2(承前)
地面は思っていたより柔らかかった。
一度池を埋め立てた場所だからかもしれない。公園の砂場ほどとはいかないけれど、それでも普通の地面を掘るよりずっと楽だ。
シャベルを地面に突き刺し、靴底で踏む。土は少し湿っていて、力を加えるとババロアみたいに大きく割れた。それをかき出して、再びシャベルを刺す。その繰り返し。気が付くと息が上がり、全身が汗ばんでいた。上着を脱ぎ、シャツの第二ボタンを開ける。
「持っててあげる」
星野さんは横から手を伸ばし、ぼくの上着をさっと奪った。そのまま、自分のカーディガンの上から羽織る。少し寒いのか、唇をぎゅっと噛みながら震えていた。
「そう言えば、荷造りは順調?」
「順調なのかなぁ……」家の様子を思い出しながら、ぼくは答えた。「二階はだいたい片付いたよ。でも、リビングの家具とかはこれから。何か、のんびりしてるんだよね、父さんも母さんも」
今日だって、二人とも目の前の片付けから逃げている様子だった。母さんはずっとキッチンに立ちっぱなしだったし、父さんは落ち着かない表情でずっと庭の落ち葉を掃き集めていた。
「おまけに、引っ越しの段ボールを絶対にリビングに置きたがらなくてさ。全部ぼくの部屋に持ってくるんだよ。今地震が来たら、絶対ぺしゃんこになって死んじゃうと思う」
「うーん、でも、その気持ちはちょっとわかるかも。リビングってみんなが生活するところだから、荷物はあんまり置きたくないんじゃない? 落ち着かないっていうか。引っ越しは来週だっけ?」
「ううん。明後日」
「じゃあ、本当にもうすぐだね」彼女は言った。「どうだった? 今日のお別れ会」
「ああ、うん」
ぼくはシャベルを足元に置き、目に入った汗をぬぐった。
「良かった。嬉しかったよ。ありがとう」
「本当に?」
「当たり前だよ。大満足」
嘘だった。ぼくは隣にいる彼女から目を逸らし、再びシャベルを手に取った。とても重い。鉄と土の匂いがした。
「そこにいると、土がかかるよ」
適当な理由で、彼女を遠ざける。
言えるわけがない。本当は寄せ書きが欲しかったなんて。
終業式の後、最後のホームルームの時間を使って、クラスのみんながお別れの会を開いてくれた。長い時間じゃない。二十分とか、三十分。それくらいだ。みんなの前で挨拶をして、それから坂野くんがクラス代表としてお別れの言葉をくれた。
あっさりした会だった。こんなこと考えちゃいけないってわかっているけど、あっさりしすぎていた。本当のことを言うと、寄せ書きくらいはもらえるだろうと期待していたのだ。まったく、恥ずかしい自惚れだった。
転校は答え合わせだ。自分が学校という社会の中でどのように振舞っていたのか、どんな風に思われていたのか、たとえ望んでいなくても、その答えを否応なしに突きつけられる。
今日だって、引っ越しの直前だっていうのに、誰からも遊びに誘われていない。そりゃ、自分から言い出せばよかったのかもしれないけど、こういうのって引っ越す側からあれこれ誘うのはやっぱり気まずい。そんな拗ねた気持ちが声に出ていたのかもしれない。電話越しにぼくを呼び出したとき、星野さんは他に予定があるか確認さえしてこなかった。ぼくが暇を持て余していると、初めから決めつけていたみたいに。
「あんたはさ、もうちょっと人を好きになった方がいいよ」
いつだったか、由佳にそう言われたことがある。大きなお世話だ。ぼくだって、人を好きになることくらいある。そう言ってやりたかったけど、幼馴染の指摘はぼくの痛いところを突いていて、何も言い返せなかった。
ぼくはたぶん、誰に対しても少しだけ距離を置いている。遠慮のない会話ができるのは、それこそ幼馴染の由佳くらい。クラスのみんながぼくに対して良い面しか見せていないのだとしたら、それはぼくとみんなの間に距離があるから。友達は多いけど、親友はいない。教室で仲良く話しても、休日を一緒に遊んだりはしない。
それが、ぼくだ。
寂しいと感じたことはなかった。友達づきあいの仕方は人それぞれだし、ぼくにはこれくらいの距離感が性に合っている。だけど、こうやって自分の淡泊さの結果を改めて突きつけられるのは、やっぱりいい気持ちはしなかった。誰かを本気で好きになったり、あるいは嫌いになれる──それを表に出せる人たちのことが、少しだけ羨ましくもなる。
