プロローグ(承前)
セミナーのたびに参加し、左右関係なく話している今村の様子を見て、未里の方から声をかけてきた。
セミナーの手伝いをしてくれないか、と。
今村は暇なのでそれはかまわないと返事をし、次回のセミナーから機材の搬入や設置、来客の対応などを任されることになった。
周りに愛想を振りまきながら、淡々と手伝いをこなしていく。
中馬の接触も順調だという報告を受けていた。今は大学内のサークルに入り、NRCのメンバーたちと論議をするまでになっているそうだ。
このままいけば、中馬も自分も東村山の要塞に潜入できるはず。
今村は情報に見落としはないか、毎日確認しつつ、着実にNRCの懐に食い込んでいった。
そしてセミナーの手伝いを始めて、三カ月が経った頃、ようやく今村はNRCの要塞に招かれた。
同時に、中馬からも東村山の要塞に入れそうだという報告を受けていた。
どちらかが入れれば御の字だったが、二人とも潜入できるとなれば大成功だ。あとは、内部で探れることを探って離脱すればいい。
意外に早く片づくかもしれないな。油断はしていないが、状況を反芻しながら思う。
今村は待ち合わせ時間の五分前に、西武多摩湖線の八坂駅を降りた。改札を出ると、ランニングウェアを着たひょろっとした若者が待っていた。
セミナーの受付でもよく見る河合という男性だ。二十五歳だと聞いている。
河合に会釈をし、駆け寄る。
「遠いところまでありがとうございます」
「いえいえ、ここ浄水場の近くですよね。一度、来てみたかったんです」
今村は笑顔で調子を合わせた。
「街ブラとか散歩とか好きな方ですか?」
「はい。家の中でずっとトレードしていると気がめいりますから。歩きながらトレードしていると、思わず閃いて、いい銘柄に当たることもありますしね」
「それはいい。事務所内はともかく、この周辺は岡部さんならきっと気に入ると思いますよ」
河合は今村を〝岡部〟と呼んだ。
今回、今村は〝岡部駿一郎〟という名前で潜入していた。
「こっちへ」
河合に案内され、今村は構内を出た。すぐに自転車置き場がある。河合は近づいていき、一台の自転車の脇に立った。軽量のツーリングバイクだ。
「岡部さん、自転車は乗れますか?」
「はい、大丈夫です」
笑って返す。
「そちらの自転車をどうぞ。ヘルメットもハンドルにかけてあるものを使ってください」
そう言い、自分もヘルメットをかぶっていく。今村はショルダーバッグを斜めにかけ、ヘルメットをかぶり、自転車を引っ張り出した。
「こっちです。ついてきてください」
河合が走り出す。今村も付いていく。
線路沿いには保谷狭山自然公園自転車道線という自転車と歩行者専用の道路が東西約二十二キロにわたって整備されている。
道中には自然公園もあり、隣接するエリアには遊園地もある。もちろん、浄水場もあり、何気ない風景も楽しめる。いろんな趣味趣向の人が安全にサイクリングできる道だ。また地元の人たちにとってはインフラとして重要な役割を果たしている。
今村と河合はゆっくりと景色を楽しみながら道を進み、新青梅街道手前の道を住宅街の方へ入っていった。そして、街道沿いのビルにたどり着く。十分ぐらいの道程だった。
河合が停めた場所に今村も自転車を停めた。ヘルメットを外しながらビルを見上げる。
写真では確認していたが、実際ビルの前に立つと、深緑に塗られた壁がずんとそびえ立つ様は異様だった。
河合はインターホンを押した。
「河合です。岡部さんをお連れしました」
言うと、玄関ドアのロックが重い音を立てて外れた。そして、ゆっくりと真ん中から左右に開いていく。
人一人が通れるほどの隙間が空くと、ドアの動きが止まった。
今村は目を丸くして突っ立った。
「びっくりしたでしょう? 僕も初めは驚いたんですけど、富裕層の顧客情報を預かっているので、このくらい厳重にセキュリティーを固めていないとダメだと聞いて、納得でした。慣れればどうということないですよ。いきましょう」
河合が中へ入った。
今村も体を少し捩って、中へ入る。エントランスに入ると、勝手にドアが閉まった。
監視しているというわけか……。
一般人がするようにきょろきょろとあたりを見回す。ドアが閉まると、エントランスが真っ暗になった。
「あれ、なんですか? 河合さん」
呼びかけるが、返事はない。
どさっという音がした。人が倒れるような音だ。今村は斜めがけしていたショルダーバッグを取り、紐を握った。
と、エントランスに明かりが灯った。
眩しくて、目を細める。すぐに視界が戻ってきた。
足元に目を向ける。その両眼が見開いた。
思わず呼びかけそうになって、声を呑み込んだ。
倒れていたのは、中馬だった。
顔全体が原形を留めないほど腫れ上がり、ブダイのようなごつごつぼこぼことした面になっていた。口や鼻、耳からも血が流れていた。額の傷から湧いた鮮血は固まってへばりついている。
