人は26歳で人生の転機を迎える、という記事をTwitterで見かけたことがある。その投稿には「わかる……まさに私もそうです!」「確かに26歳で転職したわ」など賛同のリプライが並び、かくいう私も激しく頭を振っていた。
銭湯の番頭兼イラストレーターという、それまでの人生で想像もし得なかった生き方を選んだのがまさに26歳だった。
“なぜ番頭になったか”を触れる前に、半生を振り返ってみたい。
6月26日、茨城県の病院で私は誕生した。ちょうど昼食の時間に生まれたので、お医者さんたちが慌てていたと母は話していた(本人としてはそれがベストタイミングだったのでご容赦いただきたい)。
母は、OL、貿易の通訳、インテリアコーディネーター、ライター、大学の職員と、転職を繰り返し、新しい環境にも恐れず飛び込むマルチワーカー。
父親はサラリーマンとして実績をあげていたにもかかわらず突然退職し、祐天寺でコーヒー焙煎店を立ち上げる行動力の塊のような人。
「常に動いていないと死ぬ」マグロのような一家、塩谷家で私はすくすくと育った。
母が、かねてからの夢だったインテリアコーディネーターになると宣言したのは私が小学生の頃。コーディネーターの資格をとるための学校課題として、建築パース(立体的に描いた建物のイメージ図)をよくリビングで描いていた。絵を描くことが好きだった私にとって、パースに勤しむ母の姿は憧れで、母と一緒に建築パースを描いた時間は大切なひとときだった。
そんな幼少期を送っていたので、大学進学の際には建築の道を自然と選んだ。
幸いにも建築学科に進学でき、第一希望の設計事務所にも入社することができた。
事務所ではやり甲斐のある設計の仕事も任せてもらえて、社長や先輩も目をかけてくれて楽しく仕事に取り組んでいた。
だが、心の奥底にはいつも劣等感があった。
自分程度の人間は誰よりも努力しないと人並みになれない。優秀な建築学科の友人に対しての劣等感から、手を緩めることができず全力で仕事に打ち込み、夜中まで仕事をすることもしょっちゅうだった。
そんな日々を一年ほど続けたある日、なんだか体の調子がおかしくなった。
最初は、めまい。ランチを終えて事務所へ戻る途中、突然ぬかるみにハマったように視野がガクンと揺れるめまいに襲われた。
次に耳鳴り。仕事中に片耳でキーーーンという音が鳴り響くことが続いた。激しい腹痛、頭痛、ひどい疲れなど体のあちこちで異常が起き、ついに体がうまく動かなくなった。
夜中まで仕事をした明くる日、目覚めると、体のあちこちに石を積まれたように全身重くて起き上がれない。
それでも気力で立ち上がり、コンビニで一番高い栄養ドリンクを胃に流し込んで、事務所までの坂道を歩いた。一歩一歩が重く、普段なら自転車でも余裕綽綽で上れる坂道が絶壁のように感じる。
いつもの倍の時間をかけて辿り着くと、私の顔をみるなり経理のお姉さんが小さく悲鳴をあげた。「塩谷さん、顔色真っ白だよ」鏡を見ると、自分の顔とは思えない死人のような顔色。『死霊のはらわた』ぐらい白くて、正直引いた。こりゃもうだめだ…ひとまず病院に行かないと、と社長宛に数日休みたい旨をメールで書いていたらなぜか涙が溢れて止まらなくなった。
この時初めて、自分は相当追い込まれていたことに気がついた。
病院では、機能性低血糖症と診断された。
ストレスで副腎の機能が落ちたため、血糖値が爆下がりして体が思うように動かなくなったらしい。自律神経にも影響があり、無意識に涙が出たり、人と話したり会うのが怖くなるといった抑鬱症状が出ていたようだ。副腎の疲れを取るには休養が必要で、3ヶ月休むことになった。
とりあえず、寝まくった。
というより、全身がとにかく疲れきっていて起き上がることができない。
仕事の引継ぎで先輩から電話がかかってきた時も、テレビの前の絨毯に寝転びながら話した。椅子に座って話してますよ〜って声で。
建築学科時代は寝袋で一週間以上大学に寝泊りし、二徹なんてザラなほど自分はタフだと認識していたので、この弱りようには正直「私もしかして詰んでいるんじゃ?」と疑った。
体は言うことをきかない、お金もない、このままだと復職できるか怪しいし、彼氏もいない(これは関係ない)。何もなくなったと思った。今の私、生きてても死んでても変わらないんじゃない?