顔を上げる。星野さんは物置小屋とぼくの間をうろうろと歩き回っていた。たくさんの足跡が手持無沙汰に地面を覆っている。
「ねえ」ぼくは彼女に呼びかけた。「ヒントはないの?」
「ヒント?」星野さんはきょとんとした。さっと腕時計に目を走らせ、ぼくを見る。
「問題を解くためのヒントだよ。今のままじゃ、手掛かりが少なすぎると思うんだけど」
「そんなことないと思うけどな」
星野さんは首を傾げ、からかうような笑みを浮かべた。
「東くんなら、きっとわかるよ。この一年、ずっと一緒にいたじゃない」
「そうだっけ……」
そんなことはない気がする。同じ委員会だし、教室の席も近かったけど、基本的には男子と女子だ。そもそも星野さんは休み時間をあまり教室で過ごすタイプではなかったし、ぼくらが周囲の目を気にせずに話せたのは図書室にいるときくらいで、それ以外の時間はとりたてて一緒にいたという記憶はなかった。
ああ、いや。違う。
星野さんとの繋がりは、図書委員以外にもう一つあった。十二月の林間学校で、二人とも実行委員に選ばれたのだ。ぼくがこの手の仕事を押しつけられるのは半ば予想通りだったけど、星野さんが立候補したのは意外だった。
「来年は受験があるから」
理由を訊くと、星野さんはそう答えた。
「だから、修学旅行の実行委員はちょっとやりづらいし、だったら今年のうちに一度やってみようかなって。本当は、ちょっと部活をサボりたいっていうのもあるんだけどね」
そう言って、彼女は悪戯っぽく笑った。
林間学校の実行委員は本当にやることが多かった。受験の年にはやりたくない、という彼女の考えは尤もだ。会議が終わると教室の外は真っ暗で、下校を促す放送がいつも廊下に響いていた。ぼくと星野さんは家の方向が途中まで同じだったから、そんな日は大抵一緒に帰ることになった。
真っ暗な通学路に、鈴の音がふたつ響いていた。チリン、チリン。シャラン、シャラン。星野さんの学校鞄には銀色の鈴がついていて、それはまだ幼かった頃に彼女が家族旅行で訪れたインドネシアのお土産だった。ぼくの鞄にさがっているのは、それより一回り大きな鈴付きのキーホルダーで、まりもを模したキャラクターの人形がついている。
「有賀さんからのお土産でしょ、それ」
ぼくの鞄に目をやりながら、星野さんが言った。
「よくわかったね」
「夏休みに北海道に行ったって。部活の友達に話してるの聞いた」
そういえば、星野さんと由佳は同じバドミントン部なのだった。まあ、由佳はあまり真面目な部員ではないだろうから、星野さんとは反りが合わないような気もするが。
「部活でも話してるのか……」思わずため息が出た。「これ、お揃いで買ったらしいんだけどさ、あっちは一度も学校につけてこないんだよ。そのくせ、自分とお揃いだって話はあちこちで触れ回ってるし。何のつもりなんだろう」
ぼくの言葉に、星野さんは大きなため息を吐いた。通り過ぎたトラックのヘッドライトが、彼女の呆れ顔を闇の中に照らし出す。
「東くんって、鈍いよね」
「何がさ」
「女心がわかってないってこと」
「そういうんじゃないと思うけど」ぼくは彼女から目を逸らした。「由佳が好きだったのは隣のクラスの松井くんだし。大変だったんだから、あの時は」
「それって、いつの話?」
「えーっと、四年生の時だから……、十歳?」
星野さんは何か言いたそうな顔でぼくを見て、再びため息を吐いた。
「有賀さんって、どんな子?」と彼女は突然訊ねた。「つまり、東くんから見てってこと」
「どうしたの、突然」
「別に。ただ、同じ部活でもあんまり話さないから、ちょっと気になって」
「うーん。自分に正直って言うのかな」言葉を選びながら、ぼくは答えた。「よくも悪くも。頑固だし、こうって決めたら絶対に曲げないし。自分が世界で一番正しいと思ってるタイプ。そのせいで誤解されることも多いけど、でも悪いやつじゃないよ」
本当は、自分に自信がないのだと思う。自信家なのに自信がないっていうのも変な話だけど、そうとしか言いようがないのだから仕方ない。自信がないから、逆に間違いを認められなくて、意固地になって、周囲と衝突してしまう。損な性格だ。でも、そういう損な性格にもかかわらず、持ち前の明るさでたくさんの友達に囲まれているのだから、その点は尊敬に値する。
