第一章
3
白瀬秀一郎は総合病院にいた。ギプスを巻いた右腕を黒いアームスリングで吊っている。
三階の整形外科のブースの前には白瀬と同じく、腕にギプスをした者や包帯を巻いた者、足を痛めて松葉杖を突いている者など、筋肉や骨を傷めた患者たちが椅子に座り診察を待っていた。
診察室のドアが開き、女性の看護師が顔を出す。
「67番の方、どうぞ」
声をかける。
白瀬は手に持っていた番号札を見て、立ち上がった。少しうつむき気味に背を丸め、診察室へ入っていく。
ドアが閉まる。すぐに医師と目が合い、互いにうなずく。
看護師はそのまま白瀬を仕切りカーテンの奥へ連れて行った。
各科の診察ブースは個室になっているが、カーテンの裏では一つにつながっていて、各科の医師や看護師が接触できるようになっている。
白瀬は看護師と共に、通路を進み、さらに奥にある関係者の通路に出た。ひと気のない通路が延びる。歩いていくと、その先に関係者用のエレベーターがあった。
そのエレベーターに乗り込み、五階へ上がる。エレベーターを降りて右手に進み、何も記されていないドアの前で看護師が立ち止まった。
「こちらです」
看護師はそう言って一礼すると、エレベーターへと戻っていった。すぐに扉が開き、エレベーターに乗り込んで姿を消す。
白瀬はノックをして、スライドドアを開いた。
殺風景な部屋だった。何もないがらんどうの部屋に男が立っていた。
ジャケットを着ているが、左袖は所在なげに揺れていた。
ドアを閉じて鍵をかけ、声をかける。
「お待たせしました」
言うと、男がゆっくりと振り返った。
「久しぶりだな、白瀬」
微笑みかける。
「友岡さんこそ、お元気そうで」
白瀬も笑みを返した。
白瀬の前にいたのは友岡だった。
「何年ぶりかなあ」
友岡が言う。
「七年ぶりですよ。パグの一件以来、お会いする機会がありませんでしたから。三浦半島にもいかなかったですしね」
「釣り宿に来るのは藪野だけだったな。来なくていいと何度も言ったんだが、ふっと現われちゃあ、たいして好きでもない釣りをして、金を落としていったよ」
そう言い、なくなった左腕に目を向ける。
「藪さん、ぶっきらぼうだけど人情味はありますからね。釣り宿はどうされました?」
白瀬が訊く。
「三年前くらいから、将来釣り宿をやりたいから勉強させてくれといって手伝ってくれていた若いのがいてね。そいつに任せてきた。痕跡を断つより、動いていないと見せかける方がいいだろう」
友岡は笑みを崩していないが、鋭い眼差しを覗かせた。
白瀬は、鹿倉からの命令で友岡と接触していた。
友岡には先に日埜原から連絡が行っている。パグが高原の手によって再建されたらしいこと、今村が殺され、共に潜入していた作業班員が行方不明だということを伝えたと、日埜原からは聞いている。
その上で、友岡にも釣り宿を廃業して身を隠すように指示したそうだ。
が、友岡は現在、現役の作業班員ではない。パグの事案が一応の決着を見てからは、一切公安部の仕事には関わっていなかった。
なので、動くための資金が公安部から直接支払われることはない。
とはいえ、金がなくて姿を隠せず、敵に捕まれば、情報が漏れてしまう可能性もある。友岡が知っているのは七年前までの情報だが、それでも漏れては困るネタも多い。
何より、国家のために体を張って戦ってくれた者を放置はできない。
白瀬はアームストラップを取った。そして、ギプスを腕から引き抜き、足元に落とした。
「部長からのお届けものです」
踏みつけて、ギプスを壊す。白い石膏のカスが飛び散り、中からビニール袋に詰められた一万円札の束が出てきた。
薄く広げた束で、全部引っ張り出すと、シングルマットの半分くらいの大きさになった。
「全部で一千万あります」
「日埜原さんに、俺はいらないと言ったんだがな」
「機密費です。あって困るものでもないでしょう。あれに入れておきますか?」
白瀬は壁際に立てかけられていた友岡のショルダーバッグを見やった。
「ああ、頼む。そのまま丸めて入れておいてくれりゃあいい」
「石膏カスで汚れますよ」
「かまいやしない。十年物のバッグだからな。あちこちささくれてて、そろそろ捨てようかと思ってたとこだ」
