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 但野くんがぼくらの教室を訪れたのは、夏休みが終わってすぐのことだった。
「ちょっといいですか」
 ぼくらを呼び出した彼の声は、緊張して震えていた。教室を出て、ごった返した廊下を抜ける。校舎の外に出て理科室へ向かう渡り廊下を歩いていると、わずかな秋の匂いがした。
 理科室の隣には小さなビオトープの池があった。夏場は蚊やブヨが大量に湧くせいで、滅多に生徒たちは近寄らない。内緒話にはうってつけだと、ぼくらをそこに案内したのは星野さんだった。
「時々、昼休みに来るんだよね」と彼女は言った。「教室にいたくない時とか。結構いいよ。静かだし、そこの石に座って本とか読めるし。この季節はまだ虫が多いけどね」
 細身のトンボが目の前を横切り、尻尾の先で水面を叩く。波紋が広がり、アメンボの足跡と混じり合った。
「それで? 急にどうしたの? 図書委員の相談とかじゃないんでしょ」
「その……、これが机の引き出しに入ってて」
 彼はジャージのポケットから薄いブルーの封筒を取り出し、ぼくに渡した。封筒と同系色の便箋が、四つ折りになって入っている。ぼくらは彼に許可をもらい、それを読んだ。今日の放課後、旧校舎の裏に来てほしい、という内容の文章が書かれていた。
「これって……」ぼくはためらいながら訊いた。「ラブレター、的な?」
「ぼくは悪戯だと思います」
 但野くんは断固とした口調で言った。
「ただ、先輩たちの考えも訊きたくて。東先輩は、人間の善意が見抜けるんですよね?」
「いや、別にそういう能力者とかじゃないんだけど……」
「心当たりはないの?」星野さんが横から言った。「こういう手紙をくれそうな相手とか」
「なくはないです。夏休み、二人で遊びに行った子なら、まあ」
「じゃ、その子じゃない?」
「でも」と彼は言い張った。「ぼくがその子と二人で遊びに行ったこと、部活の奴らはみんな知ってるんですよ。だから、そいつらの悪戯じゃないかと思うんですよね」
 ぼくは唸りながら、もう一度手元の便箋を見返した。駅前の文具屋で買えそうな、何の変哲もない便箋だ。たぶん、細いボールペンを使ったのだろう。繊細そうな整った字が並んでいる。
「何となく、女の子っぽい字のような気はするけど……」
「そんなの、何の根拠にもならないですよ。こういう悪戯、女子だってノリノリでやるじゃないですか」
「そうだね」星野さんは訳知り顔で頷いた。「女子のいじめは結構えげつないからねぇ」
 あまり知りたくない話だ。ぼくは話題を変えるため、別の手掛かりを探し始めた。封筒の方には、特に何も書いていない。差出人の名前も、宛名さえなかった。
「一番怪しいのは」と彼は言った。「自分の名前を書いてないってとこです。そんなことありえると思います?」
「単に、緊張して書き忘れたのかも」
「そんなことありますかねぇ」
「わかんないけど」ぼくは但野くんに向き直った。「とにかく、ぼくは悪戯なんかじゃないって思うけどなぁ」
「まあ、先輩はそう言いますよね」
「但野くんは悪戯だって信じてるんだよね? それって、何か根拠があるの?」
「ないですけど」但野くんは俯いた。「でも、そういうものじゃないですか。誰でも」
「──但野くん」
 星野さんが急に改まって彼に言った。
「じゃあ、こう言ってあげればいい? 手紙を信じなさい。今日の放課後、書かれた通りに旧校舎の裏に行くこと。これは先輩命令です」
 途端に、但野くんの首に赤みが差した。ぼくの手から便箋と封筒を引ったくり、ポケットにねじ込む。失礼しますと短く言って、彼は足早に池を去った。
「どうしたのさ、急に」彼の背中を目で追いながら、咎めるように彼女に訊く。「良かったの? あんなこと言っちゃって」
「いいんだよ。但野くんだって、ああ言ってほしいから、同級生じゃなくて先輩わたしたちのところに来たんでしょ」
「そうなのかな」
 よくわからない。ため息を吐いて、池の縁にしゃがみ込む。アメンボたちの作る輪っかが重なりあい、複雑な波模様を生んでいた。
