第一話 汚名 Bad Rap


 
 空き地に入るなり、マルは駆けだした。竹田梓が握ったプラスチック製のハンドルから、するするとリードが伸びていく。縮れたグレーの毛に覆われたマルの体は、すぐに草むらの奥に消えた。
 こうなると思ったのよ。雑草を掻き分けてマルに続きながら、梓は心の中で呟いた。小学生の娘たちが「犬を飼いたい」と騒ぎだしたのは、半年前。梓は「すぐ飽きるんでしょ」と反対したが、娘たちは「ちゃんと世話をする」と言い張り、夫の泰広を口説き落としてしまった。そこでトイプードルの子犬を買い、マルと名付けた。娘たちは争うようにマルの世話をしたが、それも三カ月ほど。今ではマルの餌やりやトイレを兼ねた散歩など、すべて梓がやっている。
 マルは可愛いからいいけど、娘たちのあの飽きっぽさは誰に似たのかしら。ふとそんな疑問がよぎり、梓は眉をひそめた。しかしそういう自分も小学生の頃、飼っていたカメが予想外に大きくなって持て余し、近所の池に放したのを思い出した。気まずさが胸に広がった矢先、ジャケットのポケットでスマホのアラームが鳴った。もう六時だわ。パパを起こさなきゃ。気まずさを振り切り、梓はアラームを止めた。
「マル、帰るわよ。トイレは済んだ?」
 そう呼びかけ、糞を処理するための道具が入ったミニトートを手に足を速めた。気づけば、全長三メートルのリードはいっぱいまで伸びている。いつもはこんな奥まで行かないのに。訝しがりつつ、梓はさらに進んだ。と、マルが甲高い声で吠え始め、リードが左右に揺れた。
「どうしたの?」
 梓は問いかけ、群生したススキの間を抜けた。すると視界が開け、数メートル先にマルの後ろ姿が見えた。うろうろしながら、向かいの何かに吠えている。
「しっ。静かに」
 一度後ろを振り向いてから告げ、マルに歩み寄った。この空き地は住宅街にあり、近隣住民からは「犬のトイレに使うな」「鳴き声がうるさい」と苦情があると聞いている。梓は素早くマルを抱き上げ、前方を覗いた。とたんに喉の奥から「ひっ」と声を漏らし、固まった。
 なぎ倒された雑草の上に、男がいた。茶色っぽいジャケットとスラックスを身につけ、仰向けで倒れている。その胸には黒い柄の付いたナイフが突き刺さり、大きく見開かれた目は生きた人のものではない。
 恐怖に襲われ、梓は身を翻した。足をバタつかせながら鳴き続けるマルを抱え、来た道を戻る。と、空き地の前の道を散歩中と思しき年配の男女が通りかかった。
「すみません!」
 かろうじて出た声に、マルの鳴き声が重なる。驚いて立ち止まった男女に、梓は転がるように駆け寄った。



「─私がプロファイリングした犯罪者たちは常軌を逸していて、同じ人間とは思えないようなやつも多かった。でも、そういうやつに限って、妙に満ち足りてるの。言うことと、やることに矛盾がない。ある意味、赤ちゃんみたいに無垢で自由なのよ」
 そこで言葉を切り、野中琴音は息をついた。その細い音が、ノートパソコンのスピーカーから流れる。わずかな沈黙の後、野中は話を再開した。
「やつらの無垢さと自由さは、憐情とか倫理感とかと引き換えに手に入れたものだってわかってた。でも、やつらと向き合ううちに、いつの間にか憧れを抱くようになったの……リプロマーダーとしての最初の犯行は、はずみだった。被害者はホストに入れ込んでいて、ライバル関係にあった別の女性が被害者を『育児放棄してる』って非難するSNSの投稿を、偶然見たの。犯罪者の気持ちを理解するため、被害者も悪人だしって心の中で言い訳もした。でも、二件目からは」
 顔を歪め、野中は俯いた。ライトグレーのジャケットに包まれた肩が、小刻みに震えだす。椅子に座り、向かいにセットしたスマホに語りかけている様子だ。場所はどこかの部屋の中で、明かりが点り、後ろには白い壁が見えた。
「少し前、小暮くんに『野中さんが惚れるのは既婚者や彼女のいる男ばっかり』って言われたでしょ? それには理由があるの。親が不仲だったせいか、私は奥さんや彼女が大好きで、大切にしてる男性に惹かれるの。その男性の、奥さんや彼女に向けた眼差しが愛おしくて、自分のものにしたくなる。中でもすごい力で惹かれたのが、小暮くん、あなただった。ずっと前から、好きだったのよ」
 途中で顔を上げ、野中は訴えた。その声は震え、ノートパソコンの液晶ディスプレイ越しに、頬を伝う涙が見える。
「あなたへの想いが芽生えて、私は自分を恥じた。だからこの十二年間、必死に自分を抑えてきたの。でも、ダメだった……ごめんね。こんな形でしか、償えない。だけど、この気持ちは本当よ。私はあなたと、あなたの家族が大好きで─」
 脇から伸びて来た手がノートパソコンのキーボードを押し、動画を止めた。小暮時生が液晶ディスプレイの中の野中から目をそらせずにいると、手の主の村崎舞花は言った。
「ここまでで、気づいたことは? 知っての通り野中琴音は命を絶つ前、リプロマーダー事件特別捜査本部にメールを送信しました。メールには動画が二本添付されており、そのうちの一本がこれで、あなた宛てのものです」
 淡々と告げ、村崎は時生の前から自分のノートパソコンを回収し、テーブルの向かいの席に戻った。黒いパンツスーツを着て、小作りの顔に下半分が縁なしのメガネをかけている。二十九歳の村崎は警視で、警視庁楠町西署刑事課の課長だ。ここは署内の小会議室で、楕円形のテーブルには時生と村崎の他、数人の刑事が着いている。時生以外は全員、本庁のリプロマーダー事件特別捜査本部のメンバーだ。村崎を見て、時生は答えた。
「いえ。気づいたことや知っていることは、最初にこの動画を見た時にお話しした通りです」
