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 本社の賽銭箱には人が大勢並んでいた。それもあって「まずは他のお社から回って最後に本社に並ぼう」と明日香が提案した。
「いいね! そうしよう、そうしよう」
 部長が屈託のない調子で賛同の声を上げる。清瀬は諦めたようにため息をついていた。
 本社の周囲には小さなお社が四つあった。左回りにお社を回る。部長が到着してからは、やいのやいのとさらに集団が賑やかしくなった。あたしと明日香はその集団の最後尾を進む。
「ガキだねえ、うちの部の連中は」
 明日香が呆れた声で言う。うんうん、とあたしは何度も頷き激しい同意を示した。あたしは中学は帰宅部だったから、部活動というものに触れたのは高校に入ってからだ。部活動は、教室とはまた違う雰囲気がある。教室よりもっと馬鹿馬鹿しくて、子どもじみている。
 教室はまだ現実的だ。進路や資格といった人生に関わる事柄が、案外とそこらへんに転がっている。対して部活動の目的は優勝とか記録とか、目に見えなくて人生に大きく影響しないものばかりだ。その道で食っていくのを目指す強豪校ならまだしも、うちの高校の部活動程度では、彼らの行動原理は基本、小学生が蝶々を追いかけるのと大きく変わらない。格好いいのを捕まえた、珍しいのを見つけた、さあ追いかけてみよう。それと一緒。
「今年はインターハイ出られますように!」
 大声で部長が先陣を切る。こいつが一番ガキだ。おお、と後輩たちが声をあげた。こいつらも無意味に声がでかい。
「俺は自己ベスト!」
「おれは県で準決勝!」
 と、各々が大声でまくし立てている。「志望校合格!」と佐竹先輩まで悪ノリをする始末だ。周囲の人間が迷惑そうに遠巻きに眺めてくる。馬鹿ばっかりだ、うちの部員たちは。
 馬鹿馬鹿しくて子どもじみていて――その素直さがひどく心地いい。
 あたしも明日香も、もちろん黙って賽銭を入れた。お前らもちゃんと声に出してお願いしたらいいのに、と部長が茶化してくる。「お願い事は普通声には出さないものでしょー?」と明日香が反論した。部長は手に持った傘を振り回して、ぶうぶう文句を垂れている。
 それを見て、あたしははっとした。一瞬で気分が落ち込む。また間違いに気づいてしまったのだ。もちろん、清瀬がどこから来たのか、という問題だ。
「ねえ明日香」
 と、あたしは横にいる参謀を小声で呼ぶ。「清瀬、西の小径から来てない」
「へえ、なんでそう思うの?」
「だって」とあたしは答える。「さっき見た西の小径には足跡しかなかった。清瀬が傘をついて歩いた跡がなかったから」
「ほうほう」
「清瀬、傘を持ってたから。あの急勾配の獣道を歩くんだったら、普通傘を杖代わりに使うと思うし。雪が降ってて傘をさしたのかとも思ったけど、あんなところで傘を差したら、脇の木の枝に当たって進めない」
 西の小径は獣道で細く険しい。もし傘を持っているんなら、きっと雪の上について歩いただろう。その丸いあとはどこにも無かった。
 どんよりと気分が落ち込む。終わったと思った冬休みの宿題が、実はまだ残っていたような感覚だった。
 振出しに戻る、だ。
「なに話してるの?」
 佐竹先輩だった。うっすらと化粧をしている。部の合宿で、あたしと一緒に汗と土にまみれていたのが、随分昔のことのように思える。
「先輩って、裏の参道からこの神社に来ましたよね?」
 あたしは尋ねる。
「そうだよ」
「来た時、道に足跡はありましたか?」
「なかったね。あたしが最初。滑らないように注意したから、覚えてる」
「清瀬の足跡はなかったんですよね?」
「なんか、さっきもそんな風なこと明日香ちゃんと話してたね。あいつの来た道がそんなに気になるの?」
 不思議そうに首を傾げた。佐竹先輩は清瀬のことを「あいつ」と呼ぶ。幼馴染らしい。部でも佐竹先輩が清瀬に声をかけるのは、よく見られる光景だった。
 あたしが事の次第に切り込もうとすると、「それはさ」と明日香が遮った。「もう清瀬に聞いたらよくない?」
 確かにそうだった。受験勉強のリフレッシュに来ている先輩の頭を煩わせるわけにもいかない。前にいる男子の集団に清瀬を探したが、見つからなかった。まあ、今でなくてもいいことだ。
「そんなことより、佐竹さんは何をお願いしたんですか?」
 と、明日香がにこにこと話を変えた。
「聞こえてなかった? もちろん、大学合格。浪人はメンタル的に絶対に無理だわ。明日香ちゃんは?」
「わたしは彼氏と長続きしますようにって」
 きゃー! と佐竹先輩は高い声で驚いた。
「え、そうなんだ! だれだれ? うちの高校? 何年?」
「他校の子ですよ。坂井川高校の陸上部の子です」
「まさか明神くん?」
「あんな陸上馬鹿、願い下げです。投擲の子ですよ。うちらの同級生の」
「投擲かあ。名前聞いても分かんないかも」
