穴を掘ってほしいの、とほしさんはぼくに言った。
「穴?」
 ずしりと重いシャベルを彼女に押しつけられ、ぼくは途方に暮れた。刃先の尖った古いシャベル。先端は土まみれで、地の部分が見えないほどに汚れていた。
 日が延びてきたとはいえ、三月半ばの夕暮れは早足で訪れる。太陽は徐々に傾き、林の影が少しずつ伸びて、足元に忍び寄り始めていた。どこからか、蛙の声が聞こえてくる。
〈水なし沼〉。星野さんがぼくを呼び出したのは、そんな風に呼ばれている場所だった。十年ほど前に潰れた釣り堀池の跡地で、廃業した後に埋め立てられたらしい。畑か何かにするつもりだったのかもしれないが、結局その後は何の動きもなく、風除けの林に囲まれた空間だけがぽっかりと残っている。
 滅多に人は立ち入らず、道路から離れているせいで車の音も聞こえない。二人きりで話すにはぴったりの場所だ。小学生の頃、幼馴染の由佳ゆかに連れられて何度か来たことがある。釣り堀時代の物置小屋を、秘密基地代わりにしていたのだ。
 だから、ここに来てほしいと星野さんに電話で言われたときは、少し驚いた。由佳ならともかく、星野さんからこんな場所に呼び出されるなんて、思いもよらなかったからだ。
 たぶん、その時点で何か変だと疑うべきだったのだろう。
「それで、星野さん」ぼくは訊ねた。「それは何?」
 向かい合ったぼくと星野さんの間にそれは横たえられていた。人一人分の大きさをした、不格好な青い包み。何かを包んだブルーシートの上から、縞模様のロープが何重にも巻かれている。
「うーん」彼女は笑った。「誰かの死体だって言ったら、どうする?」
「冗談だよね?」
 星野さんはぼくの問いに答えず、耳にかかった髪の毛をかき上げた。一見ゆったりとしたその仕草とは対照的に、右足は落ち着かない様子でざりざりと地面を削っている。
 膝下丈のスカートに上品なカーディガンをあわせた私服姿。学校指定の制服でも、いつも目にしているジャージ姿でもない。女子のファッションに疎いぼくでも、死体を埋めに行く格好じゃないってことくらいはわかる。
 表情には落ち着きがなかった。笑った顔がいつもより硬いし、髪の毛も少し乱れている。それに、むき出しの右脚には真新しい大きな擦り傷があった。
「えっち」ぼくの視線に気づいた彼女が言った。「どこ見てるの?」
「どこも見てないよ」
 ぶっきらぼうな口調でそう返すと、星野さんはふーんと言いながら怪我をした方の足を見せつけるようにぶらぶら振った。
 やっぱり変だ、と思う。普段の彼女なら、こんな大胆なことはしない。緊張を隠すために、わざと明るく振舞っているように見えた。
「ね、あずまくん」はしゃいだ声で彼女は言った。「ゲームをしない?」
「ゲーム?」
「そう。最後の思い出作りに。東くん、もうすぐいなくなっちゃうし、そうしたらきっと、わたしのことも忘れちゃうでしょ?」
「まさか。忘れないよ」
 星野さんはどうかな、と言うように鼻を鳴らした。確かに、明日から始まる春休みを、ぼくがこの町で過ごすことはない。父さんの仕事の都合で東京の方に引っ越すからだ。つまりは今日が、大竹中学校の生徒として過ごす最後の一日で、ちょうど数時間前に、教室で別れの挨拶を済ませたばかりだった。
「ルールは簡単」星野さんはぼくの言葉を無視した。「今からそのシャベルで、それが埋まる大きさの穴を掘るの。穴を掘り終わるまでの間に、わたしが東くんを今日ここに呼び出した理由を当てられたら、東くんの勝ち。答えられるのは、そうだね……時間的に、三回までってことでどう?」
「どう、って」ぼくは答えに困った。「一応訊くけど、穴はぼく一人で掘るわけ?」
「当然。わたしの怪我、見えてないの?」