「最初に動画を見たのは、事件直後です。気が動転していたでしょうし、ひと月経った今なら、新たな発見があるのでは?」
 村崎は食い下がったが、時生は「すみません」とだけ返して頭を下げた。と、今度は村崎の隣に座った年配の刑事が問うた。
「もう一本の動画は特別捜査本部宛てで、野中はそこでも自分こそがリプロマーダーで、なぜ犯行に及んだかを語っていた。今の動画との違いは、お前に対する恋愛感情の吐露の有無だ。これまでの聴取で、お前は野中とは友人関係だったと話しているが、本当か?」
「はい」
 時生は即答したが、年配の刑事は眼差しと口調を強めてさらに問うた。
「だが、野中の気持ちに気づいてたんじゃないか? お前は妻と別居中だろう。野中に気移りしたり、それを匂わせるような態度を取ったりしなかったと断言できるか?」
「できます」
 そう答え、「それに、妻と別居しているのは彼女が留学中だからです」と続けたかったが、言葉が出て来ない。時生がもどかしさを覚えた矢先、隣でばしん、と音がしてテーブルが小さく揺れた。
「いい加減にして下さい。俺は小暮の元相棒で、野中とも何度も飲んだ。二人が、あなた方が考えてるような仲じゃなかったのは明らかですよ」
 手にした書類ファイルを放り出すようにテーブルに置き、そう告げたのは井手義春巡査部長。今は特別捜査本部に招集されているが、楠町西署の刑事だ。とっさに黙った村崎と年配の刑事をぎょろりとした目で見据え、井手はさらに言った。
「そもそも、小暮も事件の被害者なんですよ。友人として信頼していた野中に裏切られた上、娘を誘拐されたんだ。キャリアだろうがベテランだろうが、そんなこともわからないようじゃ、デカを名乗る資格はありませんよ」
「なんだと?」
 顔を険しくし、年配の刑事が立ち上がろうとした。すると村崎は顔の脇に手を上げてそれを止め、井手に返した。
「わかりました。ここまでにしましょう」
 そして立ち上がるとノートパソコンとバッグを抱え、時生に「お疲れ様でした」と会釈してドアに向かった。納得がいかない様子ながら年配の刑事も続き、その背中に井手が「俺はもう少しここにいます」と声をかける。村崎たちが出て行くと、井手は「やれやれ」と息をつき、椅子に背中を預けてテーブルの下の脚を伸ばした。隣を見て、時生は言った。
「すみません」
「謝ることはねえ。むしろ、俺が礼を言いたいぐらいだ……見たか? デカを名乗る資格はねえと言われた時の、あの女の顔」
「あの女って。その発言を村崎課長に聞かれたら、井手さんの方が刑事を名乗れなくなりますよ」
 時生は呆れたが、井手は肩を揺らし、いかにも楽しげに笑った。叩き上げのデカを自任する井手は、東大卒の、いわゆるキャリア警察官の村崎を目の敵にしている。
 脚を引っ込めて椅子に座り直し、井手は話を変えた。
「波瑠ちゃんはどうしてる?」
「お陰様で、元気です。誘拐された直後に薬物を注射されて意識を失ったようで、あの時のことは『何も覚えてない』と話しています」
 一カ月前、時生と中学二年生の長女・波瑠はある事件に巻き込まれた。事件は無事に解決したが、その直後、現場から波瑠と、事件の犯人である二人の男が何者かに連れ去られた。数時間後、三人は発見され、波瑠は意識を失っていただけだったが、二人の男のうち一人は死亡しており、昏睡状態だったもう一人の男も搬送された病院で亡くなった。遺体と周辺の状況から、現場はジョン・ウィリアム・ウォーターハウスというイギリスの画家が一八七四年に描いた、「眠りと異母兄弟の死」という絵画を模したものと判明。警察は連続殺人犯、通称・リプロマーダーによる七件目の犯行と断定した。
「なら何よりだ。事件のことは、さっさと忘れた方がいい」
 厳しい顔になり、井手が告げる。時生は「ええ」と頷き、少し間を置いて訊ねた。
「特別捜査本部は、リプロマーダーは野中さんだと考えているんですか?」
「ああ。被害者の男二人はいわゆる悪人だが、事件発生時にそれを知っていたのは捜査関係者だけで、野中もその一人だ。加えて、彼女の自宅マンションからは犯行を匂わせるメモや、過去に起きたリプロマーダー事件の被害者の所持品や毛髪が見つかっている。動画で語っていた犯行動機にも信憑性があるし、何より、野中の趣味はアートの鑑賞と収集だ」
「しかし犯行の多くは、女性には体力的に難しいものです。それに野中さんがリプロマーダーだとしたら、資金源は? どの現場も、絵画の模倣には相当な金がかかっています。加えて、十二年間止めていた犯行をなぜ再開したのかも不明です」
「男だよ。野中には、去年別れた恋人がいた。四十代の会社経営者で、別れた後も野中に未練があり、『何でもする』とつきまとっていたらしい。元恋人を共犯者に引き込んで、犯行を再開したんじゃねえか? 十二年前の四件の犯行も、資金源は男だろう。腕利きプロファイラーの野中なら、お手のものだ。ちなみに、会社経営者の元恋人は、ひと月前の事件直後に行方不明になってる」
 井手はそう推測し、時生も確かに野中なら、自分に惚れた男を操るのも可能だろうと思う。同時にひと月前の事件の前、「何でもする」とつきまとった元恋人の話で野中をからかったのを思い出した。たちまち、やや大きめの前歯とえくぼが印象的な野中の笑顔と、動画の「ずっと前から、好きだったのよ」という言葉、さらに事件直後に見せられた、野中の遺体の写真が頭に浮かぶ。胸が締め付けられ、息苦しさを覚えた。
「おい。大丈夫か?」
 井手に肩を叩かれ、我に返った。「大丈夫ですよ」と笑う時生を無言で見つめ、井手はまた話を変えた。
「ダ・ヴィンチ殿はどうしてる?」
