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第一章

 

 

 東京・三鷹にある中華料理店〈ミスター珍〉は、ランチタイムを終え、休憩に入っていた。

 調理担当の小郷哲司は厨房内の椅子に座ってうとうとしている。ホールを切り盛りしている泰江は椅子に座り、遅い昼食を摂っていた。

 瀧川はその日、非番だった。

 昼休みで誰もいない店内の奥に有村遙香の姿を見て、その前に瀧川は座った。

「何の勉強してるんだ?」

 開いている英語の教科書を覗く。瀧川自身はさっぱり英語がわからない。

「ELTiSの勉強」

 遙香が答える。

「エルティス? なんだ、それ?」

 瀧川は首を傾げた。

「アメリカへの交換留学で必要な英語のテスト」

「交換留学! 遙香、外国に行くつもりか?」

「そんなに驚かないでよ。もし、取れたら考えてもいいかなと思ってるんだ」

「いやいや、そんな話、聞いてないぞ」

「だって、お父さん、いつも仕事でいないでしょ。夜勤明けは寝てるし。話す機会がなかっただけ」

 遙香が瀧川を見やる。

 瀧川はため息をついて、少し顔を伏せた。

 瀧川達也は遙香の母、有村綾子と結婚した。普段は有村姓を名乗り、警視庁本庁の生活安全部少年課に所属し、日々街中を歩き回っては闇落ちしそうな若者たちに声をかけ、補導したり、立ち直り支援に結びつけたりしている。

 少年課の警察官は基本、交代制ではなく、毎日定時勤務する日勤制となるが、夜間の街頭補導活動や事件対応などで夜勤になることも多く、休日も呼び出されることがしばしばある。

 まして、公安部の案件が入れば、土日祝日、朝晩関係なく、案件に従事しなければならなくなる。

 そんな中でも瀧川は、娘となった遙香の話をよく聞いている方だと自負していたが、どうやらそれは自身の思い込みだったようだ。

 街でさまよう青少年たちを助けながら、一方で我が娘のことは一切わからずでは本末転倒だ。

 再びため息をついてうなだれる。

 と、遙香が苦笑した。

「お父さん、そんなに凹まないでよ。お母さんもまだ留学のことは知らないし、高校に上がってからの話だから来年以降のことだし、そもそもエルティスの点数が取れるかどうかもわからない。けど、そういう目標を置いたほうが勉強がんばれるでしょ? だから、ちょっと試してみようと思っただけ」