ただ事実としてそんなことをぼんやり考えた。
死んだように寝るか、ぼーっとするかを1ヶ月ほど続けた頃、大学時代のサークルの同期Mちゃんから連絡があった。
休職した旨を投稿したSNSを見て、自分も今休職中だと連絡をしてくれたのだ。
Mちゃん曰く、サークルのO先輩(♂)も休職しているらしい。それなら3人で”休職友の会”でもやろうかと、中目黒の焼肉屋に集合した。
久々に会ったMちゃんとO先輩はゲッソリしていた。これ豆知識なんですが、休職中の人って顔色がちょっと白いんですよ……なんだろう、色相を一つ下げた感じ。そんなわけで昼どきの焼肉屋の喧騒のなか、顔色がちょっと危うい3人で、いつもより大分少なめなお肉を焼きつつポツリポツリと会話した。近況とか、体調のこととか、今の心境とか。
休職中でないとわかりあえない話に、私の心はだんだんと解れていった。
食後のお茶を口にする頃、O先輩が最近銭湯にハマっていると告白した。
当時、偶然にもライターのヨッピーさんが書いた銭湯にまつわる記事がネットでバズっていた。
その記事では都内にある銭湯を紹介しつつ、あつ湯と水風呂に交互に入る入浴法”交互浴”の魅力が力説されていた。交互浴を三回繰り返すと交感神経と副交感神経が刺激されて、最終的に自律神経が整って、寝つきがよくなったり疲れがとれたり、何かが覚醒したりするらしい。
私もこの記事を目にしていて、体の調子が過去イチで悪い今だからこそ試してみたいと思ったが、外に出る気力がなく銭湯に足を運ぶまでには至っていなかった。
「この近くにもいい銭湯があるんだよね。光明泉って銭湯で、すごい綺麗なんだよ。」
「じゃあ行きますか。みんなで。」
焼肉臭い顔色の悪い集団はそのまま銭湯に向かうことになった。
銭湯なんて久しぶりだ。
私が最後に行ったのは、大学の最寄りの銭湯。高齢の方が多く、なんだか薄暗くどんよりしたイメージだったのを覚えている。
しかし、光明泉は私のイメージとは真逆だった。リニューアルオープンされたばかりらしい建物は、隅々までピカピカで薄暗さなんて1ミリもない。それどこから光がさんさんと入り込んで白く眩しい。
体を洗い、光で水面がピカピカ光るお湯に足をつける。温かく柔らかい湯が足先を包んで、じわじわとほぐしていく。ゆっくり胸まで浸かると、体の内側にまでお湯が入り込んだように、心が温かなもので満たされた。
あぁ〜〜ッ……とおじさんくさい声が漏れ、口角が自然と上がってしまう。
こんなふうに自然に笑顔になれたの、いつぶりだろう。ふと、同じ湯に浸かっている、優しそうなおばあさんと目があった。
「今日寒いわよね〜〜」
声、かけられた!!
びっくりした。すっごくびっくりした。
年の離れた人と話すなんてすごく久しぶりだったし、そもそも家にずっと引きこもっていたので知らない人と話すことなんてずっとなかった。
「そうですね〜〜。いやあいいお湯ですね〜〜」
自然に返事ができている自分にさらにびっくりした。不思議だ。あんなに人と話すのが怖かったのに、湯に浸かっていたら普通に会話ができてしまった。
その後もおばあさんとのやり取りは続いた。天気の話とか、今日のお湯の気持ちよさとか、他愛もないことだったけど、自分が少し誇らしく感じられた。
せっかくだから、記事で熱弁されていた交互浴もやってみよう。
おばあさんと別れた後、光明泉の2人入ればいっぱいな水風呂に向かった。
あつ湯でしっかり温まった体で、恐る恐る足先をつける。
つつつつつめたっ!!!
足先を入れただけで全身が拒絶しているのを感じる。これ入っちゃだめなやつって、本能が呻いている…!
普通に冷たい、いや冷たいわ、これ罰ゲームかなんかなの? 無理。
一瞬諦めかけるも、ヨッピーさんの記事の”我慢して10秒入ってほしい”という一文が脳裏に浮かんだ。
そうだ、10秒。ひとまず10秒我慢して入ってみよう。
せっかく銭湯にきたんだ、本能なんかに負けてたまるか!!!
謎の対抗心が湧き上がりウォリャッと一気に肩まで浸かってやった。
つつつつめたぁ〜〜!! いややっぱ冷たいわ! 無理! アホ! バカ! 10秒とか無理! あれ、あったかい、あったかくなってきた! あれ!? 何これ! 人体の不思議〜!!
あれだけ冷たい冷たいと喚いていたはずが、10秒過ぎると、突然寒くない、どころか温かくなってきた。
びっくりしすぎて水風呂から上がると、あれ、全身が、ぽかぽか!!!!!!
もう頭から足の端までぽかぽか。びっくりするほどぽっかぽか。
すると自然と心まで温かくなり、前向きを通り越して「あれ、もしかして私は神だったのかな?」と根拠のない自信で満たされた。それまで「私は虫ですぅ……」と家で転がっていたのが嘘みたいだ。今なら7日で天地創造できる。こんな心地よさは久しぶりだ。
これが自律神経が整うってこと!? 交互浴って、ヤベェ〜〜!!!!
まるで生まれ変わったような清々しさに興奮しながら浴室を後にし、着替えを済ませて番台前の待合室に向かうと、O先輩が待っていた。すっごい肌がプルップル。
え〜〜さっき死人みたいな顔してたじゃん〜〜〜? 私もそうだけど。
興奮しながら浴室の話や、おばあさんの話、交互浴の凄まじさを熱烈に先輩に語ると、まるで自分が褒められているような満足げな顔で頷いた。
銭湯ってすごい。
銭湯ってすっごいなあ!
ホカホカの体で銭湯をあとにする頃には、焼肉臭い顔色の悪い集団は、シャンプーの匂い漂う顔色がツヤツヤした集団になってしまった。
キラキラの銭湯のお風呂、銭湯で出会ったおばあさん、無敵モードになる交互浴、すっかりツヤツヤになった顔色。たった一回で私はすっかり銭湯の虜になってしまった。
それからO先輩と共にありとあらゆる銭湯に駆け巡る日々が始まった。