「さあ。最近、南雲さんとは別行動なんですよ」
 南雲士郎警部補は、時生の相棒の刑事だ。彼には「ダ・ヴィンチ刑事」というあだ名があるのだが、井手は「ダ・ヴィンチ殿」と呼ぶ。ひと月前の事件の後、南雲と時生はたびたび本庁のリプロマーダー事件特別捜査本部の聴取を受け、また時生は波瑠のフォローのために職務を休むことも多く、南雲と顔を合わせたのはわずかだ。
「そうか。あの人のことだから、涼しい顔でカフェオレでも飲んでいそうだけどな」
 そう言って、井手は笑った。時生が「南雲さんがいつも飲んでいるのは、カフェオレじゃなくカフェラテです」と訂正しようかどうか迷っていると、小会議室のドアがノックされた。次にここを使う職員が来たのかと、時生は「はい」と応えて腕時計を覗いた。時刻はちょうど午後一時だ。
 ドアが開き、スーツ姿の男たちが部屋に入って来た。みんな楠町西署の刑事だが、なぜか強ばった顔をして、最後尾には刑事係長の藤野尚志警部もいる。
「お疲れ様です」
 戸惑いながら挨拶し、時生は立ち上がった。しかし男たちはその後ろを抜け、井手に歩み寄った。振り向き、井手は笑顔で手を上げた。
「よう。みんな、元気か?」
「井手さん。申し訳ありませんが、ご同行願います」
 返事の代わりに、一人の刑事が言う。井手は「なんだ。どうした?」と訊き、時生も口を開こうとした。と、別の刑事がこう告げた。
「昨日、管内で男性の刺殺体が発見されました。凶器のナイフには指紋が付着しており、それが井手さんのものと一致しました」
「はい!?」
 時生は声を上げ、井手の顔から笑みが消えた。



 小刀の刃は、できるだけ寝かせて。かんなを掛けるように、軽く浅く削っていく。心の中でそう呟き、南雲士郎は左手に握った小刀を右手に持った鉛筆の先に滑らせた。しゃりっ、と乾いた音がして、小刀に削り取られた木片が落ちていく。
 小刀を押す右手だけを動かし、左手は添えるだけ。さらに呟いたところで、南雲は手を止めた。
「チズさん。『左手は添えるだけ』って何だっけ? どこかで聞いた覚えがあるんだけど、海外ドラマ? それとも映画かな」
 そう問いかけ、カウンターの向こうの厨房に立つ永尾チズを見る。振り向いたチズは、桔梗柄の江戸小紋の着物姿。ぶっきら棒に、
「知らないよ。それより、何本削るつもりだい?」
 と問い返し、顎でカウンターの上を指す。そこには南雲が削り終えた鉛筆がずらりと、二十本以上並んでいる。どれも持ち手の部分が青く、新品。ドイツ製で、定価は一本税込み百八十七円だ。鉛筆の脇にはティッシュペーパーが広げられ、削り取られた木片が小山をつくっていた。
「こうしてると気持ちが落ち着くんだよ。この鉛筆は僕の愛用品だし、芯を削るのはルーティンであるのと同時に、瞑想の意味もあるんだ」
 並んだ鉛筆を眺めて答え、南雲は小刀と削りかけの鉛筆をカウンターに置いた。南雲は左利きなので、小刀も左利き用だ。カウンターには同じく南雲の愛用品の、表紙が赤いスケッチブックも載っている。
 この店は「ぎゃらりー喫茶 ななし洞」といい、南雲の行き付けだ。楠町西署にほど近い脇道沿いに建つ木造の古い二階屋で、薄暗く天井の低い店内には絵画や陶器、彫像などの美術品が所狭しと並んでいる。永尾チズはここの店主で、金髪のショートボブヘアと着物、片手に持った火の点いていない長い煙管がトレードマークだ。中年以上なのは確かだが、年齢不詳。切れ長の目と先の尖った鼻が印象的で、小暮時生は以前チズのことを、「魔女っぽい」と評していた。ふん、と鼻を鳴らし、チズは言った。
「そんなに削っても気持ちが落ち着かないんじゃ、意味ないだろ。あんた、デカを辞めて絵描きになった方がいいんじゃないか? だってそれ、デッサンをする時の削り方だろ」
 並んだ鉛筆の先の木肌が露出した部分は、どれもデコボコが少なく、鉛筆削りで削ったようだ。芯の部分も滑らかで真っ直ぐだが、長さは一・五センチほどある。南雲は「さすが。鋭いね」と笑い、鉛筆の一本を取って答えた。
「でも、これはただのクセだよ。前にも話したけど、絵は才能の限界を感じて、大学時代に筆を折ったんだ」
 するとチズは背後の、埃をかぶったサイフォンやポットなどが並ぶ調理台に手を伸ばし、何かを取って南雲に突き出した。見れば週刊誌で、開かれたページには「リプロマーダーの正体は、警視庁の女プロファイラーだった!」と派手なタイトルが躍り、野中琴音の写真が添えられている。野中が身につけたロックTシャツが見覚えのあるものだと気づき、南雲の気持ちが動く。週刊誌をカウンターに置き、チズはさらに言った。
「あんたと相棒は、この事件に関わってるのかい? マスコミが大騒ぎしてる」
「『関わってる』の解釈によるかな」
 南雲は微笑み、カウンターに置いた紙コップ入りのカフェラテを口に運んだ。紙コップは、表通りにあるチェーンのコーヒーショップのロゴが入っている。ふん、とまた鼻を鳴らし、チズは身を翻した。厨房の隅に行き、調理台の上のラジオを付ける。店内に流れだしたのは通信販売の番組で、今日の商品は補聴器形の集音器らしい。時刻は午後四時過ぎだ。店内にはしばらく集音器の商品説明をする女の声が流れ、それを聴いたチズは言い放った。
「いま聞こえている音を、最大三十倍まで増幅してくれる集音器……だけどそれ、聞きたい音だけじゃなく、他の音も三十倍になるってことだろ? うるさくて仕方ないね」
「確かに」
 紙コップをカウンターに戻し、南雲は笑った。ラジオで通信販売番組を聴き、突っ込みを入れるのがチズの日課兼趣味だ。