「……難しいよね」
 ぽつり、と彼女が言う。
「悪い方に推理するのは簡単なんだ。外れたって誰も悲しまないし、なーんだ良かったね、でおしまいだもん。でも、良いことを推理するときは違う。外れたらがっかりするし、悲しいし、恥ずかしい。だから、すごく勇気がいる」
 ああ。そうか、と思う。
 だから、但野くんは頑なに悪戯だと信じていたのだ。手紙を信じて、裏切られるのが嫌だから。最初から悪戯だと信じておけば、きっと傷つかずに済むはずだから。
「但野くん、ミステリ好きでしょ。わたしもそうだから、気持ちがわかるんだ。ミステリってさ、ひどいことばっかり起こるんだよ。推理すればするほど、どんどん悲しい真実が明らかになるの。そういうのってね、すごく楽。世界では悪いことしか起こらないって思うと、とっても安心できるんだ。変だと思う?」
「変だとは思わないけど……」ぼくは躊躇ためらいながら答えた。「でも、悪いことばっかり考えてたら、やっぱり悪いことしか起こらないんじゃないかな。名探偵なら、幸せな推理もできるようにならなくちゃ」
 手紙は悪戯かもしれないし、本物かもしれない。悪戯だと思っていた方が、気持ちは楽なのかもしれない。でも、本物だと信じることでしか、真実は手に入らない。希望を持たなければ、幸せはつかめない。たとえそれが、目と鼻の先にあったとしても。
「だから、あんなことを言ったんでしょ」ぼくは星野さんの顔を見上げた。
「上手くいくといいけど」と彼女は言った。
「きっと大丈夫だよ」とぼくは答えた。
 けれど、それから一か月の間、但野くんはぼくらと口をきいてくれなかった。

 穴はすでに膝下くらいの深さになっていた。腕はまだ動くけど、膝と腰がとにかく痛い。もう少し掘り進めれば、それを埋められる深さにはなりそうだった。それまでに、彼女が求める答えを見つける必要がある。
 勇気が必要だ、と星野さんはぼくに言った。それはきっと、悪い方ではなく良い方に考えろという、彼女なりのヒントだろう。
 でも、この状況をどうやったら、良い方向に考えることができるのだろう?
 もう一度、彼女の言葉を思い出す。
〈わたしが東くんを今日ここに呼び出した理由〉。
 どうして「今日」なのだろう、とふと思う。
 考えてみれば、このタイミング自体が不自然だ。終業式のせいで学校は午前中まで、おまけにぼくは引っ越しの二日前。荷造りで忙しいかもしれないし、友達と遊びに出かけているかもしれない。突然電話をかけてきたところで、ぼくがたまたま暇を持て余している可能性は低い。星野さんだって、それくらいのことは考えるはずだ。
 それなのに、電話口の彼女の声には、確かな自信が宿っていた。絶対にぼくが電話に出るはずだと──呼び出しに応じるはずだと確信していたようだった。
 星野さんはぼくの予定を知っていたのだ。正確に言うなら、ぼくに予定がないことを知っていた。ぼくが誰からも、何にも誘われていないことを知っていたのに違いない。
 それは、つまり──。
「星野さん」ぼくは彼女の不意を突くように訊ねた。「これは誰のアイデアなの?」
「何のこと?」
 星野さんはとぼけた表情で聞き返した。でも、そこには微妙なわざとらしさが滲んでいて、その顔を真っすぐに見据えると、彼女はすっと目を逸らした。
 やっぱりだ。このゲームは星野さんだけのものじゃない。
「星野さん」
 ぼくはシャベルを地面に刺し、両手を離した。穴から這い出し、彼女と目の高さを合わせる。北東から吹いてきた風が、彼女の髪をふわりと乱した。
 大きく吸い込んだ息が、肺に留まる。いざ口にしようとすると、言葉がなかなか出てこなかった。
「何?」促すように、彼女が訊いた。緊張した声だった。
 ああ、とため息が零れる。
 良い方に考えるって、自分ごとだと、結構しんどい。
 ぼくはもう一度息を吸い、言った。
「本当はさ、寄せ書きが欲しかったんだ」
「寄せ書き?」
「うん」ぼくは頷いた。「ごめん。さっきは嘘ついた。今日のお別れ会、満足だって言ったけど本当は違う。嬉しかったのは間違いないけど、満足なんてしてないよ」
