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 翠はそんなことを思い出しながら、スマートフォンを手に取る。SNSのアプリを開くと、〈フィードをリフレッシュできませんでした〉と新規の投稿を読み込めない旨を示すエラーメッセージが表示された。そういえばこのカフェ「喫茶ドードー」を紹介していた投稿に、店内は通信状況がよくない、と注意書きされていたことを思い出し、今どき本当にそんな場所があるんだな、と妙なことに感心した。
 教室仲間でグループ展を開催しよう、と話題が出たのはいつだったろう。数えてみれば四年も前のことになる。夢物語とも目標とも断言できないでいるうちに、世の中が変容した。人を集める展示会どころか、対面での教室ですら休講が続いた。ようやく落ち着いたのちも、教室が再開することはなかった。
 翠がそれまで正社員として勤めていた飲食店は、補助金や協力金を駆使しながらなんとか運営していたけれど、それも底をついたのか、ちょうど一年前、まさに息切れをするかのように閉店した。同い年の夫と離婚したのも、その時期と重なる。
 正社員での飲食店の求人は少なく、それ以外の職種の多くは経験者が求められていた。転職活動は思うように進まない。別れた夫とは家具や貯金の折半だけで、互いに慰謝料などの支払いは求めなかった。住んでいた賃貸マンションは、彼が出ていく形で話がまとまった。
 いまは僅かながらの退職金に加え、これまでの貯金や雇用保険でなんとか暮らしてはいるけれど、無職の分際で自由に使えるお金などない。陶芸教室が再開されないのは、むしろ都合がよかった。四年越しに実現したグループ展への参加は見送った。出展作品を作る余裕もなかったし、たった一週間だけの会期とはいえ、会場費や運営費は参加者で等分するにしても思いのほか高額だったからだ。

〈絶対行くね〉とコメントを送ったにもかかわらず、結局翠は、この春開催されたグループ展に足を運ぶことはなかった。自分が参加出来なかった展示会を見るのが耐えがたかった、それもひとつだ。最終的な出展者は、牛柄の器を作陶する彼女のほかに二名。翠とは通っていた時期が違うために面識のない女性と、もうひとりは全く別の分野からの参加で、布の織物の出展だった。だから会場に行っても、知らない人のほうが多いに違いない、という予想も腰を重くした。
 牛柄の器の彼女のアカウントには、もちろん会期中もこまめに投稿が続いていた。会場の全景を紹介した動画や、会期中に行ったインスタライブのアーカイブも残されていた。
〈明日最終日〉と添えられたキャプションを見たとき、やっぱり行こう、と家からのアクセスや着ていく服まで考えはじめた。なのに、当日になるとすっかり行く気が失せてしまっていた。
「駄目だな、私」
 スマホに並ぶ会場の風景をぼんやりと眺めながら、呟く。けれどももしグループ展に行くのであれば、差し入れを持っていく必要があるだろう。見に行くだけというわけにはいかない。集客数はもちろんだが、なによりも展示作品を売ることが最優先だろう。行ったからには作品を購入せざるをえない。翠は画像をくまなくチェックして、このくらいの小品なら買えるかな、あるいは展示会のために作成したという写真集のようなジンなら、たいした出費にもならないだろうか、などと算段した。
 無職になったことはもちろん、離婚したことも陶芸仲間に伝えてはいなかった。ようやく実現したイベントなのだから、間違いなく華やいだ雰囲気だろう、という想像も、翠の気持ちを下げるのに十分だった。
 行きたくない理由はこうしたいくつかのことが積み重なっていた。いまだに外せずにいる左手の指輪を右手で動かしながら、ぼんやりする。言い訳を重ねる自分が、もういい大人なのに、と情けなくなった。

 だから今日はどんなことがあってもこのカフェを訪れよう、と決めていた。何かの一歩を踏み出さない限り、自分がたったひとりの狭い空間に籠もってしまっているような恐怖を感じたからだ。
 決めたのは自分だ。自分との約束くらいせめて守ろう。予約をしているわけでもない。行かなくても誰かに迷惑をかけることはない。だから気を楽にして、安心して、と言い聞かす。
 おしゃれなカフェで優雅に過ごす金銭的な余裕などないのはわかっている。けれども展示会にすら行けなかった自分をなんとか帳消しにしたかった。
「あの、本日のおすすめをお願いできますか」
 声をかけると、店主がにこやかに頷いた。
 客同士や店主がわいわいと喋るような店ではなく、店内はひっそりとしていた。けれども息が詰まるような静けさではなく、食器や調理器具が立てる音がほどよく響き、居心地のよさを感じた。時折、常連客と店主が会話をしているが、それもくどくどしておらず、さっぱりとしていて聞いていて気持ちがよかった。
 思い切って来てよかった。やってみればたいしたことないんだから、と、翠は自らを励ました。

「お会計を」
 翠の隣に座っていた客が席を立つ。スレンダーで清潔感のある女性だ。翠よりは僅かに年上だろう。ブルーグレーのハイゲージニットにパールのボタンがあしらわれたアンサンブルは清楚で、彼女の雰囲気に合っていた。ちらりと目を上げると、
「お先に」
 と声をかけられた。翠は小さく微笑んで会釈した。

 

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