第一話 汚名 Bad Rap(2)



 卵、食パン、サラダドレッシング……よし、買い忘れはない。トイレの洗剤も切れかけてるけど、特売日を待とう。心の中で確認し、時生は片手に提げたエコバッグに目をやった。ここは住宅街の中の通りで、時刻は午後六時過ぎだ。
 今日はあの後、諸富たちと署の二階にある刑事課に向かった。そして村崎たちの動きを気にしつつ、書類作成などの職務をこなした。一方、南雲は時生の隣の自席には着いていたものの、スケッチブックに何かを描き続けていた。覗いても隠されるのは明らかなので、時生はひたすら職務に励み、定時の五時十五分に署を出て買い物を済ませた。
 立ち話中の近所の主婦と挨拶を交わし、通りを進んだ。十月に入り、午後五時過ぎには暗くなるようになった。気温と湿度が低く、過ごしやすい日が続いている。ほどなく小さな二階屋の自宅に着き、門を開けて玄関に進んだ。片手でノブを掴んで廻すと、何の抵抗もなくドアは開いた。やっぱりか。脱力しながら「ただいま」と声をかけ、時生は家に入った。狭い三和土で黒革靴を脱いでいると奥のドアが開き、次女・三女の絵理奈と香里奈が廊下を駆け寄って来た。二人は双子で、四歳だ。
「ただいま。お風呂入った? ご飯は?」
 廊下に上がって訊ねると、双子たちは争うように「入った!」「コロッケ食べた!」と答え、時生の脚や腕にまとわりついて来た。三人で廊下を進み、ダイニングキッチンに入った。「ただいま」と再度声をかけ、テーブルにエコバッグを置いて隣のリビングに目を向けた。そこにはソファが二台とローテーブル、テレビが置かれていて、手前のソファには女が二人、こちらに背中を向けて座っている。姉の仁美と長女の波瑠で、テレビの前では長男の有人がゲーム中だ。三人が声を揃え、しかし振り向かずに「お帰り」と応え、時生は話を始めた。
「姉ちゃん。頼むから、玄関のドアにカギをかけてよ。家に人がいても侵入する居空きって泥棒がいるって、いつも言ってるだろ」
「ああ。そのうちにね」
 前を向いたままつっけんどんに、仁美が言う。四十一歳の仁美は、伸びた前髪を頭の上でちょんまげのように結い、色の褪せたスウェットシャツを着ている。と、その隣の波瑠があはは、と笑った。こちらはピンク色のパーカー姿だ。興味を惹かれ、時生は「なに見てるの? ユーチューブ?」と問いかけながらソファに向かった。双子たちはダイニングキッチンに残り、エコバッグから中身を取り出している。
「違います。私です」
 時生がソファの脇に行くのと同時に、波瑠たちとは別の女の声が答えた。見ると、波瑠が手にしたスマホの画面に、ショートボブヘアの女が映っている。時生の妻・史緒里だ。画面越しに目が合うと、史緒里は「お帰り」と笑った。三人でビデオ通話をしているらしい。
「やあ」
 照れくささを覚え、時生は片手を上げて応えた。とたんに波瑠が、「キモっ!」と叫び、仁美は「なにスカしてんのよ」と笑った。同時にゲームのコントローラーを掴んだ有人が「よし!」と歓声を上げ、ダイニングキッチンの双子たちは何か揉めて騒ぎだす。落ち着かないことこの上ないが、これが時生の日常だ。
 十二年前。時生はリプロマーダーと思しき男を追跡したが反撃され、殺されかけた。しかしなぜか男は立ち去り、時生はそのとき覚えたある感覚をきっかけに、相棒である南雲こそがリプロマーダーなのではと疑いだした。しかしそのことは時生の身体、さらに家族にも影響を及ぼし、史緒里は二年前にアメリカに留学。その後、夫と離婚した仁美が、家事をするという条件で小暮家で暮らし始めた。
 しかしひと月前、波瑠がある事件に巻き込まれた。その捜査の過程で、時生は音信不通だと思っていた史緒里が波瑠とは連絡を取り合っていたと知り、さらに史緒里と波瑠、仁美、それぞれの想いを知った。リプロマーダーの正体という最大の謎は解けていないが、時生と波瑠たちの関係は少し変わり、たとえば史緒里は波瑠以外の家族とも連絡を取り合い、時生とも時々話すようになった。
 まずダイニングキッチンに行って双子たちをなだめ、時生はソファの脇に戻った。改めて波瑠のスマホを覗き、史緒里に語りかける。
「どうしたの? そっちは夜中でしょ」
「うん。波瑠とお義姉さんの相談に乗ってたの。南雲さんに、ひと月前の事件のお礼をしたいんだって」
 厚手のシャツを着た史緒里が言い、時生は「お礼?」と驚く。頷き、波瑠も言う。
「助けてもらった時、私は気絶してたでしょ。あとは南雲さんって面白いし、パパみたいに寒いこと言わないから、また会いたい」
「お礼ならパパが言ったし、南雲さんも十分寒いから」
 ムキになって言い返した時生だが、自分を見る史緒里の眼差しに気づき、はっとする。
 ひと月前の事件がきっかけで、波瑠は男二人とリプロマーダーに誘拐された。野中琴音が命を絶ったのは、その直後だ。野中と親しかった仁美は激しく動揺し、波瑠もショックを受けていた。その二人が何かしたいと言いだしたのだから、協力すべきだと史緒里は訴えているのだろう。それはその通りだけど、と時生が戸惑っていると、仁美も話しだした。
「史緒里ちゃんに聞いたんだけど、南雲さんって藝大出で美意識がすごく高いんだって?だったら、ものを贈るのはリスキーかも。うちに呼んで、食事をごちそうしたら? 高級フレンチとかばっかり食べてるなら、普通の家庭料理は新鮮なはずよ。時生のつくるご飯はおいしいし、きっと喜んでくれる」
「仁美おばちゃん、ナイス。それいい。そうしよう」
 テンポよく告げ、波瑠は「ママも賛成でしょ?」とスマホを覗いた。史緒里が答える。
「うん。でも確か、南雲さんは職場の人とプライベートな付き合いはしないはずよ。飲み会とかサークル活動とかはもちろん、結婚式やお葬式も不参加なんでしょ? むかし本庁の偉い人が亡くなった時もお葬式には来なくて、代わりにすごく大きくて前衛的な供花が会場に届いた、ってパパが言ってた」
「そうなの?」
 波瑠と仁美が振り向き、声を揃えて問う。「うん」と頷いた時生だったが、ある記憶が蘇り、訂正した。
「でも、うちには来てくれるかも」
「えっ。本当!?」
 史緒里が丸い目を見開き、時生はまた「うん」と頷いた。
 今年の夏に、ある結婚詐欺事件を捜査した際、時生は南雲を自宅での食事に誘った。当然断られると思っていたところ、南雲は「考えておくよ」と答えた。驚きつつも「よろしくお願いします」と返した時生だが、南雲の意図が読めず、その後、話は進んでいない。
 史緒里が驚く中、波瑠と仁美は大喜びで南雲を食事に招く計画を立て始めた。時生は「やることがあるんだ。夕飯は後で食べるから」と告げ、有人と双子にも声をかけて部屋を出た。廊下を戻り、途中の階段で二階に上がった。短い廊下を進み、手前の自分の部屋に入る。
 明かりを点け、スーツのジャケットを脱いで壁際のベッドに載せた。奥の窓の前には机と椅子が置かれ、机上にはノートパソコンと警部補の昇任試験の問題集が載っている。しかしこれらは、試験勉強を口実に部屋に籠もるための道具だ。
 時生は傍らの壁に立てかけられた細い金属棒を取り、部屋の中央に移動した。頭上の天井には長方形の扉が埋め込まれていて、そこに丸い穴の開いた金具が取り付けられている。小屋裏収納の出入口だ。
