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 2015年に刊行された藤野千夜さんの『時穴みみか』が、このたび双葉文庫より刊行されました。大の藤野ファンである田中兆子さんの文庫解説からは、作品への熱い想いが伝わってきます。文庫化を記念し、お二人の対談を公開します。田中さんが読み解く、『時穴みみか』の魅力とは? 藤野さんが明かす、創作のこだわりとは? 単行本刊行時、物語のラストに角田光代さんが嗚咽、町田康さんが慟哭したとも評したこの物語について、存分に語り合っていただきました。

構成・文=門賀美央子 撮影=川しまゆうこ

 

昭和の少女たちに教えてあげたいこと

 

田中:これは解説にも書かせてもらったことなのですが、私が初めてこの作品を単行本で読んだ時に、美々加がパパさんのハグから逃れようとする場面がとても心に残ったんです。パパさんは「アメリカデー」と称して家族みんなにハグして回る。でも、喜んでいるのはママさんと弟だけ。年頃のお姉ちゃんと美々加はとても嫌がる。あのシーンを見て、昭和の女子って多かれ少なかれ、昭和のおじさんに嫌なことをされていたなと思い出しました。

 自著の話で恐縮ですが、『今日の花を摘む』ではそれをずっと我慢して大人になってきた人たちを書いています。そうしないと社会人として生き延びられなかった世代ですので。でも、やはり、嫌だという強い気持ちが心のどこかにあったのにずっと蓋をしていたのが、美々加が逃げ回る姿を見てパコッと開いた気がしました。あんなにいいパパさんなのに、美々加が真剣に嫌がって逃げる感じがすごくリアルで、「ああ、こんなに嫌だったなあ」と改めて認識できたんです。そして、それを嫌がることは決して悪いことではない、後ろめたく思う必要はないのだ、というのを、50代の私が少女だった私に伝えたくなりました。たぶん美々加を通して昔の自分と対話できたのだと思います。これは小説を読む体験として大事なところです。

 

藤野:『じい散歩』にも「アメリカデー」が出てきますが、 あれは友人が実際に体験したことなんです。お父さんが「アメリカデー」に抱きついてくるのが嫌だったと話していたのを、そのまま美々加に投影したんですね。

 

田中:そうなんですか!

 

藤野:ええ。実の父でさえ嫌なのに、美々加の場合はさらに本当のお父さんじゃないんだからそりゃ走って逃げるだろうな、って。ああいうのって、本気で逃げ回る人にだけおもしろがってやるんでしょうけども、急に泣き出されるとそれはそれで困るので、嫌がって逃げるぐらいが関の山という人を見極めて、それを対象にしてやるのでしょうね。パパさん本人は愛情のつもりでも、やっぱりちょっとなめている。

 

田中:いかにも“男子”のやりそうなことです。でも、あのシーンの続きではお姉ちゃんが美々加にホットカルピスを持ってきてくれて、弟も美々加に気遣いをみせて、最後は全員の気持ちがちゃんと落ち着く。さらに、別のシーンではパパさんのよいところも、ちょっとしたエピソードできちんと伝えている。たとえば、からあげ棒の話とか(笑)。何十行描写するよりもあのワンシーンで全てが伝わるっていう、そういうところが、とてもいいです。

 

藤野:ありがとうございます。それが私の書き方なのだと思います。言葉を尽くすより、最小限の描写ですべての気持ちを表現したいのです。ただ、時々やりすぎてしまうのですが。

 

田中:そうなんですか?

 

藤野:ええ。特に昔は、気持ちがピリピリしていると「これだと書き過ぎだな」と思って書いたものすべてを削ってしまうことも珍しくありませんでした。書かないように、書かないようにとしていたので。ピリピリテンションの状態では、こんな書きすぎた小説は読みたくない! と思ってしまうんですね。感情をむき出しにしちゃ嫌だとか、わかりやすく書いたら伝わっちゃうけど、あえて伝わらないように書きたいとか、いろいろ変なこだわりがあるんです。でも、まれにのんびりしたテンションのときに自分の小説を読み返すと、これはなかなか伝わらないだろうなと思ってしまうこともあるのですが。

 

田中:なるほど。でも、確かに何をどこまで書くかは考えどころですね。文芸作品の場合、エンターテインメント作品と違って、すべてを書ききらない方がいいこともありますから。藤野さんは媒体によって書き方を変えたりはされますか?