「いや、それもさっきから気になってるんだけど……。大丈夫なの?」
「平気平気。全然痛くないし」
 痛くないなら穴掘りも手伝えるんじゃないかと思ったけど、ぼくは何も言わなかった。
「もう一つ質問。穴を掘るのはこの場所?」
「うん。必ずこのへんを掘ること」
 ふむ。ぼくはシャベルを持ち替えながら、あたりの地面を見回した。〈水なし沼〉でも特に奥まった場所で、唯一の出入口である未舗装路からはちょうど反対の位置にある。この場所に限定する理由はよくわからなかったが、物置小屋のおかげで、入口から見えにくいことは確かだ。万が一、誰かがやって来ても、ごまかすだけの時間が稼げるという算段だろうか。足元の地面は綺麗なままで、彼女が先に穴掘りを進めていたわけでもなさそうだった。
「とりあえず、それの中身を教えてくれない?」
「それは無理。あと、触ったりするのもダメね。その時点で失格負けだから」
「でも」ぼくは食い下がった。「ある程度は知っておかないと、どれくらいの穴を掘ればいいのかわからないよ」
 それもそうか、と星野さんは頷いた。
「大きさは見ての通り。ある程度は折り畳めるから、別にこの形通りの穴を掘る必要はないと思う。深さは六十センチもあれば十分じゃないかな。それと、シャベルを使うときは足を乗せて、体重をかけて掘った方がいいよ。まずは穴の輪郭を決めて、シャベルの先端をぐるっと刺していくの。そこから、テコの原理で土をかき出していくんだって」
「詳しいじゃん。ぼくが来るまで練習でもしてた?」
「昔、本で読んだの。好きな人と二人で死体を埋めに行く話。ロマンチックだよね。そういうのって」
 聞かなかったふりをして、シャベルの柄を手の中で回す。星野さんは困り切ったぼくの顔を見て楽しそうに笑っていた。
「どうかした?」ぼくの視線に気づき、星野さんが笑いながら訊いた。
「……いや、元気そうだなと思って」
 正確に言えば、元気すぎるくらいだった。やっぱり変だ。いつもの星野さんらしくない。むしろ、この一か月ほど、彼女はふさぎ込みがちで、どこか元気がないようだった。それに、ちょっと気になる噂を聞いたりもしていたから、心配していたのだ。元気になったのはいいことだけど、妙にはしゃいだ今の彼女には、それはそれで不安を覚える。
「えーっと、それで、ぼくが呼び出された理由を当てればいいんだっけ?」
「わたしが東くんを今日ここに呼び出した理由」彼女は律儀に言い直した。
「でもそれ、さっき自分で言ってたじゃないか。穴を掘ってほしいって」
「それは答えじゃなくてゲームの一部だよ」
 星野さんが即座に答える。ぼくは途方に暮れて、足元に転がる包みに目を落とした。ブルーシートは随分古いものらしく、あちこちが色褪せている。残念なことに、中を覗けそうな破れ目などは見当たらなかった。生地も分厚く、シートの裏面が血まみれだったとしても、外からはわからないだろう。
 客観的に判断するなら、とぼくは思った。今すぐ自転車に乗って、まっすぐ家に帰るべきだ。万が一、ブルーシートの中身が本物の死体なら冗談じゃ済まない。厄介ごとに巻き込まれる前に、彼女にさよならを言うべきだった。どうせ明後日にはこの町ともお別れなのだ。
「東くん」と彼女は言った。「お願い」
 右手がシャベルの柄を強く握る。こぼれたため息が手の甲に触れた。結局のところ、選択肢なんて初めからないのだ。こんな様子の彼女を置き去りにするなんて、ぼくにはとても出来ない。
「いいよ。やろう」
 ぼくはシャベルを思い切り振り上げ、先端を柔らかい地面に突き刺した。



