最初から読む

 

第一話 汚名 Bad Rap(3)

13

 自宅に戻った時生は仁美に自宅待機になったいきさつを説明し、絵理奈と香里奈、有人、波瑠の順で帰宅した子どもたちには「休暇を取った」と伝えた。その後、家事をしているうちに夜になり、家族に「勉強するから」と告げて二階の自室に向かった。
 奥の机に着きノートパソコンを立ち上げて間もなく、リモートでの作戦会議が始まった。「まず、追加のリサーチ結果の報告です。安沢求には、伊都子という妻がいます。妻も名家の出身なんですが、その本宅の所在地は宮崎県東臼杵郡。ひむかい不動産の本社と同じです」
 挨拶を終えると、剛田が言った。時生のノートパソコンの液晶ディスプレイは四分割され、剛田の白い顔はその左上の枠内に表示されている。隣の枠には、入浴後なのか、前髪を額に下ろした諸富の顔があり、その下の糸居はTシャツ姿、左下の南雲はいつもの黒い三つ揃いにノーネクタイの白いワイシャツという格好だ。時生は液晶ディスプレイの端に自分の顔が小さく表示されているのを確認してから、上部にあるWebカメラのレンズに向かって返した。
「恐らく、ひむかい不動産は安沢家所有の不動産の管理会社だね。社長の仲林千代治も、妻の親族だと思うよ」
「俺もそう思う」
 と諸富が言い、糸居も頷く。一方、南雲は目を伏せたまま無言。左の肩と腕が動いているので、スケッチブックに何か描いているのだろう。またかよと苛立った時生だが、昼間、白石から聞いた話を思い出し、複雑な気持ちになる。
「俺は安沢陽太郎について調べた。前科三犯で、そのすべてが性犯罪。求が揉み消したものを含めば、もっとやらかしているだろう。バカ息子を通り越して、とんでもない男だ」
 また諸富が言い、手にした書類を掲げた。陽太郎の悪事を報じるゴシップサイトの記事を印刷したもののようだ。そこには陽太郎の写真も掲載されており、目にはモザイクがかかっているが、日焼けして贅肉のついた顔だとわかる。糸居も言う。
「今度の裁判では、二十年以上の懲役を食らう可能性もある。自分の政治家生命もかかってるし、求は必死だろう。無罪にできそうな犯行があるなら、それを証明してくれる人の面倒を見るなんて、朝飯前。裁判での証言を条件に、仮釈放のゴリ押しだってするはずだ」
「陽太郎の裁判が、江島さんの事件に関係している可能性が出て来たな……剛田くん。江島さんが証言する予定だった事件の詳細はわかる?」
 時生が問うと、剛田は「もちろんです」と頷き、こう答えた。
「事件が起きたのは、八年前の二月。当時、陽太郎は新宿区内に行き付けの居酒屋があって、そこでアルバイトをしていたのが被害者の女性、小山内詩乃さん、当時十九歳です。陽太郎はたびたび詩乃さんを、『遊びに行こう』『連絡先を教えて』と口説いていましたが、詩乃さんは受け流していたそうです。でも事件当日の午後十一時、陽太郎はバイトを終えて帰宅する小山内さんを尾行し、刃物で脅した上、人気のない公園に連れ込んで乱暴した疑いがかけられています。陽太郎は容疑を否認し、『その晩は、前に服役した時に知り合った男の部屋で酒を飲み、泊まった』と証言。当時、江島さんは新宿区内の別の場所にあるアパートで暮らしていて、陽太郎の証言は事実だと認めました」
「証言の裏は?」
「アパートの隣人が、事件当日の午後六時頃、陽太郎が江島さんの部屋に入るのを見ています。その後、江島さんの部屋では酒盛りをするような気配があり、隣人は『朝方まで続いて、うるさかった』とも話していたとか。でもアパートに防犯カメラは設置されておらず、近隣のものを解析しても陽太郎の姿は確認できなかったそうです」
「怪しいな。江島さんの部屋には、他にも人がいたんじゃねえか? 陽太郎は途中でアパートを出て、犯行に及んだんだ」
 眼差しを鋭くし、枠の中の諸富が言った。「ですね」「同感です」と糸居と時生が頷き、剛田は問うた。
「南雲さんの意見は? 黙ってないで何か言って下さいよ」
 すると南雲は顔を上げ、「ごめんごめん。僕もみんなに賛成」と笑った。
「さっきから気になってたんですけど、どこにいるんですか? そこは南雲さんの家?」
 続けて問い、剛田は首を突き出した。つられて、時生たちも液晶ディスプレイの中の南雲に注目する。南雲もどこかの部屋にいるらしいが、背後に見える壁は真紅で、そのあちこちに絵画が収められた金色の額縁が飾られている。
「いや、バーチャル背景だよ。これはフィレンツェのウフィツィ美術館にある八角形の部屋、『トリブーナ』」
「なんだ。南雲さんならそういう部屋に住んでそうだし、むしろ住んでて欲しかったなあ」
 いかにも残念そうに、剛田が返す。そう言う彼の背景もバーチャルで、青い海の中にたくさんのクラゲが漂っている。
「期待に添えなくてごめんね。ちなみにウフィツィ美術館には、レオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』、ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』『プリマヴェーラ』など、数々の名画が─」
「話のついでに訊きますけど、何を描いてるんですか? 最近しょっちゅう、鉛筆でスケッチしてるでしょ」
 南雲の話を遮るようにして訊ねたのは、糸居。「なあ、小暮」と話を振られ、時生は「うん」とだけ応えた。
「よくぞ聞いてくれました……でもこれ、スケッチじゃないよ」
 そう答え、南雲は手を伸ばしてスケッチブックを取り、開かれたページを時生たちの方に向けた。横向きにされたページには、中央上に大きな円、その右斜め下と左斜め下に、やや小さめの円が鉛筆で描かれていた。フリーハンドで描いたらしいが、どの円も歪みがなく、時生は心の中で「さすが藝大卒」と感心してしまう。と、南雲は語りだした。
「僕は今回の事件は、ビジュアルリテラシーを使えば真犯人に辿り着けると思うんだ。ビジュアルリテラシーっていうのは、画像や映像を使って考えを伝えたり受け取ったりする技術のことで、平たく言えば絵画の見方─あ、いま『絵画の見方なんてあるの?』と思ったでしょ?」
 顔を上げて目を輝かせ、南雲は訊ねた。時生は「思ってないけど」と心の中で返し、表情からして他の三人も同感のようだ。が、南雲は構わず語り続けた。
「もちろん、絵画は自由に見て構わない。でも、描かれているものの関係性や裏にある構造を知れば、その絵画をなぜ美しい、すごいと感じるのかを言葉として把握、つまり解釈ができるんだ。絵画の見方には複数のアプローチがあって、その一つが『フォーカルポイント』を見つけること。フォーカルポイントとは絵画の顔、画家が一番注目して欲しい箇所になるのかな。で、この図は、江島さんの事件を調べ始めた二日前に描いたもの」
 そこで言葉を切り、南雲はページに描かれた大きな円を指した。
「これは江島さん。今回の事件の主役、つまりフォーカルポイントだね。こっちの小さい円は、井手さんと灯火の会の大濱さん。二人とも犯行動機があるから、円の大きさと、フォーカルポイントとの距離は同じ」
「なるほど。井手さんと大濱さんの疑わしさは、同じぐらいってことですね」
 剛田が言い、「はい」と糸居が挙手した。
「大濱元行には、動機と同時にアリバイもありますよ。江島さんの事件当夜は、講演会で三島にいたと、同じ会の葛西美津さんが話していたでしょう」
「でも、身内の証言だよ。大濱は何らかの方法で江島さんの仮釈放を知り、母親の復讐のために殺害し、井手さんに罪を着せようとしたのかも。大濱は井手さんを逆恨みしていたから、動機もある。で、彼に同情した葛西さんや灯火の会の仲間が、アリバイ工作に手を貸したとか」
 反射的に時生も口を開く。すると南雲は「賛成。さすが小暮くん」と返し、カメラ目線で微笑んだ。どう返そうか時生が戸惑っていると、南雲は視線を図に戻した。
「てな訳で、井手さんと大濱さんの疑わしさは同じぐらい。だから図としてもシンメトリー、つまり左右対称になってる。この構図は美術用語ではフォーマル・バランスと言って、風格と安定感があるから、宗教画に多く見られるね。でも、その安定感がマイナスに働く場合もあって。たとえば……ちょっと待って」
 そう断るなり、南雲は席を立って枠の中から消えた。ほどなくして戻り席に着くと、両手で画集らしき本のページを開いて見せた。そこには面長で、ウェーブのかかった長い髪を肩に垂らした外国人の男の姿を描いた絵があった。
「ルネサンス期のドイツの画家であり版画家であり、数学者でもあった、アルブレヒト・デューラーの自画像だよ。正面を向いた顔が真ん中に描かれた見事なフォーマル・バランスだけど、なんか格式張った印象じゃない?」
「確かに。収まりが良すぎるのかな。いかにも偉い人って感じで、面白みがないですね」
 剛田が答え、言われてみれば、という感じで諸富と糸居、時生も頷く。「でしょ?」と南雲も満足げに頷いた。
「そうなると、この図も同じだよね。井手さんか大濱さんが犯人だという読みは、安定路線でいかにも。つまり、美しくない……ついでに見て欲しいんだけど、これもアルブレヒト・デューラーによる自画像。配置が変わると、印象も変わらない?」
 また問いかけ、南雲は画集のページを捲った。そこにも絵があり、描かれているのは一枚目と同じ男。しかし顔と体の向きは正面ではなく、右斜めだ。一枚目より色使いが明るく、身につけているものが違うということを差し引いても、開放感があって活き活きとした印象だ。時生は絵に見入り、剛田も「本当だ。すごいな」と呟いた。しかし糸居は南雲の蘊蓄に飽きたのか、ため息交じりに訊ねた。
「で、真犯人には辿り着けたんですか?」
「いや、まだだよ。でも、新しい図はできた。見たい?」
「いえ、全然」
 糸居は即答したが、南雲はすごい速さで画集を閉じ、スケッチブックを取ってページを捲った。勝手に目が動き、時生は南雲が開いたページを見た。そこには鉛筆で図が描かれていたが、さっきのものより大きく、複雑だ。
 ページの上にアルファベットの「V」を逆さまにしたような長い斜線が引かれ、その下に、同じく逆V字型の短い斜線が上下に複数引かれている。会議などでよく見るフローチャートのようだが、一番上の逆V字の頂部に縦線が引かれ、それがページの上端まで伸びているので、ぶら下げられたモビールのようにも見える。
 一番上の逆V字の、向かって左側の斜線の先には大きめの円が描かれ、中に「江島」と記されている。一方、向かって右側に並ぶ逆V字は左右二つのグループに分かれ、左側にあるグループの斜線の下には小さな円が描かれ、それぞれ中に「井手」「大濱」「小山内」と記されていた。そして向かって右側のグループにある斜線の先にも小さな円があり、「安沢(陽太郎)」「山室」「葛西」「鴨志田」と書かれていた。
「関係者が増えたから、グループ分けしたんだ。被害者の江島さんがフォーカルポイントなのは変わらず。それと対になるグループにいるのが井手さん、大濱さん、小山内詩乃さん」
 図に描かれた円を一つずつ指し、南雲は解説を始めた。と、「はい」と挙手して諸富が訊ねた。
「井手さんと大濱さんが同じグループというのは、どちらも江島さんを殺害する動機があるからというのはわかるんですが、小山内さんは?」
 すると南雲は「なんとなく?」と半疑問形で答え、こう続けた。
「安沢陽太郎さんが起こした事件を通じてだけど、江島さんとも関係してるから」
「なるほど」
 諸富は返し、考え込むような顔をした。南雲が説明を続ける。
「で、小山内さんたちの隣のグループは、それ以外の関係者。でも、安沢求の秘書の山室さんや、灯火の会の葛西さん、宝屋の鴨志田さんは江島さんと繋がりがないか、あっても殺す動機はなさそうだよね。陽太郎さんをこっちに入れたのは、江島さんが死ぬと一番困るのは彼だし、事件が起きた時は警察の拘置所にいたはずだから」
 剛田と時生は説明をふんふんと聞き、諸富はまだ考え込むような顔をしている。「いいですか?」と今度は糸居が挙手し、眉をひそめて問うた。
「わかりやすい図で状況は整理できましたけど、絵の見方と関係あるんですか?」
「と、思うでしょ?」
 嬉しそうに問い返し、南雲はスケッチブックを持ち上げてページを捲った。そして一枚の紙を取り出し、「ど~ん!」と言って時生たちに見せた。
 こちらは絵のコピーで、手前に緩やかなカーブを描く、低い木の柵で囲まれたステージのようなものがあり、その奥に階段状に並んだ観覧席が描かれている。ステージの向かって左側には、手術着のようなものを着た外国人の男が、柵に寄りかかるようにして立っている。一方、ステージの右側にはベッドらしきものが置かれ、上半身裸の女が横たわっている。そしてその女を取り囲むように、手術着らしきものを着た外国人の男が三人と、頭にナースキャップをかぶった女が一人立っている。さらに階段状の観覧席には、身なりのいい男たちがぎっしりと座り、ベッドの上の女と、それを囲む四人を凝視している。
 時生が絵に見入っていると、南雲が言った。
「アメリカ近代美術の父、トマス・エイキンズの『アグニュー・クリニック』。外科学の博士が、円形劇場で乳がんの手術をしているところを描いた絵だよ。左側の男性は外科学の博士で、右側はたぶん医師や看護師だろうね。この絵のフォーカルポイントは博士で、右側の四人は背の高さや立ち位置を変えて、博士とバランスを取っているのがわかる……この構図、何かに似てない?」
「左にフォーカルポイント、右に複数の人……南雲さんの新しい図かな」
 呟くように剛田が言い、時生は頷いた。人数は違うが、この絵も人物を円に変え、それぞれを逆V字の斜線で結ぶと、モビールのような形になりそうだ。「剛田くん、ナイス!」と絵のコピーを置いて拍手し、南雲はまた語った。
「今日までの捜査で、この絵画が浮かんだんだ。明日以降も、同じように状況を絵画になぞらえ、描かれたものの配置と造形をヒントに推測すれば、そのうち画面のどこかに隠れた真相と真犯人が」
「そのうちじゃダメなんですよ。明日にでも真相を突き止めないと、井手さんが犯人にされてしまいます」
 苛立ちも露わに、糸居が訴える。南雲はきょとんとし、しばらく黙っていた諸富が口を開いた。
「落ち着け。これが南雲さんのやり方なんだ。だが、時間がないのは確かだな……南雲さん。さっきの図を見ていて気づきましたが、井手さんと大濱さん同様、小山内詩乃さんにも犯行動機がありますよ。彼女にとって江島さんは、自分を乱暴した男の証人で、その証言次第では、自分への犯行に関して陽太郎が無罪になる可能性が高い」
「あっそう。よくわからないけど、僕の『なんとなく』はすごいって話?」
 目を輝かせ、南雲は問うたが、それを無視して時生は言った。
「確かに諸富さんの言う通りですね。小山内さんからも、話を聞く必要がある。明日、僕らが行きますよ……南雲さん、いいですね?」
 同じような問いかけは何度もしてきたのに、緊張を覚えた。すると南雲は朗らかに「了解」と返し、時生はそっと息をついた。

