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 二月十四日は雨だった。その日の昼休み、星野さんは少し遅れて図書室に来た。
「ごめん、遅れちゃった」
 上がった息を整えながら、貸出カウンターに腰を下ろし、足元にどさりと鞄を置く。半開きになった鞄のチャックの隙間から、ラッピング袋らしきビニールの角がちらりと見えた。
「いいよ。別に誰も来ていないし」
「へえ。二人きりだね」
 ぼくは何も言わずに目を逸らした。星野さんも、ぼくに顔を見られないよう、なぜかそっぽを向いていた。
 図書室は静かだった。もともと利用者は多くないけど、今日は輪をかけて誰もいない。きっと皆、何かと忙しくしているのだろう。
 加湿器が電子音を鳴らし、タンクが空になったことを告げる。ぼくは立ち上がり、タンクを外して廊下に出た。男子トイレの手洗い場で水を注ぐ。たぷ、たぷと波の音がした。
 ぼくが図書室に戻ると、星野さんは読んでいた本から顔を上げた。図書室の暖房のせいか、顔が赤い。
「ねえ」
「何?」
「もらった? 誰かから。チョコレート」
「ううん、まだ」
「まだ、ね」星野さんはくすっとした。「これから、もらうつもりなんだ」
「そういうわけじゃないけど」
 ぼくは誤魔化すように答えて、彼女の隣に腰を下ろした。いつもより、椅子の距離が近い気がする。でも、動かす気にはなれなかった。
「誰? お母さん? それか、妹かな?」
「一人っ子だよ、ぼくは」
 ムキになって言い返すと、星野さんのくすくす笑いがひどくなった。むっとして、頬杖をついて顔を逸らす。
「言っとくけど、もらう当ては他にもあるから」
 家に帰れば、どうせ由佳が義理チョコをくれる。毎年のことだ。
「へえ、そうなんだ」
「うん」
「それ、断って」
「え?」
 か細い音を立てて、加湿器が蒸気を吐き出した。
「だから、断って。受け取らないで」
「でも……」
「なんて、ね」彼女は笑った。「冗談だよ。本気にした?」
「いや、本気も何も、そもそも意味がわからないし」
「甘いもの、嫌い?」
「嫌いじゃないけど。何なのさ、いきなり」
「じゃあさ、一緒にこれ、食べない?」
 星野さんは足元の鞄から、透明な袋を引っ張り出した。真っ赤なリボンが袋の口を縛り、中のチョコレートは元の形がわからないほどに砕けていた。
「どうしたの、それ」
「友達からもらったんだけど、落としたら割れちゃった」
 淡々とした口調でそう言って、星野さんは貸出カウンターの下で袋を開けた。甘い香りが鼻をつく。
「ここで開けない方がいいよ」ぼくは忠告した。「誰か来たら匂いでバレちゃう。校則違反でしょ、それ」
「うん。だから一緒に食べようよ。一人で怒られたくないし」
 星野さんは袋に手を突っ込むと、一際大きな欠片を掴んで、ぼくの手のひらに押しつけた。チョコレートの表面がじわりと溶け、ぼくは自分の熱を自覚する。
「ほら。早く食べないと溶けちゃうよ」
 ぼくは諦めて、手のひらのチョコレートを口に入れた。とても甘い。でも、その奥に少しだけ苦味が混ざっていた。
「これで共犯だね」
 小さな欠片を口にして、星野さんは嬉しそうに呟いた。

 二人分の影が、掘りかけの穴に沈んでいく。
 今日がホワイトデーだということを、ぼくはすっかり忘れていた。由佳のせいだ。引っ越しの準備で忘れるといけないからとか、適当な理由をつけて、バレンタインのお返しを早めに渡すよう要求してきた。そのせいで、すっかり終わったものだと思い込んでしまったのだ。
 夕暮れの中、蛙の声が寂しげに響く。
 星野さんは、ぼくの手を振り払わなかった。ほっそりとした手首に、血管の筋が浮いている。生きている、とぼくは思った。馬鹿みたいな感想だけど、それ以上のことが考えられなかった。
 あの日、鞄に入っていたチョコレートが、誰からもらったものなのか、星野さんは最後までぼくに教えてくれなかった。クラスの友達なのか、部活の友達なのか。それとも、はじめからそんな友達はどこにもいなくて、彼女のついた嘘だったのか。
 もしも、あのチョコレートが、友達からもらったものでなかったとしたら。彼女自身が用意したものだったとしたら。誰かに渡すためのそれを、うっかり割ってしまったのだとしたら。
 その相手は、誰だったのだろう。友達か、それとも、あるいは──。
「星野さん」
「何?」
 彼女の声は震えていた。握った手を通じて、その震えがぼくに伝わる。
「えっと、その──」
 やっとのことで、声を絞り出す。喉がからからに渇いていた。手足の先が奇妙に痺れて、感覚がない。まるで宙に浮いているみたいだ。
「三つ目の答え、言ってもいいかな」
「うん」彼女は大きく息を吐いた。「でも、これが最後だよ」
「大丈夫」
 ぼくはもう間違えない。
 右手に力を込め、彼女まであと一歩の距離に近づく。地面に目をやると、長く伸びたぼくらの影が、互いに触れ合っているのが見えた。
 形の良い、彼女の耳が目の前にある。ほんの少し波打った髪が、その耳を半分隠している。今にも飛び出しそうな心臓を飲み下し、やっとのことで、ぼくは最後の答えを囁いた。
「──何それ」彼女は吹き出した。「告白みたい」
「うん」
「それが、東くんの答え?」
「うん」
「本当に、その答えでいいの?」
「うん」ぼくは頷いた。「でも、星野さんが嫌なら──」
 不安にかられ、離れようとしたぼくの手を、星野さんが強く掴んだ。
「正解」
 彼女は優しく微笑んだ。帰宅を促す防犯チャイムの音が響く。調子の外れたそのメロディを聞きながら、ぼくは初めての恋を噛み締めた。

