序章

 自分に噓はつきたくないんです。役者って、役を演じなきゃいけないけれど、自然体だからこそできる演技も、あると思うんですよね――。人気女優の聴き心地のよい声をヘッドホンで流していた山田文明やまだふみあきは、眼鏡を上げて目頭を押さえた。「自然体か」と呟き、大きく伸びをする。取材をしたときの彼女の笑顔を思い出していると、どこからともなく肉まんの匂いが漂ってきた。ん、肉まん?

「おっつー、山田!」

 背後から肩を叩かれ、心臓が飛び出しそうになる。ヘッドホンをとってふり返ると、雨柳円花うりゆうまどかがコンビニ袋を持って、山田のパソコン画面を覗きこんでいた。三十分ほど前から姿を見ないと思っていたが、やっと戻ってきたのか。

「なんの記事を書いてるの」

「森崎ナナのインタビューだよ」

「漫画家さん?」

「おいおい、今もっとも旬な若手女優じゃないか。最近、事務所を電撃移籍したっていう話題で、週刊誌やネットニュースをにぎわしている――あ、ほら、ちょうどCMがやってるぞ。あの子が森崎ナナだよ」

 山田は天井から吊り下がったテレビモニターのひとつを指した。数台並んだ小型テレビでは、各チャンネルの番組が無音で流されていた。

「かわいい子じゃない。なになに、自然体でいたい、か。いいこと言うね、山田も見習ったら?」

 円花はとなりの席に腰を下ろし、袋から肉まんを出した。肉まんの匂いをさせていたのは、やっぱりこいつだったか。

「そうだな、君のことも見習いたいよ」

「ハ、ヒ、ハ、ホ」

 円花は肉まんを口いっぱいに頰張りながら、笑顔で答えた。「ありがと」と言いたかったらしい。自然体すぎるだろう。こっちは嫌味を込めたつもりだったのに。山田が呆れていると、円花は慌てた様子で「そうだよね」と言い、半分に割った肉まんを差し出す。

「一口、食べる?」

「いりません」

「じゃ、これあげるから、つづき頑張って」

 円花はコンビニで買ってきたトッポの箱から一袋を出し、山田の机に置いた。今年三十歳になる山田よりも、四歳年下の円花は、東京本社の文化部に配属されて一ヶ月にも満たない。にもかかわらず、肩ひじ張ったところはなく、誰よりものびのびと振る舞っている。とくに山田には、早々に敬語を使うのをやめ、呼び捨てにしてくる。その代わりに、自分のことも「円花」と呼んでいいと頼んでもいないのに許可された。恋人じゃあるまいし、女性を下の名で呼ぶなんて抵抗がありすぎるだろう。

「それより、さっき頼んだ美術展情報の整理は?」

「安心して! 三月は面白そうな展覧会が目白押しだから」

 円花は親指を立てた。展覧会のラインナップじゃなくて、作業の進行具合を心配しているのだけれど、と山田は心のなかで呟き、ヘッドホンをつけ直した。パソコン画面右下の時計は、すでに十五時を過ぎている。提出まで一時間もない。毎年、番組改編期に当たる春と秋は、芸能人のインタビュー記事が増えるので、「文芸アート」担当の山田も助っ人としていくつか原稿を任されていた。

 ここは伝統ある全国紙、日陽にちよう新聞本社のオフィスだ。

 東京湾沿いに位置し、窓からは海が見える。

 本社のうち、旧館には政治、経済、社会を意味する「政経社」三部をはじめ、紙面のレイアウトを決める整理部や、編集会議が行なわれる局長室などがある。新館には、文化部の他に科学医療部やスポーツ部が配置されている。

 夜討ち朝駆けでスクープを追いかける政経社に対して、文化部は腰を据えて文化にまつわる発見や考察を報じる。どちらも種類の違う大変さがあるが、いわゆる「サキグミ」といって、たいてい文化部の記事は数日前にレイアウトが決定し、原稿の準備時間にも余裕があるので、社内ではもっとも優雅な部署だとよく揶揄される。

 そんな文化部に所属する記者は三十名余り。書籍、美術、映画、演劇、テレビ芸能、囲碁将棋、生活全般などを数名ずつで担当し、関連する時事ニュースやスクープを追って、いわゆる「トクオチ」を防いでいる。しかし繁忙期は分野によって異なるので、今回のように記者がジャンルを越境して執筆することもあった。

