あたしはその日、蒸し暑い空気に汗を拭きながら用具室に向かった。夕日に埃がきらきら舞う狭い用具室で、清瀬は一人でハードルを片付けている。あたしは黙ってメジャーを片付けて出ようとした。
「今日はありがとうな」
背中越しに清瀬がそう声をかけてきた。お礼を言われた理由は分かっている。あたしは清瀬からちょっとした頼まれごとをしたのだ。全然、と振り向かないで答える。
「でも、柊のおかげでうまくいったよ。助かった」
あたしはそこで振り返った。清瀬に頼まれたときは清瀬の目的がよく分からなかったけど、その時にはおおよその全容はつかめていた。清瀬は部のある人物を守るために画策していたのだ。そして、それは多分成功していた。清瀬は自分が使ったわけでもないハードルをせっせと直している。
ふうんと言おうとして、その姿に胸の奥がざらりと波打った。
「清瀬ってさ、なんでそうなの?」
「うん?」
「今日のこと、あんたが上手くとりなす必要はないじゃない。今だって、他人の用具をあんたが片付ける理由なんてない。なんでそんなにいい子ぶってるわけ?」
思いがけず強い口調になって、清瀬がすっと視線を落とした。冷たいコンクリートの床をじっと見つめる。しまったとすぐに後悔した。なんで急に突っかかってしまったんだろう。清瀬とは同学年だけど、特別仲がいいわけでもない。
あたしの詰問に、清瀬はしばらく困ったように眉を上下させていた。けどようやく、
「まあ、役割だから」
と言った。
その声色は沈む夕日のように静かで、しかしはっきりした色を持っていた。俯く視線も単に目を逸らしているわけではなく、清瀬にしか分からない何かを見ようとしているように意思があった。
――役割。
あたしは腕に巻いたスポーツウォッチを撫でていた。砂埃にまみれたそれは、気色の悪い摩擦を指先に残した。
父が交通事故で死んだのは、あたしが小学六年生の冬だった。
路面の凍結した高速道路でノーマルタイヤの後続車に追突された。即死だった。母はとり乱して号泣し、二人の姉は母に縋りついて叫んでいた。あたしはただ茫然としていて、それ以外の記憶が無い。
そうして祖母と母、二人の姉とあたしという五人の生活が幕を開けた。
蓋を開けてみると、案外と普通の日々だった。
祖母は学校から帰ったあたしに、みかんと甘い砂糖のかかったゼリーを手渡した。中学生と高校生の姉は、バイトや部活から帰ってから推している歌手の話をした。市役所で働いていた母は、夕方には帰って晩御飯の準備をして姉たちの弁当を作った。「早く食べちゃいなさい」と母がうんざりした調子で言い、「この番組見てからね」と姉はチョコレートを頬張りながら応じた。それで時折言い合いになったり、そうならなかったりした。
よかった、と最初はほっとした。どうやら思ったより大きな変化なく人生を送れそうだ、と。
なにかがおかしい、と気が付いたのは半年ほど経ってからだ。
高校三年生になった上の姉は就職すると言って、母は大学へ行かせたがった。言い争いになり、その口論の温度がある一定の基準を超えた時、母が打って変わって姉に懇願した。
「お願いだから、わたしの役割を果たさせてよ」
溶けゆく雪のように、母は台所の椅子に力なく座り込んで頭を抱えた。「これまでもこの家が普通の家であるように、わたしは頑張ってきたじゃない。普通の母親でいさせてよ」
姉は母を見下ろして告げた。
「役割を果たしたいのは、私も一緒だよ」
彼女たちが使う役割という言葉は、手のひらに紙やすりを優しくあてがうような鈍痛を引き起こした。
役割? この人たちは、どういう意味でそれを言っているんだろう?