 ふと、視界の端にカウンターの上の週刊誌が入った。引き寄せて読もうとした南雲だが思い留まり、週刊誌の表紙を閉じた。その直後、がらりと店の格子戸が開く音がした。振り向いた南雲の目に、美術品が並んだ棚とテーブルの間の通路を進み、カウンターに歩み寄って来る時生の姿が映った。声をかけようとして、時生の後ろにスーツ姿の男が三人いるのに気づく。みんな楠町西署の刑事のようだ。
「やっぱりここにいた。何度も電話したんですよ」
 南雲の前で立ち止まり、時生が告げた。他の三人もその後ろで足を止める。南雲が言葉を返すより早く、顔をしかめたチズが問うた。
「あんたらみんな、デカだろ。前にも言ったけど、いつの間にここはデカの溜まり場になったんだい?」
「チズさん、すみません。緊急事態なんです」
 そう答えたのは、三人のうちの一人・剛田力哉巡査長だ。南雲と親しくしている流れで、彼もここの常連になった。
「坊やがそう言うんじゃ、仕方がないね。ただし、コーヒーは淹れないよ」
「大丈夫。ちゃんと持って来ました」
 即答し、剛田は手に提げたコンビニのレジ袋を持ち上げて見せた。中には、ペットボトルの飲み物が四本入っているようだ。するとチズは納得した様子でラジオを消し、店の奥に消えた。「喫茶」の看板は出しているが、この店は自分の飲むものは持参するのがルールで、何か注文しようものならチズに睨まれる。
「で、どうしたの?」
 改めて自分の前の男たちを見て、南雲は訊ねた。時生が答える。
「今日の午前中、刑事課の井手義春巡査部長が、殺人事件の重要参考人として連行されました」
「またまた。冗談でしょ?」
「本当です。昨日の午前六時頃、管内の藪蘭町一丁目の空き地で、飼い犬を散歩させていた近所の主婦が、男性の遺体を発見しました。通報を受けた捜査員が臨場し、所持品から男性は江島克治さん、四十七歳と判明。検死の結果、江島さんの死因は胸を刺されたことによる出血性ショックとわかり、凶器のナイフの柄から指紋が検出されました。その指紋を照合したところ、警視庁のデータベースに登録されていた井手さんの指紋と一致して」
 そこで言葉を切り、時生は深刻な顔で目を伏せた。南雲は「なるほど」と頷き、問うた。
「確かに緊急事態だね。で、井根さんは殺ったの?」
「何てこと訊くんですか! 井根じゃなく、井手さんだし」
 時生が騒ぎ、その肩を後ろから男の一人が叩く。歳は五十近くで、メタボ体型。諸富という巡査部長のはずだ。時生の隣に進み出た諸富が、南雲の問いに答える。
「井手さんは犯行を否認しています。しかし、被害者の江島さんと井手さんは訳ありの仲で、井手さんには、江島さんの死亡推定時刻のアリバイと記憶がありません」
「そりゃ大変だ」
「大変ですよ。でも、僕らは井手さんの無実を信じています」
 残りの一人も口を開いた。四十手前の痩せた男で、名前は確か糸居、諸富の相棒だ。その言葉に時生と諸富が頷き、剛田も言う。
「井手さんをかばうつもりはありません。でもあの人、やったなら『やった』って言うと思うんです。その上で、延々自分語りをするタイプっていうか」
 井手のことはよく知らないが剛田の見解が面白く、南雲はつい「それ、いいね」と笑ってしまう。剛田は二十六歳の新人刑事で、井手の相棒だ。細身・色白のイケメンで、肌と髪もツヤツヤのサラサラ。常々「趣味は美容。むさくて怖い刑事のイメージを変えたい」「目標は『かわいすぎる刑事』」と話している。と、南雲の反応を誤解したのか時生が告げた。
「じゃあ、南雲さんも仲間になってくれますね」
「仲間? 何の?」
「井手さんが連行された後、剛田くんもリプロマーダー事件特別捜査本部から署に戻されました。で、僕と剛田くん、諸富さん、糸居くんで相談して、井手さんの無実を証明しようってことになったんです。南雲さんも、一緒にやりましょう」
「僕が役に立てるとは思えないなあ。他にやることもあるし」
「お願いします。僕ら四人は井手さんと親しいってことで、江島さんの事件の捜査から外されちゃったんです。ダ・ヴィンチ刑事の力を貸して下さい」
 剛田に頭を下げられ、南雲は「う~ん」と首を傾げた。すると諸富が、満を持してという感じで切り出した。
「南雲さん。夏の事件で、あなたは僕に借りがあるはずです」
「そうだっけ?」
 と、とぼけようとした南雲だったが、小暮に「忘れたとは言わせませんよ」と迫られて黙る。確かに夏にある事件を解決した際、例によって無理を通した南雲は諸富に、「貸し一ですよ」と言われていた。ため息をつき、南雲は呟いた。
「『充分終わりについて考えよ。最初に終わりのことを思案せよ』。レオナルド・ダ・ヴィンチのこの名言を、自分に授けたいよ」
 そして顔を上げ、「事件のことを詳しく教えて」と促した。



 翌日の午前九時過ぎ。時生は南雲と楠町西署のセダンに乗っていた。
 井手の連行を受け、リプロマーダー事件特別捜査本部に招集されていた刑事課長の村崎舞花が署に戻って来た。村崎の指揮の下、江島の事件の捜査が開始されたが、当然、時生と南雲、剛田や諸富たちはそのメンバーではない。そこで時生は村崎に「パトロールに行きます」と告げ、南雲と署を出た。剛田や諸富たちも、それぞれ別の仕事をするふりをして、江島の事件の捜査に取りかかっているはずだ。
「なるほどねえ」
 そう呟いて、南雲は読んでいた書類の束を下ろした。黒い三つ揃いにノーネクタイの白いワイシャツといういつものスタイルで助手席に座り、膝に表紙が赤いスケッチブックを載せている。
「諸富さんは井手さんと江島さんの関係を『訳あり』って言ってましたけど、むしろ『因縁の仲』って感じですよね」