 扉の金具にL字型に曲がった金属棒の先を引っかけ、手前に引いた。開いた扉の裏には折りたたまれた梯子が取り付けられている。時生は両手で梯子を掴んで床に下ろし、金属棒を壁に戻して梯子を昇った。
 天井高が一メートル弱しかないスペースを這うように進み、奥の小窓を開けた。小屋裏収納の中には段ボール箱や古い家具、おもちゃなどが積まれている。小窓の前まで行き、時生はあぐらを掻いて座った。小窓の周りの板壁には、書類と地図、写真などが重なり合うように貼り付けられている。すべてリプロマーダー事件に関するもので、ここは時生の秘密基地だ。
 今朝の村崎たちの聴取と井手から聞いた話を思い出しながら、壁に貼られたものを眺めた。そこには野中琴音についての資料と、彼女の遺体の写真もあった。飛び降りたビルの下のアスファルトにうつ伏せで横たわるその姿は、何度見ても胸が張り裂けそうになる。
 野中さんの僕に対する想いは、言われてみれば心当たりがある。飲むとこの家に来たがったり、僕の身体や家族の問題を心配してくれたり。想いに気づいてあげられなかったのは悪かったけど、気づいたとしても応えられなかった。それに、野中さんは恋人と付き合い始めたばかりだった。ずっと憧れていた相手で、彼の話を僕とした時、照れたり誇らしげにしたりしてたのに。そう考えると切なさと悲しさ、さらにどうして? という疑問が胸に押し寄せ、時生は俯いた。涙も出そうになったが堪え、顔を上げた。
「泣くのは、事件を解決してからだ」
 自分で自分に言い聞かせ、深く息をして頭を切り替えた。
 ひと月前の事件の夜。僕と野中さんは、リプロマーダー事件について話した。あのとき彼女は僕に、「リプロマーダーの正体に気づいてるでしょ?」と訊いた。僕は「野中さんも、リプロマーダーが誰か、気づいてるよね?」と訊き返し、その名前を言おうとしたけど、波瑠が巻き込まれた事件に動きがあって話はそこで終わった。
 野中さんは自分のことを「リプロマーダーの正体」と言い、それを僕に気づかれたと思ったから命を絶ったという可能性はある。でもあの時、彼女は怯えていた。それは僕じゃなく、別の誰かに対してだ。別の誰かがしていることをやめさせ、その人物と自分を救って欲しい。彼女は僕に、そう言いたかったんじゃないだろうか。
「だから野中さんは、リプロマーダーじゃない」
 口に出して言うと、確信が増した。アートの知識がある野中は、何かのきっかけでリプロマーダーは南雲だと気づいたのではないだろうか。そしてそれを南雲に気づかれ、死に追いやられたのだ。そう推測すると強い怒りが湧き、南雲を追い詰める方法を考え始めた。
 と、頭に一人の男の顔が浮かんだ。さらにその男と出会ったきっかけ、交わした言葉を思い出し、ある閃きを得た。はやる気持ちを抑え、時生はスラックスのポケットからスマホを出し、その男の連絡先を探した。



 同じ頃、南雲は渋谷区の高級住宅街にいた。その一角に建つモダンな邸宅の階段を下りて、玄関に向かう。大理石張りの三和土に下り、解錠して白く大きなドアを開けた。
「いらっしゃい」
 南雲が声をかけると、一人の男が玄関に入って来た。背が高く、洗いざらしのシャツとジーンズ、着古したマウンテンパーカーという格好だ。男は「よう」と返した後、「お邪魔します」と律儀に会釈して三和土でスニーカーを脱ぎ、玄関に上がった。南雲は男を誘い、手すりと踏み板が黒い鉄製の階段を上がった。二階のリビングルームに入るなり、男は言った。
「なんだ、この家」
 リビングルームは広々として、三十畳近くある。高い天井と床、壁は真っ白で、作り付けの棚と大きな窓の枠は真っ黒だ。室内に置かれたテーブルと椅子、ソファ、照明なども色は白か黒で、一目で高級品とわかる。しかし、棚は空でソファにも人が座った形跡はなく、床のあちこちに未開封の段ボール箱と紐で縛ったままの本が積まれている。
「いいでしょ?」
 笑顔で訊ね、南雲は部屋の中央のテーブルに歩み寄った。男もテーブルに向かったが、怪訝そうに室内を見ている。
「お前らしいといえばらしいけど。でも、楠町西署には遠すぎないか? 警察官は所属してる署の管内に住むのがルールって、何かで読んだぞ」
「うん。だから、表向きは署の近くのマンションに住んでることになってる。ここは内緒の自宅ってわけ」
「内緒? じゃあ、小暮くんも知らないのか?」
「もちろん。人を招いたのも、古閑くんが初めてだよ」
 そう答えると、男は呆れたように南雲を見返した。この男は古閑塁といい、売れっ子の画家だ。南雲の藝大時代の同級生だが、四浪しているので歳は四つ上の五十二。海外生活を経て今年の春に帰国し、ある事件の捜査を通じて南雲と再会して、時生とも知り合いになった。
「そりゃ光栄だけど、何でまた」
 マウンテンパーカーを脱いで椅子の背に掛けながら、古閑が疑問を呈す。答えの代わりに、南雲はリビングルームの奥のドアに向かった。ドアを開けて中の部屋の明かりを点し、振り向いて手招きする。「なんだ?」と、古閑も近づいて来たので、南雲は手のひらで室内を指した。つられて、古閑が視線を動かす。
 そこはこの家に三つある寝室の一つで、白い壁の前に黒い鉄製フレームのベッドが置かれている。室内にあるのはそれだけで、ベッドの上にマットや寝具は載っていない。そしてベッドの手前の床には、複数の赤茶色のシミが付着している。シミの周りには、黄色いビニールテープが左右に一カ所ずつ、歪んだ楕円を描いて貼られていた。「おっ」と呟き、古閑は言った。
「あの黄色いテープ、警察の鑑識係のだろ? で、シミは血痕だ。てことは、ここは何かの事件現場か……おい、まさか」
「正解。リプロマーダー事件の現場だよ。ここは四件目で、再現された絵画はエドゥアール・マネの『自殺』。リプロマーダーは薬物で被害者の意識を朦朧とさせ、手に拳銃を握らせて自分の胸を撃たせたらしいよ」
 そう語りつつ南雲の頭には、男が右手に拳銃を持ち、白いシャツの右胸を血で赤く染めてベッドに仰向けで横たわる姿を描いた「自殺」と、それを模倣した犯行現場が浮かぶ。ついでに十二年前にいち早くここに駆け付け、遺体を発見したのが自分と時生だという記憶も蘇り、テンションが上がった。「そうだったな」と頷き、古閑も言う。
「確か被害者の男性は資産家で、女性を乱暴しては金で黙らせてたんじゃなかったか? マスコミが派手に報道してたから覚えてるよ」
「うん。ここを管理してる人が売りに出すっていうから、買い手がつくまでの条件で借りたんだ。事故物件につき、家賃は格安。ラッキー」
「どこがだよ……でも、お陰で貴重なものが見られたな。ベッドのつくりとか血痕の付き方とか、確かに『自殺』そっくりだ」
「やっぱり? 古閑くんは喜んでくれると思ったんだ」
 満足し、南雲は興味深げに現場を眺めている古閑の横顔を見た。と、古閑は思い出したようにジーンズのポケットを探り、折りたたんだ書類を出した。
「頼まれたものを持って来た。前に、つくって渡すと言ったリストだ」
「ありがとう」
 南雲は書類を受け取り、二人でテーブルに戻った。古閑が問う。
「しかし、まだそのリストが必要なのか? リプロマーダー事件は解決したんだろ」
