知り合いから聞いたんだけど、未婚男性の平均寿命は65歳ぐらいで極端に短いんだって。男性は孤独に弱くて、ひとりぼっちでいると生きる気力を失って、精神的におかしくなったりしちゃうかららしい。逆に女性は未婚も既婚も関係なく長生きなんだって。結婚を焦るべきなのは、むしろ男のほうじゃね?
朝食の日清カップヌードルチリトマトに湯を入れて三分待っている間に、いつものくせでぼんやりとツイッターをながめていたら、こんなツイートがややバズっているのを見つけてしまった。桐山春来は割り箸を袋から出しながら、小さくため息をついた。ツイート主はデザイン会社を経営している1992年生まれの女で、アイコンは本人と思しき女の横顔の画像、坊主に近いショートヘア、耳がちぎれそうなほど巨大なイヤリングをつけている。さらにツイートを遡ったら、既婚で子供もいるらしいことがわかった。
こんな女に、と春来は思う。独身男性の孤独など、これっぽちも、びた一文も関係ないじゃないか。なぜこんな底意地の悪いことをわざわざつぶやくのか。悪魔か?
心の中で愚痴りながら、カップヌードルの蓋をあけて麺をすする。なんだか味がしない。脳裏に悪魔のツイートがリフレインする。
男性は孤独に弱くて、ひとりぼっちでいると生きる気力を失って、精神的におかしくなったり……。
箸を止めて、毒々しい赤色をした円を見つめる。朝食にカップ麺をすする一人暮らしの独身男、四十歳……いや、まもなく四十一歳だ。朝食どころか、昨日の晩もインスタントラーメンだった。そのとき、はっと息を呑む。そういえば、昨日は昼もカップ焼きそばだったじゃないか。そして今日、昨日だけでなく、朝は基本毎日、日清カップヌードルチリトマトだ。
もうすでに、俺の生活は破綻しかけているんだろうか。体型は今も昔も変わらずやせ型だが、腹が少しぶよぶよしてきてはいる。健康診断はかれこれ……八年受けていない。八年!? 春来はにわかに空恐ろしい気持ちになって、やおら立ち上がると、流しの横の小型冷蔵庫をあけた。
缶チューハイ三缶、タッパーに入った紅ショウガ(購入時期不明)、賞味期限を一日過ぎた卵一個。それだけ。その卵一個を右手でつかみとると、しゃがみこんだまま、しばし考えた。それから「よし」と意味もなくつぶやき、卵を持ったままテーブルの前に戻ると、カップヌードルの中に割り入れた。
一口すすって、後悔した。不味すぎる。が、破綻した生活から卵一個の栄養分遠ざかることができたと考えることにして、あとはもう勢いだけですすり切った。最後にげっぷを一つして、ティッシュで鼻をぬぐいながら、テレビをつける。
橋下徹の顔面がいきなりドアップで映し出されて、ぎょっとした。昨晩行われた記者会見の映像らしい。橋下徹の隣で、女が神妙な顔をしてうつむいている。「浪速のエリカ様」というどこかで聞いたバカバカしい言葉が、春来の脳裏に浮かんだ。
その女は恵比寿のカフェではじめて会ったときの美香子に、少し似ている気がした。あんなふうに黒い髪の毛を巻き、おばさんくさいスーツを着ていた。ふてくされたような表情のつくりかたも似ている。
テーブルの上のスマホに目をやる。美香子から返事はきていないとわかっているのに、LINEを開いて確認してみる。メッセージは十三件。すべて企業アカウントからだった。
はあ、とまた一つため息、それから「よっこらしょ」とつぶやいて、テーブルを片付けはじめる。カップ麺の空容器と割り箸を流しに持っていき、水ですすいでからゴミ箱に入れ、そのまま台所まわりを軽く掃除した。最後に明日出す予定の空き缶をまとめながら、そろそろシーツを洗わないとな、何日洗ってないんだっけと考えて、ふと手を止める。1Kのせせこましい自分の部屋を見渡す。
何にもない。本当に何もない部屋だ。
大学のときに家を出たから、一人暮らし歴はもはや二十年超。一人で寝て、一人で起きて、一人でジャンクフードを食べてはじまる朝。それを二十年以上繰り返してきて、そしてさらに、あと何年繰り返すんだろうと、最近、よく思う。今はまだいい。それなりに自由を満喫し、友達も少ないながらいて、やりがいのある仕事もぎりぎりあって、孤独で死にそうというわけではない。が、あと二十年、三十年、ずっと一人の生活に耐えられるのか?