14

 翌朝、午前九時前。時生はスーツではなく、シャツにチノパン姿で自宅を出た。「急に発熱して医者に行く」という体でマスクをし、咳き込むふりなどもしながら通りを進み、かかりつけの医院の前まで行った。周囲を確認すると尾行は付いていないようなので、そのまま医院を通り過ぎ、駅に向かった。
 目指す家は、新宿区の矢来町にあった。待ち合わせ場所である大通り沿いのコンビニに行くと、南雲は既に来ていた。いつもの黒い三つ揃い姿で、出入口の脇にあるイートインスペースの椅子に座って何か食べている。時生は「おはようございます」と挨拶し、歩み寄った。
「おはよう。小暮くんも何か食べたら? いまコンビニは秋のスイーツの新発売ラッシュで、追いかけるのが大変なんだよ」
 ハイテンションで告げ、南雲は手にしたものを掲げて見せた。たい焼きで、イートインスペースのカウンターに置かれた包装紙には、「濃厚ねっちり焼き芋あん入り」と書かれている。外は秋晴れで、ここに来る途中に通りかかった家の庭ではコスモスが満開だった。
「何を呑気に。お互い、自宅待機中の身なんですよ……行きましょう。口の端に焼き芋あんが付いてるので、拭いて下さい」
 小声で告げ、時生は出入口に向かった。後ろで「えっ。ウソ」と騒ぎつつ、南雲が立ち上がる気配があった。よし、普通に話せた。安堵しながら、時生は南雲とコンビニを出た。
 昨夜、作戦会議が終わってから、そして今朝もここに来るまで、時生は白石から聞いた話について考えた。南雲が過去に何らかの事件に関わったという予想は付いていたが、女性絡みだとは思わなかった。「亡くなった女子学生は、南雲さんの恋人だったのか?」「なら、その死の原因をつくったというのは?」等々の疑問が湧き、しかし自分が知っている南雲と結びつかず、混乱しただけだった。もちろん、その南雲が絵筆を取らなくなったというショックがどんなものかは、想像も付かない。
 南雲が歩きながらたい焼きを食べ終えて間もなく、目的地である小山内家に着いた。門の向こうは駐車場で、その脇に小さな庭がある。時生が門柱のインターフォンのボタンを押そうとした矢先、二階屋の庭に面した掃き出し窓が開いた。出て来たのは小柄な年配の女性で、庭に下りてサンダルを履いた。女性は外壁に立てかけてあったデッキブラシを取り、駐車場に来た。駐車場は二台分のスペースがあり、奥には白いコンパクトカーが停まっているが、手前は空いていた。女性はその空いているスペースに立ち、デッキブラシでコンクリートの地面をこすりだした。見れば地面には、最近付いたものと思しき黒いタイヤ痕がある。首を突き出し、時生は声をかけた。
「おはようございます。警察の者ですが、小山内詩乃さんのお母様ですか?」
 昨夜、会議のあと、剛田が小山内詩乃の資料をメールしてくれた。それには詩乃の写真も添付されており、地味だが品のいい顔立ちが女性と似ている。女性は驚いた様子で「はい」と答え、時生はさらに訊ねた。
「突然申し訳ありません。詩乃さんにお話を伺いたいのですが、今どちらに?」
 しかし返事はなく、女性は視線をさまよわせた。時生が怪訝に思っていると、掃き出し窓の奥から、
「お母さん。どうかした?」
 と声がして、足音が近づいて来た。続けて掃き出し窓から顔を覗かせたのは、メタルフレームのメガネをかけた女性。
「葛西さん?」
 時生は驚き、南雲は「どうも」と手を振る。葛西美津はメガネの奥の目を見開き、問い返した。
「えっ、刑事さん? どうして?」
「捜査でちょっと。葛西さんこそ、どうしてこちらに?」
「ここは私の実家です。詩乃の件でいらしたんですか? なら、私の妹です」
 早口で答え、葛西も庭に下りて時生たちに歩み寄って来た。だから灯火の会でボランティアをしているのかと納得し、時生も答える。
「それは失礼しました。妹さんにお話を伺いたいことがあって、参りました」
「でも、さっきも楠町西署の刑事さんが……立ち話もなんなので、どうぞ」
 後半は近隣の家を気にするように告げ、葛西は二階屋の脇にある玄関を指した。すると詩乃の母親も「どうぞ。いまドアを開けます」と言い、葛西と一緒に掃き出し窓から室内に戻った。時生と南雲は門を開けて駐車場を抜け、玄関に向かった。
 葛西の案内で玄関から廊下を進み、奥のリビングに入った。掃き出し窓の前に置かれたソファセットに時生と南雲が並んで座り、ローテーブルを挟んだ向かいの床の上に、葛西が座布団を敷いて座った。母親がリビングの手前のキッチンでお茶を淹れている間に、時生は葛西がここにいる訳を聞いた。それによると結婚しているので苗字は違うが、葛西は詩乃の五つ上の姉で、車で二十分ほどの場所にあるマンションに住んでいるという。職業はフリーのデザイナーで、実家の自分の部屋を仕事場にしているそうだ。間もなく、母親がキッチンから出て来て時生たちに湯飲み茶碗に入った緑茶を出し、葛西の隣に座った。時生が質問を始めようとした時、葛西が言った。
「さっき来た刑事さんにも言いましたけど、妹はこの家にはいません。どこにいるかは……私たちが知りたいぐらいです」
「と言うと?」
「行方不明なんです。八年前の事件の後、妹は心のバランスを崩して入退院を繰り返していました。でも二年かけて何とか落ち着いて、沖縄の親戚の家で暮らしながら先のことを考えよう、という話になったんです。でも沖縄に発つ前日、妹は『ごめんなさい』というメモを残していなくなりました。すぐに警察に報せて私たちも必死に捜したけど、見つからなくて。もちろん、今も捜していますし、無事を信じています……でも、警察の人には『自分で行方をくらましたのなら、見つけるのは難しい』『失踪の原因が暴行事件とは限らない』と言われました」
 最後のワンフレーズは暗い顔になって言い、葛西は俯いた。母親も涙ぐんでいる。気を遣ったのか、南雲は緑茶を一口飲んで言った。
「おいしい。苦みと旨みのバランスがベストです」
 すると母親は指先で涙を拭い、「よかった」と微笑んだ。時生は話を続けた。
「そうでしたか。八年前の事件当時、安沢陽太郎は主張が認められて容疑者から外されたと聞いています。しかし昨年の三月に別件で逮捕され、詩乃さんへの犯行も含めた複数の罪で起訴されました。まだ裁判中ですが、陽太郎が有罪になる可能性は高いです」
「幸か不幸か、妹さんの事件のアリバイを証言する人もいなくなっちゃったしね」
 湯飲み茶碗をローテーブルの茶托に戻しながら、南雲がしれっと付け足した。葛西が顔を上げ、時生は慌てて「何を言ってるんですか」と囁いて南雲の腕を突いた。「そうですね」と細い声で返し、葛西はこう続けた。
「警察は、私を疑っているんでしょう? 確かに安沢は許せないし、有罪どころか地獄に落ちて欲しいぐらいだけど……でも、私はやっていません。二日前に楠町西署でお目にかかった時、江島という人が亡くなった晩、私は大濱さんや灯火の会のメンバーたちと、講演会で三島にいたと言いましたよね?」
 そして「これを見て下さい」と告げ、身につけたスカートのポケットからスマホを出して操作し、差し出した。時生がスマホを受け取り、南雲も脇から覗く。
 スマホの画面には、写真と文字が表示されている。静岡県の地方紙のデジタル版らしく、写真には十人ほどの男女が並んで写っていて、葛西と大濱の姿もあった。地方紙の編集部が講演会の会場を訪れ、灯火の会の活動を取材したようで、記事の日付は江島の事件の翌日だ。裏を取る必要はあるが、アリバイは完璧だな。心の中でそう呟き、時生は礼を言ってスマホを葛西に返した。
 その後しばらくして、時生たちは腰を上げた。詩乃の部屋を見たいと乞うたが、葛西に「先に来た刑事さんたちに見せたし、これ以上部屋を荒らされたくない」と断られた。
 時生たちが玄関を出ると、母親が見送りに付いて来た。
「失礼なことを言って、申し訳ありません。美津は詩乃をすごく可愛がっていたから」
 駐車場の途中で足を止め、母親は言った。前を歩いていた時生も立ち止まり、返す。
「気になさらないで下さい。お気持ちはごもっともです」
「おいしいお茶が飲めただけで十分。甘い物を食べた後だから、なおさらです」
 門の前に立って振り向き、南雲が微笑みかける。
「そうですか……亡くなった主人は、『詩乃はもう生きていないだろう』と言っていました。でも、私は諦めきれなくて。あの子は知り合いがいない場所で、やり直したかったんじゃないでしょうか。家族の近くだと、どうしても事件を思い出しちゃうでしょ?」
 そう語り、母親は俯いた。サンダルを履いた足は、地面のタイヤ痕をこすっている。娘を持つ身として痛いほど気持ちがわかり、時生は返す言葉が見つからなかった。それでもせめて、「タイヤの痕は重曹を溶かした水をスプレーしてこすると、落ちますよ」と伝えようとして、あることに気づいた。
 タイヤ痕は長さ四十センチ、幅二十五センチほどの帯状のもので、黒い地の上にタイヤに刻まれた模様、通称・トレッドパターンが見て取れる。トレッドパターンは縦四列に分かれており、端から、縦横の直線を組み合わせた切れ込み、太いくさび状の切れ込み、細いくさび状の切れ込み、丸い穴という順に並んでいた。それを指し、時生は言った。
「これはミニバン用のタイヤの痕ですね。ご家族の愛車ですか?」
「ええ、娘のです。買ったばかりだったのに、先月売っちゃいました。大きすぎて車庫入れにも手間取っていたから、安心しましたけど」
「そうですか」と返しながら時生が引っかかるものを覚えた矢先、
「何をしているんですか?」
 と問いかけられた。ぎょっとして、時生は後ろを振り向いた。小山内家の門の向こうに、ライトグレーのスーツを着た村崎舞花が立っていた。