「今は丸くなったと思うよ」ぼくは笑った。「昔は、そりゃ酷かったんだから。二年生の時だったかな。クラスで友達と大喧嘩になってさ……。ある日、ぼくに言ってきたんだ。水風船を分けてくれって」
「水風船?」
「うん。その頃、男子の間で流行ってたんだよね。ぼくも持ってたから、一つあげたんだ。そしたら、どうしたと思う? あいつ、ペロの──飼ってた犬のおしっこを中に入れたんだ。それで……」
ぼくは星野さんの表情に気づき、最後まで言わずに言葉をぼかした。
「まあ、当然大騒ぎになってさ。二人でその子の家まで謝りに行ったよ。今でも忘れられないなぁ、あれは」
「全然笑いごとじゃないよ、それ」星野さんは心底呆れた声で言った。「そもそも、なんで東くんまで謝りに行ってるの? 完全に巻き添えじゃん」
「いや、水風船を渡したのはぼくだし。一応共犯かなって」
「共犯なわけないよ。有賀さんがそんなことに使うなんて、東くんは知らなかったんだから」
「そうかもしれないけど」彼女の剣幕に少しだけ驚いて、ぼくは答えた。「でも、もっと考えるべきだったんだよ。そうしたら、事件を防げたかもしれないわけでしょ」
「だからって……」
「それに、一人で謝りに行かせる方が、ずっと心配だったし。絶対またトラブルになるに決まってるんだから。ぼくがいれば、少しは大人しくなるだろうし」
実際、当時のぼくは彼女のブレーキ役だった。まったく、何度厄介ごとに巻き込まれて、一緒に怒られる羽目になったかわからない。
「優しいんだね」
「そんなんじゃないよ」ぼくは肩をすくめた。「単に、付き合いが長い友達ってだけ。それに、何ていうのかな、あれくらい誰かを強烈に嫌いになったり、好きになったりするのって、ぼくには真似できないから、ちょっと羨ましく思うっていうか。もちろん、水風船はダメだけど」
良くも悪くも、自分の激情に身を任せる彼女の生き方は、ぼくには少しだけ眩しかった。人間は、自分にないものに憧れる生き物なのだ。
「じゃあさ」彼女は足を止め、ぼくの顔を覗き込んだ。「もしもわたしが人を殺しちゃったら、そのときは一緒に捕まってくれる?」
真っ暗な交差点で信号機が点滅する。光と影が交互に彼女の顔を過ぎ去っていった。
「なんてね」
星野さんは足早にぼくから離れ、手を振った。「また明日」
「送るよ。大した距離じゃないし」
「ううん、大丈夫。また今度ね」
点滅する信号が赤に変わり、ぼくと彼女を分断する。ぼくはただ、駆けていく彼女の背中を見送ることしかできなかった。
結局、林間学校が終わるまでの一か月間、星野さんはぼくに送られることを常に拒んだ。
単純に、ぼくに送られるのが嫌だったのかもしれない。ぼくのことを家族に見られるのが嫌だったのかも。あるいは反対に、家族を見られるのが嫌だったのか……。
星野さんは、お父さんと二人暮らしだ。一人っ子で、兄妹はいない。以前に、そう教えてもらった記憶がある。もしも、彼女がぼくに会わせたくないと思っている人がいるのなら、きっとそれは父親だろう。
彼女の父親について、知っていることはあまりない。ただ、厳しい人だという話は聞いていた。中学校の勉強なんて一〇〇点を取って当たり前だって考えの持ち主らしい。それから、夏前に一度、学校へ電話をかけてきたこともある。バドミントン部の先生と何かを話していたらしく、期末の点数が悪かったから部活を辞めさせられるんじゃないか、とみんなは声を潜めて噂していた。
カツン、とシャベルの先が硬いものに当たった。手のひらくらいの石を拾い、捨てる。石ころは跳ねることなく、柔らかい土の上を数センチだけ転がった。
あの夜、とぼくは思う。彼女は自分が人殺しになる未来を予見していたのだろうか。だから、ぼくにあんなことを訊いたのか──。
「星野さん」ぼくは顔を上げずに訊ねた。「そう言えば、学年末の点数はどうだったの? 受験生になる前の最後の試験で、お父さんからのプレッシャーがすごいって言ってたけど」
「どうしたの、突然」
「ちょっと、気になって」
「うーん、そんなに悪くはなかったかな。数学は最後のケアレスミスが勿体なかったけど、それ以外はまあ期待通りって感じ」
シャベルを握る手に、思わず力が入る。
ぼくは数日前に聞いた噂話を思い出す。見間違いならいいんだけど。そう言いながら、坂野くんがこっそりと打ち明けてくれた話を。
間違いない。彼女は嘘を吐いている。