 星野さんは静かに頷いた。知ってたよ、と言うように。
「正直に言うと、寄せ書きくらいもらえるだろうって思ってた。それくらいは、みんなに好かれてるつもりだったんだ。当てが外れて、がっかりしたよ。でも、どこかで納得してる自分もいた」
 ぼくは爪先で土を蹴った。もがいている小さな蟻を、靴底で踏んで地面に押し込む。
「星野さんは昔、ぼくのことをいい人だって言ってくれたけど、違うんだ。いい人なんかじゃなくて、誰かと仲良くするのが怖いだけ。誰とも仲良くできないから、いいところしか見ないし見せられない。だからまあ、当然だよね。寄せ書きなんてもらえるわけないよ。だって、誰とも仲良くなんてなかったんだから」
 口の中が乾いていた。土埃で喉が痛い。爪の隙間に入った砂粒がじゃりじゃりと擦れて気持ち悪かった。
「でもさ……」ぼくは顔を上げた。「違うんでしょ?」
「違うって? どういう意味?」
「知ってるくせに」
「うん」星野さんは言った。「でも、東くんが言わなくちゃ」
 言いたくなかった。
 だって、そんなの……、恥ずかしすぎる。
「どうしても、言わなきゃダメかな」
「そういうルールだもの」
 ぼくは両手を強く握った。
「つまりさ、ぼくが思っていた以上に、みんなはぼくのことを友達だと思っていたんだ。ぼくの転校が悲しかったし、寂しかった。仲良くないなんて、ぼくの勘違いだった」
 彼女は何も言わなかった。ただ、小さく頷いただけだった。
「答えはサプライズパーティ。みんなでぼくのために、本当の送別会を準備してるんだ。違う?」
 沈黙が下りた。
 火照った耳たぶを、北からの風が冷ましていく。息を吸うと、夜の先触れの匂いがした。
 ぱちぱちぱち、という音が響く。星野さんの手のひらが、夕暮れの空気を鳴らしていた。
「でもさ、そうだとしたら、この包みは何?」
「星野さんが作ったダミーでしょ。物置小屋にあったブルーシートをそれっぽく丸めて、ロープで縛っただけ。だいたい、本物の死体ならもっと深く埋めなきゃ意味がないもの」
「わかんないよ」彼女はわざとらしくにやっとした。「最初から隠すつもりなんかなくて、東くんに共犯になってもらいたかっただけかも。ロマンチックじゃない? そういうのって……」
「穴掘りはただの口実」
 星野さんの歪んだユーモアを無視して、ぼくは続けた。
「時間稼ぎだよね。ぼくを家から引き離すことが出来たら、何でもよかった。大事なのは、時間が来るまでぼくをここに留めておくこと。だから、星野さんはずっと時計を気にしてたんだ。もうすぐ準備が終わって、パーティが始まる時間になるから。あんまり遅くなると、心配して誰かが様子を見に来るかもしれないしね」
 おそらく、クラスの全員がぐるなのだろう。それなら、星野さんがぼくの予定を知っていたことにも説明がつく。何しろ、友達のほとんど全員が共謀しているのだから、遊びの予定が入るはずがない。
 思えば、両親の様子も変だった。母さんはずっと台所にこもっていたし、父さんは不自然にそわそわしていた。リビングの荷造りを一番後回しにしていたのも、引っ越しの段ボールをそこに置きたがらなかったのもそれが理由だ。二人とも、パーティのことを知らされて、協力していたのに違いない。
「きっと言い出したのは坂野くんあたりじゃないのかな」
 ぼくはそうあたりをつけていた。彼は本当にいいやつなのだ。
「サプライズパーティだからね。ぼくに気づかれないように、内緒で準備していたんでしょ? でも、学校でも何かしないと流石に不自然だから、ホームルームの時間を使ってあっさり済ませたんだ」
 彼女は黙って頷いた。否定も肯定もしなかった。
「星野さんが妙に余所よそ行きの服を着てるのは、これから直接パーティに向かうつもりだから。ぼくにだけ穴を掘らせてるのも、それが理由だよね。ぼくは自分の家で着替えてシャワーを浴びればいいけど、星野さんはそういうわけにはいかないから」
 ぱちぱちぱち。
