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 三月二週目の土曜の晩、不思議なことがおこった。〇時過ぎに住宅街のほうの店の仕事を終えると、少し遠回りしながら帰った。その日は日中の気温が二十度を超え、夜になってもぬるったい風がふいていた。
 ちょうど花丸クリーニング店の倉庫の前を通りがかったときだった。正面から、女がやってくることに気づいた。駅から少し離れたこの辺りで、この時間帯、女が一人で歩いているのを見かけるなんてめったにない。春来が警戒していると、女がふいに足を止めた。なんで立ち止まるんだよ、と思いつつ、平静を装って歩き続けていると、すれ違う瞬間、相手がやにわに言った。
「もしかして、春くん?」
 それは、春来が高校三年生のとき、人生ではじめて付き合った女、夏枝だった。

「わたしね、春くんが小説家になったこと、知ってたよ。本だって買ったことある。あの、視覚障碍者の柔道部員が吹奏楽部員と恋する話」
 夏枝は自信満々の顔でビールジョッキをあおると、そう言った。
「春くんのフェイスブックのアカウントも見つけたけど、今更かなと思って、連絡できなかった。昔ってさ、携帯のキャリア変えると番号も変わったりして、すぐ音信とだえちゃったよね」
 二十数年ぶりに会う夏枝は、医者の妻になっていた。それ以外は見た目も含めて、あまり変わったように見えなかった。セミロングのストレートの黒髪、スレンダーな体型、おしゃべりで仕切り屋の性格。あの晩、ばったりでくわしたときも、ほんの数分の立ち話の間に、あれよあれよと連絡先を交換させられ、あれよあれよと飲みに行く約束をさせられていた。高三で付き合ったときと全く同じだった。
 学校からの帰り道、二つ目の公衆電話のところで待ち伏せされて、いきなり「あたしのこと好きだよね? 付き合う?」と言われたのだ。あまりにびっくりしすぎて、春来は返事ができなかったが、気づいたら毎日一緒に登下校するようになっていた。
 今振り返れば、中学、高校、大学と女子にまったく縁がなかった学生生活の中で、青春らしい唯一の時間だった。結局はたった三カ月で、「やっぱ男としてみられない」という理由で一方的に振られてしまったのだが。
 しかしそれから互いに大学生になり、やがて社会人となり、夏枝が突然仕事をやめてオーストラリアにいってしまうまで、それなりに仲のいい友人同士だった。
 夏枝は帰国後、航空関連の仕事を目指して就活したもののなかなかうまくいかず、結局、大手旅行会社に契約社員として入社し、長らく働いていたという。三十五歳のとき、男性加入者医師限定の結婚相談所で今の夫と知り合い、二年の交際の末、結婚した。
「昔からさ、『男は金』ってよく言ってたもんね。夢、かなったんじゃない?」春来は言った。
「どうかなあ? 今の時代、医者なんてたいして裕福じゃないよ。本当はもっとでっかい玉の輿に乗る予定だったんだけど、随分小さくまとまっちゃった」
 夏枝は本人いわく、極貧の家庭で育った。中学生まで自宅のトイレが汲み取り式だったらしい。金に対するこだわりは、昔から人一倍強かった。そもそも自分に告白してきたのも、「桐山の実家は板橋区赤塚一帯の土地を所有する大地主らしい」という誤った噂を耳にしたのが理由だと、春来はあとになって知った。
「ところでさ、なんであの晩、うちの近所をうろうろしてたわけ? 今、どこに住んでるの?」
「隣の練馬区だよ。このへんから歩いて二十分ぐらいのところ。そんなに遠くない。旦那の病院が近いの。まあ、そんなことはどうでもいいじゃない。最近はどうなの? 彼女は?」
「彼女なんてずっといないよ」
「ずっとって、どのくらい」
「うーん、三年……いや五年…………十年」
「その時の人とはどこで知り合ったの? なんで別れたの?」
「まあ、いろいろあって……」
「ダメダメ、ちゃんと順を追って全部話して。長くなってもいいから」
 春来は言われるまま、紗枝とのなれそめや別れの経緯を語った。青汁のコールセンターのSVとオペレーターとして出会ったこと。数年の交際を経て結婚の話も出たが「作家をやめて、ちゃんとした会社に就職してほしい」と言われ、どうしても受け入れられなかったこと。別れてすぐ彼女は結婚相談所に登録し、三カ月後には婚約、半年後には妊娠していたこと。
「その頃、新人賞とって三年目ぐらいだったかなあ。大学出ても就職先なくて、ずっと派遣やってて、やっと人に堂々と言える職業につけたと思ったのに、結婚のためにまた就活なんて、とても考えられなかった。でもさ、今になって思うよ。あのとき、彼女の言う通りにしておけばよかったのかなあって」
 別れたあとも全くヒット作を出せないまま、派遣の仕事もやめられず、そのうちにパワハラ上司がやってきていじめ抜かれた挙句、パニック障害を発症してしまった。それからもさらにだらだらと売れない作家業にしがみつづけて、いつの間にか四十歳。すっかり、やりなおしのきかない年齢になっている。