15

 楠町西署に着くまで、南雲士郎は口を利かなかった。セダンを運転する村崎とは、後部座席の隣に座った時生が話していたのと、スケッチブックに新たな図を描くのに忙しかったからだ。
 村崎は署の駐車場にセダンを停め、時生と一緒に降りた。南雲も従い、図を描き続けながら二人の後に付いて行った。署の建物に入って階段を上がり、気がつくと二階の刑事課の小会議室にいた。
「車の中では聞いていなかったと思うので、もう一度言います。私も他の捜査員と朝一番で小山内家を訪ねて聴取しました。江島さんは、安沢陽太郎が過去に犯したとされる、暴行事件の証人だったと判明したからです。聴取のあと一人で小山内家の近くに残ったのは、あなた方が性懲りもなく捜査を続けているのではと思ったから。『そんなことはない』『きっと誰も現れない』という祈りも虚しく、このような結果となりました」
 小会議室のドアの前に立ち、村崎は言った。態度は冷静だが、「性懲りもなく」「祈りも虚しく」といった言葉に内心の怒りが滲んでいる。村崎の向かいに立ってスケッチブックを閉じ、南雲は返した。
「聞き分けの悪い部下を持つと、苦労しますね。かのレオナルド・ダ・ヴィンチも、十歳で弟子になったジャコモという少年には手を焼いたようです。何しろ、ジャコモについて『泥棒、ウソつき、強情、大食らい』と書き残しているほどだから」
 心からの慰めのつもりだったが村崎は絶句し、隣に立つ時生には「状況をわかってます?」と囁かれた。と、胸の前で腕を組み、村崎が応えた。
「そのジャコモという弟子、泥棒という要素を除けば南雲さんにそっくりですね。ダ・ヴィンチの心中を察して余りあります……指示があるまでここにいて下さい。これから署長も出席の上で、今回の事態について話し合います。ドアは施錠しませんが、見張りを付けますので。もう騙されませんよ」
 最後のワンフレーズはきっぱりと言い渡し、村崎はドアに向かった。その背中を時生は、「申し訳ありませんでした」と頭を下げて見送り、南雲は「お疲れ様」と手を振った。
「どうしよう。下手すれば懲戒免職だ。波瑠は来年中三だし、他の子どもたちもこれからお金が─いや。まずは諸富さんたちに連絡だ」
 村崎が出て行くなり騒ぎだし、時生はスマホを取った。手近な椅子に歩み寄り、南雲は言った。
「やめといた方がいいんじゃない? 小山内家に行ったのは僕ら二人の独断ってことにすれば、その分、みんなの罪は軽くなる……まあ、先のことを考えても仕方ないし、やるべきことをやろうよ」
 そう続けて椅子に座り、机上にスケッチブックを広げて図の作成を再開した。時生も隣の席に着いたが、切羽詰まった顔でまた何か言おうとする。面倒臭くなり、南雲は手を動かしながら訊ねた。
「小暮くん。さっき小山内さんの家で、何かに気づいたでしょ? 帰り際、詩乃さんのお母さんと、タイヤの痕がどうのって話してたよね」
 すると時生はいつもの様子に戻り、「そうなんですよ」と話しだした。
「僕は交通課にいたことがあるので、タイヤには詳しいんです。小山内家の駐車場のタイヤ痕はミニバン用ってだけじゃなく、大手メーカーの一本三万円近くする高級品です。それなら車も高級だろうし、身なりや部屋の様子からして、美津と母親がお金に困っている様子はなかった。ではなぜ、美津は愛車を売ったのか? 母親が言うように大きすぎたのかもしれないけど、車を売ったのが先月というのも気になります」
「あっそう」
 素っ気なく返した南雲だが、話はちゃんと聞いている。ジャケットのポケットを探り、いつも持ち手の部分が青い鉛筆と一緒に入れている消しゴムを出した。消しゴムで図の一部を消し、いま聞いた情報を反映させて描き直す。その後も南雲は図の作成に集中し、時生は時生で何か考え込んでいる様子だった。
 そして一時間後、南雲は机に鉛筆を置いた。顔を上げて息をつくと、時生が問うた。
「完成ですか?」
「うん。でもダメだね」
 南雲がそう返すと、時生は机上のスケッチブックを覗いた。開かれたページには、昨日とは配置が違うが逆V字型の線と円、事件関係者の名前を組み合わせた図が描かれている。
「よくできてると思いますけどねえ。事件関係者に漏れはないし、グループ分けには捜査状況を反映させたんでしょう? これと一致する構図の絵がないとか?」
「情報に漏れはないし、同じ構図の絵画はあるよ。でも、どれもしっくりこないというか、インスピレーションが湧かないというか。つまり、美しくない」
「行き詰まったってことですか。波瑠の事件を捜査した時、僕も似たような状態で悩みました。そうしたら南雲さんが、『発想の転換が必要だね』『視点や位置づけを変えるとか』と言ってくれたんですよ」
「そうだっけ? まあ、その通りではあるんだけど」
 南雲は言い、改めて図を眺めた。しかし視点や事件関係者の並び順を変えてみても、美しいとは思えなかった。気配を察知したのか、また時生が言う。
「南雲さんの図を見るのはこれで三枚目ですけど、どれも一番目立つ円、フォーカルポイントでしたっけ? それは江島さんなんですね」
「そりゃそうだよ。江島さんが殺されたところから、事件が始まったんだから。この図の主役は、江島さんに決まってる」
 断言はしたものの、違和感を覚えた。なんでだろう。この図の顔で事件の主役は、江島克治で間違いないのに。そう考えた直後、南雲の頭に一枚の絵が浮かんだ。
 そこは天井が高く、両脇に大きな石柱が並んだ部屋だ。その手前に内側に緩やかなカーブを描く上下三段の白い石の観覧席があり、三十人ほどの外国人の男が座っている。全員素肌に赤いマントのようなものをまとい、胸や肩を露わにしている者もいた。
 そして男たちの視線の先には、一人の女。観覧席の手前の床には、左側から白い石の台が花道状にせり出していて、女はその手前に立っている。足にサンダルのようなものを履き、首にネックレス、左手首にブレスレットを付けているが服は着ていない。女は男たちの視線を避けるように横を向き、顔の前に右腕を上げ、その手の先を左手で握っている。
 さらに、女の左側には青いマント姿の屈強な男が立ち、水色の布のようなものを両手で右側に引いている。加えて、花道の先端には台のようなものが置かれ、その上に金色の人物像が載っていた。人物像もマントを着て古代ヨーロッパ風の鶏冠のついた兜をかぶり、右手で槍を持ち、左手は肘を曲げて顔の脇に上げている。
「そうか。フリュネか」
 思わずそう呟くと、時生が「はい?」と訊ねた。南雲はジャケットのポケットを探り、スマホを出して頭に浮かんだ絵を検索し、画面に表示させた。
「十九世紀のフランスの画家、ジャン=レオン・ジェロームによる『アレオパゴス会議のフリュネ』。古代ギリシャのヘタイラ、今で言う娼婦のフリュネが、神を冒涜したと裁判にかけられた様子を描いたものだよ。青いマントの男は、フリュネの弁護人のヒュペレイデス。フリュネの服を剥ぎ取って、『この美しさを罪に問えるのか』と訴えたんだ。効果はてきめんで、赤いマントの裁判官たちは無罪判決を─解説は省くとして、この絵画のフォーカルポイントは何だと思う?」
 南雲は問いかけ、スマホを隣に差し出した。受け取った時生は絵を眺め、答えた。
「そりゃ、フリュネでしょう。唯一の女性で裸だからっていうのもあるけど、体が真っ白で発光してるみたいだし、他の登場人物も全員彼女を見てるから」
 予想した答えだったので、南雲は「正解」と頷き、こう続けた。
「でも、フリュネはこの絵の準主役だよ」
「準? じゃあ、本当の主役は別ってことですか?」
「うん。一見するとフリュネに目が行くように描かれているけど、画家が本当に注目して欲しいものは別だよ。つまり、この絵画にはフォーカルポイントが二つあるんだ」
「じゃあ、もう一つのフォーカルポイントって? ペレなんとかいう弁護人?」
「ヒュペレイデスね……残念。もう一つのフォーカルポイントで、この絵画の主役は台の上の人物像だよ」
 南雲は告げ、人物像を指した。時生は「え~っ!?」と、驚きとも抗議ともつかない声を上げ、人物像に見入った。これまた予想通りだったので笑い、南雲は解説した。
「絵画には、一点透視図法といって、描かれた要素のすべてが消失点というポイントに集約するように描く手法があるんだ。この絵でもそれが用いられていて、消失点は人物像だよ。それに、フリュネと人物像は、左腕を肘を曲げて上げるというポーズが同じ。加えて、フリュネの左肘の先は人物像を指してるよね」
「言われてみればですけど、そんな気がします。南雲さんは、今回の事件をこの絵になぞらえたんですか? なら江島さんは準主役で、他に主役がいるってことですよね?」
 スマホを机に置き、時生が身を乗り出した。頷き、南雲は笑った。
「さすがは小暮くん。懲戒処分確定でも、頭は冴えてるね」
「懲戒処分確定は、南雲さんも同じですよ……ひょっとして、その主役が犯人? なら事件は解決で、僕らの今後にも望みが」
「そこなんだよねえ」と返し、南雲は時生からスマホを受け取って画面を見た。
 今回の事件をこの絵画になぞらえるなら、フリュネは江島さん。そして人物像は……頭を巡らせ、南雲は絵の中の人物像を凝視した。と、引っかかるものを覚え、指先で人物像をクローズアップした。
 周りに描かれているものから察するに、高さ四十センチほど。配置やポーズの妙はもちろん、金の色使いの鮮やかさと神々しさは別格。でも、何がこんなに引っかかるんだろう。そう言えば、最近、これに似た金色をどこかで─。
 次の瞬間、南雲の頭の中に江島の事件の捜査で会った人たちと得た情報が、フラッシュバックされた。続けてある閃きがあって衝撃が走り、頭の中が真っ白になる。やがてそこに偉大なる芸術家、レオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチにある空飛ぶ機械、通称「空気スクリュー」がCGイラスト化されたものが現れた。空気スクリューは南雲の頭の中を悠然と横切り、どこかに飛び去った。
「美しい。絵画も僕の推理も、見事としか言いようがない」
 そう呟き、南雲は目を開けた。「自慢?」という時生の突っ込みを聞きつつ、スケッチブックと鉛筆を掴んで立ち上がる。「どこに行くんですか?」と問う時生には答えず、ドアに向かった。
 ドアを開けて廊下を覗くと、案の定、ドアの脇に制服姿の若い警察官が立っていた。
「悪いんだけど、村崎課長を呼んでもらえる?」
 そう問いかけると、警察官は「できません」と即答した。南雲は、
「じゃ、自分で行くよ」
 と返し、廊下を歩きだした。「待って下さい」と警察官が続き、時生も付いて来る気配がある。南雲はテンションが上がり、背筋がぞくぞくするのを感じた。