「まあ、座って。わざわざ届けに来てくれたんだし、とっておきのワインを開けるよ」
 そうはぐらかし、南雲は古閑に椅子を勧めて書類をスラックスのポケットに入れた。スラックスは黒で、トップスのワイシャツは白。どちらも部屋着だが、シワひとつなくプレスされている。
 テーブルを離れて部屋の奥に行き、事件現場の部屋の向かい側にある引き戸を開けた。中はキッチンで、ここも床や壁、システムキッチン、家電などは白と黒で統一されている。南雲はその一角に置かれたワインセラーを開け、ボトルを二本取り出した。開け放した引き戸の隙間から顔を出し、ボトルを見せて問う。
「シャトー・ジスクールの赤と、キスラーの白。どっちがいい?」
 すると、テーブルに着いた古閑は即答した。
「黒ビール」
 思わず呆れた南雲だが、顔色と目の充血具合から、古閑が既に飲酒していると気づく。さらにその髪がいつも以上にボサボサで、無精ヒゲも伸びているのがわかった。複雑な思いにかられながらも、
「漆黒のコーヒーを淹れるよ。手伝って」
 と微笑み、キッチンの奥に進んだ。古閑がやって来たので、ワインを渡してセラーに戻してもらう。システムキッチンの吊り戸棚を開け、コーヒーの粉が入った缶を取り出しながら言った。
「野中琴音ちゃんの件で、本庁の捜査員にあれこれ聞かれてるみたいだね。マスコミにも騒がれてるっぽいし」
「ああ。警察は、琴音ちゃんと付き合ってた俺が彼女に操られ、行方不明になってる元カレをどうにかしたと疑ってるらしい……それより、週刊誌やネットニュースに載ってる俺の写真だよ。ひどい写りでさ、これに変えてくれって別のを送ろうとしたんだけど、マネージメント契約してるギャラリーに止められた」
 子どもっぽく口を尖らせ、古閑はぼやいた。その様子がおかしく、小さく笑ってから南雲は答えた。
「確かにあの写真はひどい……で、元カレをどうにかしたの?」
 すると古閑は「してない」と返し、こう続けた。
「面識がないどころか、存在すら知らなかったよ。もちろん、事件のことも知らなかった。でも、付き合い始めてすぐに、琴音ちゃんの小暮くんへの想いには気づいた。小暮くんの話だけじゃなく、彼から聞いたっていう奥さんや子どもたちのエピソードを、自分のことみたいに嬉々として語ってた。あれは恋情というより思慕、憧憬という名の執着だな。自分の中に空いた穴を必死に埋めようとしてる感じがいじらしくて、放っておけなかった。一緒に穴を埋めようっていうんじゃなく、穴が空いてる状態こそが完璧で、きみは一枚のタブローなんだって伝えたかったんだ」
 タブローとは、フランス語で壁画以外の絵画という意味で、アートの世界では、画家の意図が描写に反映された、完成した作品を指す。古閑くんらしい表現だなと南雲は思い、同時に彼が本気で野中を想い、向き合おうとしていたのがわかった。しかし、
「そう」
 とだけ答え、システムキッチンのカウンターからコーヒーサーバーとドリッパー、ペーパーフィルターの箱を取って自分の前に置いた。「うん」と頷き、古閑はさらに語った。
「でも、手遅れだった。琴音ちゃんの穴はどんどん広がり、彼女を呑み込んでいたんだ。悪人を殺し、死を描いた絵画を再現するのが心理学的に何を意味するのかはわからないが、ああするしかなかったんだろう……南雲。俺、またやっちまったよ。すぐそばにいながら、大事な女を救えなかった」
 後半は呟き声になり、言う。南雲は箱からペーパーフィルターを取り出す手を止め、古閑を見た。その切れ長の目は、悲しみと後悔、そして自分に対する怒りの色で満ちている。とっさに南雲が口を開こうとした矢先、古閑は笑った。
「あいつも、自分の中に穴を抱えてたよな。しかも、それが自分の武器だってことを自覚してた。俺もお前も、あいつのそういうところに振り回されながら、惹かれてた」
「いや」
 そう言った南雲を、古閑が見る。と、胸の奥深くから一つの記憶と面影が蘇りそうになった。それを押しとどめ、南雲は少し早口になってこう告げた。
「今回の件なら、古閑くんはまだ手遅れじゃないよ。もちろん、僕もね」
「どういう意味だ?」
「ないしょ……そのケトルで、お湯を沸かして。ちゃんと手を洗ってからね」
 微笑んで指示し、システムキッチンの端のコンロを指す。コンロの五徳の上には、持ち手の部分がニワトリの鶏冠を思わせるデザインの、イタリア製のヤカンが載っている。「おふくろかよ」とぼやきつつ、古閑はコンロとは逆の端にあるシンクの前に移動した。シャツの袖をめくり、シンクの奥に手を伸ばす。
 シンクの奥には鶴首型のタッチレス混合水栓があり、その右隣に、上部に細く短い棒が付いた、高さ十センチほどのステンレス製の円柱がある。南雲が見守る中、古閑は迷わず右手で円柱の頭を押し、左の手のひらを棒の先に近づけた。と、棒の先から乳白色のハンドソープが噴射され、古閑の左の手のひらに落ちる。
「すごい。古閑くん、よくそれがソープディスペンサーだってわかったね」
 円柱を指して南雲が言うと、古閑は泡立てたハンドソープを蛇口から出した水で洗い流しながら笑った。
「海外じゃ、ビルトイン・ソープディスペンサー付きのシンクは珍しくないからな。俺がアメリカで住んでた家にも付いてたよ」
「そうなの? 驚くだろうなって、楽しみにしてたのに。僕は最初にそれを使った時、水とお湯の切り替えレバーだと思っちゃったよ」
「水を出したり止めたりはタッチレスなのに、温度の切り替えは手動ってことか? あり得ないだろ。お前、そういうところは全然変わらないな」
「ありがとう」
 南雲が返すと、古閑は「褒めてないから」と突っ込み、また笑った。

 数時間後。南雲は古閑が去ったリビングルームにいた。毎晩そうしているように、スマホで音楽を流し、テーブルに置く。曲はリュートのソナタ。リュートはレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画のモチーフとなり、自身も演奏したとも言われる古い弦楽器だ。その音色は柔らかく繊細でありながらどこかミステリアスで、目を閉じて聴いている南雲は、安らぎと興奮を同時に感じた。
 やがて目を開けて席を立ち、南雲は壁際に歩み寄った。積まれた段ボール箱と束ねた本の間に、緩衝材で包まれた縦横七十センチ、厚さ五センチほどの段ボール箱がある。南雲はその段ボール箱を取り上げ、緩衝材を剥がして開封した。中身は茶色い包装紙に包まれており、南雲はそれを取り出して眺めた。
「二十八年ぶりか」
 そう呟くと、胸が騒いだ。ためらいも覚え、それを断ち切るために片手で包装紙を剥がした。バリバリという乾いた音とともに露わになったのは、一枚のキャンバス。そこには油絵が描かれている。
 懐かしさを覚えたのは一瞬だった。さっきは押しとどめた一つの記憶と面影が、今度ははっきりと、痛みと後悔、そして罪悪感を伴って蘇った。その反面、思考はクリアで、南雲は油絵に見入った。
 いつの間にかリュートのソナタは終わり、リビングルームは静寂に包まれていた。しかし南雲は壁の前から動かず、油絵を見つめ続けた。