「言うつもりもないですって」
 雪の白色に、ショッキングピンクの声が混じり合う。佐竹先輩もこういう話題に食いつくんだ、と少々意外だった。名前を聞き出そうとする佐竹先輩とやぶさかでもない明日香のやり取りは、はたで聞いていても楽しい。
 その声をかき消すように、今度は「おおお!」野太い声が前方から上がった。見なくても分かる。うちの男どもの声だ。
 今度はなんだとため息交じりに目をやると、彼らは誰かを取り囲んでいた。
 中心にいるのは、白衣白袴の清瀬だった。



「だから、バイトじゃねえって言ってるだろ」
 清瀬はうんざりしたように繰り返し説明している。「知り合いがここの神主なの。力仕事があるって言って、毎年頼まれてるんだよ」
「で、その服着る必要あんの?」
「それは神主に聞いてくれ」
 清瀬は白衣白袴のいで立ちで肩を落としている。足もしっかりと雪駄を履いていた。この神社の男性従業員の格好なのだろう。パリッと染み一つない白で、いかにも神職という荘厳な雰囲気だ。
 しかし長距離種目の清瀬はどちらかというと細身で、そして彼が着ているその衣服は厳かだけど大きめで、まあ端的に言うと……。
「なんか、見事に着られてるね」
 やがてやってきた沈黙の中、佐竹先輩がぽつりと呟いた。
 それをきっかけに、みんな爆笑する。「写真とろう、写真!」「グループラインのトップにしようぜ」「ご利益があるわー、副部長のこんな姿」と口々に捲し立てる。清瀬は頭を抱えていた。
「だから嫌だったんだよ、この神社に初詣するの。せっかく時間が被らないように九時集合にしたのに、あいつが遅れてくるから!」
 清瀬は珍しく大声を張り上げて指をさした。当の部長はけらけらと笑っている。
「いいじゃん。みんなに副部長の雄姿を見せたいっていう、おれなりの計らいだろ?」
「馬鹿やろう。こんなもの見て、誰が楽しいんだよ」
「俺らみんな楽しいよ。お前、普段は気を張ってばっかりだからさあ。そうじゃない副部長の姿も見てもらいたくてさ」
「余計なお世話だっての」
 あー可笑しかったねえ、と一通り騒いでから、輪を離れて明日香が言った。「清瀬のあの格好、思った以上に面白かったなあ。中一でぶかぶかの制服着てる、うちの弟とそっくり」
「もしかして、明日香は清瀬が神社で働いてるって知ってたの?」
 尋ねると、もちろん全然知らなかったよ、と明日香は目じりをハンカチで押さえながら言った。まだ笑い足りないらしい。
「ただ、あんたが足跡がどうとか言ってた時に、もしかしたら、ってね。ほら、甘酒を配ってくれたお姉さんいたでしょ? あの人って『関係者以外立ち入り禁止』の通路から社務所まで上がって、巫女の姿で社務所から出てきたわけじゃない? それを見て、関係者なら参拝者の三つの通路を通らずにここまで来られるなあ、って気づいただけ」
 なるほど、とあたしは感心する。甘酒を飲んでいる時にそこまで考えていたとは。
「甘酒と言えば、それも気になったかも」
 と明日香は何でもないように続けた。
「清瀬は『自分はもう甘酒を飲んだ』って言ってた。甘酒は八時から三十分ごとに配られて、好評ですぐ無くなる。清瀬が八時四十五分に来た時には、八時半に配られた甘酒はもう無かったはずだよ。本当に飲んだんだとしたら、社務所の中で従業員として分けてもらったくらいしか思いつかなくてさ」
「はあ」
 そもそもあたしは、清瀬が甘酒を飲んだと言っていたことすら忘れていた。目の前の小さなハードラーをまじまじと見つめる。清瀬がそう言っていた時は、彼女は他の人と話していたはずだ。バックグラウンドで流れていた会話の内容も覚えていることが信じられない。
「それに、清瀬がやけに集合を『時間厳守』って念押ししてたのも思い出してさ。今日もずっと時間ばっかり気にしてたじゃん? それで『もしかしたら清瀬はこれからここでバイトで、その姿を見られない時間を集合時間に調整したのかも』とかね。調整はあいつの十八番でしょ?」
 想像にすぎなかったけど、と明日香はまた思い出し笑いを始めた。「あんなにいいもの見られるとは思わなかった。あれは想像以上だわ」
 いいもの呼ばわりされた清瀬は、まだ輪の中心で声を張りあげていた。うちの部員もなかなかにしつこい。楽しそうに、何度も清瀬の写真を撮影して笑っている。明日香もスマホを構えて動画を撮りはじめる。確かに残しておきたい映像かもしれない。面白いというよりなにより、珍しい。
 清瀬がこんな風に輪の中心にいることが、今まであっただろうか。
 多分ない。彼はいつも輪の外で輪を作る役割ばかり担っていた。わがままのために部で浮いていた染谷をそっと輪の中に入れてやり、インターハイに行くなどと豪語する部長の手綱を上手く操り、丁寧に丁寧にこの部の輪を築き上げてきた。
 その輪に、彼は今囲まれているのだ。
 安らぎを求めた清瀬は、自身で築き上げた安らぎの中で、何を思うのだろう?