やがて気が付いた。この人たちは、父親のいないこの家庭がまるで何の不足もなく維持されるように、それぞれの役割を必死に演じてきたのだ。母はタフで子どもに不安を見せない強い母親を、姉は世間一般の女子高生を。それぞれ与えられた役割を演じて、この家庭のバランスを何とか保とうとしてきたのだった。
気付いてしまうと、もう普通の家庭には戻れなかった。少なくともあたしは。
家族の表情や所作の全てが、役割を果たす演技に見えてしまう。もちろん、何も気づかないふりをして過ごした。けど、母の作る弁当を食べて嘔吐した。姉からのラインのメッセージを消去した。祖母の柔和な語りを遮って自室に籠った。分からない。この人たちが、この先目指すものが。今この瞬間、この一秒をどう思って生きているのか。役割を演じて、それで何を得られるのかどうか。全部が、分からない。
以来、あたしはなるべく父の形見のスポーツウォッチを身に付けるようになった。無骨な時計は確実に時間を刻んでくれる。息苦しくなると、あたしは腕に目を落とした。高校を出たらこの役割の溢れた家を出るのだ、とそれを見て言い聞かせる。
この時計が刻む時間はその解放へのカウントダウンであり、父のようにいつか訪れる柔らかい死へ向かう足音なのだ、と。
きっと険しい顔になっていたんだろう。
狭い用具室で、目の前の清瀬は「えっと……」と戸惑いながら、あたしに届ける言葉をまだ選んでいる。
「役割を演じて、それで何を守ってるの?」
これ以上荒い口調にならないように制御するので、精一杯だった。
「そんな嘘っぱちで、一体誰が得をするっていうのよ?」
完全な八つ当たりだった。清瀬は何も悪いことをしていない。ただ、私がその「役割」という言葉を、どうしても許せないだけ。
沈黙は長くは続かなかった。清瀬は視線を上げてあたしの目を見た。男子高校生の目を、これほど近くで直視するのは初めてかもしれなかった。黒く、深く、井戸の底のように何も見えない。
「役割って、そんな大げさな意味じゃなくてさ」
清瀬は、もし聞きたくなかったら出て行ってくれていいよ、というくらいの穏やかなトーンで言う。
「例えば、おれは百メートルを十秒台では走れない。絶対に無理だ。仮に生まれてからすべての時間をトレーニングに費やしても、血反吐を吐くほど努力しても、無理」
元も子もない言いぐさだけど、あたしは黙って肯定した。その通りだと思ったからだ。
陸上競技の中でも、特にスプリンターは天性の才能だ。努力云々ではない。生まれ持った肉体と、その肉体を操縦するセンス。それは絶対に越えられない壁だ。高校から陸上を始めたあたしも、それは肌で実感していた。
「それでも、おれは一五〇〇ならそれなりに走れる。まあ並み程度くらいには、だけど」
役割ってのはそういうことだよ、と清瀬は言った。
あたしはまだ答えない。全然、納得できていない。
清瀬は言葉を変えた。
「役割とか、分相応とか、弁えるって言葉でもいいかな。おれはそういう言葉に安心するだけなんだ。自分に何もかもできると思えるほどもう幼くないし、だからといって、全てを諦められるほど大人でもない」
前で組んでいた腕をほどき、清瀬は両手をポケットに突っ込む。
「百メートルを十秒台で走れる才能が無い自分にも、多少はできることがあると信じたい。今回の件だっておれはおれのできることをしたかった、それだけだよ。そういう意味で『役割』って使っただけ」
分かるような、分からないような言葉の羅列だった。言い訳のようにも聞こえる。もう少し端的に言ってもらわないと、腑に落ちない。
「なら清瀬の役割ってなに? 自分自身で、何の役割を担ってると思ってるの?」
清瀬はいつも周りに気を遣っている。それくらい、無頓着なあたしでもよく分かった。練習にはいつも早めに来て、ラインを引いたり道具を準備したりしている。大会前の忘れ物チェックもいつも清瀬がしているし、競技場でテントを組む時には結局みんな清瀬の指示通りに動く羽目になる。まるで秘書のようだ、と明日香は彼を評する。好意的な意味もそうでない意味も、その比喩には含まれていた。
清瀬は一瞬何か言おうかためらって、結局ごまかした。
「さあ、どうなのかな。自分ではよく分からない」
「調整役って感じだよ」
と、あたしが代わりに答えてやる。
「調整に調整を重ねてる。そのくせ最後は誰かに委ねてる。まるで秘書みたい」
見ていてすっきりと気持ちよくはないし、その献身さはちょっと心配になる、とまではさすがに言わなかった。
清瀬は「ありがとう」と言ってから、その言葉が正しかったのかどうか迷っているようだった。子供みたいな表情が珍しくて、つい心を縛った紐が緩んだ。
「なら、あたしの役割は何だと思う?」
本当に、自分でもびっくりした。
あたしは突然、何を言い始めているんだろう? しかも同級生の男子に、変に深刻なトーンで。あたしは慌てて、零れてしまった言葉を撤回しようとした。
けどその前に、清瀬が自然に差し込んできた。
「柊はこの陸上部でとんでもなくでかい役割を担ってるよ」
言われなくても分かってると思うけど、と付け足す。
「この陸上部のエンジンは柊、お前だよ」
今度はぽかん、と口を開けてしまった。あたしが部のエンジン?