 静岡総局から異動し、文化部の新人として、山田を含めて四名いる「文芸アート」担当者に新たに任命されたばかりなのが、となりの席に座っている雨柳円花だった。

 小柄だが、肩まで伸びたストレートな黒髪や整った目鼻立ちは、意志の強そうな印象を与える。野心はありそうだけれど、ふるまいは天衣無縫そのものだ。居眠りをしたり、おやつを食べたり、上司や先輩を問わず人に話しかけたり――。服装もお洒落だが記者らしくはなく、この日は下北沢の古着屋辺りで売っていそうなエスニック調のワンピースだった。上下関係が厳しい新聞社のなかで、どうやって今までやってこられたのか、山田は甚だ疑問でもあった。

 ――雨柳円花って子、文化部に行っただろ?

 つい先日、たまたま廊下で顔を合わせた同期から、立ち話で言われた。打ち合わせで本社を訪ねていた彼は、円花が入社後すぐに配属された静岡総局で働いている。日陽新聞では、他の全国紙と同じく、入社したばかりの記者は地方の総支局で、まずは修業をするシステムである。そこで記事の書き方を学んで、地方とのつながりをつくり、記者として最低限のふるまいを勉強するのだ。

 ――入ってきたよ。彼女、ちょっと変わってない?

 ――意見が分かれるところではあるよね。生意気だとか失礼だとかいう批判もあったけど、でも一部からはやたら好かれていて、本社にうつるときなんて、泣いて別れを惜しまれたらしいよ。俺は部署が違ったから、仕事ぶりは詳しく知らないけど。

 それって、喜びの涙じゃないよな。内心思いながら、同期の口調からすれば、彼も円花を好いている側のようだった。今のところ、円花の魅力がイマイチ分からない山田は、詳しい話を訊きたかったが、忙しくてそのままになっている。

 なんでも、円花の祖父は文化人として高名だった、雨柳民男であるらしい。民俗学の泰斗として日本各地をめぐり、祭りや伝統工芸といった土着的な文化を研究しただけでなく、宗教や哲学に通ずる思想家としても知られている。生前は大学の学長を務め、文化勲章をはじめとする数々の栄誉に輝いた。著作も数多く、山田も学生時代に読んだが、難解すぎて目が上滑りして数ページしか進まなかった。

 そんな民男は日陽新聞の上層部と長い付き合いだったとか。

 だから雨柳円花はコネ入社。そんな噂も囁かれていた。おそらく事実だろう。

 森崎ナナのインタビュー記事を無事に整理部にリリースしたあと、深沢デスクから話があると呼び止められた。文化部では、一番偉い「部長」というポジションの下に「部長代理」が数名いて、その下に「デスク」が分野ごとに配置されている。「文芸アート」担当の記者を取り仕切っているのが、深沢デスクである。

「ここじゃアレだから、あっちで」

 深沢デスクはパーティションで区切られた打ち合わせスペースを指した。スペースの机の脇には、学生アルバイトが定期的に届ける各版や、他社の朝夕刊の他、雑誌や書籍などが積み上がっている。

 向かい合って腰を下ろすと、深沢デスクはぼそぼそと低い声で「折り入って頼みたいことがあるんだ」と言った。四十代前半だという深沢デスクは、白髪交じりの顎ひげを蓄えている。声を荒らげるところは一度も見たことがないが、じつは歴史オタクで、飲みの席で過去の偉人の話題になると、彼の独壇場になる。

「おまえに連載を預けてもいいだろうか」

「れ、連載ですか!」

「忙しければ、無理にとは言わないけど」

「ぜひやらせてください! 余力はあります」と言い、山田はさっそく手帳をひらく。

「そりゃよかった。正直、新人にいきなり連載を任せるのは気が引けるけど、若年層の読者を発掘するためにも、若い記者に積極的にチャンスを与えるようにという上からのお達しがあってさ」

 新人という言葉が引っかかったが、大枠で見れば、たしかに自分も新人の範疇だといえる。いよいよ訪れたチャンスに、山田は期待に胸を膨らませる。数日かけて過去の連載企画を分析し、綿密な資料をつくった甲斐があった。