 遠くで着信音が鳴り、時生はノートパソコンのキーボードを叩く手を止めた。並んだ机の列の奥を見ると、諸富がいた。自席でジャケットのポケットからスマホを出し、眺めている。と、諸富も時生を見て目配せし、顎で部屋の出入口を指した。頷き返し、時生は視線を隣席に移した。そこでは南雲が、左手に握った鉛筆をスケッチブックの上で動かしている。ここは楠町西署の刑事課で、時刻は午前九時前だ。
 スケッチブックに何か描くのはいつものことだけど、このところやけに熱心だな。ふと思い、時生は脇から覗いた。白いページに鉛筆で描かれた大小の円が目に入った直後、
「覗き見禁止」
 と南雲が言い、スケッチブックを閉じた。席を立ち、時生は告げた。
「落書きしてる場合じゃないでしょう。行きますよ」
「落書きって、ひどいな」
 そう抗議した南雲だが、スケッチブックを手に立ち上がる。
 まず諸富が部屋を出て、間を空けて時生と南雲も続いた。部屋には向かい合って並んだ机の列がいくつかあるが、閑散としている。奥にある刑事課長の村崎舞花と、係長の藤野尚志の席も空いていた。
 部屋を出た時生たちは諸富と合流し、廊下を進んだ。奥のエレベーターホールまで行くと、脇にある階段室から剛田と糸居が顔を出した。周囲を確認し、諸富と時生たちも階段室に入る。
「江島克治さん殺害事件の捜査会議が始まりました。課長たちは、当分会議室から出て来ないはずです」
 剛田が小声で報告し、諸富は「よし」と返して階段を上り始めた。剛田と糸居が後に続き、時生も「え~っ。エレベーターを使おうよ」とぼやく南雲をなだめて階段を上った。
 五人で六階建ての署の五階まで上がった。諸富、糸居、時生の順に廊下を進み、後から「ちょっと休ませて」と訴える南雲と、それを励ます剛田が続いた。
 ほどなく、目的地であるフロアの奥のドアに着いた。傍らの壁には、「留置管理課」と書かれたプレートが取り付けられている。諸富がドアを開け、みんなで部屋に入った。
 部屋の中は広く、手前に受付カウンター、その脇にはまたドアがある。諸富がカウンターに歩み寄ると、奥に並んだ机の一つから制服姿の男が立ち上がった。諸富と同年代だが、痩せて黒縁のメガネをかけている。時生たちのもとに来た男は諸富に目配せし、二人はドアの前に移動して小声で話し始めた。と、剛田が南雲に囁く。
「あの人は留置管理課の石井係長。諸富さんの警察学校の同期だそうです」
「あっそう。で、どうするの?」
 あっけらかんと南雲が訊き、時生も囁いた。
「しっかりして下さい。さっき説明したでしょう」
 一夜明け、出勤して来た時生たちは村崎たちの目を盗み、作戦会議をした。そして、昨日それぞれが調べたことを元に今日の動きを決め、ここに来たのだ。
「あれ。そうだっけ?」とボケる南雲に三人で呆れていると、諸富が戻って来た。一方、石井はカウンターの中に戻り、奥のパーティションの裏に隠れる。すぐにブザーの音がして、壁のドアの電子錠が開けられた。諸富はドアの中に入り、時生たちは机に着いた他の職員たちに目礼して後に続いた。
 ドアの奥には、廊下が真っ直ぐに伸びていた。片側に並ぶドアは被留置者が弁護士等と接見するための面会室と、身体検査室。その隣のロッカーは、被留置者の私物を保管するためのものだ。たまに職務で来るので、ここの配置は時生の頭に入っている。そして、廊下の反対側に並ぶのは、白い鉄格子が取り付けられた被留置者の居室。ここは成人男性用の居室で、フロアの反対側には少年と女性用の居室もある。廊下の手前が雑居と呼ばれる定員六名ほどの共同室で、奥が個室だ。
 雑居房には数人の被留置者がいたが、諸富はその前を素通りして個室に向かった。そしてその一つの前で立ち止まり、鉄格子の向こうに会釈した。
「おはようございます」
「諸富か。どうした?」
 そう応えたのは聞き慣れた、ややハスキーで鼻にかかった声。個室の前に着いた時生たちの目に、井手義春の姿が映る。すると南雲は、「なるほど」と納得したように頷き、時生は「井手さん」と呼びかけて鉄格子の前に進み出た。剛田と糸居も倣う。
「お前らもか……ダ・ヴィンチ殿まで?」
 驚いたように言い、井手はぎょろりとした目をさらに大きくした。ライトグレーのスウェットの上下を着て、浅黒い顔にはうっすらヒゲが生えている。南雲は朗らかに手を振ったが、時生はかつての相棒で、尊敬する先輩でもある井手の姿に胸が痛んだ。
「井手さん。あまり時間がないので、本題に入ります」
 深刻な顔で声を潜ませ、諸富が話しだした。「ああ」と、戸惑ったように井手が頷く。
「ご存じかと思いますが、状況はよくないです。江島さんを殺害したナイフの柄から井手さんの指紋が検出された上、井手さんには彼の死亡推定時刻である、四日前の午後九時から十一時までの記憶とアリバイがない。加えて、井手さんと江島さんは七年前の大濱ハツミさんの事件を巡る因果関係があり、四日前の夜、井手さんは居酒屋・宝屋で『あの野郎、絶対許さねえ』などと漏らしながら深酒し、午後十時半過ぎに退店したことが明らかになっています。よって、井手さんは本件の重要参考人です。村崎課長以下の捜査員は、井手さんの容疑を固め、逮捕する方向で動いています」
 後半は捜査会議で報告しているような口調になり、語る。井手が厳しい表情で、「だろうな」と返すと、諸富はこう続けた。
「しかし、僕らは違う。井手さんの無実を信じています。五人とも捜査を外されましたが、それを逆手に取って密かに動き、真相を究明するつもりです」
「バカ言うな。そんなことをしたら、お前らが─」
「でも、このままじゃ犯人にされちゃいますよ。井手さん、やってないんでしょう?」
 鉄格子を掴み、単刀直入に問うたのは剛田だ。その顔を見返し、井手は頷いた。
「ああ。俺はあいつに、今からでも罪を認めさせて、大濱さんとご家族に謝罪させたかったんだ。江島は取り合わず、食い下がる俺とたびたび言い合いになってたけどな。事件の前日に誰かが目撃したってのも、それだろう。だが、俺はやってねえ。どんなに許せねえ相手でも、手に掛けちまったら一生そいつに縛られることになるってのを、この目で見てきたからな」
 力強く断言し、時生たちの顔を見回す。大きく頷き、時生も言った。
「僕もそう思います。でも、それを証明するには状況を変えないと。僕らにやらせて下さい。井手さんにはまだまだ教わりたいことがあるし、現場に戻ってくれないと困るんです」
「そうですよ。俺らのためだと思って、やらせて下さい」
 糸居も訴える。すると井手は感極まったように黙り、気を遣うように南雲を見た。
「ご心配なく。レオナルド・ダ・ヴィンチも『自分に無害な悪は、自分に有益な善と同じことだ』と言ってるし」
 にっこりと南雲に返され、井手はきょとんとする。時生も意味がわからなかったが、井手は顔を引き締め、「で、俺は何をすればいい?」と訊いた。時生が答える。
「事件の夜のことを教えて下さい。宝屋の鴨志田晃さんは、井手さんは午後七時前に一人で来店し、二時間足らずで焼酎のボトルを空けたと話していました。間違いないですか?」
「店に行った時間と、一人でってのは間違いねえ。だが、その後は……。ビールから焼酎ってのが俺のパターンだし、カモちゃんがそう言ったのならそうなんだろうな」
「わかりました」と返した時生だが、事態の深刻さを感じる。と、南雲が反応した。