「俺、マジで人生詰んでる気がする。あーあ、新卒で公務員にでもなっときゃよかったなあ」
「いやいや、うちらの時代は公務員なんて超絶難関だったじゃん。そっちのほうが無理あるよ。でもさ、コンビニあるだけいいじゃん。いとこのお兄さんからそれなりにお金もらってるんでしょ」
「それ、それだよ」と春来はきゅうりをつまんだ箸を振った。「今、俺は自分一人のためだけに生きてる。自分一人だけだったら、作家の仕事がなくなっても、それなりにやっていける。楽な仕事と、多くはないけど定期的にある収入と、狭いアパートでさ。でも、この暮らしで五十歳、六十歳とやっていけるのか? 七十歳は? 無理だよ。孤独とみじめさにやられて死ぬ」
「うーん」と夏枝は首をひねる。
「でも、誰かパートナーがいれば、たとえばコンビニのオーナー業を継いでもっとがんばるとか、そういうことができる……かもしれない、いつかやってみないかとは、言われてるんだ、一応」
「えー。今まで自由に独身を謳歌してた人が、四十過ぎてそれできるぅ?」
「そうやって俺も思ってたよ。でも、この歳まで独身やってて気づいたんだ。自分のためだけに生きるっていうのは、自分の可能性に期待してるからこそ、できることなんだよ。だけどさ、歳をとるとともに、可能性ってやつは基本、狭まっていくだろ? そんなときにパートナーとか家族とかいないと、だんだん、なんのために生きてるのか、わからなくなってしまうんだよ、きっと。その先はみじめな孤独死だ」
「そんなそんな、結婚なんてしなくていいよ」と夏枝は鼻にしわを寄せる。「第一、デートするのがめんどうくさいんでしょ? 春くんは昔からそうじゃん」
 その通りだった。誰かを好きになっても、デートに出かけるのがめんどうでたまらない。なぜあんなものをみんなしたがるのか、本当に心底全くわからない。デートをするために連絡先の交換を持ちかけるだけで一苦労だし、それから予定を合わせて、店を探して、待ち合わせ場所を決める頃には、何もかもがしんどくて疲労感でぐったりしてしまう。
 それに最近は、見た目を整えることもおっくうになってきた。新しい服も靴もいらない、買いに行くのがめんどうくさい。白髪染めもやりたくない。体を鍛えるなんて、まっぴらごめん。この不精が、異性をますます遠ざけることは十分わかっている。が、すべておっくうでたまらない。
「その二十九歳のときに元カノと別れてから、ずっと恋愛してないの?」
「してない」
「誰ともデートせず?」
「そういうわけでもないけど……」
「ねえ、あれやんないの? 婚活サイトみたいなやつ。やってる人結構いるよね。わたしが独身ならバリバリやるけどなあ」
「やらないね」
 今日はじめて、夏枝に嘘をついた。
「そっか。誰か付き合ってる人とか、付き合いたいなと思ってる人もいないの?」
「いないねえ」
 二回目。
「そっかあ。興味ないなら、恋愛も結婚もしなくていいよ。とくに結婚なんて、世間が言うほどいいもんじゃないよ。わたしなんてさ・・・・・・」
 その後は夏枝の結婚生活をめぐる愚痴を聞いた。夏枝の愚痴を聞くのは、昔から嫌いじゃなかった。話にヤマとオチをつけてくれるので、聞いていて楽しいのだ。
 しかしその晩は、なぜだかあまり楽しい気分になれなかった。夏枝の結婚生活はかなり悲惨な様相を呈しているようだが、それでも夏枝は、その結婚生活を手放す気はさらさらないらしかった。
 たぶん、きっと、いや絶対。一人になりたくないから。みんなそうなんだ。やっぱりなんだかんだ、みんな一人は嫌なんだ。その考えが体にしみこむとともに、みるみる酔いがさめる。胸のあたりがもやもやと重たくなる。
「あ、もう〇時過ぎてる」夏枝が言った。「ねえ、このあとどうする?」
「どうするって、帰らなくて平気なの?」
「平気平気。旦那、夜勤だから。ねえ、昔、よくいったあの公園いこうよ。ここからすぐでしょ? コンビニでお酒買って、あそこで飲みなおそう」
「いや、もう帰ろう」春来は箸をテーブルにぱちんとおいて言った。「ちょっと、仕事もしないといけないし」
「そっか」とつぶやく夏枝の目を見て、はっとした。昔、よく見た目だった。底のない暗い目。
 しかし、すぐに明るい表情になる。「じゃあ、また今度いこう!」
 駅前のタクシー乗り場で別れるとき、すっかり酔っぱらった夏枝は言った。「あのさー、あれ、やってないの? なんだっけ、婚活サイト。今流行ってるんでしょ? わたしが独身だったらガシガシやるけどなー」
 春来はやっているともやっていないとも言わなかった。無事、夏枝をタクシーに乗せると、スマホを出して確かめる。
 婚活サイトで知り合った美香子から、一カ月ぶりにメッセージがきていた。