「早速だけど、これが雨柳円花の企画書だよ」

 一瞬、山田は固まった。

 深沢デスクは机のうえに書類をぽんと置き、こうつづける。

「お前に預けるから、まずは目を通して、彼女と詳細を詰めてくれ。ちなみに、今渡しているものはかなり書き直させたけど、最初なんて言いたいことが全然分からなくて大変だったよ。あいつ、論理的な文章がド下手みたいだから、その辺りもフォローしてあげて」

 文句を言いながらも、深沢デスクは楽しそうだった。

「……僕の企画じゃないんですね、連載って」

「そう、山田は指導してやってほしい」

 動揺を隠しつつ、山田は深沢デスクの目を見られなかった。新聞社では、自分から「これがやりたい」と企画をデスクに提出し、記事を書く。企画が通らなければ、他人から振られた仕事をこなすだけで、記者としては二流だ。文化部四年目の山田は、単発で短い記事を書いたことはあれど、連載の企画では一度もゴーサインをもらっていない。

「分かりました」

 焦りや落胆を悟られないよう明るい声で答え、山田は企画書を手にとった。

「そう言ってもらえて助かるよ。文章があれなうえに、まぁ、イマドキっていうの? ああいう感じだから、まるっきり任せるのは無謀なんだ。だけど山田に世話役をお願いできるなら安心だよ。雨柳の企画を採用しろというのは、部長から直々の指示なんだけど、採用はよくても、その後が大事だからね」

「部長?」と思わず鸚鵡返おうむがえししてしまった。部長は管理職なので、業務が滞りなく進むように働き方の面でマネジメントをすることはあっても、記事の内容には滅多に口出ししない。部長の指名だなんて、よほど優れた企画なのか。動揺が顔に出たらしく、深沢デスクはしばらくこちらを見据えたあと、唐突にこう訊ねた。

「あいつのインスタとか、見たことある?」

 山田は黙って首を左右にふった。そもそも山田自身、アカウントは持っているものの積極的に使っていない。社内でも意見が分かれており、紙面の内容を不用意に流したり、炎上したりするリスクを回避するべきだ、という反対派も多い。

「案外、着眼点がおもしろいよ」

 深沢デスクはポケットからスマホを出して、「あった、これこれ」と言って山田に手渡した。いわゆるインスタ映えする、物語性のあるカラフルな写真が並んでいた。アートや食べものの投稿ばかりだが、切り口がユニークである。

 たとえば、ゴッホの《星月夜》とフラクタル図形の渦を並べたり、伊藤若冲じやくちゆうの《動植綵絵どうしよくさいえ》の細部を拡大して切り取ったり、職人がつくった硯と現代彫刻を比較したり。名画や展覧会の情報だけでなく、誰かがきれいに植えてくれた花壇の花の配置、めっきり存在感のなくなった電話ボックスのデザインの面白さなどが、独自の意見として投稿されている。そうかと思えば、居酒屋メニューの写真がつづいたあと、真っ赤な顔に満面の笑みを浮かべた円花が、飲み仲間とピースサインをしていたりする。

「部長がこれを見たらしい。部長がSNS推進派というのもあるが、フォロワーの数は文化部の公式アカウントの百倍もいるんだ。おまえも知っている通り、日陽新聞は発行部数が落ちこむ一方だ。十年先にまだ紙の新聞が残っているかどうか。ウェブ媒体に比重をうつすとしても、新しいことに挑戦しなきゃならない。その新しいことが雨柳円花の企画でいいのかは分からないが、このままじゃ生き残れないからな」

「そうですね」とだけ答えて、山田はスマホを返したあと、企画書と手帳を片づけ、席に戻る準備をはじめた。すると深沢デスクは腕を組んで「あのさ、なんで自分の企画が通らなくて、新人に先を越されてしまったんだと思う」と訊いてきた。

 山田は正直に「分かりません」と答えた。

「おまえはよく頑張ってるよ。それは認める。でもこの会社では、物分かりのいい部下になる必要はないんだ。素直に人の意見を聞くことと、他人の顔色を窺って自分を押し殺すことは、似ているようで全然違う。先日おまえが提出してきた企画書にしても、本当に誰かに届けたいものだったのか? 自分はこれを書くために記者になった、と胸を張って言えるくらいの企画だったのか?