「カモちゃん? あだ名からしておいしそう、じゃなくて、おいしいものをつくりそう。僕も宝屋に行きましけど、名店ですね。ランチであのクオリティーなら、夜はさぞかし─ちなみに、宝屋のワインの品揃えは?」
「どうかな。俺、ワインは苦手なんですよ。柄じゃねえし、体に合わねえのか、飲むとすぐに眠くなっちまうから。でも、焼酎や日本酒はいいのを揃えてるし、肴も旨いですよ」
 立場を忘れたように嬉々として、井手は語った。南雲は「ふうん」と呟き、続けて「ありがとう」と微笑んだ。と、剛田が話を事件に戻した。
「井手さんは、宝屋か別の場所で薬物を飲まされたって可能性はないですか? 事件発生時の記憶がないのは、そのせいとか」
「いや、それはない。身柄を拘束された直後、井手さんは尿検査を受けているが、薬物の反応は出なかった」
 そう答えたのは、諸富だ。みんなが考え込み、糸居が言った。
「僕は被害者を洗いました。江島さんは懲役八年の罪で服役し、過去に数回仮釈放を申請していますが、すべて却下されています。それが、なぜ急に許可されたのでしょうか。しかも、仮釈放後に身を寄せていたのは千代田区内の高級マンションです」
「そうなんだよ。俺も妙だと思ってた」
 井手が身を乗り出し、やっぱりそうかと時生たちは頷く。糸居はさらに言った。
「マンションの管理人に話を聞いたところ、江島さんが暮らし始めた頃から、不審な男がたびたびマンションを訪ねて来るようになったそうです」
「それ、井手さんのことじゃないの?」
 笑いながら、南雲が突っ込む。初めて間違わずに名前を呼んだなと、時生は振り返った。いつの間にか、南雲は時生たちの後ろに移動し、また鉛筆でスケッチブックに何か描いている。すると、糸居は大真面目に答えた。
「違います。管理人に井手さんの写真を見せて確認しましたが、『もっと若くて、高そうなスーツを着てた』と言っていました」
「悪かったな。どうせ俺はおっさんだし、スーツは安物だよ」
 すかさず井手がぼやき、時生たちは笑ってしまう。井手は「笑うなよ」とさらにぼやき、時生は「すみません。ちなみにその男は」と話しだそうとした。その矢先、
「何をしているんですか?」
 と声がした。はっとして振り向くと、廊下の手前に村崎が立っていた。強ばった顔で時生たちを見ている。とっさに、時生は返事をしようとした。が、それより先に村崎の後ろから、「おい。どういうつもりだ!」と尖った声を上げ、藤野が駆け寄って来た。時生は言葉に詰まり、代わりに南雲が、
「どうも。清々しい朝ですね」
 と返し、村崎と藤野に笑いかけた。

10

 村崎が「ここを出ましょう」と告げ、時生たちと藤野は留置場から二階の刑事課に戻った。七人で、二日前に時生が村崎たちの聴取を受けたのと同じ小会議室に入った。楕円形のテーブルの奥に藤野と並んで着くと、村崎は話しだした。
「まず確認です。昨日、江島さんの事件の関係者に聞き込みをしましたね?」
「はい」
 テーブルの、村崎たちの向かいの席で諸富が答える。すぐにバレるだろうなと思ったけど、やっぱりか。諸富の隣に座った時生は心の中でそう呟き、「すみません」と頭を下げた。その隣の糸居と剛田も頭を下げ、端の席の南雲は、鉛筆でスケッチブックに何か描き続けている。
「こういう事態を恐れて、みなさんを捜査から外したのです。被疑者への偏向的な思い入れが現場をどれだけ混乱させ、事件解決に支障を来すか、ご存じでしょう」
 表情を動かさずに淡々と、村崎は語りかけた。井手さんは、重要参考人から被疑者になったのか。時生がショックを受けていると、諸富は返した。
「もちろんです。しかし被疑者への偏向的な思い入れをお持ちなのは、課長も同じなのではないでしょうか」
「口を慎め。自分の規律違反を棚に上げて、課長を侮辱するつもりか」
 たちまち顔を険しくし、藤野がわめく。時生と糸居、剛田は驚いて諸富を見た。井手同様、諸富もかねてから村崎に反感を抱いており、今回の秘密の捜査は覚悟の上だったということか。
 無言で村崎を見ている諸富に腹を立てたのか、藤野はさらに顔を険しくして口を開こうとした。すると村崎は、前を向いたまま片手を顔の横に上げた。これは彼女のお馴染みのポーズで、「ストップ」または「注目」の意思表示らしい。横柄に感じられ、このあたりが井手や諸富、その他の古参刑事が村崎を疎む理由の一つなのだろう。が、藤野ははっとして黙った。それを確認し、村崎は片手を下ろして会話を続けた。
「それはどういう意味ですか?」
「日ごろの態度を考えれば当然ですが、課長は井手さんを快く思われてないのでは? その張本人が殺人の被疑者となれば、いかに高潔な課長でも行動や判断にフィルターがかかるでしょう。その結果、一つの結末を想定して捜査を進めてしまうのではありませんか?」
 そう問い返し、諸富はテーブルの上で両手を組んだ。口調を淡々としたものに変え、言葉使いは理屈っぽくなる。これは相手の態度に自分を合わせるという、彼が取調べをする時のテクニックなのだが、それだけ真剣ということだろう。
「それはあり得ません。なぜなら、私は井手さんを不快に思っていないからです。むしろ部下として信頼し、その人柄とキャリアに敬意を抱いています。信じられないかもしれませんが、事実です」
 村崎が答える。真っ直ぐ諸富を見ているが、無表情の棒読みなので言葉にリアリティは感じられない。諸富や糸居たちも同じように感じたらしく、場に白けた空気が漂った。
「井手さんを江島さんの事件の被疑者としたのは、物証と動機があるからです。加えて、最近の井手さんの行動には不審点がありました……井手さんから、リプロマーダー事件特別捜査本部の情報を得ていましたね?」
 後半は時生、そして持ち手の部分が青い鉛筆を握った手を動かし続けている南雲を見て村崎は訊ねた。それもバレてたのか。焦りを覚え、時生は返す言葉を探した。と、我慢の限界というように藤野が会話に加わった。
「わかったな? 課長はすべてお見通しなんだ。その上で、冷静かつ公平に対処されているというのに、お前らは─相応の処分は覚悟しておけよ。無論、留置管理課の石井もだ。署長に報告の上、全員、本庁の人事第一課の監察を受けさせる」
「待って下さい。石井は無関係です。井手さんとの面会は、僕が無理に頼んだことで」
 焦りを滲ませ、諸富は訴えた。警視庁警務部人事第一課は、職員の違法行為やコンプライアンス違反を取り締まる部署だ。いわば警察の中の警察で、監察の対象になっただけで、その職員に出世の目はないと恐れられている。不快そうに顔をしかめ、藤野は返した。
「だから何だ。規則は絶対で、例外はない」
「でしたら、僕が石井のぶんの処分も受けます。彼らの処分も、僕が」
 時生たちを指して言い、諸富は立ち上がった。驚き、時生も立ち上がる。
「ダメです。なに言ってるんですか」
 と、糸居と剛田も立ち上がり、「そうですよ」「みんなでしたことです」と訴える。時生たちを見た諸富は「言いだしたのは俺だ」と返し、やり取りに苛立ったのか、藤野が「黙れ。俺が話しているんだ」と主張する。場が騒然とし、それを収めようと村崎が片手を上げたが、みんな見向きもしない。すると突然、
「自宅待機でいいんじゃない?」