「清瀬」
 あたしが呼ぶと、輪の中から清瀬がこちらを見た。
「あたしらが神社に来る時、正面の参道の屋台で言い争いしてたよ。今はどうか知らないけど、結構揉めてたみたいだった」
 これ幸い、とばかり清瀬が輪を抜け出す。
「一応、見に行ってくるよ。事情だけでも聞いて、報告しないと」
 雪駄ですたすたとあたしの横を通り過ぎる。その時「ありがとな」と彼は小さく言葉を置いていった。
 別に清瀬に助け舟を出したわけじゃない、と返すには清瀬の歩みは速すぎた。あたしはただ、清瀬がどうするか知りたかっただけなのだ。揉め事を知って、安らぎを求める清瀬はどう行動をするのだろう、と。
 そして思った通り、調整役の彼は揉め事の方へ向かうのだった。
「……やっぱりね」
 自然と呟きながらその背中を見送っていると、視界に白い粒が舞い降りてきた。
 牡丹雪だ。
 灰色の天から、純白の粒が次々落ちてくる。
 同時に、清瀬の背に目をやるあたしの胸の奥にも、牡丹雪のような何かが舞い降りてきた。
 それは熱を帯びた胸の底に落ちて、すぐに溶けていった。その感覚はいつか清瀬に「役割がある」と言われた時に感じたものに似ていた。つまり、何かの気づき。
 あたしは、あたしはもしかしたら――。
「清瀬ー!」
 佐竹先輩の声だった。
 清瀬が半分振り返る。佐竹先輩はからかうように、「仕事がんばって!」とぶんぶんと手を振る。清瀬はまんざらでもなさそうに、軽く手を挙げて答えた。佐竹先輩は気恥ずかしげに赤いマフラーで口元を隠す。同じ色のマフラーを清瀬がしていたことに、あたしは思い当たった。
「……」
 隣で明日香が意味ありげな視線を寄越してくるのを感じた。何か言いたげで、しかし言うのがはばかられるものを胸の内にしまっているようだった。彼女は居心地が悪そうに何度も髪の毛を撫でつけていたが、
「ねえ、柊――」
「ふうん」
 と、その言葉を遮ってあたしは呟いた。「ふうん」
 その響きは、いつも通り絶妙だった。
 その言葉は胸に積もりかけていたそれを、さっとどこかへ運び出してくれる。残ったのは胸の奥の余熱だけだ。変なタイミングのあたしのセリフに、明日香は怪訝そうに首を傾げた。
 あたしは気にせず頬を緩めて、空を仰いだ。
 もしあたしが今それに気づいてしまったら、と思う。なんだか、全てをぶち壊してしまうような気がした。この部に溢れる笑顔も、穏やかな居心地のいい空気も、あたし自身の役割も。
 清瀬が築いたこの輪を、安らぎを、あたしも守りたい。壊すわけにはいかない。ふうんと言って何も気づかないふりをすることこそ、今のあたしの役割だろう。
 そうに違いなかった。
「インターハイ、行きたいな」
 あたしの言葉に、え、と明日香が聞き返してくる。
「あたし、インターハイに行きたい」
 社を見つめて祈る。祈りというより、誓いだった。
 あたしはこの部でインターハイに行く。その先に何があるわけでもないし、行けない確率の方が高いだろう。ただそれでも、そう口にする自分でありたいのだ。
「行けるかもね、柊なら」
 と親友が背中を押してくれる。
「行くよ、絶対。それがあたしの、まあ、役割だと思うから」
 役割、という言葉は白い塊になって漂った。
 冷たい空気に溶けていく白い吐息を見つめると、ぐっと腹の底から全身に力がみなぎった。
 牡丹雪。いつ果てるともなく、舞い落ちる。
 部長が何かを言い、染谷が手を叩いて笑った。その頭に寒々しく白い粒が落ちて、佐竹先輩が払い落としてあげている。それを見て、明日香も目を細めた。
 甘酒を飲んだせいか、それともその他の理由からか。
 あたしは少しも寒くなかった。

 

(了)