 横目で隣を見て、時生は言った。南雲が持った書類は、七年前に起きたある事件と先日の江島の事件に関する資料だ。七年前の事件については、ITに強い剛田が警視庁のデータベースを調べ、江島の事件は、諸富が刑事課の仲間から資料を入手してくれた。「確かに」と頷き、南雲は問うた。
「七年前の事件のこと、小暮くんは知ってたの?」
「ええ。コンビを組んでた頃、たびたび井手さんが話してましたから」
 ハンドルを握りながら、時生は答えた。セダンは署の管内の大通りを走っている。
 七年前の春。東京都葛飾区にある金町警察署管内の民家で、この家に住む大濱ハツミという八十四歳の女性の遺体が発見された。大濱は結束バンドで両手を縛られた状態で激しい暴行を受けて殺害されており、管内では数週間前に、同じ手口による強盗致傷事件が発生していた。そこで、当時、金町警察署刑事課にいた井手は二つの事件は同一犯の犯行と考え、地道な聞き込みを行った。すると、江島克治が浮上。井手は都内の簡易宿泊所にいた江島を、二つの事件の容疑者として逮捕した。
 金町警察署で井手や他の刑事たちの取調べを受けた江島は、強盗致傷事件については犯行を認めたものの、大濱の事件については否認。その主張は江島が起訴され、裁判が始まっても変わらなかった。やがて一年が経過し、東京地裁は江島に強盗致傷罪で八年の実刑を言い渡したが、大濱の事件については証拠不十分で無罪となった。この結果に井手は激しいショックを受けて憤り、江島が服役してからも事件を忘れることはなかった。
 そして十日ほど前。江島は刑期満了前に仮釈放となり、刑務所を出た。その情報を事前に得ていた井手は江島の居所を突き止め、会いに行ったらしい。証言によると井手は、「助言と激励をしに行っただけ」だそうだが、数回にわたって江島を訪ね、事件の前日には、二人が口論するのを見たという人がいるという。
「村崎課長たちは、井手さんが七年前の事件を根に持ち、出所した江島さんにつきまとった挙げ句、口論になって刺殺したと考えているようです」
 時生がそう続けると、南雲は「だろうね」と応えた。時生もさっき資料に目を通したが、江島は長い顔と細い目が印象的で、七年前の事件以前にも窃盗罪や暴行罪の前科があり、服役経験もあった。
「諸富さんが刑事課の仲間から聞き出した情報では、江島さんの死亡推定時刻は三日前の午後九時から十一時の間。そして井手さんは三日前、午後六時過ぎに本庁のリプロマーダー事件特別捜査本部を出て、午後十一時ごろ帰宅したそうです。今朝、井手さんの家に寄って奥さんに話を聞きましたが、帰宅時、井手さんはひどく酔っ払っていたとか」
 そう続けた時生の頭に、今朝の記憶が蘇る。井手の妻・菜見は気丈に振る舞っていたが、青い顔をしていた。さらに高校一年生の長女・柚葉は井手の事件を知り、「関係ないし」と言ったものの、学校を休んで部屋に閉じこもっているという。と、南雲が問うた。
「てことは、井場さんに江島さんの死亡推定時刻のアリバイと記憶がないのは、酔ってたから?」
「井場さんじゃなく、井手さんです……ええ。井手さんは、行き付けの居酒屋で飲んだようです。『宝屋』という店で、僕も何度か連れて行ってもらったことがあります」
「あっそう。宝屋はどこにあるの?」
「井手さん宅の最寄り駅の近くです……ちなみにそこは、藪蘭町一丁目の遺体発見現場にも近いんですけど」
 後半は気まずさを覚えながら伝えると、南雲は「いいね」と笑った。時生は「どこがですか」と突っ込み、こう告げた。
「というわけで、まず現場、そのあと宝屋に行きましょう」
「了解」と頷き、南雲は書類の束を後部座席に置いた。それを確認し、時生は話を変えた。
「こうして話すのは久しぶりですね。僕はずっと、南雲さんにお詫びしなきゃと思っていました。ひと月前の事件の現場では、取り乱してしまって申し訳ありませんでした。南雲さんのお陰で、娘が見つかったのに」
「気にすることないよ……現場を見つけてすぐ、僕はあれがリプロマーダーの仕業で、模倣した絵画は、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの『眠りと異母兄弟の死』だと気づいたんだ」
「そうですか。僕も事件のあと、『眠りと異母兄弟の死』を見ました。あの絵に描かれているのは、ギリシャ神話に出て来る、なんとかいう兄弟なんですよね。奥に寝かされているのが死の神で、手前は眠りの神だとか」
 時生の言葉を受け、南雲は目を輝かせて語りだした。
「なんとかじゃなく、兄が眠りの神のヒュプノス、弟は死の神のタナトスね。絵の中の二人は並んで横たわってるけど、奥のタナトスが暗がりの中にいるのに対し、手前のヒュプノスには光が当たってる。だからタナトスが『死』を、ヒュプノスは『眠り』を表すと解釈されているんだ。さらにヒュプノスは手にオレンジ色の花を二輪、ピンク色の花を一輪持ってるでしょ? あれは芥子で、昏睡または恍惚状態のシンボルだと考えられる。だから僕は現場で寝椅子に寝かされた被害者の二人の男を見て、奥の一人は既に死亡し、手前の一人は昏睡状態だろうとも思った。リプロマーダーがあの絵を選んだのは、被害者の二人が違法薬物の売買に手を染めていたからだろうね」
「僕もそう思いました。芥子は、麻薬のアヘンの原料ですもんね」
「うん……だから二人の足元にもう一人の被害者、波瑠ちゃんがいるのに気づいた時は驚いたよ。すぐに気を失ってるだけだってわかったし、リプロマーダーが狙うのは悪人だけだから大丈夫とも思ったけど、気が動転して。僕の方こそ、あの時はごめんね」