 周りの誰にも内緒で婚活サイトに登録したのは、去年の夏の終わりのことだ。そんなもの死んでもやるものかとずっと思っていた。が、そんなものでもやらなければずっと一人、という現実が、鼻の先まで迫ってきているのを無視できなくなった。
 登録してまもなく、女性たちから「自営業」という職業カテゴリーで足切りされていることに気づき、年収を「200万~400万」から「600万~800万」に変えてみた。するとメッセージを返してくれる女性が格段に増えた。が、罪悪感に耐えられず「400万~600万」にすぐにさげた。
 はじめてから半年の間に、四人の女性と会うことができた。一人目は同い年の看護師の女性で、初対面の場で「結婚したら実家の近くに家を建ててほしいんですけどできますか」と言われ、正直に無理だと答えたら、トイレにいくふりをして行方をくらまされた。二人目は花屋の店員二十八歳、春来の職業をコンビニの店長ではなく運営会社の正社員だと勘違いしていたようで、間違いに気づいてから一言もしゃべらなくなった。三人目は三つ年上のフリーデザイナー。話も合ったし好感触を得ていたが、その後の連絡はなしのつぶて。
 四人目が美香子だった。浪速のエリカ様風の巻き髪と、ババ臭いスーツ。絶対にこんな女とは話が合わないという予感は、席についてすぐ「あ、今日の会計は割り勘にしましょうね」と笑って言われた瞬間、吹き飛んだ。年は二つ上、大手不動産会社勤務。春来が自分の職業を詳しく明かすと、彼女はこう言った。
「わたし、大手につとめるサラリーマンって大嫌いなんです。みんな金太郎飴みたいに同じ価値観だから。高い年収、いい車、いい時計、若くてかわいい嫁。それしかない。話もつまらないヤツばっかりだし」
 趣味も音楽鑑賞とプロ野球観戦で、ぴったりだった。これまでどんな女性とも十分会話が持てばいいほうだったが、フーファイターズとレッドホットチリペッパーズと山田哲人の安打数の話をしているだけで、(というか美香子の話を聞いているだけで)あっという間に一時間が過ぎた。
 割り勘で会計したあと、「ごちそうするので、このあと夕食を一緒にどうですか」と春来は思い切って誘ってみた。あっさり断られた。が、「かわりに今度、さっき少し話してた池袋のおいしい中華屋さん、いきませんか? 会計は割り勘で」と言われた。
 このとき、俺にはこの人しかいないかもしれない、と半ば本気で思った。翌週、いけふくろう前にゲゲゲの鬼太郎のTシャツ姿で現れた彼女を見て“かもしれない”は確信にかわった。この確信は、その後にさらに二回会ったあとも薄まらなかった。毎度、待ち合わせ場所も行き先も美香子が決めたし、美香子の望む通り、すべての会計を割り勘にした。五回目、小岩の八丈島料理店で「わたしって子供のときから仕切り屋なの」とめずらしく照れながら彼女がつぶやいたとき、春来は衝動的に口にしていた。
「好きです、付き合ってほしい」と。
「結婚前提ならいいですよ」
 返ってきた言葉が意外すぎて、黙り込んでしまった。前に、どうしても子供がほしいというわけじゃないと話していたのだ。結婚にもあまり興味がないのだと思っていた。「もちろん」と答えるまでに、だいぶ間があった。声も少し、震えていたかもしれない。結婚したくないわけじゃないが、“前提”と条件にだされて、ひるんでしまった。
 それが相手に伝わったのだろうか。六回目、月島にもんじゃ焼きを食べにいく約束を前日にドタキャンされ、そのまま連絡が途絶えてしまった。
 その美香子から、一カ月ぶりにLINEのメッセージが届いたのだ。

 今度の週末、もんじゃ焼きいく?