 と南雲が言った。みんなが一斉に視線を動かすと、南雲はいつの間にかスケッチブックを閉じてテーブルに置き、鉛筆もジャケットの胸ポケットに戻していた。藤野が問う。
「いきなりなんだ?」
「誰がどう処分されるにしろ、まずは自宅待機でしょ? じゃあ、そうしましょうよ。僕らには頭を冷やす時間が必要だし、お二人は捜査に集中できる」
 藤野ではなく村崎に向かってそう答え、南雲は「ね?」と微笑んだ。「ふざけるな!」と藤野は激昂し、その眼前に村崎が立てた手のひらを突き出す。続けて「ストップ」と声に出して命じ、南雲を見て言った。
「いいでしょう。みなさん五人には、直ちに帰宅し、指示があるまで待機することを命じます。ただし南雲さんに言われたからではなく、はじめからそうするつもりでした」
 相変わらずの無表情だが、最後のワンフレーズには村崎のプライドが感じられた。
「了解。じゃ、帰ろうっと」
 そう返すが早いか、南雲は立ち上がった。そして時生たちが唖然とする中、スケッチブックを抱えていそいそとドアに向かった。

11

「─てな訳で、江島さんが身を寄せていたのは、そのマンションの二○二号室です」
 スピーカー機能をオンにしたスマホから、剛田の声が車内に流れた。後部座席でスマホを手にした時生は、「わかった」と返す。運転席には糸居、助手席には南雲が座っている。
「二○二号室のオーナーは、ひむかい不動産っていう会社です。本社は宮崎県東臼杵郡にあって、社長は仲林千代治という男性。でもこの会社、ほとんど活動していないんですよ。そのくせ、そのマンション以外にも都内に複数の不動産を所有してて、しかも千代田区、中央区、港区と一等地ばっかり。仲林さんについても調べてみましたけど、前科を含めてヒットせず。名前からして、お年寄りかもしれませんね」
 剛田はさらに語り、その声にパソコンのマウスをクリックしたり、ホイールを回転させたりする音が重なった。話し方がいつも以上にフランクなのは、彼が今、楠町西署の近くにある警視庁の独身寮の自室にいるからだろう。
「そうか。ありがとう、助かったよ。三時間足らずでそこまで調べるなんて、さすがだね」
「いえいえ。そっちに行けないんですから、当然ですよ。この後、さらに調べます」
「心強いけど、くれぐれも気をつけて。自宅待機になったことで、独身寮の寮監や寮長の目が厳しくなるはずだから」
 時生はそう忠告し、剛田は「わかりました」と応える。通話を終え、時生はスマホをジャケットのポケットに戻して前を向いた。
「謎の経緯で仮釈放をして身を寄せた先は、一等地の高級マンションの一室。その部屋のオーナーである会社は、他にも高級物件を所有しながら、社長含め正体不明。井手さんが言ってた通り、妙だな」
「妙どころか、怪しすぎるだろ。この事件、裏があるな」
 振り向いてそう応えたのは、糸居。「ああ」と頷き、時生はこう続けた。
「僕らにはいい兆候だよ。井手さんは、東臼杵郡にも高級物件にも縁はなさそうだから」
「だな」と、糸居が笑う。
 今朝あの後、時生たちは署を出てそれぞれの家に帰った。が、すぐに時生のもとをマイカーに乗った糸居が訪ねて来て、「南雲さんから連絡があって、小暮を拾って江島さんがいたマンションに行くように言われた」と告げた。訳がわからないまま、時生は一旦脱いだスーツをまた着て糸居の車に乗り、ここ、千代田区麹町に来た。すると物陰から南雲が現れ、彼も乗車して目的地のマンション近くの路上に移動したのだ。
 時生が意図を訊くと南雲は、「マンションを調べよう。でも、いろいろ切羽詰まってそうな諸富さんと、独身寮住まいで監視付きの剛田くんは抜きね」と説明したが、目当てのマンション付近には署の捜査員の姿があり、ここで足止めを食らっているという訳だ。
「にしても、いいのかなあ。自宅待機中に外出なんて、バレたら大騒ぎだよ」
 急に不安になり、時生は話を変えた。眉根を寄せ、糸居も同意する。
「ああ。下手すりゃ、懲戒免職だな。俺、三十年ローンで家を買ったばかりで─南雲さん、大丈夫なんですか?」
「もちろん。僕はストレス性の頭痛に悩んでて、この近くの病院に診察を受けに来たってことにするから。受診には同じ職場で働くきみたちの証言も必要なんだけど、肝心の病院は大混雑で、ここで予約のキャンセル待ちをしてるってシナリオ。どう? 完璧でしょ」
 前を向いて何かを読みながら、南雲が答える。たちまち糸居が、
「どこが完璧なんですか。無理がありすぎですよ」
 と声を上げ、時生も言う。
「やりたい放題やってるくせに、ストレス性の頭痛? 信憑性ゼロですね」
「うるさいなあ。自宅待機中だって、通院までダメとは言わないでしょ……ところで糸居くん。宝塚ファンなの? 意外」
 そう問いかけるなり、南雲は顔を上げて読んでいたものを掲げて見せた。時生がそれを覗くと、雑誌だ。表紙には「歌劇」とタイトルがあり、その下にショートカットの女性の写真が載っている。華やかさと目力の強さからして、宝塚歌劇団の男役の俳優か。
「返して下さい! いつの間に引っ張り出したんですか」
 わかりやすくうろたえ、糸居は南雲の手から雑誌を引ったくった。
「さっき、きみたちがマンションの様子を見に行った時。小暮くんちの車は面白かったけど、糸居くんちのもなかなかだねえ……なにこれ。かわいい」
 楽しげに語り、南雲は腕を伸ばした。運転席の前のダッシュボードに取り付けられたカゴから、何か掴み上げる。上部にパンダの顔が付いた、スティック型のツボ押しのようだ。糸居はまた、「返して下さい! その辺のものをいじらないで」と騒ぎ、南雲の手からツボ押しを奪還した。
 糸居の愛車は、外見はありふれた小型のハイブリッドカーだ。しかしその中は、運転席の脇に、ハンドルの下に取り付けて使う折りたたみテーブルが置かれていたり、ダッシュボードのカゴには、マッサージ器やアイピローなどの癒やしグッズが詰め込まれていたりする。さらにルーフに渡されたロープには、衣類を掛けたハンガーやタオルがぶら下げられ、後部座席にはノートパソコンとスリッパ、文庫本やスナック菓子などが入った箱が置かれていた。南雲はその一つ一つに反応して騒ぎ、糸居は時生に「家は狭くて子どもや妻のものでいっぱいだから、車の中が俺の唯一のパーソナルスペースなんだよ」と説明した。
 ツボ押しを奪われた南雲だが、懲りずに「ここはまだ見てない」とグローブボックスを開けようとした。糸居はそれを阻止しようと騒ぎ、時生はうんざりして視線を前に向けた。ハイブリッドカーは脇道に停車していて、前方にはマンションが建つ通りが見える。と、その通りを、見覚えのある白いセダンが走り抜けていった。身を乗り出し、時生は告げた。
「署のみんなが引き上げたみたいですよ。マンションを調べるなら、今がチャンスです」
 はっとして糸居と南雲は黙り、三人でハイブリッドカーを降りた。脇道を出て通りを進み、マンションに向かう。このあたりは都内でも有数の高級住宅街で、高い塀に囲まれた豪邸や、戸数は少ないのに敷地が広い低層マンションが並んでいる。目当てのマンションも低層だが、通りに面したベランダは広々として窓も大きく、各戸百平米以上あるだろう。