「星野さんは」とぼくは言った。「ぼくにお父さんの死体を埋めてほしいんだね?」
3
坂野くんがそれを見たのは、先週の金曜日のことだったらしい。夕方の遅い時間で、校舎にはほとんど人気がなかった。彼はたまたま忘れ物を思い出して、部活が終わった後で教室に立ち寄ったそうだ。
そこで、星野さんを見た。誰もいない教室でゴミ箱の前に座り込み、ビリビリに破いた答案用紙をこっそり捨てている彼女の姿を。何の教科かまではわからなかったけど、テストの答案用紙だったことは間違いない、と彼はぼくに教えてくれた。
もちろん、それが彼女自身の答案とは限らない。誰か別の生徒のテストを破いて捨てていた可能性もある。でも、他人のテストを破くことに意味があるとは思えないし、何よりそんなことを星野さんがするわけないと、ぼくも坂野くんも知っていた。
「ちょっと心配だよな」彼はそう言って眉をひそめた。「あんまり落ち込んでなきゃいいんだけど。ほら、星野の親って厳しいらしいじゃん」
坂野くんはいいやつだ。ぼくの代わりに学級委員を引き受けてくれたし、今日のお別れ会を企画してくれたのも彼だ。きっと、ぼくが星野さんと親しくしていると思って、こっそり教えてくれたのだろう。ぼくなら上手く彼女をフォローできるはずだと、そう考えて。
残念なことにそれは買い被りで、彼女をどう励ませばいいのかなんて、ぼくにはまったくわからなかったのだけど。
「二人が心配してくれてたってことはわかったけど」
ぼくの話を聞いた星野さんは、困惑したように目を細めた。
「だけど、それでどうしてお父さんを埋める話になるの?」
「星野さん、さっき嘘を吐いたよね」
言いながら、彼女の反応を窺う。星野さんは腕時計に視線を落とし、また戻した。
「学年末テスト、ひどい成績を取ったんでしょ? わざわざ答案用紙を破いて捨てたくらいだもん。いい点数だったわけがないよ。星野さんのお父さん、成績に対してすごく厳しいじゃない。前に一回、部活を辞めさせようとして学校に電話をかけてきたって聞いた。おまけに、今回の学年末は来年の高校受験に繋がる大事なテスト。それなのに、ひどい点数を取ってしまった。だから破いて隠そうとしたんだ」
「それって意味ある? 答案を見せろって言われたら終わりだと思うんだけど」
「うん。だから、言い争いになった。違う? 下手に隠そうとした分、余計に怒られたんじゃないかな。また部活を辞めさせるとか、そういう話になったのかもしれない。お互い冷静じゃいられなくなって、それで……」
ぼくは二人の足元に転がったブルーシートの塊を見つめた。風が吹き、シートの端がバタバタとはためく。視線を戻すと、生々しい彼女の脚の傷が見えた。
「きっと、事故だったんだと思う。揉み合いになって、転んで頭を打ったとか……。とにかく、星野さんはお父さんを死なせてしまった。だから、死体を埋めるのを手伝ってほしくて、ぼくをここに呼んだんだ」
右脚の傷口は新しく、滲んだ血はまだ乾ききっていない。おそらく、他にも何か所か怪我をしているのだろうとぼくは思った。痛みを感じていない様子なのは、アドレナリンのせいに違いない。
「すごい!」
星野さんは楽しそうに手を叩いた。
「すごいよ、東くん。そう来るとは思わなかった」
「それって……」
「うん。ひとつも合ってない」彼女は苦笑いを浮かべた。「そもそもわたし、テストの点数は良かったって言ったよね?」
「でも、それは嘘で……」
「わたし、東くんには嘘つかないよ」
星野さんは一歩近づき、ぼくの顔をまっすぐに見つめた。
「それじゃゲームにならないもんね。テストの点数は良かったし、もちろんお父さんと言い争いもしてない。そもそも、一学期のときにお父さんが学校に電話したのって、別に成績の話じゃないし。部活辞めろとか、そういう話もされてないよ。テストだって破いてないから、それは坂野くんの勘違いだね」
「……じゃあ、お父さんを殺してないの?」
「当たり前」星野さんは吹き出した。「第一さ、その推理には無理があるよ。わたしがお父さんを殺したとして、どうやってここまで死体を運んでくるの? 自転車で二人乗りでもする?」
確かに、彼女の言う通りだ。中学生が、大人の死体を一人で運べるわけがない。
でも、だとしたら。
彼女はこの包みを、どうやってここまで運んできたのだろう?