16

 この状況は、ピンチなのかチャンスなのか。戸惑いながら、時生は南雲の後を追った。南雲を引き留めようとする警察官は時生がなだめ、三人で廊下を進んで角を曲がった。と、長い廊下の奥から、こちらに向かって歩いて来る一団がいた。先頭は、村崎と刑事係長の藤野尚志。そしてその後ろに、同僚である刑事に両脇を挟まれた井手義春の顔が見えた。
「ラッキー。みなさん、お揃いで」
 明るく手を振り、南雲は一団に駆け寄った。警察官と時生も続くと、一団は止まった。真っ先に、眉を吊り上げた藤野が何か言おうとした。それを顔の脇に片手を上げるというポーズで制し、村崎が言った。
「指示があるまで会議室にいるようにと言ったはずですが……話し合いの結果、井手巡査部長からもいきさつを聞くことになりました」
 そうだったのか。時生は納得し、井手を見た。この廊下には、刑事課の取調室がある。すると、井手も時生を見た。無精ヒゲは剃り、身につけた濃紺のスウェットスーツも新品だが、頬はこけ、ぎょろりとした目も充血している。胸が痛んで今の状況に申し訳なさも覚え、時生は頭を下げた。井手は時生を見たまま、「違う。悪いのは俺だ」と言うように眉根を寄せて首を横に振る。
「あっそう。実は、今回の事件の真犯人がわかっちゃったんですよ」
 あっけらかんと、南雲は返した。時生と藤野、他の刑事たち、さらに井手も驚き、その顔を見る。一人表情を変えず、村崎は訊ねた。
「そうですか。真犯人とは?」
「今は言えません。僕は事件の捜査や推理はすごくクリエイティブで、創作活動に近いと考えているんですよ。だとすると、僕は創作の過程を公にしない主義で」
 お約束の屁理屈が始まったので、時生は口を開いた。
「村崎課長に用があって来たんでしょう?」
「真犯人はわかったんだけど、証拠がない。手を貸してくれませんか? そうすれば、事件は解決です」
 時生ではなく村崎に向かい、南雲は答えた。村崎は即、「手を貸すとは?」と問い返し、南雲も即答した。
「井手さんを釈放して下さい」
「バカを言うな!」
 藤野が怒鳴る。その声に驚き、廊下を通りかかった署員がこちらを振り向いた。素早く頭を巡らせ、時生は訴えた。
「言うこともやることも無茶苦茶ですが、南雲さんは結果を出しています。責任は僕らが取るので、もう一度だけチャンスをいただけませんか?」
「小暮さん、そして南雲さん。力に抗うことが正義だと思っていませんか? 正義とは、ルールに定められたものです。そのルールを守ることは、警察官の職務です」
 時生と南雲を交互に見て、村崎は告げた。しかし、その冷静かつ高圧的な口調が、時生の対抗心を煽った。村崎の目を見返し、言う。
「おっしゃる通りです。でも間違ってはいても、僕らは正義に命をかけています。それが現場のデカで、そのことを僕と諸富さん、糸居くん、剛田くん、たぶん南雲さんにも、教えてくれたのは井手さんです。お願いします。僕らにチャンスを下さい」
 そして、最後に深く頭を下げた。半分ヤケクソだったが胸が高揚し、熱くなった。その直後、前方で、
「お願いします! 小暮たちと僕を信じて下さい」
 と、井手も言い、頭を下げる気配があった。時生の胸はさらに熱くなる。
「ふざけるな! 課長を愚弄するようなことをしておいて、今さら何の真似だ」
 興奮し、藤野がまた怒鳴った。正論中の正論で、時生は応えられない。焦りが湧き、とっさに頭を上げると村崎は言った。
「わかりました。ただし、釈放ではなく捜査の一環。何をするにせよ、私も同行します」
「課長」
 藤野が目を剥き、南雲は「やった」と手を叩く。安堵しながらも驚き、時生は井手と顔を見合わせた。村崎は藤野に「署長は私が説得します」と告げ、井手に向き直った。
「私の父は、みなさんと同じ現場の刑事でした。『警察官がいいのは、正義をまっとうできるところ』が口グセで、ルールに囚われず、市民のために働き続けました。結果、人質を取って立てこもった犯人を丸腰で説得しようとし銃撃され、亡くなりました。その時、私は父とは違うやり方で正義をまっとうしようと決め、国家公務員試験を受けて警察庁に入庁しました」
 突然の、そして思いも寄らない告白に時生は戸惑い、井手も唖然と村崎を見返した。すると村崎は、
「……そんな父に、井手さんは少し似ています」
 と、細く頼りない、初めて聞く声で続け、目を伏せた。井手は何か言いかけたが、村崎はいつもの冷静さを取り戻し、南雲に問うた。
「で、何をする気ですか?」

17

 ゆっくり減速し、セダンは停まった。首を突き出し、助手席の時生はフロントガラス越しに周囲を見た。江島の遺体の発見現場に近い繁華街で、飲食店が立ち並んでいる。
「えっ。なんでここに」
 時生は訊ねようとしたが、運転席の南雲は後部座席を振り向いて微笑んだ。
「到着。井手さん、よろしくね」
「はい」
 とスーツに着替えた井手が頷き、隣の村崎はジャケットのポケットから無線機を出し、マイクに向かって話しだす。
 署の廊下でのやり取りの後、村崎は署長と話すために藤野と他の刑事たち、時生たちを見張っていた警察官も連れて立ち去った。南雲も「作戦会議」と言って井手をどこかに連れて行き、時生も付いて行こうとしたが「小暮くんはダメ」と拒まれた。仕方なく小会議室に戻り、スマホで諸富たちに状況を報告した。そして午後六時前、戻って来た南雲に「行くよ」と告げられ、井手と村崎、さらに別のセダンに乗った他の刑事たちとここに来た。
 無線機をポケットにしまい、村崎は隣に告げた。
「では、後続車に。無線機とマイクを装着します」
「はい」と頷き、井手はセダンのドアに手を伸ばす。振り向いて、時生も言った。
「気をつけて下さい。何かあれば、すぐに対応しますから」
 南雲の作戦がどんなものかはわからないが、時生たちも無線機を持ち、耳にはイヤフォンを挿している。
「おう」
 そう返した井手は、いつもの叩き上げデカの顔に戻っている。時生がほっとした矢先、「ちょっと待って。大事なものを忘れるところだった」と南雲が言い、黒い三つ揃いのジャケットのポケットを探った。そこから取り出したのは、折りたたんだ半透明のゴミ袋。井手はゴミ袋を受け取ってポケットに入れ、セダンを降りた。村崎も続き、二人は後ろのセダンに向かう。と、時生のジャケットのポケットでスマホが振動した。
「諸富さんたちも作戦を見守っていますよ。糸居くんは、『懲戒免職だけは勘弁』だそうです……大丈夫ですよね?」
 スマホの画面に並ぶメッセージを見ていたら不安になり、時生は訊ねた。南雲が返す。
「大丈夫。作戦はちゃんと井手さんに伝えたし、段取りも確認したから」
「どうせ教えてもらえないから詳しくは訊きませんけど、今回は僕らだけじゃなく、諸富さんたちや井手さん、村崎課長の将来もかかってるんですよ」
 すると南雲は、「しつこい。美しくないよ」と顔をしかめた。時生が「だって」と返しかけると南雲は息をつき、こう続けた。
「これ以上面倒なことを言わないって約束するなら、ご褒美をあげる。すごくいいもの……リプロマーダー事件の情報だよ」
 はっとして、時生は隣を見た。南雲の整った横顔を、車内に差し込む明かりが照らしている。立ち並ぶ飲食店は看板に明かりを点し、その前をサラリーマンや学生が行き交っていた。時生は野中琴音の顔を思い出し、白石均から聞いた話も頭をよぎった。騒ぎかけた胸を鎮め、頷いて応える。