 そう言って隣に向き直り、南雲は頭を下げた。白々しい言い訳をしやがって。心の中で返し、時生は強い怒りを覚えた。リプロマーダーが犯行を開始した十二年前には、本庁の特別捜査本部で南雲とコンビを組み、ともに事件を追っていた時生だが、ある出来事をきっかけに南雲こそがリプロマーダーなのでは? と疑うようになった。そして密かに事件と南雲を調べ続けていたのだが、ひと月前の事件で、その疑惑は確信に変わった。
 ひと月前の事件が起きた時、被害者の三人と一緒に南雲も行方不明になった。事件後、南雲は三人が拉致されたと思しきビルの前で不審なミニバンを目撃し、追跡したと証言した。そして現場である家具メーカーの倉庫に辿り着き、三人を発見したという。もちろん時生はこれを信じておらず、ミニバンを運転していたのは南雲だろうと考えている。加えて、昨日井手は野中をリプロマーダーだと疑う理由として、被害者三人のうちの二人が悪人だったのを知っていたのは捜査関係者だけだと話していたが、南雲もその一人に該当する。
 まだだ。リプロマーダーの正体は間違いなく南雲さんだが、その証拠を掴めていない。こみ上げる怒りをぐっと堪え、時生は首を横に振って「とんでもない」と応えた。
「それはそうと、昨日僕らが力を貸して欲しいと頼んだ時、南雲さんは『他にやることもあるし』と言ったでしょう。やることって、リプロマーダー事件の捜査ですか? なら南雲さんは、野中さんはリプロマーダーじゃないと思ってるんですね」
 用心深く、かつ強気の口調で畳みかける。昨日からずっと考えていたことだ。すると南雲は、あっさりこう答えた。
「そうだよ。琴音ちゃんが遺した動画を見たけど、プロファイリングを担当した犯罪者に感化されたなんて、犯行動機として陳腐だし美しくない。琴音ちゃんは情に厚い人だったけど、職務には確固たる態度で取り組んでいたよ」
「僕もそう思います。自宅から見つかったという物証は、仕込まれたものかもしれないし、共犯者だと疑われている元恋人も、行方不明らしいですからね。だけど、野中さんがアート好きで、そっち方面の知識や人脈があったのは事実でしょう?」
「まあね。でも、リプロマーダーが選んだ絵画は琴音ちゃんの好みじゃないよ。僕は彼女とアートの話をしたし、収集した作品を知ってるからね。本庁の特別捜査本部の人にもそう伝えたんだけど、取り合ってもらえなかった」
 不本意そうに説明し、南雲は肩をすくめた。じゃあ、誰が野中さんを……まさか、それも南雲さんが。そうよぎったとたん、時生は緊張し、寒気を覚えた。しかしそれをぐっと堪え、ハンドルを握り直して言った。
「とにかく、リプロマーダー事件はまだ終わってないんですね」
「そういうこと」と返し、南雲はスケッチブックを抱えて前を向いた。



 間もなく藪蘭町一丁目に着いた。しかし事件現場の空き地には署の刑事がおり、付近の民家にも、聞き込みをする刑事たちの姿があった。顔を合わせるとまずいので、時生たちはセダンから降りずにその場を離れた。
 五分ほどで、宝屋に到着した。駅前の繁華街の一角で、飲食店やコンビニなどが並んでいる。時生は通りの端にセダンを停め、南雲とともに宝屋に向かった。小さなビルの一階で、暖簾は出ていないが木製の格子戸の奥には明かりが点っている。
「こんにちは」
 そう声をかけ、時生は格子戸を開けて店に入った。カウンターと、その向かいにテーブルが数台並ぶ小さな店で、掃除は行き届き、白木のカウンターにもシミやくすみはない。カウンターの中の厨房に人気はないが、ステンレス製の調理台には食材と調理器具が並び、食べ物の匂いが漂っていた。
「この芳しい香り。出汁と醤油、砂糖、みりんかな。食材は牛肉にタマネギ、ジャガイモも入ってるね」
 目を閉じ、鼻をひくつかせて南雲が呟いた時、厨房の奥から男が顔を出した。
「小暮さん。いらっしゃい」
 笑顔で会釈し、男は厨房に進み入った。歳は五十代半ば。髪を五分刈りにして、小柄だががっしりした体に、濃紺の作務衣を着ている。会釈を返し、時生も言う。
「こんにちは。お忙しいところ、すみません……店主の鴨志田晃さんです。こちらは、僕の相棒の南雲刑事」
 カウンター越しに二人を紹介する。「どうも」と頭を下げるなり、南雲は訊ねた。
「ひょっとして、ランチ営業をしているんですか? 何時から?」
「十一時だよ。少し早いけど、食べて行くかい?」
「ぜひ!」と即答した南雲を「違うでしょ」と咎め、時生は鴨志田に告げた。
「さっき電話で伝えたように、井手さんの件で話を伺いたいんです」
「いいけど、昨日も別の刑事さんが来たよ」
 白いものが交じった太い眉をひそめ、鴨志田は顎で店の引き戸を指した。仕事中に迷惑というのもあるだろうが、事件の話をしたくないのだろう。以前、井手が鴨志田について「俺に負けず劣らず偏屈なんだが、仕事に妥協しないところも一緒だから気が合うんだ」と話していたのを思い出す。カウンターに歩み寄り、時生はこう続けた。
「井手さんを気遣って下さっているんですね。でも、事件にどう関わっていたにしろ、真相を明らかにするのが井手さんのためだと思います。どうか力を貸して下さい」
 一気に告げて、頭を下げる。わずかな沈黙の後、鴨志田は「わかった。とにかく座りな」と応えた。時生は礼を言い、南雲とカウンターにセットされた椅子に座った。
「三日前の夜、井手さんはこちらに来たそうですね。何時頃ですか? 一人で?」
 向かいを見て、時生は質問を始めた。ステンレス製のポットから二客の湯飲み茶碗にお茶を注ぎ、鴨志田が答える。
「七時前で、一人だったよ。店は空いてたけど、井手さんはいつも通り、カウンターの端に座ってた」
「どんな様子でしたか? 注文したものは?」