どうしてもそうは思えない――男性は孤独に弱くて、ひとりぼっちでいると生きる気力を失って。
俺は、と心の中でつぶやく。俺はこのままひとりぼっちで、いつかおかしくなってしまうんだろうか。
店の前にある公衆喫煙所は、いつも通りの混雑ぶりだった。暗い顔で煙草を吸う男たちの頭上に、ひらひらと桜吹雪が舞っている。その中に、美穂の姿を見つけた。彼女はこちらに気づくと、子供みたいにぴょんぴょん飛び跳ねた。
「遅くなって、すみません」
「大丈夫大丈夫」美穂はくしゃくしゃの笑顔をつくりながら、手に入れたばかりの自慢のアイコスを振った。「原稿進んだ?」
「ぼちぼちっすね」本当は昨夜、一文字も書いてないが、そんなことはとても言えない。
「嘘だ。本当はゲームでもやってたんでしょ。でも、まあ、いいよ。わたし、このまま三十分休憩してていい?」
「あ、はい」
胸に少々の痛みを覚えつつ、自動ドアを抜けて店内に入る。昼前で混雑していた。昨日、原稿仕事が溜まっていると無意味な嘘をついてしまったこと、ここ数年は溜め込むほど仕事の依頼などきていないこと、今取り掛かっている仕事が小説家人生で最後の一冊になるだろうことが頭をもたげそうになるが、振り切って奥の事務所に向かい、急いで身支度を整えると、レジのヘルプに入った。
母方のいとこの智樹がコンビニのオーナー業をはじめて、今年で十年になる。この駅前の店と、駅から二十分ほどの住宅街の中にもう一軒。どちらも立地のよさが幸いして、そこそこ繁盛していた。春来は六年前、小説家の仕事と兼業でやっていた派遣社員をやめたあと、この二店舗の店長となった。が、それは名ばかりで、やることはレジのヘルプと品出し程度、そもそも週に三日ほどしか顔も出さない。副店長である智樹の妻の美穂が、実質の店長のようなものだった。
春来からしたら、美穂は神様のような人だ。大げさでなく、美穂がいなかったら死んでいたかもしれないと思う。
派遣社員時代、上司によるパワハラと過労が重なってパニック障害を患ったときに労災認定を得られたのは、美穂の尽力のおかげだった。新刊が出れば何冊も買ってあちこち配り、たいして多くもない春来の原稿仕事のために、こうして店を切り盛りしてくれている。
「いいお嫁さんよねえ」
花丸クリーニング店のおかみさんが、ガリガリ君ソーダ味を五個、レジ台に置きながら言った。アルバイトで雇っているミャンマー人たちに与えるのだろう。
「ここのオーナーのお嫁さん。昨日、わたしが店のシャッター閉められなくてもたもたしてたら、助けてくれたの。ありがたかったわあ。うちの息子にも、あんないい人が現れたらいいのに。もう四十八よ? おかしいと思わない? 春ちゃん、なんとかしてよ」
「ハハ……」と春来は苦笑いだけで答えながら、手早くガリガリ君五個の会計を済ませると、まだ何か話したそうなおかみさんに向かって、「ありがとうございました~」と追い立てるように言った。
次の客のカゴの中には、コンドームが三箱入っていた。一つずつバーコードリーダーに当てながら、花丸クリーニング店を最近継いだばかりの勝男の姿を思い浮かべる。スキンヘッドに百キロを超える巨体、趣味は競馬と酒と風俗。会うといつもAV女優の話をしている。
ああはなりたくない……のか、自分でもよくわからない。
昼時を過ぎたあとは、いつもより客足が少なかった。バイトもベテランがそろっていたので、かかりつけの病院にいく予定があるという美穂をはやめに帰らせ、春来は発注作業やたまっている事務仕事を片付けることにした。
が、三十分ほどやっただけで集中力が途切れ、気づけばスマホを触っていた。いつもの癖でツイッターをぼやぼやながめているうちに、なんだかよくわからないウェブ媒体の対談記事に飛んでいた。
“独身評論家”を名乗るライターの男と、結婚をテーマにした作品を多く描いているらしい女の漫画家が、『婚活で成功する人、しない人』というテーマで語り合うという趣旨の記事だった。「女は基本上昇婚を狙うからうまくいかない」だの「結局、男女とも受け身の人が売れ残っていく」だの、その辺の便所の壁に書いてあるようなことばかりべらべらしゃべっている。くだらない、そんなわけあるか、ばかばかしい、と心の中でツッコミを入れながら読んでいたはずが、いつの間にかスマホを握りしめ前のめりになり、夢中で文字を追っていた。
鳴海:わたしの女友達で、うまくいかない婚活に嫌気がさして、全部あきらめてもう仕事と趣味のために生きるって決めた人がいるんです。婚活していた頃より、今のほうがずっと幸せそう。無理して婚活する必要ってあるのかなって思う部分もあります。
高橋:僕は独自に未婚と既婚それぞれの幸福度について、アンケート調査をおこなったことがあるんです。それによると、女性は未婚既婚、あるいは恋人の有無で実はそれほど幸福度は変わらないらしいという結果が出ました。ところが男性は大違いで、未婚より既婚のほうがあきらかに幸福度が高い。もっとも幸福度が低いという結果が出たのは、未婚かつ恋人がいない男性でした。その中でも特に深刻なのは、そもそも恋愛経験自体がゼロかそれに近いタイプ。つまり男性のほうが、恋愛に左右されやすい人生といえると思います。
