コロナ禍をきっかけに、自宅でも気軽に美味しいものを食べたいという人が増え「お取り寄せ餃子」の人気が沸騰。その種類はなんと1500種類以上というからビックリ。今回は、誰もが好きな国民的グルメの秘密を、小説『皿の上のジャンボリー』(上下巻)を執筆した蜂須賀敬明さんと、一般社団法人焼き餃子協会の代表理事である小野寺力さんに熱く語ってもらいました!

 

いまや宮崎が消費量日本一の餃子の世界!

 

──焼餃子はどうやって日本に根付いたのかをテーマにした蜂須賀敬明さんの小説『皿の上のジャンボリー』(上下巻)が発売されました。本書は太平洋戦争末期を舞台に、死にかけの脱走兵・グンゾーが焼餃子を食べて生き長らえた場面から始まります。「この未体験の幸福感と美味は一体何なんだ!」と餃子に魅入られたグンゾーは、究極の餃子を求めて旅に出ることに。物語は戦後の冷凍餃子の興隆にまで続く大河ロマン小説で、国民的グルメがどうやって生まれたのかがよくわかります。この奇想天外な小説を、どうして書こうと思ったんですか?

 

蜂須賀敬明(以下=蜂須賀):もともと、僕の父親が東京都の杉並区に住んでいて、満州から帰ってきた「中村さん」という餃子好き一家の話を聞いていたんです。中村さんは餃子を「焼きまんじゅう」としてその界隈で流行らせていた。人知れず餃子で地域を盛り上げていたという話が忘れられず、「焼餃子ってどうして生まれたんだろう?」「どうやって流行っていったんだろう?」と思っていたんです。でも、焼餃子は誰が中国から持ち帰って、どうやって考案したのか、諸説あるんですが、定かではない。だったら、自分で小説にしてやろうと思ったんです。

 

──なるほど。確かに中国は水餃子、蒸餃子が主流なのに、なんで日本は「焼き」なのか。あまり知られていないですね。そのあたりの事情は「一般社団法人焼き餃子協会」の代表理事を務めている小野寺力さんにも聞いてみましょう。

 

単行本の『焼餃子』を持つ蜂須賀敬明氏(左)と小野寺力氏(右)

 

小野寺力(以下=小野寺):餃子といえば、多くの人が宇都宮か浜松を必ず挙げますが、他にもいっぱい美味しい餃子があるんですよ。全国チェーンの「餃子の王将」の発祥は京都ですし、昨年の上半期には宮崎県が餃子の消費量日本一になっています。実は私は2019年の3月に放映されたテレビ番組『マツコの知らない世界』(TBS系)のお取り寄せ餃子特集に出演させていただきました。番組の影響力は大きく、外出があまりできないコロナ禍の状況とあいまって、「お取り寄せ餃子」の需要はますます高まったんです。ところで、蜂須賀さんはお取り寄せ餃子って、全国でどれくらいの銘柄があるか知っていますか?

 

蜂須賀:100~200種類くらいですか?

 

小野寺:実は1500種類くらいあります。しかも、コロナ禍の影響でどんどん増えているんですよ。

 

──そんなにあるんですか。小野寺さんはどれくらい食べられたんですか?

 

小野寺:1000くらいじゃないかと。

 

──それはすごい。絶対、日本一ですよ。日本一食べてますよ。そんな餃子専門家にお聞きしますが、今回の小説『皿の上のジャンボリー』はどうでしたか?

 

小野寺:上巻で主人公のグンゾーがアジアの餃子を食べ歩くというのは、「なるほどな」と思いました。餃子が好きだけど広めるためには知識がなければどうしようもない。いろんな餃子を求めて旅するのは当然です。でも、僕がすごい小説だと思ったのは下巻です。日本に餃子を持ち帰ったメンバーがどうやって焼餃子を広めていくのかというのがテーマ。大森で餃子屋を始めた2人が、店がなかなか流行らなくて悩んでいたことに面白みを感じました。これは現代でも同じです。やっぱり餃子界において、宇都宮と浜松はマーケティングがうまい。この2つが餃子タウンなのは全国民が知っている。ほかの県でも美味しいところはたくさんあるのに、なかなか広まらない。僕はそれを広める活動をしているので、小説にすごく共感しました。

 

──究極の餃子を探求する主人公・グンゾーは、モデルとなった人物はいるんですか?

 

蜂須賀:いません。完全に創作です。いると実話に引っ張られてしまうので、完全にオリジナルにしました。

 

東京で餃子を知って地方でその味を広める

 

──では、餃子発祥と言われている都市やお店はあるんでしょうか?