 そう言って笑顔を見せた。

 少しドキッとした。

 ついこの間まで子供だと思っていた遙香が知らぬ間に大人びた表情を見せるようになっている。

 瀧川を気づかい、安心させようとして見せた笑顔は、昔の綾子にそっくりだった。

 そうか。いつの間にか成長してるんだな、子供は──。

 遙香と出会ってからのことがふっと頭をよぎり、思わず微笑む。

「何、ニタニタしてんのよ。お父さん、キモい」

「キモいとはなんだ、キモいとは!」

「ああもう、うるさくて勉強できない!」

 遙香は広げたテキストを畳み、カバンに入れて立ち上がった。舌を出して、二階へ駆けあがっていく。

「こら!」

 瀧川は腰を浮かせたが、息をついて座った。

 と、泰江が声をかけた。

「いいねえ、父娘の言い合いは」

「一方的に言われてるだけですよ」

 瀧川が苦笑する。

「そんなことないよ。遙香ちゃん、あんたがいない時は悪態つくことはないからね。それだけ心を許してるってことだよ」

「そうでしょうか」

「そうだよ。あんたら、もう立派な父娘だ」

 泰江は豪快に笑って、食べ終えた食器を持って立ち上がった。

 ちょうどそのタイミングでドアが開いた。

「すみません、今は準備中ですよ!」

 泰江の声が響く。

「ああ、すまないね」

 顔を出したのは舟田秋敏だった。

 舟田は三鷹第三交番に勤務する警察官だ。昔からの顔見知りで、瀧川と綾子にとっては父親のような存在でもあり、かつて交番勤務していた時代の上司でもある。

「間に合うかと思ってきてみたんだが、間に合わなかったね」

「舟田さんなら作ってあげるよ」

 泰江が言う。

 舟を漕いでいた哲司がむくりと顔を上げた。

「あ、いや、休憩中なのに申し訳ない。有村君、時間は?」

「特に予定はないので、大丈夫ですけど」

「じゃあ、ちょっと昼に付き合ってくれ」

「いいですよ。ちょっと待っててください」

 瀧川は二階へ上がり、夫婦の部屋に入った。財布とスマートフォンを取って、下へ行こうとする。

「バタバタうるさいなあ」

 遙香が自室のドアから少し顔を出して、瀧川を睨んだ。

「すまんすまん」

 笑って返しながら、財布とスマホを尻のポケットに入れる。

「どこ行くの?」

「舟田さんが来たんで、ちょっと一緒に昼飯を食べてくる」

「どこで食べるの?」

「さあな。僕はさっき食べたから、お茶ぐらいだろうけど」

「そっか。なら、ファミレスでもいいくらいだね」

「そうだけど、警察の制服着てるからな。馴染みの食堂とかラーメン屋くらいにしか入れないかな。まあ、いいところに入るよ」

「うん。いってらっしゃい」

 遙香は笑顔を見せ、ドアを閉めた。

 瀧川は遙香の残像に目を細めた。

 いかにも足音が気になったふうを気取っていたが、本当は瀧川がどこへ行こうとしているのかを確かめたかったに違いない。

 遙香は瀧川が公安部の仕事で長く家を空ける際、いつも作り笑顔で見送ってくれている。

 薄々は何かを感じているのだろうが、不安や寂しさを飲み込んで、平静を装っている。

 その顔を見るたびに胸の奥がきゅっと苦しくなる。

 そして、そのたびに、もう二度と公安部の仕事には関わらないと誓う。

 前回の仕事からもう半年以上、公安部からの接触はない。いよいよ役を解かれたのかと思いつつ、いつまたどんな手を使って、自分を案件に巻き込もうとするかわからない。油断はしていなかった。