左脚の脛は折れて、あらぬ方向へ曲がっている。着ている服は破れ、血が滲み、どす黒く変色している。
力が入らないようだ。横たわったまま、息をするたびに体が揺れる。
周りを見る。河合の姿はない。
エントランス奥には鉄の扉があり、がっちり閉まっている。天井には照明器具しかぶら下がっていない。
しかし、鉄扉の上にはモニターのようなものが設置されていた。
「誰かいませんか。誰か!」
叫び声がフロアに反響する。
今村は中馬に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
声をかける。一般人ならするであろう行動だ。
「どうしたんですか? 何があったんですか?」
立て続けに話しかける。
と、モニターにいきなり画像が映った。顔が大写しになっている。後ろからライトを当てられているせいで、顔全体は黒くなって見えない。
「誰ですか!」
モニターを睨みつける。と、モニターの者が笑った。男だ。
──演技はもういいですよ。公安部作業班主任、今村利弘。
その返答を聞き、今村の表情が険しくなった。
──よくここまで来たな、と褒めてやりたいところですが、おまえらの行動はすべてこっちに筒抜けでした。残念ですが。
「誰だ、貴様は」
──それそれ。今村主任はそうでなきゃ。その不遜な態度。一言で相手を不快にさせるキャラクター。惜しいなあ。惜しかったなあ。ひょっとしたら、主任が我々の仲間になる芽はあるんじゃないかと探っていたんですがね。
「おまえ、本当に誰だ。なぜ、俺を知って──」
そこまで口にして、顔を上げた。
「身内か」
──気づくのが遅いですね。内勤ばかりで、主任のアンテナも古くなったんじゃないですか?
「ふざけるな。まあしかし、身内なら話は別だ」
今村は中馬の脇に座ってあぐらをかいた。モニターを見上げて睨む。
「掛け値なしで取引だ。何がいる?」
今村はモニターに話しかけた。
「この状況だ。逃げられねえ。こいつも助けてやりてえ。何でも聞くぜ。遠慮なく言え」
今村が挑発するように言う。
と、モニターが切れた。
挑発しすぎたか……と思った。が、目の前の鉄扉がゆっくりと左右にスライドした。奥から五人の男女が現われる。
真ん中には中年男が立っている。その両端にいる若い男女は、手に自動小銃を持っていた。
暗がりから出てきた中年男の顔が見えた。羽織ったジャケットの左袖が所在なげに歩くたびにたなびく。
今村は片笑みを見せた。
「おまえだったのか、友岡」
「久しぶりですね、主任」
かつて共にパグの捜査をした友岡基裕が微笑む。
「おまえ、三浦半島で釣り宿のオヤジやってたんじゃねえのか?」
「それは仮の姿。これからが人生の本番です」
「ミイラ取りがミイラになっちまったか。情けねえ話だな。で、何が欲しいんだ?」
今村は顔を上げて、友岡を見つめた。
涼しげな眼だが、その奥には覚悟が滲んでいた。
「俺はかまわねえがよ。こいつは助けてやっちゃくれねえか。中馬ってんだ」
今村が中馬を見やる。そして、友岡に視線を戻す。
「おまえらに取り込んでも構わねえからよ。まだ二十四なんだ。もう少し、青春させてやりてえ」
「考えてみてもいいですよ」
友岡は手のひらを上に向けて右手を差し出した。横にいた若い女が友岡の手にリボルバーを置いた。
友岡はグリップを握り、セーフティーロックを親指で弾いた。撃鉄を起こす。
「なんなら、俺も助けてくれていいんだぜ。働くぞ、俺は。知ってんだろ?」
「そうですね。主任は誰よりも働いている。みんなが知らないだけで。しかし、その働きのおかげで仲間が何人も死んでいった。俺もこんなことになっちまった」
ちらりとなくなった左腕を見やる。
「主任はもう働かない方がいい」
「そうか。なら、眠らせてくれ」
にやりとして、友岡をまっすぐ見つめる。気負いはない。
「さすがですね。じゃあ、ごゆっくり」
「ああ、またな」
今村が笑みを濃くした瞬間、友岡の銃が火を噴いた。
放たれた弾丸は今村の眉間を貫いた。今村が目を見開いた。動きが一瞬止まる。後頭部から血の王冠が広がった。
友岡は残った弾丸を撃ち込んだ。今村の首の皮膚がちぎれる。胸に穴が開き、鮮血のシャワーが噴き出る。体は左右に揺れながらゆっくりと後ろに倒れていく。
「お疲れさんです」
友岡は今村の上体が跳ね上がるのを待った。そして、顔が上がったところで脳天を弾き飛ばした。
頭蓋骨が吹き飛び、血混じりの脳みそが飛び散った。
今村は真後ろに倒れ、動かなくなった。
友岡は今村の屍を冷ややかに見つめた。女に銃を返し、背を向ける。
「友岡さん、中馬って若いヤツはどうします?」
「好きにしていいぞ」
友岡は言い、鉄扉の奥へと引っ込んだ。
まもなく、マズルフラッシュが瞬き、耳をつんざく連射音が轟いた。