ。あなたのお名前は?」
「芽依です。門脇芽依」
はきはき答える娘の声を久しぶりに聞く。すっかり忘れていたが、幼稚園の頃の芽依はもっと活発で、恥ずかしがり屋ながらもアスレチック遊具が大好き。遠足の山歩きも夢中になっていた。遊具のてっぺんで万歳していた姿や、藪の中に分け入る背中を思い出す。
「ナンシー、芽依ちゃんですって。かわいらしいわね」
「こんにちは。初めまして」
大家さんの紹介を受けて芽依は腰をかがめた。犬の目線にあわせて話しかけると、長細い鼻面が芽依に向けられ、ほんのかすかに「グルルルル」と喉の鳴る音がする。それがどういう意味なのか笙子には見当も付かないが、大家さんは満足げに目を細め、不動産屋の菅原はおどけた雰囲気で身体を揺らした。
シェアハウスについてはほとんど知識がなかったので、大家さんに案内されて室内を見てまわると、すべてが物珍しく驚きの連続だった。見学の間、犬はケージに入れられ、そちらが気になってたまらない芽依も大人たちの後ろについて来た。
一階には台所と食堂、居間、さらに洗面所やトイレ、風呂があり、これらはすべて共有だそうだ。入居者が自由に利用できる。唯一ある個室は大家さんが使っている。二階には七畳前後の個室が四つ。廊下にあるトイレや洗面所の他、洗濯物が干せるバルコニーは共有スペースで、屋根裏部屋も開放されている。季節外の衣類や布団、スーツケースを置くなど、譲り合って使うことができる。
説明を聞きながら笙子の頭の中に浮かんだのは学校の寮や合宿所だ。寝室だけ別であとはみんなで使う。笙子自身はそういった施設を利用したことはない。ぽつりと口にすると、合宿所とはちがうところもあるのよと大家さんに言われた。
入居者は全員大人で働いている。勤務時間も休日もまちまち。共有部分の利用時間も頻度も異なる。それぞれの都合があるので、しょっちゅう顔を合わせるときもあれば、挨拶だけの日が続くこともある。休日に居間でゆっくりくつろぐ人もいれば、部屋から出て来ない人もいる。
「配慮は必要だけど、考え過ぎは禁物。気の遣い過ぎはくたびれてしまうでしょう? どちらかというとうちは気ままなひとり暮らしの集まりで、年齢層も高いの。門脇さんはおいくつかしら」
「三十九です」
「だったらみんなあなたより上だわ。難しく考えず、ゆるゆる馴染んでくれれば十分。新しい入居者はみんな大歓迎だから」
思わず「そうなんですか」と返す。気ままな人が多いのに、新しい人は歓迎されるのだろうか。
戸惑いや危惧が透けて見えたのか、大家さんはなだめるような口調で言う。
「菅原さんから聞いたでしょう? うちでは入居者みんなで犬を飼っている。そこだけは共通の趣味みたいなもので、賛同してくれる人ならば大いにウェルカムなのよ」
「はい。あの、犬がいるというのはここに来る前にうかがいましたけど」
「入居を決めてくれたら、あなたも飼い主のひとり」
驚いて聞き返す。
「私が? 飼い主?」
「正確に言うとナンシーはここにいる誰のものでもなく、借りている犬でね。その料金を、私を含めた住人みんなで折半している。平等なの」
「無理です。私、犬を飼ったことがありません」
「大丈夫。お世話をしてくれとは言わない。負担金がちょっとあるだけよ」
ますます理解できない。助けを求めるように不動産屋の菅原を見る。彼も面食らった様子で、あわてて大家さんを食堂の隅へと引っ張って行った。詳しい事情を今ここで確認するらしい。
やれやれと息が漏れた。変わった物件だと思っていたが予想の上を軽々超えている。ご縁はなさそうだ。もうひとつ大きな息をつきたかったが、芽依が犬のケージに近づいている。
「何やってるの。離れなさい」
「お母さん、変な声出さないで。ナンシーが驚いちゃうよ」
「だって、こんなに獰猛そうな犬とは思わなかったのよ。同じ部屋にいるだけで不気味じゃない。芽依より重そう。襲いかかってきたらどうするの。噛みつかれて全身血だらけよ」
「それは悪い人に、でしょ。ナンシーは番犬だよ。泥棒が入ってきたら襲うかもしれないけど、悪いことをしてない人には何もしない。守ってくれる。それが番犬だもん」
意見され、とっさに言い返す言葉が浮かばない。
「だからってその、ナンシーは……って、おかしくない? どうしてナンシーなの。可愛い名前なんてぜんぜん似合わない。もっと強そうで恐ろしげな名前にすればいいのに。ブラックとか、ウルフとか、ジョーカーとか」
ずっと感じていた違和感を思い切り正直に言ったところ、なぜか芽依がくしゃりと顔をゆがめた。みるみるうちに険しい様相になり、怒りを込めた目で睨みつけてくる。笙子はたじろいだ。だいたいがおとなしくて聞き分けの良い娘だが、たまに機嫌をそこねてしまい、その理由がなかなかわからないときがある。まさか、今がそれ?