「まあ、まだチャンスは二回あるから」慰めるように、彼女が言う。
「でも、他にもう思いつかないよ。星野さんが殺す相手なんて」
「わたしが人殺しなのは確定なんだ」
苦笑いしながら、彼女は言った。
「まあいいけど。それよりほら、掘って掘って。早くしないと時間がなくなっちゃうよ」
ぼくはため息を吐き、再びシャベルを手に取った。推理が外れた分、何倍も余計に疲れた気分だ。肘の関節が鈍く痛む。頬を伝った汗の粒が重力に引かれて落ちた。彼女の言葉を反芻しながら、自分の置かれた状況について考える。
待てよ。
ぼくは手を止め、再び物置小屋の周りをうろつき始めた星野さんを横目で見た。
そもそも、どうして穴掘りなのだろう。もしもぼくが星野さんの立場だったとしたら、死体を運ぶところから手伝ってほしいと思うはずだ。彼女自身で言っていたように、一人で死体を運べるはずがないのだから。それなのに、星野さんはわざわざ自分で死体を運んでから、ぼくを呼んだ。
誰の手も借りたくなかったのだろうか? でも、それなら穴掘りだって一人でやるはずだ。どうにもちぐはぐで、辻褄が合わない。
気になることは他にもあった。一つは、彼女が時間を気にしているらしいことだ。何度も腕時計に目をやっているし、ついさっきも「早くしないと時間がなくなる」と口にしていた。もちろん普通に考えれば、早く穴を掘り終えないと日が暮れるってことだろう。でも、本当に死体を埋めるのなら、人目につかない夜の方が適しているはずだ。〈水なし沼〉は滅多に人が来るような場所ではないけど、それでも万が一のことを考えるなら、日が沈んでからの方がいい。星野さんが、それくらいのことに気づかないはずはなかった。
きっと、何か別の理由があるのだ。なるべく早く、このゲームを終わらせなければならない理由が。
「ちょっと休憩」ぼくはシャベルを地面に置いて腰を伸ばした。「そのへんを歩いてきてもいい?」
「五分だけね」少し迷って、彼女が答える。「あんまり遠くに行かないで。心配だから」
「大丈夫。そこの物置を見てくるだけだよ」
その瞬間、星野さんの表情がはっきりと変わった。
ぼくはズボンについた土を払い、五メートルほど先にある物置に向かった。物置小屋の周りには、星野さんの足跡がたくさん残っている。数が多すぎて、何かを隠しているんじゃないかと思えるくらいだ。
気になっていることは、もう一つあった。このゲームの問題文だ。〈わたしが東くんを今日ここに呼び出した理由〉を当ててほしいと彼女は言った。ぼくの言葉を律儀に訂正したということは、この表現自体に意味があるのに違いない。
そう。この問題文には死体のことも、穴掘りのことも含まれていない。正解の条件は、あくまで彼女がぼくを呼び出した理由を当てること。つまり、地面に転がったブルーシートの中身を当てるだけでは不十分ということだ。
あるいは別の可能性もある。この包みはただのミスリードで、ゲームの答えには関係がない、ということも。
物置小屋はほとんど寄木の残骸だった。由佳と二人で秘密基地のように使っていた頃はもう少し綺麗だった記憶があるが、この数年で一気に劣化が進んだらしい。たぶん、二年前の巨大な台風が原因だろう。横板は何枚も腐り落ち、トタン屋根が危なっかしく柱の上に載っている。少し押しただけで、扉は簡単に開いた。錆びた蝶番が音を立てる。