鳴海:えー意外。
高橋:結婚だけが幸せじゃないという考えは正論ではあるけど、ある意味、危険なんですよ。孤独と不幸は親和性がとても高い、という事実から目を背けてはいけないんです。とくに、男性は。
その箇所を、春来は三回読み直した。それから「ばかばかしい」と声に出してつぶやき、スマホをテーブルに置いた。が、すぐにまたスマホを手にとって、高橋と鳴海の著書をアマゾンで調べてみた。最新作の星の数が高橋は156、鳴海238、自分が昨年出した文庫は2。気分はもうどん底で、仕事どころではなくなった。
結局、やろうと思っていたことが何ひとつ終わらないまま、いつの間に夜の八時前になっていた。腹が減った。何か食うかと、事務所を出て店内に入る。まっすぐインスタント食品の棚にすすみかけて、足をとめた。独身男性の平均寿命は65歳。孤独と不幸は親和性がとても高い。総菜コーナーへ方向転換する。そのとき、店の自動ドアがビーンと開いた。
かぎなれた、シャンプーの甘いにおい。その一、二秒あと、「コンニチワー」と声が聞こえた瞬間、頭と胸を覆っていた濃い霧が、さわやかな春の風に吹き飛ばされた。
今日のリー・ナーは、白いシャツ型のワンピースを着ていた。彼女が着てくる洋服の中で、春来が一番かわいいと思っている服だった。清楚な雰囲気と、折れそうに細いウエストが際立つからだ。ナーは何かを探すように顔を左右に振り、やがて春来に気づくと、ぱっと花が咲いたような笑顔になって、小走りで近づいてきた。
「店長! 昨日、本屋で、店長の本、見つけましたよ!」
ナーはこの店で働きはじめて三カ月になる大学生だ。中学生の頃、親の仕事の都合で中国から日本にやってきた。日本語はほぼ完ぺきだが、今でも少し訛るときがある。その訛りに気づくたび、ずっと変わらずこのままでいてほしいと、春来は切に思う。
「今、頑張って読んでます。すごく難しいけど。今度サインください」
ナーは顔の前で手をあわせ、エヘヘとはにかんだ。そしてぺこっと頭をさげると、事務所へまた小走りで向かっていった。
そのナーと入れ替わりで、チーフのインド人ナビが出てきた。ナビは極太の両眉を人差し指でなでさすりながら(そのしぐさは女子バイトからキモいと大層不評だった)、「店長、もういいですよ」と春来に声をかけた。
「え? 何が?」
「いや、今日は八時で帰るって言ってたじゃないですか。だからあがっていいですよ」
「あれ、そうだっけ?」
「はい。先週そう言ってました。わざわざカレンダーに印までつけて」
そういえば、そんな話をしたような気もするし、壁のカレンダーの今日の日付のところに、赤い丸印がついているのも見た気がする。しかし、理由が全く思い出せない。考え込んでいると、事務所から制服のシャツと動きやすいジーパンに着替えたナーが出てきた。ナビを一切視界に入れず、春来に向かってだけニコッと微笑むと、すぐに品出しの作業をはじめる。
そのナーの細い背中を見ながら、春来は言った。
「いや、今日は〇時過ぎまでいようかな」
「あ、そうすか」
ナビは興味がなさそうにそう言い、混み合ってきたレジのヘルプに向かった。
それから、春来がいつも心の中で「ウキウキ青春タイム」と呼んでいる時間がはじまった。ナーとときどき軽口をたたき合いながら、仕事をする。もちろん、自分はまがりなりにも店長だし、終電前のこの時間帯はあわただしく、遊んでいる余裕などほとんどない。だが、それが逆にいい。互いに協力し合いながらレジに並んだ客をさばき、列が途切れた隙を見計らって、二言三言、私語を交わす。「今日は忙しいね」「おなかすいた」。そんな他愛もないこと。ナーはそういうときだけ、なぜかため口を使う。それがますますいい。まるで、大学生の頃に戻ったような気持ちになれるのだった。
実際、春来が大学生だった頃に働いていた牛丼屋には、女の子の同僚なんて一人もいなかったし、それどころか週七で入っていた三十過ぎのフリーターの男に、一日一回は殴られるという最悪の環境だったのだが。
「あ、店長、それ、新しいスニーカー?」
さっき店に配送されたばかりの総菜と弁当類の品出し作業にとりかかったとき、手伝うためにそばにやってきたナーが言った。
「うん」
「ニューバランスだ。かわいい」
君がニューバランス好きだって言ったから、買ったんだよ。その言葉をぐっと飲みこんで、ただ「ありがとう」とだけ言った。
ナーはまじめなので、それ以上はもう話しかけてこない。黙々と、そしててきぱきと作業にいそしむ。それでいい、それでいいんだと春来は自分に言う。本当はもっと話したい。もっと仲良くなりたい。「わたしも新しいスニーカーほしいな」「そうなの?」「でも、何を買ったらいいのかよくわからなくて……今度一緒に選んでほしいな」「え、う、うん、いいけど……」「ほんとですか? じゃあLINE教えて……」
そんな妄想会話を脳内で繰り広げていると、ふと、背後から殺気のようなものを感じて息をとめた。振り返ると、怒りに満ちた目で自分を見ている女がいた。その瞬間、春来は、なぜ今日、八時にあがることになっていたのか、そのすべてを思い出した。