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境内の木々から雪が落ちる音がした。
陸上部の面々はまだ鳥居の近くでたむろしている。肝心の部長がまだ来ないのだ。あたしはまだ悶々としている。
清瀬は正面の参道を通った、と明日香は言う。
裏参道に足跡が無いのだから、その考えは自然だ。けど、あたしにはどうしてもそうは思えない。何よりも安らぎを大事にするあの清瀬が、正面の参道の喧嘩を放ってのこのこやってくるとは、到底信じられないのだ。もちろん清瀬だって所詮高校生なわけで、強面の大人の言い争いに介入したくなかった、というのも十分理解できる。
しかしそれでも、あたしはどうにも納得できない。
清瀬に聞いてみようか、と思ってその考えは振り払った。なんだか、今日の清瀬は珍しくそわそわしている。別のことで頭がいっぱいの様子で、あからさまに不機嫌だ。「清瀬さん、寒いんですけど」と後輩に気さくに話しかけられても、「なら社務所で甘酒でも貰ってこい」とそっけない。「清瀬さん飲みました?」「おれはもう飲んだ」。いつもなら微笑みくらいは返しているし、なんなら後輩の分の甘酒くらい用意していてもおかしくないのだ。とても話しかけられる雰囲気ではない。
あたしは一人、裏参道へ向かった。
さっき見た佐竹先輩の足跡は、後から来たあたしたちの足跡でかき消されていた。しゃがみ込んで雪の厚さを確認する。幅跳びで自身の着地点を確認するのと同じように、顔を近づけてみる。雪の厚みは、一センチから二センチほど。あの時は一組の足跡がついていただけで、それはそのまま佐竹先輩の足元に繋がっていたから、佐竹先輩のもので間違いないはずだ。
雪が積もる前に清瀬はもうここに来ていたということだろうか? ……いや、違う。雪が降り始めたのはあたしが家を出て少ししてから、つまり八時半頃で、あっという間に積もった。一面が白くなるのに十分もかからなかっただろう。佐竹先輩がこの裏参道を通ったのは八時五十分くらいで、清瀬はその五分前だと言っていた。八時四十五分には、雪はもう積もっていたはずだ。
ならば、違う道から清瀬は来たのだろう。この神社は正面の参道と裏参道の他に、もう一本西の小径があったことを思い出した。獣道のように荒れて舗装もされていないが、通れなくはない。自然と足がそちらへ向かっていた。
木々がうっそうと茂った西側は、かなり雪が深かった。森の影のせいで、昨日までの積雪が溶けていないのだ。場所によっては十五センチほどはありそうだ。
深い雪をざくざくと踏みしめ、ようやく小径に出た。細い道で、まったく手入れがされていない。木々の枝は道に張り出していた。勾配も激しい。しかし思った通り、そこにはいくつかの足跡があった。二、三人分だろうか。ほっとしている自分を見出す。なんだ、清瀬はこっちの道から来たのか。
安心すると、雪の入り込んだスニーカーから寒気が頭へと駆け巡ってきた。慌てて皆のいる鳥居へ戻る。まだ部長は来ていないらしく、清瀬がスマートフォンを耳に当てていた。
「どこ行ってたの、柊」
ちょっとね、と明日香に応える。明日香はあたしの足元を見て絶句した。
「ちょっとね、じゃないわよ! あんた足がびしょびしょじゃない! 風邪ひいちゃうってば!」
明日香はあたしを引っ張って社務所の方へ連れていく。社務所の前に置いてあるテントの石油ストーブの前に座らせると、ポケットからハンカチを取り出して拭いてくれた。同じことを、目の前の母親が子どもにしていて恥ずかしくなる。「ありがとう」と、あたしは小さく感謝の言葉を口にする。
「ありがとうはいいけどさあ」
と明日香はため息をついた。明日香のため息は全然周囲を不快にさせない。気だるそうだけど、嫌みが無い。いいな、と思う。
「昔っから、あんたは何にも言わずにどっか行っちゃうよね」
「そうだっけ?」
「そうだよ。中学校の時の校外学習でも、自由時間が終わっても帰ってこなくてクラスみんなで捜した。覚えてない?」
覚えている。
父が死んで、あたしの家が演技で成り立っていると思ってしばらくしてからのことだ。芝生の上で、独り空を見ていた。高い青空で、いっそ吸い込まれてしまいたいと願っていた。
「風邪ひいたら、練習の遅れ取り戻すのに二週間はかかるよ。柊はうちの部の女子の大エースなんだから、気を付けてよね」
大エース、と明日香はあたしのことをそう呼んだ。あの頃とは違い、そういう役割が今のあたしにはあるらしい。