「門脇さん」
呼ばれて振り向くと菅原が手招きしている。芽依のことは気になるが行かないわけにはいかない。食堂の入り口で、如才ない笑みを浮かべる大家さんとすれちがった。笙子と入れ替えに芽依のもとに歩み寄る。任せて大丈夫だろう。そういう信頼はできる人だ。
「ちゃんとした説明ができてなくてすみませんでした。細かなことをうかがったのであらためてお話ししますね」
菅原によれば一般的なアパートに比べ、シェアハウスの賃料は低めに設定されているそうだ。「ひろさきハウス」は何度かのリフォームを経て使い勝手も良く、手入れも行き届いた優良物件ではあるが、築年数は三十五年とあって相場よりも賃料は安い。そこに犬のレンタル料金が加算される。
そもそも犬は「スマイルペットサービス・マキタ」という会社が所有し、番犬としてのスキルを身に付けて一般に貸し出されている、いわばレンタル番犬だ。日々の散歩やトリミング、医療機関への受診などは会社のスタッフが行ってくれる。なので借りる側はほとんど手がかからないまま、優秀な番犬を家に置くことができる。ただし利用には料金が発生する。
「二年前にこのサービスを知った入居者が猛烈に推したそうです。大家さんを含め、他の人たちは面食らったものの、見学に行くうちに『面白そう』と前向きな気持ちになり、全員一致で契約に。そのとき料金負担についてはいろんな意見が出て、最終的に入居者四人と大家さんとで五分割することに落ち着きました。名義上は大家さんが契約者で、今のように入居者がひとり減っている場合は、その分も払っています。なかなかよいバランスだと私、個人的に思いました。みんなで飼う犬なので、ひとりだけ払わないとか、金額が異なるとかはありません。ただ大家さんはやはり大家さんであってこの家の責任者。リーダーシップを握ってしかるべきです。そういうバランスが取れています」
「はあ、でもそれは皆さんが決められたことで、あとから入居する人に求められても……」
「おっしゃるとおり。合意した人しか入居できませんよね。ただですね、さっきも言いましたようにここは割安の物件です。それに加えて光熱費も安く設定されています」
「光熱費?」
「シェアハウスの一般的な話ですが、物件によって電気ガス水道代が定額料金のところと、個人払いのところがありまして、こちらは前者の定額です。ネット回線代やトイレットペーパー、洗剤などの消耗品も毎月の共益費に含まれています。お得ですよ。もちろん自分の好きなものを使ってもかまいませんし」
「つまり、備え付けのものなら自由に使えると? 台所もお風呂場も?」
「はい」
さっき見たばかりのシャンプーやトリートメントがよぎる。それはありがたいと、思ったことが顔に出る笙子だ。
「ですので、割安な賃貸料金に割安な共益費が加算され、そこに番犬のレンタル料金が乗っかるわけですが、そうなっても今の門脇さんのアパート代+諸経費と、大して変わらないはずです」
手品を見ているような思いだった。犬に興味はないどころか、犬のための出費など冗談じゃないと思っている。そんな余裕はない。無駄なお金など十円だって使いたくない。
でも、トントン? 今のアパート代と変わらない? いや、だからといって犬への興味が湧かないのは同じだ。もっと言ってしまえばあの黒い犬と、ひとつ屋根の下に暮らすのは気が進まない。パスしたい。まっぴら。でも。