「むっつり黙り込んで、ひたすら飲んでた。まず生ビールで、その後は焼酎のロック。つまみは枝豆と焼き鳥の盛り合わせ、ポテトサラダだったかな。いつになくペースが速くて、来てから二時間もしないで焼酎のボトルを空けてた。かなり酔ってたから、『その辺にしておきな』って水を出したんだけど、新しいボトルを入れるって聞かなくて困ったよ」
 眉根を寄せてそう説明し、鴨志田は時生たちの前に薄緑色の湯飲み茶碗を置いた。他の刑事にも同じことを訊かれたらしく、慣れた口調だ。
 ビールのあと焼酎という流れと、つまみのチョイスはいつもの井手さんだ。でも、職場や家庭のグチと文句を言いながらチビチビ、ダラダラ飲み続けるのが井手さんのスタイルで、二時間もしないでボトルを空けたというのは引っかかるな。そう心の中で呟き、時生は質問を続けた。
「飲んでいる間、井手さんは何か話しましたか? あるいは誰かと電話をしたとか」
「話すっていうより、独り言だな。『あの野郎』とか『ふざけんな』とか。呟き声だったけど、あの顔だから怖がって他の客が帰っちまってさ。でも井手さん、最近はずっとあんな感じだったな。電話はしてなかったと思うよ」
「そうですか。店を出たのは何時頃?」
「十時半頃かな。ますます不機嫌になって騒ぎだしたから、『いい加減にしな』って言って帰らせたんだ。酔ってふらついてはいたけど、ちゃんと歩けてたよ。ただ、出て行く時はえらく興奮した様子で『あの野郎、絶対許さねえ』ってわめいてた」
 タイミングからして、「あの野郎」は江島さんのことかもしれないな。十時半頃ここを出たのなら、午後九時から十一時の間という江島さんの死亡推定時刻に間に合うし、井手さんは午後十一時頃に帰宅したっていう菜見さんの証言とも矛盾しない。それに、ふらついていても歩けたのなら、犯行も可能かもしれない。時生はそう考え、さらに鴨志田は今の話を、井手の「絶対許さねえ」という発言を含めて別の刑事にも伝えたんだろうなとも思う。たちまち気が重くなったが、隣の南雲は、おいしそうに湯飲み茶碗のお茶をすすっている。
「事件現場はこの近くなんだろ? 警察は、三日前の晩、井手さんがここを出た後に何かやったと考えてるのかい? こんなことになるのなら、俺が引き留めるか、家まで送って行きゃよかった」
 目を伏せ、自分を責めるように鴨志田が言う。首を横に振り、時生は返した。
「鴨志田さんに責任はありませんし、捜査は始まったばかりですから。またお話を伺うかもしれませんし、何か思い出したら報せて下さい」
「わかった」と鴨志田が頷き、それを待っていたように、南雲が口を開いた。
「話は終わった? じゃあ、ランチを。メニューは肉じゃがですよね」
「ああ。八百八十円の肉じゃが定食と、千円のビーフシチュー定食があるよ」
「肉じゃが定食をお願いします……小暮くんは、ビーフシチューね。で、一口ちょうだい」
 隣の時生を見て、当然のように言い放つ。「ランチに千円!?」と声を上げたくなった時生だが、鴨志田の手前、仕方なく「ビーフシチュー定食を下さい」と告げた。「はいよ」と応え、鴨志田が手を動かしだす。改めて店内を眺め、南雲は言った。
「素敵なお店ですね」
「ありがとう」と鴨志田が笑い、時生も言う。
「でしょう? 居心地が良くて、お酒も肴もおいしい。井手さん曰く、『サラリーマンのオアシス』だそうです」
「なるほど。井賀さん、いいこと言うね」
「井賀じゃなく、井手……わざと間違えてません?」
 時生が疑いの目を向けると、南雲は「違うよ」と首を横に振った。
「あの人、見た目のインパクトがすごいから、名前まで気が回らなくて……でも覚えたよ。井手さんね。もう間違えない」
「本当かなあ」
 二人でやり取りしているうちに、塗り物の盆に載った料理が運ばれて来た。時生の盆には、白い深皿に盛られたビーフシチューに白飯とミニサラダ、冷茶が添えられている。湯気の立つビーフシチューは、大きめに切られたジャガイモやニンジンといい、艶やかでコクもありそうなデミグラスソースといい、とてもおいしそうだ。
「素晴らしい。待っていた甲斐がありました」
 その声に、時生は隣を見た。南雲の前の盆には、中ぶりの鉢に盛られた肉じゃがと白飯、味噌汁、漬物、冷茶が載っている。しっかり煮込まれているのに牛肉は柔らかそうで、野菜の煮崩れは皆無だ。家族の食事を作る身として時生が感心していると、南雲は、
「この器、初期伊万里の白磁ですか?」
 と訊ね、肉じゃがの鉢を指した。鉢は白く素朴なつくりで、時生のビーフシチューの深皿と似たテイストだ。鴨志田は嬉しそうに、「よくわかったね」と頷いた。
「俺は焼き物が好きで、買い集めたものを店で使ってるんだ。店の食材は、漁師をしている俺の実家と、農家をしている女房の実家から仕入れてるよ」
「なるほど。それで、おいしい料理を提供できるんですね。器のチョイスといい、完璧です……小暮くんも、古伊万里は知ってるよね? 江戸時代に肥前、つまり佐賀県と長崎県で焼かれた磁器のことだよ。中でも一六一○年から一六四○年頃につくられたものは初期伊万里と呼ばれていて、素朴で温かみのある風合いが人気なんだ。この白磁もそうで、実に美しいよね」
 後半は時生に向かって語り、南雲は肉じゃがの鉢を撫でた。時間ないし、早く食べたいんだけどと心の中でぼやきつつ、時生もビーフシチューの深皿を見下ろす。
「言われてみれば、洒落たお皿ですね。でもこれ、電子レンジは使えます?」
 とたんに南雲は顔をしかめ、ため息をついた。
「初期伊万里を電子レンジに? とんでもない。美しくないのを通り越して、暴挙だよ」
「いいから、食べましょう。冷めちゃいますよ」
 そう返し、時生は盆の上のスプーンを取った。ぶつくさと言いながら南雲も盆の上の割り箸を手に取ったが、急に動きを止めた。