 どのくらい、そうしていたのだろう。
 ぼくらはぎこちなく手を繋ぎ、はにかみながらお互いを見つめた。首元に、相手の熱が残っている気がして、手のひらで軽く擦る。
 日没が近い。あたりが暗くて助かった、と思った。真っ赤に染まったぼくの顔は、きっと世界で一番情けなく見えただろうから。
「ごめん」彼女はそっと身体を離した。「電話、かけてくるね。ここだと電波入らないんだ」
 折り畳みの携帯電話を開きながら、彼女が薄闇の奥へ駆けていく。ぼくは白い息を長く吐き、その背中を見送った。きっと、クラスのみんなに連絡するのだろう。これからパーティに向かうことを伝えて……、ぼくたち二人の関係についても、みんなに話してしまうのだろうか? そう考えると、すっかり照れくさい気分になった。
 まだ鎮まらない心臓を落ち着けるために、その場をぐるぐる歩き回る。ビニールシートの端に足を引っかけ、思いきり前につんのめった。役目を終えたそれが、地面にごろりと転がっている。
 せっかくだし、埋めておこうか。そんな考えが頭に浮かんだ。このまま転がしておくわけにもいかないし、自転車に載せて持って帰るのも面倒臭い。どうせ穴は埋めないといけないのだし……。
 ブルーシートはすっかり闇に紛れてしまっていたけれど、黄色のロープは辛うじてまだ目立っていた。傍らにしゃがみこみ、両腕で抱えるようにして持ち上げる。
 不格好なその包みは、ゾッとするほど重かった。
「──え?」
 頭が真っ白になった。力の抜けた両腕から、それが滑って地面に落ちる。チリン、という鈴の音が確かに聞こえたような気がした。
 聞き覚えのある音だった。由佳がお揃いで買ってきた、北海道土産のキーホルダー。それがどうして、ここで鳴るんだ?
 ──本当はね。
 彼女の声が蘇る。
 ──この役、有賀さんがやるはずだったんだ。
 でも、あの由佳が誰かに頼まれたくらいで大事な役を譲るだろうか?
 足音が聞こえる。星野さんが早足でこちらに戻って来るのが、薄闇の中にぼんやりと見えた。
「東くん」
 星野さんはぼくを見た。ぼくが見ているものを見た。ぐにゃりと折れ曲がった、足元の青い芋虫を。
 いつの間にか、蛙の声は消えていた。
 どうして、シャベルに土がついていたのだろう。
 ふいに、そんな疑問が頭に浮かんだ。彼女に手渡されたシャベルは、最初から土だらけだった。ぼくが来る前に、彼女が自分で使っていたというならわかる。でも、このあたりの地面はどこも綺麗で、穴を掘ったような痕跡は見当たらなかった。
 それなのに、シャベルは土に塗れていた。何年もかけて乾燥した土じゃない。新鮮な、湿り気のある土だ。ぼくがやって来る前に、彼女があらかじめ汚したとしか思えない。
 シャベルについてしまった、別の何かを隠すために。
「東くん」
 胸が苦しい。どれだけ息を吸っても、身体が酸素を拒んでいた。ぼくの意思とは無関係に、脳みそが真実を紡いでいく。
 たった一人で死体を運べるわけがない。星野さんはそう言った。ぼくもそう思った。たとえ誰かを殺したとしても、その死体をここまで運ぶのは無理があると。だから、星野さんは人殺しではないと、そう思った。
 でも、例外がある。殺害現場がこの場所だった場合だ。彼女が被害者をここに呼び出していた場合。あるいは、被害者が自分の意思でここに来て、彼女がそれを追いかけてきた場合。たとえば、二人が物置小屋で口論になり、狭い小屋の中で揉み合い、勢い余って一方がもう一方を殺してしまった──そんな場合だ。
「事故──だったの?」
 ぼくは訊く。星野さんは答えない。二つの瞳が、告発するようにぼくを見つめた。
 ──女子のいじめって、結構えげつないからねぇ。
 ぼくは何もわかっていなかったのかもしれない。
 最初から。何もかも。
「東くん」
 どうして、星野さんの筆入れは、毎日のように中身が変わっていたのだろう。
 どうして、星野さんのお父さんは学校に電話をかけてきたのだろう。
 どうして、由佳はホワイトデーのお返しを早くに欲しがったのだろう。それを誰に見せつけるつもりだったのだろう。
「東くん」
 もしも、あの日坂野くんの見た光景が、本当は逆だったとしたら。破った答案用紙を捨てていたのではなく、誰かに捨てられてしまった答案用紙を拾い集めていたのだとしたら。
 もしも、あのチョコレートが、初めからぼくのために用意されたものだったとしたら。彼女がうっかり落としてしまったのではなく、悪意を持った誰かによって、それを砕かれていたのだとしたら。
 その誰かを、彼女がずっと許せなかったのだとしたら──。
 遠くで、サイレンの音が聞こえた。消えたはずの夕焼けが空に戻り、世界が朱く染まっていく。
 彼女はいったい、誰に電話をかけたのか──。
「星野さん──」
 言いかけの言葉が、千切れて消える。震えるぼくの口を、彼女の右手が優しく塞いだ。背中に回された左腕が、ぼくをぎゅっと締め付ける。
「ダメ」彼女は耳元で囁いた。「三回までだよ」
 サイレンの音が大きくなる。どこまでも深い夕闇のなかで、罪がぼくらを満たしていった。

(了)