 石造りの門からマンションの敷地に入り、エントランスに向かった。と、木製の自動ドアが開き、エントランスの中から男が出て来た。歳は三十ぐらいで、髪を整えて高そうな茶色のスーツを着ている。もしかして、と時生が閃いた矢先、南雲が動いた。
「江島さんの知り合い? ここで何してたの?」
 男の脇で足を止め、問いかける。反射的に立ち止まった男だが、訝しげに「はい?」と訊き返す。時生は慌てて南雲の横に行き、言った。
「警察の者です。二○二号室にいらしていたんですか?」
「そうですけど……本当に警察の方ですか? 警察手帳を見せて下さい」
 警戒心溢れる顔になり、男は返した。もっともな要求だが、時生たちは署を出る前、警察手帳を専用のロッカーにしまって来た。
「事情があって持っていませんが、楠町西署の者です」
 時生は説明したものの、男は「信じられません」と突き放すように言い、歩きだした。「待って下さい」と時生、さらに糸居が後を追い、やり取りに気づいたのか、エントランスの中から管理人らしき、ベージュの作業服を着た年配の男が出て来た。
「どうしたんですか?」
「待ってました……管理人さん。この人は誰?」
 そう問いかけたのは、南雲。片手で、マンションの門の手前に立つ糸居を指している。怪訝そうに眉をひそめた管理人の男だが、糸居を見て答えた。
「誰って……刑事さんでしょ。昨日もここに来ましたよね」
 すると南雲は満足げに頷き、茶色いスーツの男に、「ね?」と微笑みかけた。男はなおも「本当ですか? 警察手帳は見ましたか?」と疑ったが、管理人の男に「ええ。ちゃんと見せてもらいましたよ」と返され、渋々ながらも自動ドアの前に戻って来た。管理人の男がエントランスの中に戻り、時生たちはその場で話を聞いた。
 男は山室孝実といい、歳は三十。職業は参議院議員の安沢求の私設秘書で、身分証も持っていた。政治家絡みかと緊張しつつ、時生は質問を始めた。
「山室さんはこちらで何を? 二○二号室には、四日前に亡くなった江島克治さんがお住まいでしたよね」
「ええ。仮釈放後、江島さんはうちの事務所でお世話させていただいておりました。こちらの部屋も、我々が用意したんです」
「亡くなる前の江島さんの様子は? どこに行くとか、誰に会うとか言っていませんでしたか?」
 時生は畳みかけたが、山室は「さあ」と肩をすくめた。
「私は必要なものを届けていただけですから。江島さんは飲み歩いたり、パチンコをしたりと、塀の外の暮らしを楽しまれていたようですよ。ただ、亡くなった日は、私はこちらに来ておりません」
「そうですか。しかし、なぜ江島さんの世話を?」
「それについては、別の刑事さんにご説明しましたが」
 警戒を強める山室に、糸居が「念のためです。お願いします」と頭を下げる。ため息をついてから周囲を確認し、山室はこう答えた。
「江島さんに、ある事件の裁判で証言をしていただくためです」
「裁判!?」
 時生と糸居が同時に反応し、山室は「それ以上はご勘弁下さい」と伏し目がちに告げ、歩きだした。そして引き留める間もなく、マンションの門から通りに出て行った。
「ふうん……面白くなってきたね」
 意味深な呟きが耳に届き、時生と糸居は傍らを見た。そこには南雲がいて、鉛筆を握った左手を、ページを開いたスケッチブックの上で動かしていた。

12

 約四時間半後の午後三時過ぎ。時生は新宿中央公園にいた。ビルに囲まれた広い園内のベンチに座り、スマホを片手にペットボトルの緑茶を飲んでいる。
 山室孝実から話を聞いた後、時生たちはマンションの管理人に頼んで二○二号室に入った。しかし既に片付けられており、江島の生活の痕跡はなかった。そこで山室の話を剛田と諸富に伝え、剛田にリサーチしてもらい、夜にでも連絡を取り合おうと決めて解散した。
 顔を上げ、時生は周囲を見た。手入れされた芝生が広がり、その所々に葉を茂らせた立木がある。晴天だが既に陽は傾きだし、子連れの女性のグループが公園の出入口に向かって歩いて行く。もともと予定が入っていたのでここに来たが、自宅待機の身となってしまい、落ち着かない。
 ペットボトルを口に運びながら、時生はスマホの画面に見入った。そこには「取りあえずの調査報告です」と剛田が送って来たメッセージが表示されている。
 安沢求は七十六歳。代々政治家という名家の出身で、大臣経験もある大物議員だ。安沢には二人の息子がいて、長男は父親の公設秘書をしている。しかし次男の陽太郎、四十四歳は定職に就かず、親の金で遊び歩いては方々でトラブルを起こしているそうだ。トラブルには犯罪も含まれ、過去には強制わいせつ罪で服役したこともある。そして過去に起こした複数の女性への性的暴行事件によって今年の三月に逮捕・起訴され、裁判中らしい。江島はこのうちの一件の証人で、犯行があったとされる八年前の冬の夜、安沢陽太郎と会っていたと話したという。
「で、裁判の証人になる予定だったんだな。これが江島さんの事件の裏か」
 そう呟き、時生は手応えと疑惑を感じた。剛田のメッセージは諸富と糸居、南雲も読んでいて、同じように感じているはずだ。
 予定の時間が近づき、時生は立ち上がった。公園を出て通りを渡り、外資系の高級ホテルに入る。外国人観光客で賑わうロビーを抜け、奥のラウンジに向かった。レジカウンターの中の店員の男に待ち合わせだと告げ、店内を進もうとした矢先、
「小暮さん」
 と声をかけられた。見ると、奥のテーブルに白石均がいた。シャツにジャケット姿で片手を上げ、白い歯を見せて笑っている。会釈して、時生はテーブルに歩み寄った。
「すみません。お待たせしました」
「いや、僕が早く来たんです。小暮さんも、何か取って来て下さい」
 目を輝かせて促し、白石はテーブルの自分の前を指した。そこには複数の皿が並び、ケーキやシュークリーム、パイやタルトなどが載っている。食べかけのものもあり、白石はフォークを手にしていた。「はい」と返しながら、時生は白石の後ろに目を向けた。
 壁際にカウンターが設えられ、ケーキやパイ、プリン、ドーナツなどが盛り付けられた大皿が並んでいる。その前には取り皿やトングを手にした女性たちがいて、気づけば周りのテーブルも女性客ばかりだ。ラウンジの一角が、デザートビュッフェの会場になっているらしい。時生が唖然としているのに気づいたのか、白石が言った。
「付き合わせてすみません。仕事の早番や夜勤明けにここに来るのが、たまの楽しみなんです。僕は下戸の甘党なもので。だから出世できなかったのかな。警察って、何かというと飲み会でしょう」
 フォークを置いてコーヒーを飲み、照れ臭そうに笑う。白石は元警視庁の刑事で、今はこの近くの大学病院でガードマンをしている。南雲とその友人の古閑塁の知人で、時生とは、ある結婚詐欺事件の捜査を通じて知り合った。時生も笑い、返した。
「ええ。でも、そういうところも白石さんが部下たちに慕われた理由の一つだと思いますよ。南雲さんから聞きましたが、現役時代には後進の指導に尽力されたそうですね。いま一線で活躍してる刑事の中にも、白石さんに育てられた人が大勢いるとか」
 南雲に聞いたというのはウソだが、他は事実だ。知り合った後、白石について調べてみたが、粘り強い捜査と面倒見のいい人柄で職場の信頼は厚かったようだ。だが定年まで十年を残して妻の看病を理由に退職しており、その妻は既に亡くなっているらしい。
