9年前の大津波で家族を亡くし、喜び以外の感情を失ってしまった沖晴。高校生となり、瀬戸内の階段町に流れ着いた。そこで出会ったのは余命一年の音楽教師・京香。2人は心を通わせあい、沖晴は次第に感情を取り戻していく。京香の命が尽きるまえに、沖晴は普通の少年に戻れるのか。感動の傑作青春ラブストーリー、待望の文庫化。
「小説推理」2020年11月号に掲載された書評家・大矢博子さんのレビューで『沖晴くんの涙を殺して』の読みどころをご紹介します。
■『沖晴くんの涙を殺して』 額賀澪 /大矢博子 [評]
感情、この厄介なもの──。「喜び」以外の感情を奪われた高校生は幸せなのか? あたりまえの「感情」が愛おしくなる、海と階段の町の青春小説
病気で余命1年の宣告を受けた踊場京香は、音楽教師の職を辞して海に近い故郷の町へ帰ってきた。そこで京香は志津川沖晴という一人暮らしの高校生と出会う。
常に微笑みをたたえ、テストは満点、スポーツ万能。海に落ちてケガをしたはずなのに、翌日にはすっかりその傷が治っているという驚異的な治癒力。不審に思う京香に、沖晴は自分の過去を話した。
曰く、9年前に北の町を襲った大津波で家族がみんな亡くなってしまったこと。そのとき沖晴は死神と取引をし、「喜び・悲しみ・怒り・嫌悪・怖れ」という人間の5つの感情のうちネガティブな4つを差し出して生還したらしいこと。だから今の自分には喜びの感情しかないこと。そのあと複数の特殊な能力が身についていたこと。
感情のない沖晴と余命のない京香の1年が始まる──。
はじめは、いいなぁ、と思った。喜びの感情しかないなんて、何があっても悲しんだり怒ったりしないで済むなんて、いいなぁ、と。しかし読み進むにつれて、それは大きな間違いだったことに気付いて背筋が冷えた。
この物語は1年かけて、沖晴が手放した感情をひとつずつ取り戻していく過程を描いている。どのように取り戻すかは本編を読まれたいが、怒りや悲しみを感じないということが、嫌悪や恐怖を覚えないということが、逆にどれほど恐ろしくて悲しいことなのかが胸に迫ってくる。
人の感情が揺さぶられるのはどういうときか。他人と接したときだ。好きな人と離れて悲しい。自分の気持ちをわかってもらえなくて怒る。自分勝手な人は嫌いだし、ひとりぼっちは怖い。感情は常に人との関係の中で湧き上がるのだ。そんな思いをまったく感じないとしたら、それはひとりで生きているのと同じではないか。悲しみや怒りの感情がないということは、他者の気持ちを想像することもできないということではないか。
そう考えて腑に落ちた。これはひとりで生きていた沖晴が、他人とのつながりを取り戻す話なのだ。
私たちは生活の中で、時に自分の感情を持て余す。いつまでもヘコんでいたり癇癪を起こしたりして、そんな自分が嫌になることがある。けれどそんな当たり前の感情こそが自分を成長させているのだと、本書は伝えてくる。
死を恐れ、別れを悲しみ、理不尽に怒る「普通の少年」の沖晴は、何も感じなかった頃よりずっと強い。痛くて切なくて、そしてとても清々しい青春小説だ。