「どうしました?」
 時生も手を止め、問うた。南雲は箸袋と、そこから出した割り箸を見ている。箸袋は和紙に金色の文字で「宝屋」と箔押しされているが、割り箸は持ち手の四隅を面取りして中央に割れ目の入った、ありふれたものだ。顔を上げ、南雲は答えた。
「箸袋のデザインに感心してたんだ。シンプルながらも、書体のチョイスが秀逸で─」
「いただきます!」
 張り上げた声で南雲の蘊蓄を遮り、時生はビーフシチューを食べ始めた。「話の途中なのに」と抗議しつつ南雲が割り箸を割ったその時、鴨志田が「あのさ」と言った。
「井手さんは、俺が六年前にこの店を始めた時からの常連なんだ。お客さんを紹介してくれたり、文句を言いながらも他の常連客の相談に乗ってくれたりしてさ。他じゃどうか知らねえけど、俺にとっちゃ井手さんはいい人だったし、無実を信じてるよ」
 力のこもった声で断言し、真っ直ぐに時生を見る。「僕も信じてます」と応えたかった時生だが、「わかりました」とだけ言い、食事を続けた。横目で南雲を窺うと、肉じゃがを頬張り、「これ、おいしい!」と騒いでいた。



 食事を終え、時生たちは鴨志田に礼を言って宝屋を出た。帰りが遅いと村崎に怪しまれるので、正午前に署に戻った。駐車場にセダンを停め、二人で通路を署の玄関に向かう。と、駐車場の隅に諸富と、その相棒の糸居洸の姿があった。誰かと話をしているようだ。時生は周囲を確認して南雲を促し、諸富たちに歩み寄った。
「お疲れ様です」
 後ろから声をかけると、諸富たちが振り返った。「お疲れ」と応えた諸富は、向かいを示して告げた。
「大濱元行さんと、葛西美津さんだ。元行さんは、七年前の事件の被害者・大濱ハツミさんの息子さんで、葛西さんはそのお知り合いだ。江島さんの件で刑事課にいらしたので、帰り際にお声がけして話を伺っていたんだ」
 時生は背筋を伸ばして、「ご足労ありがとうございます」と頭を下げ、南雲は「どうも」と微笑みかける。それに無言の会釈で応えた元行は、中背で小太り。地味なスーツ姿で、小鼻が広がり気味のところが写真の母親と似ている。歳は六十代半ばか。黒いワンピース姿の葛西は背が高く、メタルフレームのメガネをかけている。歳は三十過ぎだろう。
「元行さんは勤め先を定年退職後、『灯火の会』というNPO法人で犯罪被害者の支援活動をされているそうだ。葛西さんも、灯火の会のメンバーだ」
 今度は糸居が説明する。と、元行が硬い顔で補足した。
「ニュースで江島の事件を知った直後、刑事さんから楠町西署に来て欲しいと連絡がありました。私が犯人だと疑ってるんだろうなと思ったから、証人を連れて来たんです」
「疑っている訳ではなく、関係者のみなさんにお話を伺っているんだと思いますよ。証人というと?」
 そう問うた時生には、葛西が答えた。
「江島という人は、三日前の夜に亡くなったんですよね? その時、元行さんは灯火の会の講演会で静岡の三島にいました。東京に戻ったのは翌朝だし、三島ではずっと私や他の会員が一緒でした」
 てきぱきとした口調で、迷いや戸惑いは感じられない。「だそうだ」とでも言うように諸富が目配せをしてきたので、時生も目配せを返した。話を続けようとした矢先、南雲も問うた。
「江島が殺されたと知って、どう思いました? お母さんの敵でしょ?」
 時生は慌てて「ちょっと」と南雲の腕を引き、元行に「申し訳ありません」と頭を下げた。が、元行は即答した。
「ざまあみろと思いましたよ。この七年間、ずっと江島を恨み続けていましたから。母をあんな目に遭わせたのは江島で間違いないのに、この件に関しては無罪放免ですよ? 何のための裁判ですか。警察だってそうだ。あの時、母の事件を担当した刑事は、『無念を晴らしましょう』と言っていたのに。口先だけだったってことでしょ」
 顔を険しくして捲し立て、葛西がなだめるようにその背中に手をやる。
 警察は裁判の結果に関与していないし、井手さんは口先で何かを言う人じゃない。そう反論したいのを時生が堪えていると、また南雲が訊ねた。
「じゃあ、その刑事が江島を殺したんだとしたら?」
「南雲さん!」
 時生は声を上げ、諸富も「やめて下さい」と南雲を咎める。が、元行は南雲を見返し、こう答えた。
「誰だろうと、江島を殺してくれたなら大感謝ですよ。でも、あの刑事は母の事件なんか、とっくに忘れてるでしょうけど」
「それはどうかなあ」
 南雲が呟き、時生も、
「そんなことはありません。井手さんは、毎年ハツミさんの命日にはお墓参りに行っていました。元行さんにも連絡を取ろうとしましたが、拒否されたと聞いています」
 と返した。ぐっと黙った元行に諸富が取りなすように、「お引き留めして申し訳ありませんでした」と告げる。無言のまま会釈し、元行は署の門の方に歩きだし、葛西も後に続こうとしたが足を止め、時生たちを振り向いた。
「ハツミさんの事件の話は、元行さんから聞いています。口では強気なことを言っても、まだ事件から立ち直れないんです。わかって下さい」
 強い眼差しで訴えるように言い、会釈して元行の後を追う。二人が門から出るのを見送り、時生は息をついた。続けて抗議のために隣を見ると、南雲は片手でジャケットの胸ポケットから持ち手の部分が青い鉛筆を抜き取り、もう片方の手で赤いスケッチブックを開いた。時生はまたかと呆れ、糸居は驚いたように、「どうしたんですか?」と問う。すると南雲は「お構いなく」と答えにならない答えを返し、鉛筆をスケッチブックの上で滑らせ始めた。そしてそのまま身を翻し、署の玄関の方に歩きだした。

 

(つづく)