 今更なんだよ、とは思わなかった。美香子以上の人なんていない。それに婚活サイトの有料会員の期限もとっくに切れている。
 週末までに、さぼっていた白髪染めをやった。美香子が好きなナイキを買い、美香子がほめてくれそうなACDCのTシャツをヤフオクで落とした。
 当日、待ち合わせ場所に二十分遅れで現れた美香子は、星のカービィのTシャツを着ていた。まるで先週も先々週も会ったかのような顔で「もんじゃ楽しみだね」と言った。それから美香子が予約した店にいき、食べたあとは富岡八幡宮を参拝して骨董市をひやかして、最後に晴海ふ頭公園へいくことになった。以前と同じように、会話も行き先もすべて美香子がリードしてくれて、とてもうれしかった。彼女と一緒にいると、安心感で体の先からじわじわとあたたかくなるような心地がする。何を話せばいいか、会計をいつすればいいか、このあとどこへいけばいいか、あるいはどうやって解散を切り出せばいいか、一切、びた一文、考えなくていい。
 晴海客船ターミナルの臨港広場をぐるぐる歩きながら、あとはいつ、交際について切り出すかだった。告白ぐらい、男らしく決めたほうがいい気がする。景色はロマンティックを絵に描いたような夕闇色にそまっていく。夜は友達と約束があるとさっき言っていた。この機会を逃したら、またどこかへいってしまうかもしれない。
 男性は孤独に弱くて、ひとりぼっちでいると生きる気力を失って。
「あの、美香子さん」
 時刻がちょうど夕方六時をまわったとき、春来は切り出した。
「前に話した、付き合うっていう……」
「さっき、言ってたことだけど」
 海に沿った壁に背をもたせかけて、美香子は春来をさえぎった。海面は紫のような黒のような青のような不思議な色にゆらめいている。
「さっき、前に仕事をしばらく休んでたって話してたでしょ」
 なんのことだか、すぐにわからなかった。少しして、派遣社員時代にパニック障害で休職したことを言っているのだと気づいた。もんじゃ焼きを食べているとき、今までしていなかった話を思い切って打ち明けた。新卒就職に失敗して、ながらく派遣をやっていたこと。作家と派遣の兼業時代にパワハラが原因で体調を崩したこと。ほかの女だったら、眉をひそめるかもしれない、でも、美香子なら。そう思って。
「それって、もう治ったの?」
「うーん、治るとか治らないとか、そういう問題じゃないというか……」
「そういう問題じゃないって、どういう問題?」
「今のところ、症状が出ないように、だましだましやってるっていうか……」
「どういう意味? 最近もなったの?」
「最近というか、去年。一緒に店をやってる親せきの母親が病気になって、一人で店のことやらなくちゃいけなくなって、連載原稿もあったしで、むちゃくちゃ大変で。頑張ったんだけど無理しすぎて、えっと、一カ月……いや二カ月ぐらい、仕事休んだ、かな」
「ふーん」
 そのとき、三メートルほど先にいる若い女二人組がキャーッと叫んだ。トンビが食べ物をさらったらしい。春来は美香子に笑いかけたが、美香子はくすりともせず、「わたしいかなくちゃ」と言った。

「マジでこの動画はやばい。すごいの見つけた。マジで100回は抜ける。LINEで送っといたから、ぜひ見て。マジ見て。頼むから見て」
 スキンヘッドの頭部まで赤くした勝男は、ろれつの回らない口調でそう言い、大ジョッキのビールをあおった。その隣で、定食おかのの二代目店主雄介は、テーブルにつっぷして寝息をたてている。
 今日も花丸クリーニング店のおかみさんは、店にガリガリ君を買いにやってきた。いつになく暗い顔つきで「もう勝男のことはあきらめた。代わりに美紀のこと、どうにかしてよ。誰かいい人紹介してくれない? お金あげるから」と言っていた。勝男の妹の美紀は、春来より一学年上の四十二歳。未婚、無職、実家暮らし。もう何年も姿を見ていない。
 そのとき、雄介がむくっと体を起こした。ほっぺたにぐちゃぐちゃになったトマトがはりついている。
「俺、明日デートなんだよね」
 やおらそう言った。勝男が「え?」と野太い声で叫んだあと、「誰と?」と聞いた。
「なんか、ソシャゲで知り合った子。女子大生、えへへ。ステーキ食べにいきたいっていうから、食べにいく。だから帰らなきゃ」
「いやいや、それ、美人局かなんかだって。やめとけって」
 そう言ってシャツの袖をつかむ勝男をふりきって、財布から二千円を出すと、雄介はふらふらと店を出て行った。
「あーあ。あいつ、前もネットで知り合った女に金だまし取られたのに」
「俺も帰る」
 春来も財布から二千円出した。会計は三人で一万は超えているはずだが、内訳はほとんど勝男のビール代だからいいだろう。
 深夜一時を過ぎた駅前には、人気がなかった。終電も終バスもとっくにすぎている。静まり返ったバスロータリーにぼんやり立ち尽くしたまま、スマホを出してLINEを開いた。