「わかりました。でも、約束は二つでお願いします。この作戦が終わったら、僕の質問に答えて欲しいんです。南雲さんに訊きたいことがあります」
「いいよ」
 南雲は即答し、時生を見て笑った。と、時生たちのセダンの脇を井手が通り過ぎた。「作戦開始」と南雲が呟き、時生は頭を切り替え、濃い茶色のジャケットに包まれた井手の背中を見つめた。通りを二十メートルほど進み、井手は一軒の店に入った。居酒屋で、引き戸の前に垂らされた白い暖簾には、黒い墨文字で「宝屋」と記されている。
 作戦の舞台は宝屋か。でも、どうして。疑問は湧いたが、時生は片手で耳のイヤフォンを押さえ、そこから聞こえる音声に集中する。間もなく、村崎が時生たちのセダンに戻って来た。
「よう」
 井手の声が聞こえ、引き戸を閉めるガラガラという音が続いた。それにやや遠く、恐らくカウンターの中から、宝屋の店主・鴨志田晃が応える。
「いらっしゃい─あれ、井手さん。大丈夫なのかい? 何日か前に、小暮さんと南雲さんっていう人が来たよ」
「迷惑かけたな。お陰様で、さっき外に出られた。取りあえず一杯飲みたくて、留置場からここに直行したよ」
「大変だったな。とにかく座りなよ。ビールでいいかい? メシもろくなものを食ってないんだろ?」
 同情するように鴨志田が問いかけ、井手は「ああ。積もる話が山ほどある」と返した。カウンターの椅子を引き、腰かけた様子だ。
「何でも聞くよ……よし、今夜はあんたの貸し切りだ。いま店を開けたところだけど、暖簾をしまうよ。ちょっと待っててくれ」
 鴨志田は「そりゃ悪いよ」と遠慮する井手に「いいから」と返し、カウンターを出る気配があった。続いて引き戸の開く音がして、鴨志田が店の外に顔を出す。時生は頭を低くしながら目をこらし、濃紺の作務衣姿の鴨志田が暖簾を外して店に戻るのを確認した。
 その後、井手は酒を飲み、肴を食べながら、留置場での生活へのグチと、濡れ衣を着せた署の上司への文句を延々と語った。鴨志田はそれをうんうんと聞き、時生は後部座席を気遣ったが、そこに座る村崎は眉一つ動かさず、イヤフォンから流れる音声を聞いている。一方、南雲は井手が飲み食いする度に、「いい飲みっぷりだなあ」「この時期の刺身なら、戻りガツオ? いや、サンマとイワシも……ああ、お腹が減ってきた」等々、呟いていた。
 そして一時間後。井手はテンションは高いが呂律の怪しい、いわゆる「出来上がった」状態になっていた。ビール、焼酎のロックとハイペースで飲んだ結果で、江島の事件が起きた五日前の夜も、こんな流れだったのだろう。
「疑いが晴れて何よりだよ。でも、真犯人は捕まってないんだろ? 心配だな」
 鴨志田が問うた。グラスの焼酎を干す気配があり、井手は答えた。
「大丈夫だ。目星は付いてる」
「えっ。本当かい?」
「ああ。小暮たちに情報をもらって、ブタバコの中で考えたらピンと来た……だが、犯人の事情もわかるから辛くてな。まだ誰にも話せずにいる」
 最後は声を低くして告げ、井手は盛大なげっぷをした。その発言に時生は緊張し、村崎も体をぴくりと動かした。が、南雲は顔をしかめて「げっぷはやめてよ」とぼやいただけ。井手も耳の中に超小型のワイヤレスイヤフォンを装着しているので、こちらの指示を聞くことができる。
「因果な商売だな」と息をついた鴨志田だったが、すぐに声を明るくして言った。
「とにかく飲んでくれ。とっておきの酒を出してやるよ。焼酎とか、いろいろあるんだ」
「嬉しいねえ。今夜はとことん飲むぞ」
 井手は声を張り上げ、鴨志田も威勢よく「待ってな。取って来る」と返す。
 それからも井手は飲み続け、さらに酔って何を話しているのかを聞き取るのも難しくなった。そして、宝屋に入って約二時間後の午後八時過ぎ。時生たちのイヤフォンから、井手のいびきが流れだした。焦りと苛立ちを覚えた時生だが、さっき約束したので、南雲に何も言えない。と、村崎が口を開いた。
「私が署長に頭を下げて井手さんを連れ出したのは、泥酔させるためではなく、事件を解決するためです。状況から察するに、真犯人は鴨志田晃ですか?」
「ないしょ」
 短く、そしていかにも楽しげに南雲は返した。ルームミラーに映った村崎は無表情のままだが、眼差しでイラッとしたのがわかる。慌てて、時生は言った。
「僕もそう思いました。でも課長、鴨志田さんは江島との繋がりがなく、殺人の動機もないはずです」
 すると南雲は、「それはどうかなあ」と笑った。思わず時生が横目で睨むと、南雲は「怖いなあ、もう」と身を引き、こう訊ねた。
「小暮くんは、井手さんとよく飲みに行くんでしょ? 深酒すると、いつもこんな風?」
「ええまあ。飲めば飲むほどハイテンションになるけど、口から出るのはグチと噂話ばっかりで─でも、寝込むのは珍しいな。どんなに酔っても、意識ははっきりしてるのに」
 時生の胸に疑問が湧き、そしてすぐに、少し前に江島の事件が起きた夜もこんな流れだったのだろうと考えたのを思い出した。
 はっとして南雲に向き直ろうとした矢先、イヤフォンから物音が聞こえた。くぐもっていて遠いが、ノックの音。恐らく、誰かが店の裏口のドアをノックしたのだろう。そして数十秒後、鴨志田のサンダルに加え、別の靴音が宝屋の店内に響いた。時生は引き戸を見つめながら耳をそばだて、南雲と村崎も集中したのがわかった。と、鴨志田が言った。
「遅かったじゃねえか。電話したのは、一時間近く前だぞ」
「実家で母の車を借りて来たので」
 そう返したのは、別の靴音の主と思しき人物。
「えっ!?」
 思わず声を上げ、時生は目を見開いた。声の主が誰か気づくのと同時に、なぜという疑問が浮かび、混乱する。南雲はじっと前を見て、イヤフォンの音声に聞き入っている。わずかな間があり、また足音がして声の主が言った。
「それより、大丈夫なんですか? この人、本当に寝てます?」
 その声はより大きく明瞭になったので、井手の近くに移動したのか。ぶっきら棒に、鴨志田が答える。
「大丈夫だよ。ぐっすり寝てるから、当分は起きねえ。で、どうする気だ? 事件の前、井手さんは俺や他の客が仕事のことを聞き出そうとしても、一切話さなかった。それが釈放されると真っ直ぐここに来て、真犯人の目星は付いてると言ったんだ。あれは多分、『お前がしたことは知ってる』って意味だぞ」
「わかってます……店の裏に車を停めたので、この人を乗せましょう。適当な場所に運び、轢けばいい。道路に寝込んだ酔っ払いが車に轢かれて亡くなるのは、珍しくありません」
 声の主は冷ややかに答えた。すると鴨志田は、「冗談じゃねえ!」と声を荒らげた。
「話が違うぞ。俺が請け負ったのは江島の件だけで、あんたが『絶対うまくいく』って言うから」
「事情が変わったんです。お金が欲しくないんですか? 残りの半分は、この人が江島殺しの犯人として逮捕されたら支払うって約束ですよ」
「わかってる。だが、車で轢くなんて無茶だ。証拠が残るし、人に見られたら」
 急に弱気になった鴨志田に苛立ったのか、声の主はこう言い放った。
「なら、ここで始末しましょう。幸い刃物も流し場もあるし、バラバラにして生ゴミに」
「おい!」
 とっさに前方の引き戸に向かい、時生は言った。我慢の限界を超え、隣を見る。と、南雲も時生を見て告げた。
「そろそろ出番かな」
 そしてにっこりと笑い、耳のイヤフォンを外した。