「物持ちいいんですね」
話しながら、札束の入ったビニール袋をいったん広げ、折り畳んでいく。
「買いに行くのが面倒なだけだ。それに、釣り宿を始めてからはほとんど半島の端っこから出ない生活だったからな。必要なかった」
「釣りに持っていくバッグではないですもんね」
友岡のバッグを取って笑う。
白瀬はバッグ上部のファスナーを開き、口を広げた。中には財布とスマートフォン、水のペットボトルとハンドタオル、車のキーと家の鍵だけが入っていた。
「持ち物少ないですね」
「女子じゃないからな」
友岡は笑った。
白瀬は上体を傾けて奥を覗き込みながら、畳んだビニール袋を丁寧にバッグの背に添えて入れた。
ファスナーを閉めて立ち上がる。
「入れときました」
白瀬がバッグの肩紐を取って、友岡に差し出す。
友岡は受け取り、肩にかけた。そして、窓の縁に尻を預ける。
「おまえ、今どこにいるんだ? 自宅か?」
友岡が訊く。
「いえ、ホテルやネットカフェを転々としています。敵の動向がある程度把握できるまでは定住しないつもりです。友岡さんは?」
「俺も半島を離れてあちこちを転々としている。釣り宿に若いのを置いてきたのは、それもあるんだ。俺を訪ねてくる者がいたら、すぐに連絡を入れてくれとな」
「なるほど。それなら、残す価値もありますね。さすが、一流の作業班員は違いますね」
「元作業班員だ。それに一流ではない」
「いやいや、僕が知る限り、今村主任と同じくらいの腕を持った作業班員は友岡さんと藪さんくらいです」
「俺もあいつも今村とは違う。無茶が好きだっただけだ」
友岡は苦笑し、白瀬を見やった。
「藪野はどうしている?」
「僕にもわかりません」
「そうか……。そういえば、パグの件に関わっていた新人がいただろう。たしか、瀧……」
「瀧川ですか?」
「そうそう、その若いの。まだ、作業班にいるのか?」
「いえ、もう関わりはありません」
「一般の警察官に戻ったということか?」
「さあ。僕もよく知らないんですよ。僕ら作業班員は個人同士の付き合いはないですからね。そうだったでしょう?」
「まあ、そうだな」
「藪さんが友岡さんと会っていることの方が珍しいんですよ」
「あいつ、これを気にしてしまってるんだ」
左腕に目を落とす。
「あの時は藪野を深く潜らせるために、腕一本落として死を偽装するしかなかった」
「それ、僕はずっと気になっていたんですよ。なぜ、潜入を続けるのが藪さんで、死人となるのが友岡さんだったんですか?」
白瀬が訊く。
「いろいろ理由はあるが、一番は俺に家族がいたからだ。俺が潜入を続けていて、万が一、家族に手を出されれば、寝返らざるを得なくなることもある。その点、藪野は独り身だったからな。どっちがより確実に潜れるかという判断でそういう振り分けになったんだ」
「そうだったんですか。ご家族は無事ですか?」
「さあな。死人となった後のことは知らないんだ。知る気もない。パグの事案が継続案件になっていると聞いて、あえて知らずにいることを決めた。今回のように七年経って動き出す案件も実在する。一度、作業班に踏み込んだ者には永遠に安らぎは訪れない」
友岡が宙を睨む。
その言葉は、白瀬の胸の奥にも刺さった。
作業班員として関わった案件が片づかない限り、常に狙われる危険性が付きまとう。片づいても、利用した者から私怨を買うこともある。
いつ誰から狙われるか、わからない。多くの事案に関わるほど、不穏の影は増える。
確かに、安らぎはない──。
友岡が窓枠から尻を離した。肩のストラップをかけ直す。
「金は確かに受け取ったと部長に報告しておいてくれ。居場所はまた日埜原さんに連絡を入れる。じゃあ、おまえも気をつけろよ」
「友岡さんも」
白瀬は軽く頭を下げた。
友岡は右手を上げて挨拶を返し、部屋を出た。
白瀬は友岡の残像を見つめ、スマートフォンを取り出した。日埜原に連絡を入れる。
「もしもし、白瀬です。今、友岡さんが金を受け取って部屋を出ました。はい、では自分はこれで」
短く報告し、ポケットにスマートフォンをしまって、自分も部屋を後にした。