 星野さんと話すようになったのは、図書委員の仕事がきっかけだった。名前だけの委員会が多いなかで、図書委員は例外的に面倒な役職だ。昼休みに貸し出し当番の仕事があるせいで、特に男子からの人気は低い。ぼくが立候補したのは、その競争率の低さを狙ってのことだった。図書委員そのものに興味があったわけじゃない。また学級委員をやらされるのが嫌だったのだ。
 昔から、ぼくはクラスのリーダーに選ばれがちなタイプだった。理由はよくわからない。中学校に入ってもそれは変わらず、一年生のときは年間通してずっと学級委員をやる羽目になり、流石にちょっとうんざりしていたところだった。
 図書委員に立候補した男子はぼくだけだったが、意外なことに女子は二人が手を上げた。一人はぼくの幼馴染のあり由佳。もう一人が星野さんだった。由佳は間違っても本なんて読むタイプじゃなかったから、これは少し意外だった(あとで彼女に理由を訊いたところ、「だって図書室って涼しいじゃん」という答えが返ってきた)。
 多数決の結果、圧倒的大差で図書委員に選ばれたのは星野さんの方だった。由佳はぶつぶつ文句を言っていたけれど、当然の結果だ。
 こうして、ぼくたち二人は二年二組の図書委員になった。
 主な仕事は週に二日、昼休みの図書室に行って貸出カウンターに座ること。他にも新しく入ってきた本に透明カバーをかけたり、新刊紹介のポスターを作ったり、色々な仕事があった。星野さんは文章が上手かったから、毎月の図書室便りに載せるエッセイを先生から頼まれたりもしていた。エッセイは校内での評判も上々で、先生たちもこぞって褒めていたけれど、書かれている内容はどれも一から十まで嘘っぱちなのだと彼女はこっそり教えてくれた。
「東くんも手伝ってよ。エッセイなんて、そんなに難しくないんだしさ」
 星野さんはそう言ったが、ぼくには文才も嘘つきの才能もなかった。結局、彼女の書いたエッセイのページに下手くそな──星野さんに言わせれば愛嬌のある──猫のイラストを寄せることになった。由佳はそれを見てゲラゲラと馬鹿にしたが、星野さんはいたく気に入ったようだった。
「可愛い」と彼女は真顔で言った。「シールにして、ノートに貼りたいかも」
「恥ずかしいからやめて」とぼくは懇願した。
 実際のところ、星野さんには独特なユーモアの感覚があった。おまけに、冗談を言うときも真面目な顔を崩さないので、どこまで本気なのかわからない。一見すると典型的な優等生のようでいて、隣に座った時だけ見える変わったところもたくさんあって、それが彼女の魅力の一つだった。
 たとえば、ペンケース。ケース自体は駅前の文具屋さんで売っているようなありふれたもので、だけどよく見ると中身が毎日変わっていたりする。普通、学校に持ってくる文房具なんて頻繁には変わらないものだと思うけど、彼女のペンケースは見るたびに中身が変わっていた。使い切れないくらいたくさんの文房具を持っているのかもしれないし、あるいは単に物をなくしやすい性格なのかもしれない。一度、本人に聞いてみたけれど、早口で誤魔化されただけで結局よくわからなかった。
 ほっそりした身体と、大人しそうな顔つき。インドア派に思われがちだけど、実は運動も得意で、バドミントン部ではレギュラー入りの常連だった。
「思い切って、短く切った方がいいのかなぁ」
 夏の大会が近づいた頃、そんな相談をされたことがあった。髪形の話だ。
「どうして? 今のも似合ってると思うけど」
「それは嬉しいんだけど」彼女は苦笑いした。「なんかね、もう少し運動が得意そうな見た目にした方がいいのかなって」
「見た目を変えても、試合に勝てるわけじゃないと思うけど……」
「試合には勝てるから別にいいの」
 彼女はあっさりとそう言った。