 ごめんなさい。わたし、結婚して旦那さんが病気になって家で寝てるとか、ちょっと考えたくないなって思っちゃった。
 
 このメッセージ以降、何を送っても既読がつかない。
 三メートルほど先に自分の店がある。明かりは当然ともっていて、ここからでもレジカウンター前でナビが眉毛をこすっているのが見える。何か用事があるふりをしてちょっと寄ってみようか。そろそろナーのシフトが終わる頃――
 ナーが出てきた。
 やはりシフトは終わったのか、あの白いワンピースを着ている。周囲をきょろきょろ確かめたあと、誰もいない公衆喫煙所で煙草を吸いはじめた。ナーが喫煙するとは知らず、春来は虚をつかれた。が、もしかして、と気づいて思わず口に手を当てる。俺に知られたら嫌われると思ってるんじゃないか? だから俺がいるときだけ、吸わないのか?
 ナーはきょろきょろと周囲をうかがいながらせわしなく煙草を吸っている。次の瞬間には、春来は駆けだしていた。
「やあ、お疲れ」
 春来に気づいたナーは、はっきりと表情を硬直させ、慌てて煙草を地面に捨てようとした。春来は「大丈夫大丈夫!」と手を前に出してそれを止めた。
「別に、吸ってくれてもかまわないんだよ」
 ナーはバツが悪そうにはにかんだ。それから黙りこくった。二人でいるときはいつも積極的に話しかけてくれるのに、なんだか普段と様子が違う。煙草のことなんてそんなに気にしなくていいのにと思いつつ、かといって自分のほうも、声をかけておいて何も話題が思いつかなかった。酔っぱらっているせいもあって、うまく頭が回らない。
「あー、えっと……そういえば、この間新しいスニーカーを……」
 ようやく春来がそう話しはじめたとき、店の自動ドアがビーンと開き、中から煙草を手にした深夜バイトの大学生香坂が出てきた。
 香坂はナーと春来を交互に見て、最後にナーを数秒見つめた。そのたった数秒の二人のアイコンタクトだけで、春来は気づいた、気づいてしまった。
 こいつら、付き合ってるんだなあ。
「おお、お疲れお疲れ。はは、邪魔してごめんな。若い二人で楽しんでよ。まあね、香坂ってアレだもんな。イケメンだもんな。脚も長いし、髪もふさふさだし。慶應だっけ? 青学? やあやあ、いいね、バイト仲間同士って。うらやましいよ、俺は君たちの青春が。俺には過ぎ去ってしまった時間だから。かといってね、俺なんてろくな青春過ごしてないけどね。二十三まで童貞だったし。ハハッ、いやいやごめん、酔っぱらっちゃって、なーに言ってるんだろ、俺。帰る、帰るね。あとナーちゃん、煙草はいつでも吸っていいからね」
 二人に背を向けることができず、春来はしばらく彼らのほうを向いたまま、後ろ歩きした。背を向けた瞬間、二人が顔を見合わせて笑い合う姿が想像できたからだ。
「店長! 危ないです!」
 香坂が叫んだ。気づいたら赤信号の横断歩道の真ん中まできてしまっていた。幸い、車は一台もなく、片側二車線の県道には哀れな酔っ払いだけが、ただ一人。
「ハハハ、ハハハ、じゃあ、じゃあね」
 春来は二人に手を振り、ようやく背を向けた。ここからまっすぐ歩いて三分で、たった一人で暮らすアパートにたどり着ける。その道が、明かりもないまっくらな洞窟のように思える。女に認めてもらえない限り、男は孤独と不幸を甘んじて受け入れなければいけないのだろうか。俺はこのままひとりぼっちで、いつかおかしくなってしまうんだろうか。

 

(第3回につづく)