 白石はコーヒーカップをソーサーに戻し、「いやいや」と謙遜して話を変えた。
「連絡をいただいて、嬉しかったですよ。僕にご用とか?」
「はい……白石さん。夏に結婚詐欺事件を解決した時、あなたが僕に『近いうちに必ず、お礼をしますので』とおっしゃったのを覚えていますか? まだお気持ちに変わりがなければ、そのお礼ということで、僕の頼みを聞いていただきたいんです」
 背筋を伸ばして告げ、時生は一礼した。白石はきょとんとした後、笑ってこう応えた。
「もちろん覚えています。でも、お礼ならもうしましたよ」
「えっ?」
 時生は驚いたが白石は、「とにかく何か取って来て、座って下さい」と促し、壁際のカウンターを指した。
 時生はデザートをいくつか取り皿に盛り、カップに注いだコーヒーと一緒にテーブルに運んだ。着席すると白石に「頼みというのは?」と問われたので、話を始めた。
「南雲さんは、首席で藝大に入学しながら在学中に筆を折っていますね。本人は『才能に見切りを付けて』と言っていましたが、僕は別の理由があるなと感じました。白石さんが南雲さん、古閑塁さんと知り合ったのは、二人が藝大の学生だった頃ですよね。そのきっかけは、何らかの事件なんじゃないですか? でしたら、詳しく聞かせて下さい」
「それなら、僕じゃなく南雲くんに頼むべきでは?」
 笑顔で問い返しつつ、白石は囓りかけのシュークリームを皿に戻した。予想通りの反応だったので、時生は次の話を始めた。
「僕と南雲さんはコンビを組んでいますが、実はこれが初めてではなく二度目です。一度目は十二年前、リプロマーダー事件の特別捜査本部に招集された時です。そして、ある出来事をきっかけに、僕は南雲さんこそがリプロマーダーなのではと疑うようになりました」
「南雲くんが? そんなバカな。リプロマーダーは、野中という科捜研の女性職員だったんでしょう?」
「裏は取れていませんが、根拠もあります。野中琴音の犯行の自供とその死にも、南雲さんが関わっている疑いがあります」
 昨夜、自宅の小屋裏収納で白石の存在を思い出した時、覚悟を決めた。しかし不安と緊張を覚え、心の中で「このままでは野中がリプロマーダーとされ、事件は終わってしまう。勝負に出るしかないんだ」と自分に言い聞かせた。力と闘志が湧き、時生は戸惑ったように自分を見返している白石に、さらに訴えた。
「十二年前、僕はリプロマーダーと思しき人物を追跡しました。結局、取り逃がしましたがその際、こいつは南雲さんだというある確信を得たんです。加えてひと月前、リプロマーダーが七件目の犯行に及び、野中が死亡した際、南雲さんは姿を消していて、アリバイはありません。そして生前、野中はリプロマーダーの正体に気づいていた様子でした」
 信じられないという顔で聞いていた白石だったが、眼差しは鋭くなり、強い光が宿る。デカの顔だ。時生がそう感じた時、白石は言った。
「なるほど。しかし、『ある確信』が何かは話していただけないんですね?」
「はい。裏が取れていない以上、お話しすると白石さんにご迷惑をかけてしまいます。僕は身内、しかも相棒を告発するという、警察官として犯してはならないタブーを犯そうとしているんです」
「確かにそうだ」と独り言のように呟き、白石は目を伏せた。その顔を時生が祈るような想いで見つめていると、白石も時生を見た。
「夏に結婚詐欺事件を捜査していただいた時、僕はあなたが南雲くんを信頼して下さっていると感じ、喜んだし安心もしました。そして、あなたの本心を伺った今も、あの時感じたことが間違いだったとは思えない……小暮さん。苦しかったでしょう?」
 ふいに問われ、時生は言葉を失う。白石は続けた。
「あなたはこの十二年間、南雲くんを疑いながら、どこかで信じたいと願っていたんじゃないですか? その葛藤を抱えて、十二年間もリプロマーダー事件と向き合ってきたんですね。真偽はともかく、南雲くんは命を預け合う相棒に疑いの念を抱かせるようなことをした。彼を警察官にした人間として、申し訳なく思います」
 後半は時生を真っ直ぐに見て語りかけ、テーブルに両手をついて深く頭を垂れた。その言動に驚く一方、時生は胸を強く衝かれた。確かに苦しかった。でもこんな形で、それを理解してくれる人に出会えるとは。たちまち胸は熱くなり、涙も滲みそうになったが何とか堪え、時生は返した。
「頭を上げて下さい。僕が言いたいのは、そういうことじゃないんです。それに、『彼を警察官にした人間』って」
 すると白石は、「わかりました。お話ししましょう」と頷き、語りだした。
「小暮さんのおっしゃるとおり、僕はある事件を通じて南雲くんたちと知り合いました。あれは二十八年前の春です。当時、僕は上野桜木署にいましたが、ある夜、所轄内にある東京藝術大学の女子学生が亡くなる事件が発生しました。南雲くんと古閑くんはその女子学生の同級生だったんです」
「女子学生の死因は?」
「事故、あるいは自殺。はっきりしませんが、その原因をつくったのは南雲くんです」
「えっ?」
 すると白石は「いや」と首を横に振り、訂正した。
「南雲くん本人はそう考えているということで、これもはっきりしませんでした。しかし女子学生と親しい友人だったそうで、事件後、南雲くんたちは大きなショックを受けていました。その結果、南雲くんは絵を描くのをやめてしまい、古閑くんは自分を責めるような絵ばかりを描くようになった。心配で、僕はたびたび二人を訪ねました。するとしばらくして、古閑くんは自分を取り戻しましたが、南雲くんは絵筆を取ろうとはしなかった」
「そんなことがあったんですか」
「ええ。彼は深く傷つき、生きる目的を見失っていました。だから僕は、彼に警察官への道を勧めたんです。『絵を描けなくなっても、きみの美術の知識と、物事の本質を見抜く力は本物だ。それを犯罪捜査に活かせば、たくさんの人の命を救える』と繰り返し訴えました。その後、南雲くんは僕の誘いを受け入れ、大学を卒業するためと割り切って絵を描き、警視庁に入庁したんです……まあ、本人は『根負けした』と言ってましたけどね」
 最後のワンフレーズは苦笑し、白石は話を締めくくった。時生はまず礼を言い、疑問点を訊ねようとした。が、頭がまったく働かない。一方で胸は激しく揺れ、動悸もした。
「大丈夫ですか?」
 白石が心配そうに訊ねた。我に返り、時生は「大丈夫です」と答えて立ち上がった。早く一人になりたいという衝動に駆られる。
「ありがとうございました。勝手ですが、今の話は南雲さんだけではなく、古閑さんにも言わないで下さい。もう行かないと。また連絡します」
 かろうじてそう告げて会釈し、時生はテーブルを離れた。後ろで白石が何か言うのが聞こえたが、構わずレジカウンターに歩く。ジャケットのポケットから財布を取り出そうとすると、店員の男に、
「デザートビュッフェの代金は前払いです。お客様のぶんも、お連れ様にお支払いいただいております」
 と微笑まれた。「お礼ならもうしましたよ」って、このことか。そう閃き、納得もした時生だが白石を振り向く余裕はない。そのままラウンジを出て、ホテルの玄関に向かった。

 

(つづく)