「明日香って、優しいね」
「急になによ。まったく」
と、明日香ははにかんで、あたしの頭をくしゃくしゃと撫でる。ちょうどその時、さっき神社に入る前に見た女性が社務所から巫女の姿で出てきた。その手には甘酒があって、近くにいた人々が一斉に群がる。あたしは二人分の紙コップを受け取って、一つを明日香に渡す。ちょっとしたお礼のつもりだ。
甘酒はたちまち売り切れて、巫女さんに「次はいつくれるんだ」とクレームが入っている。巫女さんは心底申し訳なさげに眉尻を下げて、
「八時から配り始めて、三十分ごとに二十人分と決まってるんです」
と詫びた。相手も食い下がる。「二十人は少ないだろう」「好評ですぐに無くなってしまうので、もしお飲みになりたいなら三十分後にこの付近でお待ちください」「この寒い中、三十分も待てるか」「申し訳ありません」。
……ここでも揉め事だ。
巫女さんのバイトをしたいと明日香は言っていたけど、あたしは絶対に嫌だった。どうしてめでたいはずの新年に、汚い感情をぶつけられないといけないのか。清瀬を呼びたい気持ちになって、たまには自分で何とかすべきだと思い直す。しかしどう声をかけてどう行動すれば収まるのか、道筋が全く思い浮かばなかった。ただ、居心地が悪く感じるだけだ。
しかしそれでも、あたしはストーブの前から動こうとは思わなかった。誰がまちがっているかよく分からないけど、今この瞬間は暖かいのが正義なのは間違いない。
「あ」
と、その暖かさが自分の思い違いを悟らせた。「今度はなに?」と面倒臭そうに明日香が問う。
「清瀬って、足元濡れてたっけ?」
さあ、と明日香は首を振った。
「いちいち覚えてないけど。まあ、気づかないってことは、濡れてなかったんじゃないかな」
そうだ。濡れていない。清瀬がベージュのチノパンを穿いていたことは覚えている。濡れていたら変色するだろうし、さすがに気づいただろう。ということは、やはり清瀬はあの西の小径を通っていない可能性が高いのではないか。
「この神社って、ここまで登れる道っていくつあるんだっけ?」
明日香は黙って目の前の看板を指さした。ゆっくり甘酒を堪能させろ、とその横顔は告げていた。看板にはこの神社の成り立ちと、色褪せた地図がある。地図には参拝者が通る道として、正面の参道、裏参道、西の小径の三つが書かれているだけだ。
やはり、清瀬は正面の参道から来たのか。
……とは、まだ諦められなかった。何か方法があるはずだ。足跡を付けずに、あるいは濡れないように、この本社まで登って来られる方法が。
「ねえ、明日香。雪の道で足跡を付けないで歩く方法って、なんかあると思う?」
明日香は甘酒から口を離し、頬に垂れた髪を撫でた。妙に淡々と、
「清瀬のこと?」
と尋ねてきた。
まあそうだ、とあたしは不承不承に頷く。
「清瀬が正面の参道を歩いてきたなら、あの喧嘩を見過ごしてきたことになる。けど、本当にそうかなって」
「ふうん」
一言だけそう言って、そうだなあと天を仰ぐ。気になったことは「ふうん」でひとまず流して、一緒に考えてくれるらしかった。
明日香は看板の地図を指さして言う。
「もし正面の参道を歩いてないなら、裏参道か西の小径でしょ」
「でも、裏参道には佐竹先輩の足跡しかなかったし、西の小径は雪が深くて歩いたら濡れる」
こんな風に、とあたしは足を持ち上げてみせた。アシックスの灰色のチームジャージは重く湿っている。
「それを確認するために、わざわざあっちまで行ってたの?」
「まあ、うん」
明日香は大きくため息をついた。「そこまで調べなくてもよくない?」
「でも、気になって。もし清瀬が正面の参道を通っていないなら、どうやってここまで来たんだろう? さながら雪の密室じゃない?」
「雪の密室ねえ。じゃあ、まずは裏参道から来た方法を考えてみよっか」
と、明日香はゆっくりと言った。言葉にしながら思考を巡らせているんだろう。そんな器用な真似は、あたしにはできない。
「方法だけなら、そうだなあ、いくつか思いつくかも」
「え、そう?」
「例えば、佐竹先輩が清瀬をおんぶして歩いた、とか」
なるほど、確かに方法としては考えられる。ドラマでも見たことがあった気がする。佐竹先輩が清瀬をおぶって裏参道を通ったら、足跡は佐竹先輩の一つだけだ。地獄のような練習を潜り抜けてきた佐竹先輩なら、清瀬くらいの体形の男ならおぶって歩けるだろう。実際、そんな練習をしたこともある。けど、なんで清瀬をおぶって歩くなんてことをする必要があるんだろう?