 再び、空気が震える。三月の大気はまだ冬のそれで、相変わらず乾いていたけど、少しだけ春の湿り気を帯び始めてもいた。
「──それが、東くんの答え?」
 ぼくは頷いた。
 刹那。ほんの一瞬だけ、星野さんは躊躇うような表情を見せた。それから、口元に微笑みを浮かべてぼくを見た。
「安心していいよ」彼女は言った。「寄せ書き、ちゃんとあるから」
「じゃあ、正解?」
「うん」
 ぼくは大きく息を吐いて、その場に座り込んだ。よかった、と心の底から思う。もし間違っていたら、自意識過剰の恥ずかしいやつになるところだった。天を仰ぎ、夕空を見上げる。汚れた雑巾みたいな雲が、茜色の空に浮かんでいた。
「ねえ、東くん」
 呼びかけられて、顔を戻す。星野さんの真剣な顔が目の前にあった。スカートの裾を丁寧に押さえながら、ぼくの正面にしゃがんでいる。
「一つだけ教えてあげる。君は、君が思っている以上に、ちゃんと人に好かれてるよ。自分のことを冷たいとか、そんな風に思わないで」
「でも」ぼくは肩をすくめた。「淡泊なのは事実だし」
「それって悪いこと?」
 星野さんは立ち上がり、スカートの裾を払った。
「いいじゃない、他人のことを詮索しない、深入りしない。それって、優しさだと思う。東くんのそういうところに救われた人も、きっといたんじゃないかな」
 くるり、と星野さんが背を向ける。一瞬見えたその横顔に、ぼくは思わず息を止めた。シャベルを拾おうとした手が空を切る。心臓が肋骨を強く打った。
 星野さんは笑っていた。でも、それは全てを諦めたような、かなしい笑顔だった。
「──星野さん」ぼくはゆっくりと訊ねた。「あのさ、今ので本当に正解なんだよね?」
「そうだよ」
 違う。
 ぼくは直観した。これが正解でいいはずがない。だって、星野さんはさっきからずっと、張りつめたような──今にも壊れてしまいそうな、脆い偽物の笑顔のままだ。
「みんな待ってるよ。急がないと──」
「待って」
 気づいたときにはぼくは立ち上がって、彼女の腕をつかんでいた。星野さんがびっくりした顔でぼくを見る。頬が熱くなるのを感じたけど、手は離さなかった。そうしていないと、彼女がどこかに消えてしまいそうな気がしたから。
「あと一回」ぼくは言った。「三回だったよね。答えるチャンス。まだ、一回残ってる」
 ぼくは星野さんを見た。星野さんもぼくを見た。不安げな、落ち着かない目をしていた。
 そう。ここに来たときからずっと、彼女は様子がおかしかった。妙にはしゃいでいるように見えたかと思えば、時々どうしようもなく不安げな表情を覗かせたりもしていた。なぜだろう? 最初は人を殺した後だからだと思った。アドレナリンか何かで、様子がおかしくなっているのだと思った。でも、違う。この包みは死体じゃないし、彼女は人を殺してない。それなのにどうして、こんなに落ち着きのない様子なのだろう? いったい何に緊張しているのだろう?
 考えろ、と自分の脳みそに言い聞かせる。ぼくは何を間違った?
 星野さんはぼくに嘘を吐かない。だから、たった今口にした二つ目の答えが正解であることは事実だ。事実だけど、真実ではない。まだ、何かが足りないのだ。
 問題は何だった?
〈わたしが東くんを今日ここに呼び出した理由〉
 呼び出した理由は、ぼくを家から遠ざけておくため。場所が〈水なし沼〉なのは、たぶん人目につかないから。なぜ今日なのかと言えば、引っ越しの二日前で、送別会を開くにはうってつけの日だから……。
 そこまで考えて、ひらめくものがあった。
 どうして、星野さんなのだろう。ぼくを家から引き離すことが目的なら、別にその役目は彼女でなくとも良いはずだ。それこそ、幼馴染の由佳の方が適任だろう。由佳なら、ぼくを呼び出すのにこの場所を選ぶ説明もつく。でも、ぼくを呼び出したのは、他の誰でもなく、星野さんだった。
「ねえ、東くん」
 ぼくの心を読んだように、星野さんが囁いた。
「本当はね。この役、有賀さんがやるはずだったんだ」
 ようやくぼくは気がついた。
 今日は三月十四日。ホワイトデーの当日だ。

(つづく)