 少なくとも俺には、こういう記事なら当たり障りなく、いわゆる万人ウケするだろうとか、時流に乗って、俺に採用されるだろうとか、そんな下心が伝わるような内容ばかりに感じられた。そもそもこれまでの企画はどれも、なにか出さなきゃいけないから、頭のなかでこねくり回して、優等生的な答えを出してただけじゃなかったかな」

 深沢デスクの口調は淡々としていた。山田への配慮もきちんと感じられ、そのように接してくれる上司の期待に応えられない自分が、いっそう情けなくなる。山田が答えられずにいると、デスクはつづけた。

「雨柳円花は文化部に来たその日から、俺にたくさん企画をぶつけてきたんだよ。最初は新人だから裏方の仕事からこなすべきだろうって俺も取り合わなかったんだが、どうしても自分の記事を発信したいから、どこを直したらいいのか教えてくれって食い下がってきた。

 話を聞くと、無鉄砲には違いないが、純粋に書きたいことや調べたいことがたくさんあるみたいだったよ。なかには突拍子もなさすぎる非常識な企画もあったけど、そういう熱意ある企画こそ、若い記者に期待されているものなんだ。そう熱意だよ、熱意。インスタの写真だってそうだよな。内容はアートと食いもんのことばっかだけど、なぜか見飽きない。それはなんの打算もなく、自分の言いたいこと、好きなものを発信したくて発信してるからだと思うよ。写真のセンスもいいし。だからフォロワーも多いんじゃないかな」

 企画者:雨柳円花

 連載タイトル:〈知られざる日本の技へ〉

 概要:「芸術」や「美術」を意味する「アート」という言葉のもともとの意味は「技」です。アートのはじまりは「技」にあると言ってもいいでしょう。とくに繊細で高い技術力を誇る日本文化は、昔から「技」によってこそ支えられてきました。この企画では日本各地で育まれた知られざる技や、名品の知られざる裏側を取材することで、あなたの知らない日本文化の一側面を紹介します。

第一章 硯 SUZURI

 東京駅丸の内北口前の広場は、早春とは思えない陽気に包まれていた。山田は上野駅から乗る方が近かったが、円花が遅刻して無事新幹線に乗れるか心配で、わざわざ東京駅で待ち合わせることにしていた。

「おっつー、山田」

 現れた円花は、いつもの記者っぽくない個性的な服装とは打って変わり、パンツスーツでばっちりと決めていた。どこからどう見ても、デキる記者然としているではないか。先輩らしくなにか小言を言ってやるつもりだった山田は、そのギャップに戸惑いながら苦し紛れのコメントをする。

「い、いつもと雰囲気が違うね」

「当たり前じゃない、今日は取材なんだから、一張羅じゃないと」

 語尾に音符のついたような口調で言い、円花は颯爽と改札口に向かった。その姿を見て、円花にとって芸術関連の取材は、楽しみで仕方ないのだなと思う。

 券売機で前後に席をとろうとした山田に「となりじゃないと、おしゃべりできないでしょ」と強引に言って、結局二人席を横並びで購入した。仙台駅まで乗車する東北新幹線「はやぶさ」は、平日の早い時間とあって混雑していた。円花は迷うことなく窓際の席に腰を下ろす。ふつう先輩にゆずるとか、どっちがいいですかなどと訊くのではと思いつつ、山田は通路側に座った。

「東北新幹線のホームでしか売ってないんだよね、これ」

 彼女が口に頰張るのは、ウニ味のスナック菓子だった。

「山田も食べてごらんなよ」

 って、いつどこの言葉遣いだよ。そう思いつつ「ウニ味なんてすっごく美味しそうだね、でも結構です」と断る。

「分かってないね、山田は。遠足の醍醐味といえば、行きのお菓子交換! そしてお菓子は五十円まで!」

「あのなぁ、これ遠足じゃないし、五十円までってはるかにオーバーしてるし、大昔の物価じゃあるまいし」

「すごいね、ツッコミの三段重ね」

 円花は愉快そうにスナック菓子を完食すると、今度はウニ味のチョコレート菓子をとりだした。どんな味がするんだ、プリンに醤油をかければウニでしょ的な? 山田が引き続き内心ボヤいているうちに、新幹線は荒川を超えた。ふと円花を見ると、うとうとしはじめているではないか。食欲に睡眠欲にと、欲求に忠実すぎるだろう。こっちは繊細すぎて取材前になると緊張して食欲もなくなり、前夜は眠れないというのに。