 

藤野:いわゆる小説雑誌か、純文学の載る文芸誌か、ということであれば、あんまりそこは意識しません。美々加は書き下ろしだったので、少しエンタメ性のあるものにしようと思ってああいう感じになったんです。タイムスリップの設定などは読者サービスの一環ですね。ただ、実は最初に書いたものはお蔵入りしています。編集者から平成のパートをもう少し増やしてと言われて、そこで書くのが辛くなってしまったんです。それで一度こちらはなかったことにして、代わりに執筆したのが『君のいた日々』でした。これは妻が亡くなった世界で生きる夫と、夫が亡くなった世界で生きる妻、二つの世界を交互に描くパラレルワールドものです。

 

田中:そうでしたか。

 

藤野:そんなわけで本作の方が浮いてしまった状態になっていたのですが、別の媒体──文芸誌の編集者に見せたら載せたいと言ってくださって、そこから連載で書き継いで、無事世に出せました。

 

田中:そういう経緯があったのですか。その辺の切り替えって、すぐにできるタイプですか? 

 

藤野:どうでしょう……。意識して変えているわけではないですね。『じい散歩』の原形も元々は文芸誌での発表でしたし。

 

田中:書き方を変えないまま文芸もエンターテインメントもいけるというのはすごいです。なかなかいない作家さんだと思います。私はストーリーより文章を味わう小説が好きなんです。でも、藤野さんの作品はどちらの楽しみ方もできる。そこが一層好きになってしまうポイントなのでしょう。

 

左:藤野千夜氏 右:田中兆子氏

 

文章の楽しみ方

 

田中:私は本の読み方がちょっと変わっているんです。好きな作品を読み返す場合は頭から読むのではなく、思いついたところをぱっと開いて読みます。

 

藤野:私もよくその読み方をしますよ。好きな本はそんなふうにして繰り返し何度でも読みます。頭の方から読み始めちゃうと、結局最後まで読んじゃったりするんですけど(笑)。

 

田中:それもよくありますね(笑)。私の場合『細雪』がそれかも。たまにちょっと読んだりすると、結局は最後までいってしまって、自分でも「また読んだよ」って呆れたりするんですけど。藤野さんの作品は、まさにその読み方をするのにうってつけなんです。たとえばベストセラーになった『じい散歩』も、事件的なことは何も起こらないといえば起こらない。けれども、楽しくてずっと読んでいられるんですよね。

 

藤野:私としてはあれでもコトを起こしているつもりなのですが(笑)。もっと何もなくそうと思えばできますから。私は結局、細かいものを積み重ねて書いていくのが好きなようです。好きなお店とか、その日食べたものとか、実際にある街の風景とか。一読者として本を読む場合も目につくのが、そういうところなんですよね。大きく動く部分よりも、その物語に配置された小さなことばかりが気になる。だから、自分の小説にも、そういうものをちりばめてしまうのだと思います。

 

田中:でも、そういう部分を拾い集めるのこそ読書の醍醐味ではないでしょうか。本作だって、いくつも出てくる昭和のディティールが物語をより楽しくしてくれています。

 

藤野:ありがとうございます。

 

田中:それに美々加の可愛さ、そして切なさは、ある程度年齢を重ねたからこそわかるものです。だから、やっぱり昭和という時代をリアルタイムで通ってきた50代以上の人に読んでもらいたいなと強く思います。

 

(2024年3月5日 双葉社にて)

 

【あらすじ】
小六の美々加は、シングルマザーのママに恋人ができて以来、学校の帰り道に道草をするようになった。ある日、黒猫のあとをつけて巨木の根元の空洞をくぐり抜けると、知らない家で目を覚ます。くみ取りのトイレやダイヤル式電話、学校ではこっくりさんに夢中な級友……。どうやら昭和49年にタイムスリップしたらしい。当たり前のように美々加を「さら」と呼び、たっぷりの愛情を注いでくれる小岩井家の次女としての日々が始まった──。優しさと温もりに包まれた、ノスタルジックな冒険譚。