18

 セダンを降り、小走りの時生と村崎、スケッチブックを小脇に悠然と歩く南雲の順に通りを進んだ。無線で村崎の指示を受け、後ろのセダンからも刑事たちが降りる。
 最初に時生が宝屋の前に着き、引き戸を開けた。井手を警戒させないためか、カギはかけられていなかった。引き戸の内側に垂らされた暖簾を跳ね上げ、時生は店に入った。
 まず視界に入ったのは、カウンターの前に立つ黒いジャケットとパンツ姿の女。イヤフォンで聞いていた声の主・葛西美津だ。こちらを向き、メガネの奥の目を見開いている。その隣の椅子には井手が座り、カウンターに突っ伏していびきをかいている。向かいの厨房には、こちらも目を見開いた鴨志田が立っていた。時生に続いて村崎も入店し、南雲も暖簾をくぐる。
「話は聞かせてもらった! ……このフレーズ、一度言ってみたかったんだよね」
 そう告げて呑気に笑い、南雲は時生の隣に立った。うろたえつつ、鴨志田が返した。
「何なんだよ、あんたら。店はもう閉めたぞ」
「動くな。逃げてもムダだぞ。裏口にも、他の刑事がいる」
 時生がそう言い渡すと、鴨志田は後ずさりしかけていた足を止めた。バタバタと足音がして、後ろのセダンに乗っていた刑事が二人、店に飛び込んで来た。一人は刑事係長の藤野で、村崎の後ろに立つ。もう一人の刑事はカウンターの端の扉を開けて厨房に入り、鴨志田の脇に行った。葛西に向かい、南雲が言った。
「今朝はどうも。あのあと確認したけど、あなたは灯火の会の活動に熱心に取り組んでいるそうですね。とくに大濱元行さんと親しくなって、話を聞いて励ましているとか」
 始まったなと時生は思い、村崎と藤野たち、そして鴨志田もこちらに注目する。落ち着きを取り戻し、葛西は「ええ」と応えた。
「一方で、あなたは妹さんを捜し続け、同時に事件の犯人は安沢陽太郎と信じて、その動向を追っていた。そして安沢が逮捕され、妹さんの事件でも起訴されたと知ったけど、安沢は江島克治という証人を楯に、無罪を勝ち取ろうと考えているとも知ったんです。あなたは江島さんについて調べ、大濱さんの母・ハツミさんが殺害された事件と結びつくことも知った。大濱さんは常々あなたに、母親の事件を担当した井手義春という刑事への恨み辛みを語っていたんでしょう? ところが調べてみると、井手はいまだにハツミさんの事件を諦めておらず、最近仮釈放になるとすぐに江島さんにも接触しているとわかった。で、あなたは思った、『江島を殺し、井手の仕業にしてしまおう』と」
 南雲はそう続け、葛西は「待って下さい」と反応した。
「江島という人の事件があった晩、私は三島にいたんです。今朝そうお話しして、証拠も見せましたよね?」
「ええ。忘れっぽい僕でも、さすがにそれは覚えているし、裏も取れました。確かにあなたはウソはついてないし、江島さんを直接殺してはいない……はい、お待たせしました。ここで鴨志田さん、あなたの出番です」
 急に話を振られ、鴨志田はびくりとする。それを見て、南雲はさらに言った。
「先日はごちそうさまでした。あの肉じゃがは絶品で、一口食べたビーフシチューもおいしかった。でも、よく考えたらその二つのメニュー、材料はほぼ同じなんですよね。ジャガイモにタマネギ、ニンジン、牛肉……ね?」
「あの時は、材料を仕入れすぎたんだよ。他の店もやってることだ」
「確かに。じゃあ、割り箸は?」
「割り箸?」と鴨志田が訊き返し、南雲は進み出て、葛西とは反対側の井手の脇に立った。そしてスケッチブックをカウンターに置き、井手の頭の脇に並んだ割り箸と箸袋、小皿を取った。黒い小皿には、井手の食べかけと思しきポテトサラダが載っている。南雲は小皿を一瞥し、「黒薩摩か。美しい」と呟いた後、手にしたものを掲げた。
「器は値打ちもので、箸袋も上質の和紙に、料金の高い金文字の箔押し。なのに割り箸は、百膳で三百円もしない元禄箸。肉じゃがとビーフシチューの件もあわせて、目利きでこだわりも強そうな鴨志田さんらしくない」
 二日前ここに来た時は気づかなかったけど、確かに割り箸はチェーンのラーメン店や牛丼店で使われているものと同じだ。そうよぎり、時生は話に集中した。鴨志田に向かい、南雲はさらに語った。
「理由はお金? この店の経営が行き詰まってるとか? で、それを井手さんとその関係先を調べた葛西さんに嗅ぎつけられ、『江島という男を殺し、井手の仕業に見せかけたらお金を支払う』と持ちかけられたんだ。葛西さんがそのお金をどう工面したかは─小暮くん、答えて」
「えっ!?」
 突然指名され、焦った時生だが、みんなに注目され、必死に頭を働かせた。と、今朝小山内家を訪ねた時に覚えた違和感が蘇った。同時に駐車場に付着した黒々としたタイヤ痕と、葛西の母親の話も思い出す。眼差しを葛西に向け、時生は言った。
「愛車を売ったんですね。お母さんは買ったばかりと言っていたし、いいタイヤを履いた高級ミニバンなら、中古車業者に五百万円以上で売れるはずだ」
「やるね」と南雲は感心したが、葛西は無言。と、村崎が言った。
「今の話が事実なら、さっきこの二人が交わしていた会話の意味もわかります。しかし、具体的にはどうやって?」
 時生の胸にも同じ疑問が湧いていたので、南雲を見つめる。「いま話そうと思ってた」と笑い、南雲はまた語りだした。
「話はまとまり、葛西さんは鴨志田さんから井手さんのお酒の飲み方や、最近は毎晩のように来て江島さんの件で荒れている件などを聞いたんでしょう。それをもとに葛西さんは計画を練り、鴨志田さんに指示した。そして五日前。鴨志田さんは来店した井手さんが酔って寝込むのを待ち、あらかじめ用意してあったナイフを握らせて指紋を付けた。それからここを出て裏道を使って空き地に行き、『お前の秘密を知ってる』とか何とか言って呼び出しておいた江島さんをナイフで刺殺。素早くここに戻り、井手さんを起こして帰らせたんです……以上。質問、異論反論、その他ご意見があればどうぞ」
 お約束の台詞で話をまとめ、南雲は手にしたものをカウンターに戻してスケッチブックを抱えた。「はい!」と時生が挙手し、それに「おい、待てよ」という怒りを含んだ鴨志田の声が続く。南雲は「タッチの差で小暮くん」と指名し、時生は質問を投げかけた。
「井手さんを犯人に仕立てたいきさつと、ナイフの指紋の絡繰りはわかりました。でも、どうやって井手さんを寝込ませたんですか? さっきも言ったように、井手さんはどんなに酔っても意識は明瞭だし、身柄を勾留された時に受けた検査で、薬物などを飲まされていないのはわかっています」
 すると南雲は、「ああ、それね」と頷き、厨房の鴨志田の脇に立つ刑事に告げた。
「悪いけど、その辺を調べてくれる? ワインのボトルがあるはずだよ」
「はい」と応え、刑事は厨房の調理台の下に身をかがめた。ごそごそがちゃがちゃという音がした後、刑事は「ありました」と告げて体を起こし、片腕を上げた。その手には、空になったワインボトルが握られている。
「オー・ボン・クリマの椿ラベル!? 僕のお気に入りを、こんな愚行に?」
 信じられないといった様子で南雲は騒ぎ、時生は「なんでワイン?」と呟く。その直後、頭に一つの記憶が蘇った。五日前、留置場に井手を訪ねた時のやり取りだ。鼓動が速まるのを感じながら、時生は言った。
「思い出した! 井手さんはワインが苦手で、飲むとすぐに眠くなると話していました。鴨志田さんはそれを知っていて、五日前も今夜も、井手さんにワインを飲ませたんだ」
「惜しい! ちょっと違う」
 いかにも残念そうに眉根を寄せて返し、南雲は傍らに語りかけた。
「井手さん、お疲れ様。もういいですよ」
 それを受け、時生と村崎、鴨志田と葛西、その他二人の視線が動く。気づけば、店に響いていたいびきがやんでいる。と、井手がむくりと体を起こし、言った。
「ダ・ヴィンチ殿、遅いですよ。ニセいびきのかきすぎで、喉がガラガラだ」
「えっ!?」
 時生と鴨志田が同時に声を上げ、井手は時生に片手を上げて見せた。そして厨房に向かい、こう続けた。
「カモちゃん、悪いな。一度目は酔っ払っていたこともあって、訳がわからねえまま、あんたに出されたワインを飲んじまったんだろう。だが、俺にもデカの面子ってもんがある。ビールやら焼酎やらは全部飲んだが、ワインは飲むふりでここに捨てさせてもらった」
 そして片手をカウンターの下に伸ばし、脚の間から何かを取り出して持ち上げた。さっき南雲に手渡された、半透明のゴミ袋。その中には、液体らしきものが入っている。
 そうだったのか。時生は心の中で膝を打ち、村崎も「なるほど」と呟く。ゴミ袋を受け取り、「もらっていい? 後で飲みたい」と乞う南雲を無視し、井手はさらに言った。
「カモちゃん、あんまりじゃねえか。そりゃ、金のことじゃ力になれなかったかもしれねえが、なんで俺を」
「ご、誤解だ。江島なんて知らねえし、あんたがワインはダメなのも知らなかった」