「何て言うのかな……、見るからにインドアっぽい相手に負けるのって、ショックが大きいらしくってさ。いかにもスポーツやってますって見た目なら、まだ納得できるみたいなんだけど。まあ、色々言われるわけですよ、裏で。だからいっそのこと、髪の毛をばっさり切って、ついでにちょっと色も抜いて、肌もこんがり焼いてこようかなって。どう? 似合うと思う?」
 ぼくは隣に座った彼女の顔をじっと見た。長いまつ毛の先で、図書室の色褪せた照明が揺れている。
「あんまり似合わないと思う」とぼくは答えた。髪形だけの話ではなかった。
「だよね」
 結局、一学期が終わるまで、彼女は髪を切らなかった。耳にかかった髪の毛をかき上げるのが癖になり、特に本を読んでいるときはそれが激しくなった。左手で文庫本を持ちながら右手で耳や首元をせわしなくいじる姿は何だかおかしくて、図書室にいるあいだ中、ぼくは彼女を横目で見ていた。
 見た目に違わず、彼女はとにかく読書家だった。あまり本に馴染みのなかったぼくが推理小説を読むようになったのも、星野さんの影響だ。図書委員には星野さんの他にもう一人、ただくんというミステリ好きの一年生がいて、この二人が代わる代わるぼくにお薦めの本を貸してくれた。
「先輩って、何で図書委員になったんですか?」
 ある日の昼休み、『向日葵の咲かない夏』の文庫本をぼくに渡しながら、但野くんはそんな風にぼくに訊いた。
「本が好きってわけじゃなさそうだし」
「別に、図書委員になりたかったわけじゃないよ」とぼくは彼に説明した。一年生のときからずっと、なぜか学級委員に推薦され続けてきたこと。二年生でもそうなるのが嫌で、わざと人気のなさそうな図書委員に立候補したこと。
「ふうん。何でなんですかね。先輩、別に頭も良くないですよね?」
「失礼だな」ぼくは笑った。「この前の中間はぎりぎり平均点だったよ。数学以外は」
 とはいえ、彼の言いたいこともわかる。学級委員っていうのは大抵、成績の良い優等生が選ばれるものだ。毎回平均点を切るか切らないかのぼくを、みんなが選びたがる理由はよくわからない。
「わたしにはわかる気がするけどな。みんなが東くんを選ぶ理由」
 横に座っていた星野さんが口を挟んだ。
「東くんって、人のこと悪く言わないでしょ。怒ったりもしないし。噂話にも興味ないよね」
「そんなことないよ。ひどいやつには普通に怒るし」
「じゃ、最近誰かに怒ったり、腹を立てたりした? たとえばクラスとか学校で今、どんな悪い噂が流れてるか知ってる? 誰と誰が仲悪いとか、誰が誰をいじめてるとか、そういう話、一つでも聞いたことがある?」
 星野さんがぼくの顔を覗き込む。薄い褐色の瞳に、天井の照明が映り込んでいた。
「それは別に……。でも、うちのクラスに嫌なやつなんていないでしょ」
「ね、そういうところだよ」
 彼女の言葉がよくわからず、まばたきをする。
「あのね、普通に考えてクラスの全員がいい人だなんて、あるわけないでしょ。わたしたち、中学生なんだよ? 東くん、いい人だからさ。みんなのいいところばっかり見てるんだよ。だから、みんなも東くんの前だと悪いところを見せられないの。何となく、自分がいい人になれた気がするわけ。東くんといっしょにいると」
「ぼくの前だと、みんな格好つけたがるってこと?」
「そうとも言うね」
「それっていいことなのかなぁ」
 星野さんは目を細めて笑ったが、但野くんは浮かない顔だった。
「なんか、残酷ですね。それって」
「残酷?」
「あ、ごめんなさい」彼は慌てて取り消した。「ちょっと思っただけなんで」
 でも、正しいのは但野くんの方だった。
 ぼくはきっと、冷たくて残酷な人間なのだ。

(つづく)