清瀬は怪訝そうに続ける。「気づいてないのか? お前が幅跳びの練習で跳躍する時、みんながお前のことを見てる」
思い返すけど、どうだったか分からない。もともと、周囲を気にする性質ではない。幅跳びの助走に入ってしまえば、見える世界なんて砂場と踏切板だけだし、跳躍中はもちろん何も見えない。考えてみれば、助走に入る前から周りなんて見ていなくて、世界は四角い箱の中に収まっているような感覚さえする。
清瀬はぽつぽつと続ける。励ますわけでも、自嘲しているわけでもない。
「そりゃみんな、柊を意識するさ。高校から陸上始めたばっかりの奴が、もう県でもベスト8に名を連ねてるんだから。しかもそれに満足してない。普通じゃないよ。やっぱり自分も負けたくないって思うし、頑張ろうって思える。だから、柊の役割はこの部のエンジン」
染谷も柊みたく落ち着いてくれたらもっといい部になるのに、と清瀬は独りごちた。どうすれば染谷が上手く部に馴染んでくれるかなあ、と。
あたしはあたしで、立ち尽くしていた。
あたしにも、どうやら役割があるらしい。少なくとも、この部には。
まず驚き、次に疑い、笑い出したくなって、しかし最後に胸にじんわりと何かが雪のように降り積もった。
温かく柔らかいそれは、安堵だった。
ああ、とその時気づいた。
あたしは、家でみんなが役割を演じていることが苦痛だったのではない。
そうではなくて、あたしはあたしに役割が無かったことに耐えられなかったのだ。みんなが役割を担って必死に家族を維持しているのに、あたしだけ参画できていない。まるで自分だけが庇護されているようで、それがひたすらに、心苦しかった。
呆然としているあたしに気が付かず、清瀬は質問を重ねた。
「それより前から気になってたんだけど、なんで柊は高校から陸上部に入ろうって思ったの?」
「それは……父親の形見のスポーツウォッチを使えそうだなと思って」
「そっか、親父さん死んでるんだ。……え、どうした?」
清瀬が心配そうに歩み寄ってきた。あたしは歯を食いしばって顔をそむけた。そうしないと何かが壊れてしまいそうだったから。用具室の埃をめいっぱい吸い込む。乾いた土と、黴びたマットと、舞う石灰の匂い。陸上部の香りだった。
目の端には、男子高校生の黒い瞳がある。
「でも、清瀬の役割って地味じゃない? それで清瀬は一体何を得られたっていうの?」
質問に質問を返す。清瀬からの質問に応える筋合いなんてないし、応えようも無かった。
清瀬は半分照れくさそうに微笑みながら、
「安らぎかな」
と応えた。なにそれ、とあたしは笑って彼の肩を小突いた。
男子高校生の肩に触れたのは、それが初めてだった。