 そう訴え、鴨志田は横目で葛西を窺った。みんなの視線も動き、葛西は言った。
「誤解じゃなく、言いがかりです。南雲さんは延々語ってたけど、見聞きしたことを都合よくねじ曲げた思い込み、妄想でしょう? それに、私たちの会話を聞いたところで、何かしたという証拠にはならない」
「そうですね。しかし、あなた方が『何か』をしたのなら、関係者への聞き込みや防犯カメラの映像の解析など、客観的事実と物的証拠をもって明らかにします」
 間髪を入れず、村崎が応戦する。ぐっと押し黙った葛西だが、村崎を見据え捲し立てた。
「それは、私と鴨志田さんが普通の市民だからでしょ。私たちが政治家の家族だったらどう? ロクな捜査もせず、『やってない』『その晩は知り合いの男の部屋で飲んでた』と言えば、鵜呑みにして片付けるのよね」
「詩乃さんの事件に対する、安沢陽太郎の証言のことですか? でしたら、捜査が不十分だった可能性はあります。しかし事件当夜の陽太郎のアリバイについては、江島さんだけではなく、彼のアパートの住人からも証言が」
 黙っていられず、時生も会話に加わった。が、葛西は鬱陶しげに首を振り、言った。
「そんなのどっちでもいいのよ! 私たち家族は、あの事件のせいでめちゃくちゃになってしまった。なのに安沢は、のうのうと暮らしてる。私はそれが許せないの」
「確かにそうですね。しかも、安沢は詩乃さんの事件の後も罪を重ねています」
 チャンスだと判断し、時生は敢えて同意した。頷き、葛西は声を大きくして続けた。
「安沢がこの世に存在してる限り、詩乃の気持ちは休まらないし、私たちのところに戻って来ない。でも、安沢は親にガードされてて手が出せない。だから私は、あいつを絶望させてやろうと思ったのよ……コネと権力を駆使して仮釈放にした江島が殺され、証言してもらえない。あいつは今、どんな気持ちかしら。それでも、詩乃や他の被害者が味わった絶望と苦しみの足元にも及ばないけどね」
 最後は吐き捨てるように言い、葛西は時生と南雲、村崎に視線を巡らせた。話の途中から別人のように声が低くなり、眼差しは尖っている。だが時生は「事実上の自白だな」と手応えを覚え、村崎に目配せをした。目配せを返し、村崎は向かいの二人に告げた。
「葛西美津さん、鴨志田晃さん。江島克治さん殺人事件の重要参考人として、楠町西署にご同行願います」
 待ち構えていたように藤野が葛西に歩み寄り、その腕を掴んだ。同様に、厨房の中の刑事が鴨志田の腕に手を伸ばす。二人に抵抗する様子はなく、まず藤野に連れられた葛西が引き戸に向かった。と、井手がカウンターの椅子を下りて訊ねた。
「絶望してるのは、あんたも同じだ。だから、こんなことをしちまったんだろ?」
 と、葛西は引き戸の前で立ち止まり、振り向いた。その顔に、井手はさらに語りかけた。「詩乃さんは俺が捜す。定年まで十年ちょっとあるし、その後だって捜す。だから、絶望しないでくれ。詩乃さんは、きっと生きてる。あんたら家族がそう信じてる限り、望みはある。たとえ一縷でも、望みがあれば人は生きていけるし、やり直せる」
「きれいごとだわ。大濱ハツミさんの事件では、何もできなかったくせに」
 鼻を鳴らして葛西が言い、時生は反論しようとした。が、井手はそれを眼差しで止め、「そうだな」と頷いた。
「江島に罪を認めさせたかったが、手遅れだ。大濱さんには、受け入れてもらえるまで謝り続けるし、俺はあの事件を背負って生きていくと決めた。詩乃さんと、あんたの事件も同じだ。安沢の裁判を見守り、罪を逃れようとしたら全力で阻止する。俺が江島に罪を認めさせられてりゃ、今回の事件は起きなかったんだからな」
「なにそれ。殺人犯にされかけて、今夜は殺されるところだったのよ」
 信じられないという様子で、葛西は言う。すると井手は「わかってる」と返し、
「だが、俺はデカだ。覚悟はできてる」
 と続け、葛西を見た。顔は酔いで赤黒くなり、ぎょろりとした目は充血している。それでも言葉と眼差しは力強く、井手の覚悟が本物だと伝わってきた。
 呆然とした後、葛西は「バカじゃないの!」と叫んだ。が、メガネの奥の目はみるみる潤み、涙が溢れる。もぎ取るようにメガネを外し、葛西は俯いて泣きじゃくった。そして「なんで」と言い、顔を上げた。
「なんで今になって……詩乃の事件の時、あなたがいれば。そうすれば、きっと……一生、安沢を許せないし、江島を殺したことだって後悔してない。こんなんでもいいの? 私、やり直せるの?」
「ああ。時間はかかるかもしれねえが、必ずやり直せる。詩乃さんを『お帰り』と出迎えるんだ」
 きっぱりと、井手は答えた。すると葛西は指先で濡れた頬を拭い、「わかった」と首を縦に振った。それから少し間を置き、「ごめんなさい」と頭を下げた。そして葛西は、藤野に促されて店を出て行った。その背中を見送る井手と時生たちに、鴨志田の声が届く。
「井手さん、すまねえ。葛西に、あんたはひどい男だと吹き込まれたんだ。ぜんぶ南雲さんが言った通りだ。店がヤバくて借金もできて、金目当てで江島を殺して、あんたに罪をなすりつけようとしたんだ」
 厨房を出たところで膝をつき、土下座をしようとしてもう一人の刑事に止められている。「やっぱりか」と息をつき、井手は鴨志田に向き直った。
「大バカ野郎! あんたはこだわりは強いくせに、詰めが甘いんだよ。だから店が傾くし、人の言いなりになっちまう……いいよ。あんたのことも背負う。だから、しっかり罪を償え。で、戻って来たらまた店をやれ。屋台でもなんでもいい。俺が毎晩通って、二度と悪さできねえように見張ってやる。いいな?」
「はい!」と即答し、鴨志田は深々と頭を下げた。さすが叩き上げのデカ。説得力が違うな。時生が感心している間に鴨志田たちも出て行き、宝屋の中には井手と時生、南雲、そして村崎の四人になった。隣の南雲に向き直り、井手は一礼した。
「ダ・ヴィンチ殿、もとい、南雲警部補。ありがとうございます。お陰で事件を解決し、疑いを晴らすことができました」
「お礼なら、僕じゃなく数多の名画に言ってよ。あとは、小暮くんたちにも」
 片手にスケッチブック、もう片方の手にはワイン入りのゴミ袋を持ち、朗らかに南雲が返す。「数多の名画」の意味がわからなかったらしく、「はあ」とぽかんとした井手だが、すぐに表情を引き締め、今度は時生に頭を下げた。
「小暮、ありがとう。一生恩に着る」
「とんでもない。一件落着で何よりです。それに今夜の作戦は、村崎課長の大英断なしには遂行できませんでした」
 時生が話を振ると、井手は村崎を見た。しかし、先に言葉を発したのは村崎だった。
「大英断ではありません。我々も葛西美津と安沢陽太郎、江島克治さんの関係は注視しており、それに事件当夜の鴨志田晃のアリバイ、さらに南雲さんの功績を加味して─」
「それでも、感謝します。カンや感情で動く僕らを、課長の理性が抑えてくれていたんですね。追い込まれて、そのことに気づきました」
 井手が返す。予想外の発言に時生は驚き、村崎も固まる。すると井手は、こう続けた。
「僕が父上に似ているとおっしゃっていましたね。だとしたら、父上は今のあなたを誇りに思っていらっしゃるでしょう。なぜなら、僕がそうだからです」
「えっ。それって」
 井手さんが、村崎課長を誇りに思うってこと? 時生はそう訊きたかったが、体を起こした井手に照れ臭そうな顔で睨まれ、言葉を呑み込んだ。村崎が言う。
「……それは光栄です。しかし、似ているの前には『少し』が付きますし、先ほどの酔っ払いぶりを見ると、それもはなはだ疑問に」
 いつもの冷静さを保ってはいるが、目と手の動きが明らかにおかしい。ひょっとして、この人も照れてる? そう悟り、時生は村崎に親しみを覚え、ちょっとかわいいとも感じた。と、慌ただしい気配があり、開け放たれた引き戸から複数の男が飛び込んで来た。
「井手さん!」
「聞きましたよ。作戦成功ですってね」
「よかった~。これで僕たちの懲戒処分もチャラですよね?」
 口々に捲し立てて井手を取り囲んだのは、諸富文哉と剛田力哉、糸居洸だ。「おお。お前らか」と返しつつ戸惑う井手に、村崎はこう告げた。
「作戦開始の前に私が呼び、別の場所で待機してもらっていました。これをもってみなさんの自宅待機は解除しますが、独断捜査については相応のペナルティーを科します……私は署に戻りますので、後の処理をお願いします。それと、南雲さん。ゴミ袋は渡して下さい。事件の証拠品ですよ」
 いつもの調子に戻って指示し、南雲に手を差し出す。「え~っ」と抵抗の様子を見せた南雲だったが、「いいから」と村崎に促され、「ちぇっ」と口を尖らせて、ワイン入りのゴミ袋を渡した。
「子どもかよ」
 時生の頭に浮かんだのと同じ突っ込みを、井手が呟いた。時生は思わず噴き出し、井手も笑って時生の肩をぽんぽんと叩く。それから井手はいつもの強面に戻り、「よし。仕事に取りかかるぞ」と告げて店内に向き直った。