まさか、と言いかけるあたしに明日香はひらひら手を振った。
「方法だけなら、って言ったでしょ? ほんとにそうしたとは言ってない。もしかしたら清瀬はその時偶然足がつったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
明日香はそばを通った巫女さんに、甘酒のおかわりを要求する。「だから無いんですって」と清楚な印象の巫女さんから鋭い口調が飛んできた。すみません、と明日香は悪びれずににっこりと謝る。そうやって口実を作っておいて、「甘酒がおいしくてつい。もう飲まれました?」と明朗に話しかける。
「バイトはじまる前にね」
と巫女さんはふっと頬を緩めた。明日香の話し方は警戒心を抱かせるそれとは正反対だ。「やっぱり巫女さんのバイトって大変なんですか?」「まあ、時給がよくないとやらないかな」「ちなみに、どこで巫女さんのバイトって応募したんですか? ……」
こういうことができるのが彼女の長所だ。押したり引いたりして、自分の話したい話題に持っていく。コミュニケーションの綱引きがとてもうまい。
さてと、としばらくして明日香はあたしに向き直った。バイトの募集先についての情報は手に入ったらしい。再来年には、大学生になった明日香の巫女姿が見られるだろう。見てみたいな、と少しだけ思う。
「まだありそうなのは……。こういうのはどう? 清瀬が歩いた足跡の上を佐竹先輩が歩いた。なら、足跡は一つだけ」
「おんぶよりはあるかも」
とあたしは肯う。そうする理由は、相変わらず全然思いつかないけど。
「他にもあるよ。佐竹先輩が清瀬をソリに乗せて運んだとか」
「ソリ?」
「清瀬は歩いた足跡を、傍の雪を拾って消したとか」
「雪を拾って消す?」
「そもそも道を歩いてないかもしれない。この山の木々の間を通ってきたのかもよ。雪が積もってないところを通ったから、足元は偶然にも濡れなかった」
「うーん。……そんな可能性あるかな」
並べ立てられて、あたしは頭がこんがらがってくる。方法としては全部あり得るのかもしれないけど、理由を考えるとどうしても疑問符が浮かんでしまう。もともと頭の働きに自信があるわけではない。むしろ鈍い方だと自覚している。
明日香は甘酒をずるずる啜った。ぷはあ、と仕事終わりに立ち飲み屋で一服するおじさんのような声を出す。
そもそも可能性だけならさ、と彼女はややうんざりしたように言った。
「清瀬は普通に正面の参道を通ったって可能性を、私は信じるけどね。私から言わせれば、今回のことなんて別に不思議でもなんでもない。ましてや密室なんて」
もちろんそうだろう、という言葉をあたしはぐっと飲み込んだ。
あたしは別に探偵みたいに真実を知りたいわけでもないし、トリックを見破りたいわけでもない。ただ、どの可能性が腑に落ちるかどうか、それくらいはあたしが決めたいというだけ。
無言で地図を睨みつけるあたしを見て、明日香は「じゃあ、今度は西の小径について考えてみようか」と話の方向を変えてくれた。
「そっちは何人分の足跡があったの?」
「二、三人分かな」
「いつの時点でついた足跡なのかな」
「それは分からなかったけど」
「その他に変わったところは?」
「日が当たらなくて雪が深かった。あとは、獣道だし雪の積もり方がぼこぼこしてた。それ以外はなにも。足跡以外は綺麗な新雪だった」
「そこを濡れないで登る、ねえ。無理じゃない?」
「やっぱりそうかな」
でも、と明日香は甘酒を啜った。「そこの雪は昨日までに積もった雪だったんでしょ? なら場合によっては行けるかもね」
え、とあたしは声をあげる。「なんで?」
「あんた何年この田舎に住んでんのよ。この時期に降る雪は大体牡丹雪で、水気が多いでしょ。さらさらのパウダースノーなんかじゃない。前日に積もった雪なんか凍ってかちかちになってる。あんなの、ほとんど白い色した氷だよ」
「だから?」
「西の小径の足跡が、仮に昨日ついたものだったとしたらどう? 足跡はその形で凍ってるから、その上を歩けばズボンの裾も濡れなさそうじゃない? そして、もしあたしが雪の積もった獣道を登るとなったら、絶対に足跡の上を歩く」
なるほど、とあたしは膝を打った。確かに、これまでの方法の中で一番可能性がありそうだ。おんぶやソリなどより、ずっと腑に落ちる。
あたしを見て、明日香は不思議そうに尋ねた。
「そんなに気になるなら、清瀬に直接聞けばいいじゃない」
「聞いてもいいけど」とあたしは口ごもる。「あいつ、なんか時間ばっかり気にしてそわそわしてたし、話しかけづらくて」
確かにねえ、と明日香は思い出すように顎に手をやった。焦点は甘酒の入った紙コップの底にある。しばらくそうして、何かに気づいたように手首の内に向けた腕時計を見やった。つられてあたしも見る。もう九時四十五分だった。
ふと明日香は立ち上がった。明日香の視線を追うと、染谷がこちらに歩いてくるところだった。ようやく部長が来たのだろう。大幅な遅刻だ。
明日香は髪を耳の上にかき上げて言った。ハードルの十台目を越えて後続を振り切るような、しゃきっとした気持ちのいい口調だった。
「じゃあ行こうか、初詣。ゆっくりきっちり、お願いしようかな。その方が多分、いいことがある気がするんだよね」