「お待たせしました」

 瀧川は靴をつっかけ、舟田の下に駆け寄った。

「行きましょう」

 声をかけ、舟田と一緒に店を出る。

 舟田は近所の商店主や馴染みの住人を見かけると、愛想良い笑顔で挨拶をした。隣にいる瀧川も同じように会釈をする。

 地域を守る警察官は、住民に信頼され、頼られる存在でなければならない。その意識が自然と笑顔を作らせる。

「相変わらず、舟田さんは人気ですね」

「人気不人気は関係ない。地元の人とはいい関係を築いておかねばね」

 気負いのない笑みを覗かせる。

「どこへ行きます?」

「看板のない店ができたそうだ。そこへ行ってみようと思う」

「楽しみですね」

 瀧川が答える。

 途中、綾子が勤める書店の前を通りかかった。中をちらりと覗いてみると、綾子の姿があった。

 本の出し入れをしていた。背伸びをして、棚の高いところに本を入れている。周りを見る余裕もなく、一所懸命だった。

「綾子ちゃんか?」

 舟田が瀧川の視線を追った。

「はい。大変そうだ」

 目を細める。

「しかし、生き生きしている。君と結婚して、落ち着いた顔になったな」

「そうですか?」

「ああ。いろんな不安はあるだろうが、君と遙香ちゃんのために生きようとする覚悟が顔に出てる。凛とした強い女性の顔だ」

 舟田も静かに綾子を見つめた。

 少しして歩きだす。瀧川が続く。駅前に来た。線路沿いに東へ進み、古びたビルに入っていく。

 とても飲食店があるとは思えないビルだが、ほのかにカレーの匂いが漂ってくる。

 カレー屋か、と思いつつ、階段を四階まで上がる。狭いスペースの左右にドアがある。舟田は右側のドアを開けた。

 玄関口は暗い。舟田は躊躇なく入った。後に続き、瀧川がドアを閉める。玄関口は真っ暗になった。ほのかに漂っていたカレーの匂いが消えた。

 ここじゃないのか──。

 瀧川は神経を尖らせた。予測しなかった違和感を覚えた時、瞬時に危険を察知しようとするアンテナが立つ。長年の潜入で身についた癖だ。

 殺気はない。しかし、空気は重い。

 舟田は靴のまま奥へと進んだ。瀧川も続こうと半歩踏み出す。そこでふと足を止めた。

 舟田の背中から漂う気配が変化している。泥に顔を突っ込んで息ができないような暗くて重い空気感だ。

 舟田は何も語らず奥へと進む。瀧川も覚悟を決め、舟田に続いた。

 廊下を進んだ先にあるリビングのドアを開けた。舟田が入る。瀧川は部屋を覗いた。

 ダイニングテーブルに椅子が四つ置かれているだけの殺風景なリビング。その椅子に座っていたのは日埜原充だった。

「舟田さん。どういうことですか?」

 瀧川は舟田を見据えた。

 定年が近い舟田は、今でこそ気さくで頼りがいのある交番勤務の制服警官として周りの人々には認知されているが、実は、公安研修を首席で卒業した優秀な公安部員候補生だった。

 その時の同期が現在の公安部部長、鹿倉稔である。

 舟田は公安部に属することはなかったが、瀧川の周りでは誰よりも公安部のやり口に精通している人だ。また、鹿倉の性格も熟知していて、瀧川が作業班に取り込まれそうになるたび、防波堤として立ってくれていた。

 それがまさか、刑事総務課の課長代理として可もなく不可もない中年警察官を気取りつつ、その実、鹿倉の右腕として公安部に所属する日埜原との接触の手引きをするとは思いもしなかった。

「帰っていい案件ですね?」

 瀧川が背を向ける。

 舟田は歩み寄って、瀧川の肩を握った。

「戻れ」

 手に力を入れる。

 瀧川は振り返って、舟田の手を弾き飛ばした。

「まさか、舟田さんが公安部に協力するとは思いませんでした。僕もまだまだ見る目がないということですね」

「そういうことじゃない。座れ」

「拒否します」

「座れと言っているんだ」

 舟田が普段とはまったく違う低い声で圧をかけてきた。

「今村が殺された」

 奥にいた日埜原が言った。

 瀧川は目を見開いた。

「主任が……?」

「そういうことだ……」

 舟田は瀧川の背中に手を当てた。瀧川はゆっくりと振り返り、テーブルの方へ歩いた。

 舟田が椅子を引く。瀧川は浅く腰を下ろした。舟田も空いた椅子を取り、二人を見られる瀧川の斜め左に座った。

「舟田さんを責めるな。部長が頼んだことだ」

 日埜原が静かに言う。

「何を頼まれたんですか?」

 舟田を見やる。

「君を敵の目の届かない場所まで連れてきて、日埜原君と会わせてほしいと」

「敵とは?」

 訊き返す。

「それは私から話そう」

 日埜原が受け取る。瀧川は日埜原の方に顔を向けた。

「瀧川君、パグは覚えているか?」

「左翼武装集団のパグですか?」

 瀧川が言うと、日埜原がうなずいた。

 忘れるはずもない、と瀧川は胸の奥でつぶやいた。

 瀧川の公安人生は、すべてパグの事案から始まった。

「公安部は彼らを根絶やしにすべく、継続案件として捜査を続けていた。特に、梅岡の秘書をしていた──」

「高原創志ですか?」

 瀧川の口からすぐに名前が出てきた。

 初めて担当した潜入事案だっただけに、様々なことを鮮烈に記憶している。

「そうだ。その高原が八か月前、ひそかに帰国していた。そして半年前、新世界革命評議会という団体を立ち上げた」

「また、パグが活動を始めたということですか!」

 瀧川の表情が険しくなった。

 

(つづく)