 

小野寺:諸説あります。昭和22~23年後に開店したといわれている渋谷の伝説的名店「珉珉羊肉館」がそのひとつです。そこで修行した人が各地で店を出して、広まっていったというのが有力説。東京では乃木坂の「珉珉」、大阪には千日前の「珉珉」(昭和28年創業)があります。「宇都宮みんみん」という店もありますが、あれは渋谷とは関係なく、「珉珉という美味しい餃子屋があるから我々もやってみようか」という感じで始まったと聞いています。あと、長野に昭和31年創業の「テンホウ」という中華料理チェーンがありますが、ここも東京の新宿歌舞伎町にあった「餃子会館」(今はもうない)で餃子の美味しさに目覚め、そこで修業したことが起源だそうです。このように、東京で餃子のおいしさを知って、地元に持っていった人は多かったみたいですね。羽根付き餃子の元祖として有名な蒲田の「你好」(ニーハオ)は、中国残留孤児だった八木功さんが、まんじゅうを羽根付きで焼いていたのを参考に、「餃子を羽根付きで焼いてみよう」となり、研究に研究を重ねていまのスタイルになったそうです。ひと口に焼餃子といっても、いろんなルーツがあります。

 

乃木坂の「珉珉」

 

蜂須賀:いやあ、これですよ、これ! 僕はこういう話が聞きたかったんです。小説を書く前に小野寺さんに会っておけばよかったなぁ。

 

──関東以外の地方の餃子はどうやって広まったんですか?

 

小野寺:宮崎県でいえば、満州から引き揚げてきた人が延岡で餃子屋を開き、そこで修業した人たちが高鍋町をはじめ県内各地で餃子を流行らせていったという話です。高鍋町は人口2万人ほどの町ですが、餃子を扱う店が18軒ある「餃子のまち」なんです。博多では鉄板餃子が有名ですが、もともと八幡製鉄所のある八幡で発生して、それが博多に流入しました。とはいっても、八幡の鉄鍋を使っているわけではない。京都などでナポリタンを熱々の状態で提供するために鉄鍋で出しているのにインスパイヤされて、「これで餃子を出せばいいじゃないか!」となり、「八幡といえば鉄だ!」と、うまくマッチングした結果だったんですね。

 

──博多の餃子といえば小ぶりな印象ですが、あれはどうしてなんですか?

 

小野寺:実は博多の餃子だけが小さいわけではない。東に行けば行くほど大きくなる。西に行けば行くほど薄くて小さくなる傾向があります。東に行くと皮の触感を楽しむことに重きをおくのですが、西は皮とあんのくちどけを重視するために薄い。そのあたりはだいぶ違いがあります。

 

蜂須賀:初めて聞く話ばかりです。ルーツを辿ることばかり考えてきたので、現代の餃子事情に触れて感動しております!

 

小野寺:でも、私は世界の餃子事情はそんなに知らないので、そのあたりは蜂須賀さんのほうが詳しいでしょう。

 

蜂須賀:僕が好きなのは中国の東北地方の餃子。戦前の満州あたりですね。酸菜(サンツァイ)という白菜の古漬けを使います。これがすごいラフな漬物で、冬に収穫した白菜を壺に入れて塩をぶっかけて石で封をします。これは古くからある自然発酵に頼る作りかたで、強烈な匂いがするんですが、ダイレクトな味わいが好きです。古漬けのもっときついような感じなので、苦手な人は手を出さないほうがいいですよ(笑)。この酸菜に羊肉のミンチを合わせてあんにします。酸菜は保存食ですからそれを餃子にしたのはやむをえずなんでしょうが、そういう極限状態で作られた料理なのに栄養もたっぷりで、パンチ力もあって美味しい。クセになる味ですよ。満州は日本人も多く住んでいましたし、中国の餃子文化と一体化して生まれたところにも何か縁を感じました。

 

小野寺:上巻に出てくる餃子ですね。もともと日本で焼餃子が流行したとき、肉は羊肉でした。渋谷の「珉珉」もそうです。戦後の東京では、まだ豚肉や牛肉などはなかなか手に入らなかった。肉のクセもそうですが、保存状態もよくなかったので、それをなんとかおいしくするためにスパイスで工夫を凝らし、ニンニクやショウガなどを加え、焼餃子は進化していったのです。戦後、餃子は生きるための食べ物として生まれたんでしょう。

 

※本記事は、2021年1月に公開された『日刊大衆』の「小説『焼餃子』著者×日本一食べる餃子番長アツアツ対談『餃子の魔力』」を再構成したものです。

 

(後編)に続きます

 

【あらすじ】
1940年、首相暗殺に失敗した陸軍中尉のグンゾーは瀕死の状態で朝鮮に流され、死の淵で神秘的な食べ物と出会う。未体験の滋味と幸福感──それは「焼餃子」だった。覚醒したグンゾーはかくして人々に幸せをもたらす「究極の餃子」を探す旅に出ることに。朝鮮のマンドゥ、モンゴルのボーズ、ソ連のペリメニ……様々な餃子と出会い、仲間も増えていく。前代未聞の熱々エンタテイメント、餃子をめぐる究極の大河ロマン小説!