 ため息を吐き、今回の出張に向けて準備した資料を鞄から出す。

 ――初回は、時事的な内容がいいんじゃないか。

 深沢デスクの助言に従い、第一回のテーマは「雄勝硯おがつすずり」になった。

 雄勝硯とは、石巻市雄勝町で生産される硯だ。硯とは、言うまでもなく墨を磨るための道具であり、三千年前に中国で発明された。雄勝町ではリアス式海岸の地形によって、古来より硯の材料に適した石がたくさん採掘され、国産硯のうち大部分のシェアを誇っていた。しかし東日本大震災の津波によって、職人が大切に受け継いできた硯材のほとんどが海に流されてしまった。

 日陽新聞社内では、三月十一日が近くなり震災関連の企画が多く立ち上がっている。その日を過ぎれば、とたんに話題にされなくなる風潮や、この時期だから震災を扱うという安直な考えは、よく疑問視されている。けれどもすべての新聞記者にとって、震災は頭から消すことのできないトピックでもあった。そこで初回は円花のアイデアで、被災地である雄勝町の硯職人を取材することになった。

 アポ取りは円花に任せてしまったが、大丈夫だろうか。ていうか、ほんとに寝てるし――円花の吞気な寝顔を一瞥して、二度目のため息を吐く。こういう人生だったら、悩みもなくて楽しいんだろうな。でも自分には絶対に真似できない。小心者なので、手土産の用意にせよ、出張届の提出にせよ、総局に仁義を切るための根回しにせよ、気がつくとあれこれと準備してしまう。

 宇都宮駅を過ぎた辺りで、ようやく円花は目を覚まし、大きく伸びをした。

「ハワワワワーッ、電車のなかって、なんでこんなに眠くなるんだか」

「俺はずっと起きてたけどな」という皮肉も通じず、

「大したもんだね。ところで、それ硯の資料?」

 と問われた。折り畳みテーブルのうえには、雄勝硯についてだけでなく、硯全般についての研究書や関連本を置いていた。書家が記したエッセイから科学調査の論文まで、サポートであっても取材に行く以上、出来る限り勉強するつもりだった。が、あまりにも歴史が長くて、整理しきれていないのが本音だ。

「改めて考えたんだが、本当に硯でよかったのか」と山田は円花に顔を向ける。深沢デスクの助言を受けて、硯を強く推したのは円花だった。「ここまで来て言うのもなんだけど、硯なんて地味だし、使ってるのは小学生か書道家くらいだろう。連載の初回なんだぞ。大衆の心をつかむために、もっとポップで流行に沿った題材の方がよかったんじゃないか。被災した文化財なら、他にもたくさんあるだろうしさ」

「山田って、ありきたりな物の見方をするんだね。それに、他にいい例があるなら、具体的に言ってごらんなよ」

 目を覗きこまれ、返答に詰まる。被災した文化財なら他にもあると言っておいて、内実よく知らないからだ。「すぐには思いつかないけど、調べたらあるって、たぶん。いや、絶対」と返すのがやっとだった。

「硯って言ったけど、山田さ、ちゃんとした硯で墨を磨った経験ないでしょ?」

「あるよ、小学校のときに、習字の授業で。ていうか、誰だってあるだろ」

 眼鏡を押し上げて答えると、円花はため息を吐き、ひとさし指を立てた。

「あんなのは硯って言わないよ。学習用硯はプラスチック製か、石の粉と樹脂を混ぜてつくった安価で質の悪いものばかりなんだから。そんなもので墨が磨れるわけがないし、授業用に出回っている墨も、同様に粗悪なの。だからいくらゴリゴリやっても、墨は下りない。結局、薄い灰色にしかならなくて、墨汁を足さなかった? ああいうのは墨汁を溜めるための、硯を模したただの容器だから」

「墨が下りる?」

(第2回へつづく)