19

 それから約三十分後の午後十一時前。時生たちは宝屋の外にいた。店内では、楠町西署から呼んだ鑑識係の係員たちが作業中だ。諸富、剛田、糸居とともに作業を見守ったり、通行人の整理をしたりしていた時生だが、気づけば南雲の姿がない。通りを眺めると、数軒先のシャッターを下ろしたカフェの前に、黒いジャケットの背中を見つけた。
「どうしました?」
 歩み寄って声をかけた時生に、南雲は「ちょっとね」と答えた。スケッチブックを脇に挟み、手にしたスマホを弄っている。
「懲戒免職も覚悟したけど、何とかなりましたね。今回も始めから真相に気づいていたんですか?」
 時生は問うた。外気は肌寒いほどで、秋の深まりを感じる。南雲はスマホを弄りながら、「いや」と返し、こう続けた。
「宝屋でランチした時に、変だなとは思ったよ。だから鴨志田をスケッチブックの図のメンバーに入れたんだけど、さすがの僕も、すぐに葛西とは結び付かなかった。でも、会議室で小暮くんとフォーカルポイントについて話してたら、『アレオパゴス会議のフリュネ』が浮かんだんだ」
「あの絵には、主役が二人いるって言ってましたよね。準主役は江島さんで、主役は鴨志田だったってことですね」
「そう。主役の人物像は金色でしょ? それを見て、宝屋の金文字の箸袋を思い出した。で、小山内家の駐車場で見たタイヤ痕も思い出して、葛西と鴨志田の共犯なんだと閃いたってわけ」
 そう話を締めくくり、南雲はスマホを見たまま顎を上げた。「ははあ」と相づちを打った時生だが、もやもやとしたものを感じ、言った。
「でも、フォーカルポイントの話題を振ったのも、小山内家のタイヤ痕に気づいたのも、僕ですよね。『さすがの僕も』とか言って、南雲さんに閃きのきっかけを与えたのは、僕じゃないですか。本当に『さすが』なのは─」
「美しくない。そういうこと言うの、ヤボだよ」
 と顔をしかめた南雲だったが、時生が抗議しようとするとさらに言った。
「わかってるし、感謝もしてるってば。だから今、約束のご褒美を……はい、送ったよ」
 すると、時生のジャケットのポケットの中でスマホが振動した。取り出して確認したところ、南雲から添付ファイル付きのメールが届いていた。ファイルの中身は、十名ほどの名前が並んだ書類の写真。そこには肩書きと連絡先も記されており、それらは美術大学やギャラリー、広告代理店などだ。リストに見入り、時生は問うた。
「これ、先月の事件の時に野中さんが話してたリストですよね?」
「うん。古閑くんに改めて頼んで、つくってもらった」
 時生と南雲がリプロマーダー事件の捜査を進めたところ、リプロマーダーが最初に起こした事件の第一発見者・横澤新太という男性が浮上した。横澤は既に亡くなっているが、十三年前の秋、バイト先の造園会社の仕事で東京郊外にある関東美術大学を訪れていたと判明。さらに同時期、野中琴音の恋人で南雲の藝大時代の同級生でもある画家・古閑塁も関東美術大学で作業をしていたとわかった。時生たちはそのことを野中から聞き、古閑が当時の関係者をリストにしてくれるとも聞いていた。しかし野中の事件があり、リストは受け取っていなかった。
 僕も古閑さんに頼もうと思ってたけど、なぜ南雲さんが? 自分はリプロマーダーではないという、カモフラージュのつもりか? あるいは、このリストに手がかりはないということか? 驚くのと同時に疑問が湧き、警戒心も起こった。
「すごいでしょ。きっとこの中の誰かが、手がかりをくれるよ」
 はしゃいだ声が耳に届き、時生は南雲を見た。南雲も目を輝かせ、時生を見ている。
「で、小暮くんが僕に果たして欲しい約束って? 訊きたいことがあるんだっけ?」
 無邪気に問われ、時生は混乱する。訊きたいことなら、山ほどある。心の中で返すと、リプロマーダーは南雲ではないかと疑うきっかけとなった出来事、さらにデザートビュッフェで白石から聞いた話が頭をよぎる。しかし、どちらも時生にとって最大の、そして現時点では数少ない切り札だ。と、こちらの異変に気づいたのか、南雲が怪訝そうな顔をした。気づくと、時生はこう言っていた。
「南雲さん。うちに食事に来ませんか?」
「食事?」
 南雲がますます怪訝そうな顔をする。慌てて、時生は続けた。
「ええ。夏に結婚詐欺事件の捜査で張り込みをした時、僕が誘ったら『考えておくよ』って答えたでしょ? 娘と姉も先月の事件のお礼をしたいと言ってるし、ぜひ」
「ふうん。でもそれは、質問じゃなく招待だよね?」
「そうなんですけど」
 しどろもどろになり、時生が続く言葉を探していると、南雲は首を縦に振って応えた。
「いいよ」
「はい!?」
「食事に行くよ。で、いつ?」
 にこやかに問い返され、時生は「ええと……姉たちに確認します」と言ってスマホを握り直し、操作した。訳がわからないが、とんでもないことになったのはわかる。
 外灯の下、スケッチブックを小脇に自分を見守る南雲を前に、時生はスマホの操作を続けた。

 

この続きは、書籍にてお楽しみください