途中まで送ってくれた菅原の車から降りての帰り道、芽依の方から話しかけてくれた。
「お母さん、ナンシーのこと名前と合ってないって言ったでしょ。私も前に、学校の子にそう言われたんだよね」
「え?」
「芽依なんて可愛すぎる、ぜんぜん似合ってない、おかしいって」
身体が強ばる。アパートに向かう路地を、ティッシュペーパーや洗剤の入ったエコバッグをぶら下げて、娘と並んで歩いていた笙子は立ち止まらずにいられない。
「誰が、そんなこと言ったの。ひとり? それとも何人も?」
「いいの。平気。何人いても気にしてないから」
笙子に合わせて芽依の足も止まる。視線を外してそっぽを向く。平気なはずがない。気にしてないふりを装うために、いつしか表情が硬くなり、活気も失われたのではないか。
芽依は学校でどんな時間を過ごしているのだろう。過ごさなくては、いけなくなっているのだろう。今までも考えないではなかった。苦しい思いをしているのではと案じてはいた。でも触れるのが恐くて見ないふりをしていた、のかもしれない。具体的な話を聞いて目の奥が熱くなる。胸が痛い。
「お母さん、ナンシーって町の名前なんだって」
「町?」
「フランスって国にある町の名前。そこから取ったんだって。大家さんが言ってた。可愛い名前でしょう、ぴったりって」
芽依はそう言って、笙子を促すようにして歩き出した。
「いいよね、ナンシー。強くてかっこよくて可愛いの。早くまた会いたいな。私のことを忘れちゃう前に。ううん。きっと忘れない。すごく賢いんだって。私より頭がいいかも。今度会ったら触らせてくれるかな。撫でてみたいな。……あっ」
明るい声を出していた芽依が急に話を止める。その理由に察しがついた。芽依は思い出したのだ。今日のはただの見学であり、入居する可能性がなければ二度とあそこには行かない。犬にはもう会えない。
しおれた花のように、小さな頭がうなだれる。
「芽依、考えてみようか。私たち、あそこに住めるかな。やっていけるかな」
しおれた花が水を吸い込むように頭が持ち上がる。すがるような目が笙子に向けられる。
「いろいろちゃんと考えなきゃね。でも、試しにやってみるってのはいいかもしれないよ。選べる余地があるって、それだけで幸せなことだし」
お母さんは誰かと一緒に住むなんて嫌。人付き合いが苦手なので共同生活は向いてない。やっていく自信なんて欠片もない。それらの本音を今は飲み込む。他に何がしてあげられるだろう。意地悪なクラスメイトに囲まれ、ひたすら耐え忍んでいる娘に。
「余地?」
「芽依の名前もね、たくさんの候補の中から選んだんだ。芽依は五月生まれでしょう? 新緑の季節にぴったりの、爽やかでみずみずしくて、芽吹いたばかりの葉っぱみたいに明るい名前がいいと思った。芽依はほんとうに可愛い赤ちゃんだったから」
今でも、と付け加えると、照れ笑いを返してくれた。素直で優しい子だ。なんの楽しみもなく無味乾燥な日々を送っているなどと言ってはこの子に失礼。一緒にいて自分は温かな気持ちになれる。寂しさがやわらぐ。あとはこの子自身の心に明るい光が差してくれればどんなにいいか。
祈るだけではダメだ。自分のひ弱なメンタルを奮い立たせなくては。挑戦する余地が今ならまだあるらしい。
(つづく)