小屋の中は薄暗く、隅の方は影になってほとんど何も見えない状態だったけど、予想に反して空気は綺麗だった。土埃が一斉に舞い上がるようなこともない。とはいえ、散らかり具合は相当なものだった。プラスチック製の青いバスケット、錆だらけのペンキ缶、柄の折れたチリトリと箒、斜めに倒れた脚立。様々なガラクタが小屋中に散らばっている。風で倒れたにしては、派手すぎる散らかり方だった。まるで誰かが小屋の中で暴れ回ったか、あるいは何かを捜し回った後みたいだ。
ぼくは薄闇の中で目を細め、あたりの様子をじっと見つめた。記憶の中の物置小屋と、何かが違っている。たぶん、物が多すぎるのだ。散らかっているからそう見えるだけなのか、それとも……。
壁の隙間から差し込んだ夕陽が、黒い染みのような何かを照らしていた。壊れかけた棚のそばで膝をつき、目を凝らして正体を探る。乾き始めた誰かの血だった。棚の柱に付着している。
記憶が蘇ったのは、その時だった。点と点が、鮮やかに頭の中で繋がっていく。ブルーシートがないのだ。ぼくと由佳が秘密基地に使っていた頃、小屋のガラクタ類はブルーシートで覆われていた。物が増えたように思えるのは、そのシートがなくなったせいだ。では、ブルーシートはどこに消えたのか?
決まっている。星野さんだ。ぼくを呼ぶ前に、小屋の中を物色したのだろう。小屋にあった材料を使って、それを作り上げたのに違いない。きっと、右脚を怪我したのもその時だ。
「五分ぴったり」
足早に小屋を出て戻ると、彼女がほっとした声でそう言った。
「星野さん」ぼくは彼女に訊いた。「この包み、持ち上げてみてもいい?」
「ダメ。言ったでしょ。触ったら反則だって」
やっぱり、そうだ。瞬きをして、足元の青い包みを見つめる。さっきまで死体にしか見えなかったその塊は、今やすっかり不気味さを失っていた。
死体なんかじゃない。おそらくこれは、彼女がぼくとのゲームのために作り上げた、ただのダミーだ。触ったら反則というゲームのルールも、それを隠すためだろう。いくら見た目をそれっぽく作れたとしても、実際に持ち上げればすぐに重さでバレてしまう。
第一、本気で死体を隠したいのなら、たとえばもっと山奥の、確実に見つからない場所を選ぶはずだ。穴だってもっと深く掘らなければ意味がない。浅い穴でも構わないというのはつまり、本当は死体を隠す気がないのか、あるいはそもそも死体ではないかのどちらかだ。
だいたい、とぼくは思った。星野さんが人を殺すわけ、ないじゃないか。
「わかったよ、星野さん」
ぼくは自信に満ちた表情で口を開き──、そして閉じた。
ダメだ。星野さんが人殺しじゃないとわかったところで、問題の答えにたどり着けなければ意味がない。むしろ、振り出しに戻ってしまったとさえ言える。これが死体でないのなら、どうしてぼくはこんなところで彼女とゲームをしているのだろう?
「ちょっと待って」ぼくはシャベルを強く突き刺した。「もう少しでわかるところだから」
「ふうん。ま、急いでね。時間がなくなっちゃう」
時間。また時間だ。
何をそんなに急いでいるのだろう。これが死体埋めでなくただのゲームなのだとしたら、それこそ急ぐ理由なんてないはずだ。
「ねえ、この後なにか予定でもあるの? 随分急いでるみたいだけど」
「まぁ、あると言えばある、かな。はっきりとは言えないけど」
つまり、とぼくは思った。この後に控えている“予定”が問題の答えに関係しているということだ。でも、彼女の予定なんてぼくにはわかりようがない。
「確認なんだけど、このゲームって考えれば解けるようになってるの? そんなのわかりっこないって答えだったりしない?」
「解けると思うよ」彼女は笑いながら唇を噛んだ。「東くんに、ちゃんと向き合う勇気があればね」
「勇気?」
その言葉で思い出す。
いつだったか、彼女と話した名探偵の条件を。
(つづく)